アール ヌーヴォー。 建築14 アール・ヌーヴォー建築

【美術解説】アール・ヌーヴォー「自然と調和したライフスタイルを目指す新しい芸術」

アール ヌーヴォー

概念 [編集 ] アール・ヌーヴォーという言葉はの、の店の名前から一般化した。 この言葉で狭義にのの装飾美術を指す場合と、広義に以降、美術、の建築までを含めた各国の傾向を総称する場合とがある。 国によって次のようにも呼ばれているが、これらの様式の大部分にはそれほど大きな違いはない。 「ティファニー」(。 の名による)、「(。 雑誌『ユーゲント』から)、「」()、「ネーウェ・クンスト」()、「スティレ・リベルティ」(。 から)、「」()、「スティル・サパン」()、「スティル・モデルヌ」()、「モダン・スタイル」()など。 では、アール・ヌーヴォーは批判者からは、特徴的ななフォルムから「ヌイユ様式」(麺類様式)、またにより1900年に実現されたのこの様式の出入口から「メトロ様式」などとも呼ばれた。 ポール・コーシーの。 、1900年 アール・ヌーヴォーの理論的先駆はの運動に求められる。 やらは、工業化の進行とそれによる創造性の枯渇を厭い、社会の再生は、人々の周りにあり人々が使うもののフォルムの真正性によってしか成されないのであるとして、のの精神、自然界のモチーフの研究、洗練されたフォルムへの回帰を強く勧めた。 フランスでは、この意図は多少なりとも的で、より合理的なものとなった。 は現代的な素材(特に鉄)を拒絶せず、中世のの構造と同様に逆にそれに装飾的・美的な機能を与えて誇示した。 一連の運動の先導者として知られていたにも関わらず、ヴィオレ・ル・デュクは数々のアール・ヌーヴォーの建築家にも影響を与えた。 ロックタイヤード城の 1859 を含む彼の諸作品はネオ・ゴシック運動とアール・ヌーヴォーの血縁関係の完璧な例である。 1893年にがに建設したがアール・ヌーヴォー様式の最初の建築物であると見做されている。 そこではヴィオレ・ル・デュクの流れを完璧に酌んで、金物、モザイク、壁画、ステンドグラスといった構造的であると同時に装飾的でもある要素を取り囲む植物的な曲線が空間のなめらかな流れと響き合っている。 「アール・ヌーヴォー」という言葉は1894年にの雑誌 現代美術 においての芸術作品を形容する言葉としてエドモン・ピカールが初めて用いた。 この言葉はフランスに伝わり、1895年12月26日、のプロヴァンス通り22番地に美術商の店「メゾン・ド・ラール・ヌーヴォー」(: Maison de l'Art Nouveau)の看板として登場した。 ここではヴァン・デ・ヴェルデの他、、、、など、多数の象徴派とアール・ヌーヴォーの勢力下の展示が行われた。 は彼らとは別の孤独な道を行き、「ギマール様式」と呼ばれる彼独自の世界を作り出し、多作かつ隔絶した才能であったと見なされている。 フランスのアール・ヌーヴォーの最も見事な総体が構成されたのはである。 1870年のとの併合の後、ドイツの支配の下に留まることを望まなかった多数の併合ロレーヌ地方の住民は仏領に移住した。 ここでアール・ヌーヴォーは地方主義要求の表明手段となり、、、ジャック・グリューバーらがナンシー派を形成した。 1900年のでビングは現代的な家具、タペストリー、芸術的オブジェなどを色とデザインの両面でコーディネートした展示を行った。 これらの完全な形で再現された装飾的なディスプレイはこの様式と非常に強く結び付いていたので、結果としてビングの店の名前「アール・ヌーヴォー」が様式全体を指すようになった。 他方で彼らの真正の作品は、彼ら自身が(意図せずに)提唱者となった流行の成功によって飲み込まれ、はびこる粗製濫造の装飾品(ビングとヴァン・デ・ヴェルデの告発)はアール・ヌーヴォーの記憶を長きにわたり汚すことにもなる。 目的 [編集 ] アール・ヌーヴォーは、フォルムの再生を妨げる格式ばった歴史主義とは異なる選択肢を提案するために象牙の塔から出て、日用品の装飾を引き受け過去の様式を断ち切りつつも利用する一群の芸術家たちの営みであった。 この観点から、木や石のような古くからの素材が鋼やガラスのような新しい素材と組み合わされた。 芸術家たちはそれぞれの素材から最良のものを引き出すべく極限まで探求を推し進めた。 多層の(の一種)、金物工芸の組み合わせ模様を施した階段の手すり、うねりのある木の家具などは、自然界に刺激されたフォルムの革新への意志を保ちつつも、意向に応じて手頃な価格で芸術を取り入れることを可能にした。 この芸術はまた数多くのを持ち、選ばれた階層の間で広がって行った。 花、草、樹木、昆虫、動物などのモチーフがよく用いられ、これらは住居の中に美を取り入れるのみならず自然界にある美的感覚に気付かせることを可能にした。 他方で鋼の使用は建築物の高層化を可能にし、摩天楼を実現するまでに至った。 アール・ヌーヴォーはパリの無数の建物に影響を与えたのはもちろん、ややといったパリ近郊を散歩するとよく目にする、大半が20世紀初頭に建造された珪石造の数多くの古い別荘にも非常に大きな影響を与えている。 錬鉄の大胆な使用、煉瓦と陶器による装飾、切妻と時として小塔がこれらの特徴となっている。 こうした郊外でフランスの建築家たちは、とは対照的に総体的なものであろうとしたアール・ヌーヴォーが端緒となった新しい素材と新しい様式を実験したのである。 を境に、様式化が進みコスト高でもあったアール・ヌーヴォーのデザインは、流線型で直進的であり安価に製造できる、ラフで簡素で工業的な美意識に忠実であると考えられた的なデザインへと変化して行った。 である(1920-1940)。 家具調度 [編集 ] アール・ヌーヴォーの錫の花瓶 1900年頃 アール・ヌーヴォーの家具の概念は職人仕事を再生させた。 アール・ヌーヴォーは制作者個々人によるスタイルであり、それは職人の仕事を中心に据え機械仕事からは距離を置くものであった。 室内装飾の領域での大きな革新は統一性の探求にあった。 とはいえ、アール・ヌーヴォーも伝統的な様式と無縁というわけではなく、とりわけ、、などの影響を残していた。 ゴシックから理論的なモデルを、ロココなどから非対称性の応用を、バロックからはフォルムの造形的な概念を引き継いでいる。 日本の彩色芸術もまた、その立体感の極めて平面的な扱いによって、ギリシャ式オーダーの対称性への隷属からアール・ヌーヴォーが解放されるのに貢献した()。 木は奇妙な形となり、金属は自然の流れの交錯を模倣して曲りくねった形となった。 実際に、アール・ヌーヴォーは自然の観察に大いに基づいており、それは装飾のみならず、見方によっては構造的な部分にまで及んでいた。 命を持つ、官能的な波打つ線が構造部分にまで行き渡り支配していた。 椅子やテーブルは素材の中で特徴的なしなやかさに形作られていた。 それが可能なあらゆる箇所で、直線は禁じられ、構造上の分かれ目は連続した曲線と動線のために隠されていた。 アール・ヌーヴォーの最も優れた作品は、その際立った線のリズムにより、18世紀の高級家具にも似た調和を見せていた。 フランスでは、アール・ヌーヴォーは2つの派に分かれていた。 一方はサミュエル・ビングとその店を中心としたパリ、もう一方は 1846-1904 に率いられたナンシーのそれである。 ロココとアール・ヌーヴォーの類縁性が最も説得力を持つのはナンシーの方であった。 それほど魅惑的ではないが、当時最も名を知られていた芸術家の1人であったルイ・マジョレル 1859-1926 が間違いなくナンシーのアール・ヌーヴォーの2番目の先導者であった。 ガレは植物から象徴的な文学の銘に至るまでの幅広いモチーフの象嵌細工を得意とした。 この巨匠の作品に典型的に見られるのが構造的な要素が幹や枝から末では花となって終わる変容である。 ナンシー派とは対照的に、パリのアール・ヌーヴォーはより軽快で洗練された簡素なものであった。 自然から着想されたモチーフはより大まかに様式化され、場合によっては半抽象化までされており、副次的なものとなっているように見える。 宝飾 [編集 ] アール・ヌーヴォー宝飾の例 自然を主要な着想源としたアール・ヌーヴォーは宝飾芸術にも新たな命を吹き込んだ。 この革新は細工ややその他ののような新しい素材での職人芸によって成し遂げられた。 への関心の広がりや各種の金属加工技術への高まる情熱が新しい芸術的なアプローチや装飾の主題に大きな役割を演じた。 18・19世紀には、宝飾は、特にに集中していた。 宝飾工の主要な関心は宝石を輝かせるために取り付ける枠を作ることにあった。 アール・ヌーヴォーの到来により、芸術的なデザインの概念に動機付けられ、嵌め込まれる宝石にはもはや装身具の中核的な重要性を置かない新しいタイプの宝飾が日の目を見た。 パリとブリュッセルの宝飾工たちがこの急変の主導者となり、彼らの吹き込んだ新しい息吹はアール・ヌーヴォー様式の高い評判となって現れた。 宝飾芸術は根源的な変容を経験し、その中心となったのは宝飾工でありガラス職人であったであったというのが現代フランスの批評家たちの一致した見解である。 ラリックはその作品において、日本美術の意匠に着想を得て蜻蛉や草といったあまり慣習的でなかった要素を取り入れることでレパートリーを増し自然をさらに輝かせた。 宝飾工たちはこの新しい様式を伝統に組み入れ、の、特に七宝と彫刻を解こした装身具から着想を汲み他と一線を画そうと望んだ。 七宝を施した作品の多くにおいて宝石は主役の座を譲り、ダイヤモンドも造形したガラス・象牙・角といったそれまであまり一般的でなかった素材と組み合わせての副次的な役割に格下げされた。 宝飾工という職業の認識も変化し、その作品性のためもはや職人ではなく芸術家であると考えられるようになった。 絵画 [編集 ] ジョルジュ・ド・フール『メランコリー』 、、、、などの画家たちも純粋芸術とマイナー芸術の分離を拒否して絵画・リトグラフ・ポスターに同じように労力を捧げた。 絵画もまた装飾の1つとなったのである。 グラフィック・アート [編集 ] のからのまで、宣伝から装飾パネルまで、新聞のから絵はがきまで、ありとあらゆるところにアール・ヌーヴォーはその足跡を残した。 やに属するこれらの領域に専心した数多くの者たちの中でも、最も大きな影響力があったのは間違いなくのであり、1895年1月1日にパリの街頭に貼り出されたヴィクトリアン・サルドゥの演劇『Gismonda』のポスターは一夜にしてセンセーションを巻き起こした。 これらの作品は、ほとんどの場合で女性を中央に据え、自然の要素からなるアラベスクで取り囲んだ繊細なデザインで世界的な評判を獲得した。 主に商業的な性質の作品で用いられたこのスタイルは当時のイラストレーターたちに広く模倣された。 が最も独創的なアール・ヌーヴォーの芸術家の1人として挙げられる。 ビアズリー独特の白黒イラストレーションは、挿画の対象に選んだ主題が不遜なもので論争を引き起こしたにも関わらず同時代人の賞賛を浴びた。 その他の著名なポスター作家として(運動の一員であった)、、、などが挙げられる。 アンリ・ギュトンが建設した『レンヌ通りの大バザール』 パリ、1906-1907• によるの地下鉄駅出入口• による(、1893年)• ポール・アンカールのアンカール邸、ブリュッセル• ポール・コーシーのコーシー邸、ブリュッセル、1905年• にある『黄金の家』、Gabriel van Dievoetによるがある• レオン・ドリュヌのドリュヌ邸、ブリュッセル• による(建設中)、• アンリ・ソヴァージュによるマジョレル邸、、1902年• オテル・デュ・パルク(旧オテル・メトロポール)、プロンビエール=レ=バン• ジャン=エミール・レスプランディによるチュニス市立劇場、1902年• による(分離派会館)、ウィーン、1898年• ルサージュ薬局、ドゥーヴル=ラ=デリヴランド• レストラン「ラ・フェルメット・マルブーフ」(パリ、1900年)• ジャック・エルマンによる本店(パリ、1912年) アール・ヌーヴォー運動の中心地であったとにはこの他にも数多くのアール・ヌーヴォー作品が残っている。 またには最大規模のアール・ヌーヴォー建築群がある。 の花瓶 1900 フランス [編集 ] では 1895年にがアール・ヌーヴォーの画廊を開き、1900年にはが催され、地下鉄駅出入口やカステル・ベランジェで知られるのほか、家の(ラリックの活動期間は長く、の時代に及ぶ)、建築家ユジェーヌ・ガイヤール、金物師(兵器開発者でもあった)、画家、、などの重要人物たちの活動の場となった。 しかしながら、最もまとまったグループを形成したのは派であり、ガラス工芸家の、、ジャック・グリューバー、家具師ルイ・マジョレル、建築家ユジェーヌ・ヴァラン、 オクターヴ・ゲラン、彫刻家アントナン・バルテルミなど数多くの人物を輩出した。 ベルギー [編集 ] では、が最初のアール・ヌーヴォー建築を建設し、ポール・アンカール、エルネスト・ブルロ、ポール・コーシー、ギュスターヴ・ストローヴァン、ポール・サントノイ、レオン・ドリュヌ、フィリップ・ウォルハーズ、ジュール・ブリュンフォー、 Gabriel van Dievoet [ 訳語疑問点]、ギュスターヴ・セリュリエ=ボヴィ、ヴィクトル・ルソーなど数多くのアール・ヌーヴォー建築家・芸術家を輩出した。 運動のオピニオンリーダーであったはドイツでその芸術を発展させた。 オルタのタッセル邸やソルヴェー邸は「」の名でとなっている。 のカーペット 1889 はアール・ヌーヴォーの起源であり、詩人・デザイナーのの運動がアール・ヌーヴォーの先駆けとなり、とで活動した建築家のシャルル・ロバート・アシュビー()、アメリカのイラストレーターの(Will H. Bradley)らに受け継がれた。 後には、グラスゴーでとその妻、マーガレットの妹フランシス・マック・ドナルド、ハーバート・マックニーの「4人組」(The Four)が「」を形成した。 による『』の挿絵はアール・ヌーヴォーのの代表格である。 ドイツ・オーストリア [編集 ] 特にドイツ語圏のものを(青春様式)という。 オーストリアでは1897年に(ゼツェッシオン)が旗揚げし、総合的な芸術運動を目指した。 代表的芸術家は、ウィーン分離派の中心人物であった建築家の、や画家のなど。 ドイツでは建築家のアウグスト・エンデル、彫刻家のヘルマン・オブリストなどを中心に、、でユーゲント・シュティールが展開された。 その他の欧米諸国 [編集 ] によるの歌集『』 1901 日本の()、とりわけの諸作品はアール・ヌーヴォーの語彙の形成に強い影響を及ぼした。 1880年代から1890年代にかけてヨーロッパを席巻したはその有機的なフォルム、自然界の参照、当時支配的だった趣味とは対照的なすっきりしたデザインなどで多くの芸術家に大きな影響を与えた。 やといった芸術家が直接取り入れたのみならず、日本に着想を得た芸術やデザインは(パリ)やアーサー・ラセンビー・リバティ(ロンドン)といった商人たちの店によって後押しされた。 ビングはアール・ヌーヴォーの店を開く前はの専門店を経営しており、1888年からは『芸術的日本』( La Japon Artistique)誌を発行してジャポニスムを広めた。 日本美術から刺激を受けたアール・ヌーヴォーは逆輸入の形で日本にも影響を与えた。 の『猫』など一連の本の装幀()、の歌集『』・雑誌『』の表紙()やのポスターなどに直接的な影響が見られる。 の出世作となった「」広告にはビアズリーの影響が指摘されている。 では、の(現西日本工業倶楽部)の内装(ごろ、設計)にアール・ヌーヴォーの影響が指摘される。 による『』ポスター(1909) 参考文献 [編集 ]• Maurice Culot, Anne-Marie Pirlot, Art nouveau, Bruxelles, AAM, 2005, pp. 16, 35, 90, 91. Alice Delvaille et Philippe Chavanne, L'Art nouveau dans le Namurois et en Brabant Wallon, Alleur, 2006. Suter, 1975, 34 p. Architecture 1880-1900, Bruges, 1995, Stichting Sint-Jan et Archives d'Architecture Moderne, pp. 36, 37,• 42, 45, 47. 38-39, 80-85. Duncan, Alastair. Art Nouveau. New York: , 1994. ISBN 0500202737• アール・ヌーヴォーとアール・デコ 甦る黄金時代(監修者:、、2001年)ISBN 4096996912 のホテル「Beau Site」 関連文献 [編集 ]• スティーヴン・エスクリット『アール・ヌーヴォー 岩波世界の美術』(天野知香訳、、2004) ISBN 400008979X• デボラ・シルヴァーマン『アール・ヌーヴォー : フランス世紀末と「装飾芸術」の思想』(天野知香ほか訳、、1999) ISBN 4791757661 【図録・作品集】• ポーラ美術館編『ポーラ美術館名作選 エミール・ガレとアール・ヌーヴォーのガラス工芸』(ポーラ美術振興財団、2007) ISBN 9784901900102• 世田谷美術館ほか編『パリのアール・ヌーヴォー : 19世紀末の華麗な技と工芸 : オルセー美術館展』(、2009)• 村田孝子、冨澤洋子編『ガレ・ドーム・ラリック : アール・ヌーヴォーからアール・デコへ : 華麗なる装飾の時代』(NHKプロモーション、ポーラ美術館ほか、2008)• 東京国立近代美術館編『日本のアール・ヌーヴォー1900-1923 : 工芸とデザインの新時代』(、2005) 【概説・入門書など】• 堀本洋一『ヨーロッパのアール・ヌーボー建築を巡る : 19世紀末から20世紀初頭の装飾芸術』(角川SSコミュニケーションズ〈角川SSC新書〉、2009) ISBN 9784827550672• 橋本文隆解説『図説アール・ヌーヴォー建築 : 華麗なる世紀末』(〈ふくろうの本〉、2007) ISBN 9784309761077• NHK「美の壺」制作班編『美の壺 アールヌーヴォーのガラス』(、2006) ISBN 4140811331• 『アール・ヌーボーの世界 : モダン・アートの源泉』(〈〉、改版2003) ISBN 412204152X• 『ジャポニスムからアール・ヌーヴォーへ』(中央公論社〈中公文庫〉、1994) ISBN 4122020654 脚注 [編集 ] []• ・田端修『路地研究 もうひとつの都市の広場』、2013年、182頁。 978-4-306-09423-9。 『ブリュッセル歴史散歩 中世から続くヨーロッパの十字路』日経BP企画、2009年、219頁。 978-4-86130-422-4。 『世界の美しい階段』、2015年、134頁。 978-4-7678-2042-2。 関連項目 [編集 ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 - ビングが万博に出店して人気を博し、店の名前「アール・ヌーヴォ」から様式全体を表す名称となった。 - アール・ヌーヴォーを準備したの・潮流。 、 - アール・ヌーヴォー前後の美術潮流。 アール・ヌーヴォーは新古典主義との架け橋でもあった。 、 - ドイツ語圏でのアール・ヌーヴォーの動き。 、 - アーツ・アンド・クラフツを受けたドイツでのモダニズムの発展。 - この頃、後期の日本美術が西洋に大きな影響を及ぼしていた。 、 - よく複写された。 - ナンシーに渡りらと親交があった日本画家。 外部リンク [編集 ]• (フランス語) - 芸術家とその作品。 (フランス語) - 伝記と多数の写真。 (英語) - ハンガリーのアール・ヌーヴォー。 (フランス語) - の仕事。 (フランス語) - フランスのアール・ヌーヴォー建築の写真多数。 (フランス語) - アール・ヌーヴォー・フリークのブログ。 (英語) - アール・ヌーヴォー家具の写真。 - アール・ヌーヴォーのレストラン。 (英語) - ヨーロッパのアール・ヌーヴォー観光案内。 (英語) - アール・ヌーヴォー遺産を持つ都市のネットワーク。 (英語) - アール・ヌーヴォーのインテリアの情報サイト。 (日本語) - artscape•

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それは、どういったものに反映されてるかと言いますと・・・ 『シルバーカトラリー』ピュイフォルカ 装飾豊かなピュイフォルカのカトラリー 『ガラス』バカラ、エミールガレ、ドーム兄弟、ミューラー兄弟 エミールガレによるカマキリの花瓶 ドーム兄弟によるクロッカスの花の花瓶 ミューラー兄弟によるランプ 『陶磁器』ロイヤルウースター、ミントン、コールポート コールポートの洋梨を描いた飾り皿 こういったものに反映されています。 建築や絵画だけにとどまらず、工芸や広告デザインなどの分野にも、 国境を越えて 深く浸透しました。 この運動はウィリアム・モリスやジョン・ラスキンといった人々によって 起こされ、 アール・ヌーボーの先駆けとなりました。 彼らは産業革命後、工業化が進むことで過去の様式を真似た 大量生産品が 溢れること、それによる創造性の喪失に危機感を持ち、 芸術性を持つ 手作り工芸の復興を求めました。 この運動では、人々の周囲に存在するものや使用するものが 本物の姿形をもつということ。 この事実を示すことだけが社会を再生する方法であるとして、 モチーフを動物・植物・虫といった自然界にあるものから見出し、 生命感や躍動感のある 曲線を持った洗練された形 状へと 戻していくべきであると強く主張されました。 建築家、ウジェール・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュクは、 当時顧みられなくなっていた 様式であるゴシック建築の復興を 目指した ネオ・ゴシック運動の先導者として知られていました。 しかし、過去の様式をそのまま取り戻そうとするのではなく、 ゴシック建築を 構造的に合理性のあるものとして見直し、 19世紀の建築も合理的建築を 目指さなければならないとしました。 ヴィオレ・ル・デュクはその合理性を求める考えから、 鉄という現代的素材を取り入れ、 建築材料として重要視しました。 彼はこの新素材に、建築へ美を与える装飾としての機能を与え、 その有用性を大きくアピールし ました。 ただ過去に回帰するのではなく、新たな材料を取り入れて 建築の合理性・芸術性を高めた ヴィオレ・ル・デュクの姿勢は アール・ヌーヴォーの建築家に大きな影響を与えました。 装飾性と建築としての合理性が一致した建築様式と、 各所に使われた鉄材が ヴィオレ・ル・デュクからの流れを感じさせます。 翌1894年、建築家でデザイナーのアンリ・ヴァン・ド・ヴェルドにより 「芸術の開放」と 題する講演が行われました。 彼の主張は、これまで積み上げられた装飾芸術を受け継ぎながらも、 過去の形を 繰り返すのではない「新しい芸術(un art nouveau)」を 創り出す必要があるというものでした。 その次の年、ヴァン・ド・ヴェルドはすべてを自身でデザインした 自邸「ブレーメンヴェルフ」 を建てました。 この家は建物だけでなく、 内装から調度品、食器にいたるまで滑らかな曲線が溢れていて、 その美しさに目を留めたパリの美術商、サミュエル・ビングから 新たな店の 内装を頼まれることになります。 1895年の暮れに完成したこの店の名こそ、「アール・ヌーボー」でした。 この店をきっかけに彼のデザインは広く知れ渡り、店名であったこの言葉は、 やがて ヴァン・ド・ヴェルドを代表とする新たな様式の名前となりました。 1894年の第1回「自由美学」展は、アール・ヌーボーの歴史において 大変重要な催しであり、アール・ヌーボーの方向性を示したものと言えるものでした。 ブリュッセルで行われたこの催しには、ヨーロッパ各国で活躍する 芸術家が集まり、 芸術作品だけでなく、ポスターや食器、アクセサリーなどの 応用芸術に分類される 商業製品も出品されていました。 国籍という違いだけでなく、美術としての分野の違いを取り払うという 画期的といえる、 第1回展により、アール・ヌーボーは壁の無い 自由に流れる芸術の風となり、 大きく拡がっていくのです。 しかし、そこには多様性があり、直線的な表現に向かった ドイツ、 オーストリア、 スコットランドの国々に対し、 フランスやベルギーでは植物から 発想された曲線が好まれました。 この曲線の中でもその表現はひとつではなく、フランスでは モチーフとした 植物そのものの形を留めた具象的表現が多く、 ベルギーでは植物の持つ 生命力や生長するエネルギーを表現するために 豊かに波打ち、 大きくうねる抽象的な曲線が使われました。 これはあらゆる分野を手がけた ヴァン・ド・ヴェルドの場合には顕著で、 彼の作品には一貫して 躍動感のある抽象的曲線が使われています。 ここで「基本的」というのは、ここにもまた各地で傾向の違いがあるためで、 花や虫の具体的な形をモチーフとすることの多かったフランスでは、 個々の作品がそれぞれの中心モチーフを持って作り上げられ 同じ美意識の 中にありながらも個性を感じさせる傾向がありました。 アール・ヌーボーがただ芸術運動として拡がるだけでなく、 人々の生活に 深く浸透していったのは、身の周りにあるすべてのものに 生きた美を宿らせるという こうした特徴によるものと言えるでしょう。 そうした中で、最も身近に感じられるのは数々の工芸品ではないでしょうか。 生活の中へ溶け込むことを目指したアール・ヌーボーの工芸品には、 ランプや 花器、食器などの 日用品も多く作られており、 飾るだけでなく今の生活へ取り入れることもできます。 なにより、当時作られた本物のアール・ヌーボーを、その理念どおりに 日常生活に迎え入れ、 楽しむことができるのは大変な魅力があります。 もし優美な世界にご興味をもたれたならば、 現代においても様々な形で存在するアール・ヌーヴォーの品々を 一度探してみてはいかがでしょうか。 ライター紹介 妹尾 満隆 合同会社SENOO商事の代表をしております妹尾満隆と申します。 ウェブという情報を発信してる人が見えてない中で、いろんな間違った情報がネット上にあるのを度々見かけます。 特にアンティークにおいては ・間違った情報 ・信ぴょう性のない情報 ・そもそも情報がない などたくさんの課題がありました。 そこで私は、これまでのお客様との取引の実績、知識、経験、情報を元に正しい情報をウェブを通して発信していくことを会社の方針と掲げました。 ただ物を売る会社ではなく、これまでブラックボックスとされてきてた商品の真贋の見分け方を発信するというのが大切なことではないかと思ったからです。 なぜならアンティーク品の場合は情報量の不足から、買い手側が圧倒的に不利な立場にあったからです。 このアンティークの世界をもっとクリーンで、信頼のおける分野に成長させていく事が私の使命だと思っております。

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アール・ヌーヴォーの都!フランス・ナンシーの街歩きガイド

アール ヌーヴォー

これまでに、ベルギーで始まったアール・ヌーヴォー様式の建築がフランスに伝播したことなどに触れてきました。 最後はバルセロナ編です。 アール・ヌーヴォー文化の発祥順に北から書いてきたけれど、自分がこの旅の最初に訪れたのは実はバルセロナ。 何はなくとも、アントニオ・ガウディの建築を実物大で見たかったのです。 この国には、日本人が大好きなガウディだけでなく、ドメネク・イ・モンタネールや、ガウディの右腕ジュゼップ・マリア・ジュジョールなど、多くの優れた建築家がいた。 バルセロナの街を歩くと、石造りの趣きのある建物が立ち並んでいるのが眺められる。 歴史的価値の高い建造物と思わしきものもさりげなくそこにあって、とても豊かな気持ちで散歩することができる。 成熟した文化を持つ大人の街、という印象を受けた。 通りを行く人たちは知的で真面目そうに見えた。 ただの印象だけで言っているけど。 女性は黒っぽいコートにバッグを斜め掛け、というファッションが多かった(初冬だったので)。 黒ぶち眼鏡率が高かったかな。 平均身長はおそらく日本人と大差なく、親しみ易い感じがした。 (ただし、バルセロナはスペインの中でも色々な意味で異質(ユニーク)な都市なのだという。 バルセロナのあるカタルーニャ州はその昔、独立国だった。 そのため文化的に独自の路線を当時から保持しており、ここの人々は「スペイン人」というよりも「カタルーニャ人」という意識が強いのだと聞いた) 「サグラダ・ファミリア(聖家族教会)」 まずは言わずと知れた、。 もともとはこの聖堂の外観を楽しみにして来たのだが、入ってみると内部の美しさに夢心地になった。 ステンドグラスから透かし見る光が、幻影のよう。 天からの木漏れ日。 どこからか、パイプオルガンの音色が響いてくる。 立体フラクタル! きれいな色。 なんて書いてあるのかな。 まだ色が入っていないところも。 建築現在進行形。 天井の相似形な眺めに、頭ゆらゆら。 幻覚を見ているみたい。 天国だし地獄だと思った。 こんなものを三次元で作ってしまうなんて。 どんな曼荼羅画家も叶わないよー。 聖堂内はきっとどの位置から見ても完璧で、どこに座った人もこの超越した境地をきちんと満喫できるように計算し尽くされているのだろう、と思った。 外観はね、あの全体の造形。 悪魔つきみたいだと思う。 どろどろに溶けてる。 なんでこうなるのだろう、と思う。 この世以外のところからのインスピレーションがあったとしか思えないシルエット。 おどろおどろしくて禍々しくて、とてつもなく悪趣味で。 でも抗えないような魅力があると思う。 「降誕のファサード」 サグラダ・ファミリア主任彫刻家の外尾悦郎氏(1953年 -)が関わったところのながめ。 「カサ・バトリョ」 ガウディ建築で自分が一番かっこいいと思うのがこの「カサ・バトリョ」 エレガント、かつ超ワイルド。 なんて言ったって髑髏(しゃれこうべ)よ。 カラフルな外壁は、弟子のジュジョールによるもの。 (左隣も有名な建築物。 プッチ作のカサ・アマトリェール) 滞在していたホテルから近くてびっくり。 歩いて3分。 バルで食事した帰りにライトアップしたながめまで見れてよかった。 夜の彼。 ますます怪しい。。 してその中身はこんなふう。 どこが壁で、どこからが天井?入り口からすぐの階段室。 さあ、探検の始まりだ。 しっかりした背骨を持った生き物の中に潜入。 扉の上のガラス。 細胞ぶくぶく。 どこを見ても柔らかな曲線。 軟体動物がイメージされる。 天井にはドレープが。 胃のなか内視鏡でみるとこんなだよね。 軽度のびらんが見られます。 シャンデリアがへそ的存在かな。 すぽんと抜いたら間違いなく崩落だね。。 (妄想は続く…) 吹き抜けエリアは青の世界。 まるで海の底にいるよう。 (天窓のすぐ下はコバルトブルーだが、下に行くに従って、青色、水色、パールグレー、白と色が変化していく。 中庭から見上げた時に、下から上までほぼ同じ色に見えるようにと、考えられているという) 細部まで素晴らしい。 屋上に出た。 空が青い。 このウロコみたいなのが赤~グリーン~ブルーのグラデーションになっている。 かっこいいな! 「ドラゴンの背中」と呼ばれているそうだ。 「カサ・ミラ」 地元の人からは「ラ・ペドレラ」(石切場)と呼ばれたカサ・ミラ。 予算オーバーが度重なり、工事期間中はガウディと施主との争いが絶えなかったという。 だるだるのシルエットが魅力的! 中庭からの眺めは、すぱーん! 吹き抜けは、もう一カ所あります。 カサミラ屋上のおとぼけおじさん衆(煙突です)。 あちらに見えるのはサグラダファミリア。 今日も工事やってる、やってる。 「グエル公園」 グエル公園は、ガウディのパトロンであるエウセビオ・グエルによる依頼で作られた。 当初の予定では、20ヘクタールもの広大な敷地に、60戸の分譲住宅をつくる予定であったが、実際に家を買って住んだのはグエルとガウディのふたりだけだった。 (それ、泣けてきます…) 現在では、世界一有名な公園として、市民や観光客で賑わっている。 正門近くの事務所。 ザ・お菓子の家。 モザイクタイル担当は、弟子のジュジョール。 傾斜した地形をそのまま生かした回廊。 歩くと、ひんやりとして気持ちいい。 観光客が途切れた奇跡の瞬間をカシャ。 なぜかこのフェンスに惹かれ、狂ったようにシャッターを切る自分。 別に見どころでも何でもないただの柵なので、みな素通りで見向きもしないが、この形状、普通じゃないですよね?!激しく宇宙を感じるんだ。 グエル公園は高いところにあるので、バルセロナの街並がよく見渡せる。 かすんで見えるのは、地中海。 「カテドラル」 ゴシック地区のカテドラル(サンタ・クレウ・イ・サンタ・エウラリア大聖堂)。 精密な美。 こういうのも大好き。 夕陽が差して神々しい。 目移りしてしまい、大変です。 ん?あれは?! こ、これは! 日本髪! すごく不気味で面白い。 グロテスクだなー 夜はバルで一杯ひっかけたよ。 (カウンターで、隣の陽気な二人連れのおしゃべりに、耳を傾ける。 学生時代にスペイン語とっていたから、その内容はなんとなく…もわからない一語も…orz) 目の前に並ぶタパス(小皿料理)を注文。 パンとチーズが美味しかったよ! サンジュゼップ市場。 ぱちりと撮るだけで、雑貨屋さんの売れ筋ポスカの出来上がり! あちらこちらに教会があった。 自由に出入りできるところがほとんど。 クリスチャンでなくとも、穏やかな気持ちにさせてもらえます。 キャンドルはガラスかな?と思ったのだけど、さわってみたらプラスチックだった。 教会の入り口で販売もしていました。 きれいだなー。 バルセロナ、自分は超絶好きになりましたよ。 いつかまたきっと来る!と心にかたく誓いました。 さて、アール・ヌーヴォー建築をテーマに、三回にわたり投稿してきた欧州レポートも、これでおしまい。 読んでいただき、ありがとうございました! 検索: 最近の投稿• カテゴリー• アーカイブ•

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