バチ が 当たる と は。 罰(バチ)が当たるのはなぜ?正直者ほど当たりやすい論理的な理由

バチが当たるの意味や由来は?当たりやすい人の特徴もまとめてみた

バチ が 当たる と は

本当に悪いことをしたらバチ(罰)は当たるのか では実際に悪いことをしたら自分にバチが当たるのかというと、 結論から言えばバチは当たります。 しかしそれは悪いことをしたら神様が天罰を下すという考えとは少し違うかもしれません。 そうではなくてもっと現実的に罰は下りて来るのです。 例えば、 自分自身が不倫をしているとします。 それが最初は誰にも分からないかもしれませんが、次第に近所の人に違う異性といるところを見つかって最終的には家族の耳に入ります。 そうして奥さんにバレてしまい離婚することになった。 それが罰は普通に考えれば罰でしょう。 そうやって回りに回って罰は与えられてしまうものです。 他にも、 信号無視を頻繁にしている人がいるとします。 そうやって信号無視をし続けていれば信号無視をしない人よりははるかに事故に遭う可能性が高くなります。 そうやって普段の行いによってバチが当たるのです。 それは罰ではなくて因果応報じゃないの? そんな不倫をして見つかって離婚するというのは、そんなのは罰ではなくて当たり前のことじゃないのか。 そう思うでしょう。 その通りです。 バチが当たるというよりも基本的には全て因果応報です。 やったことに対してそれなりの出来事が起きるというだけであって、全く関係のないような罰というのはほとんど起こり得ません。 原因と結果、それがバチの正体とも言えるでしょう。 全てが因果応報で起きているのではなく偶然の出来事もある たまたま偶然が重なって自分の想像していなかった出来事が起こることは多々あります。 全ての自分の行動が現実に反映されるわけではなく、 他人の起こした出来事によって人生に大きな影響を与えることはあるのです。 自分が全く悪くない交通事故などはその一つです。 それは悪いことをしたから天罰が当たったとかではなく単なる偶然です。 運です。 この世というのは全てが因果で決まってるわけではなく、偶然というものが存在するのです。 もちろんその偶然も因果によって起きているのですが、全ての因果が繋がっている訳でなく、結果的に偶然になってしまうことはあるのです。 ですから悪いことをしたから悪いことが起きるのかというとそんなことはありませんし、正しく良い人生を生きていたとしても悪いことは当然起こり得るのです。 天罰は自分が勝手に思い込んでいる 天罰と思えるような出来事は多々あります。 「昨日悪いことをしたから今日は運が悪いことが続くんだ」 そうやって自分の中で、起きた出来事を結びつけて天罰だと思ってしまうことがあるのです。 例えば、 「友達に嘘をついたから交通事故に遭ってしまった」 なんて出来事があったとしても、それは実際何も因果はありません。 どんなに嘘をついても交通事故には結びつかないでしょう。 ですが人間というのは思い込みが激しい生き物なので、それを関連付けてしまうのです。 一つの原因として、 嘘をついてしまったことに対して罪悪感を感じて、考え事をしてしまって注意が散漫になり、その結果交通事故を引き起こしてしまった。 それはあるかもしれません。 しかしそれは天罰やバチが当たるとは違った話です。 人間はそうやって何かしらの原因を見つけないと納得出来ないので、無理矢理にでも原因を作ってしまった結果、バチだと思ってしまうのです。 罪悪感という形でバチも当たる 悪いことをするとどうしても罪悪感が生まれます。 浮気をしたり、盗みをしてしまった後はもちろん罪悪感があるでしょう。 それはそれだけでも大きな罰です。 もちろんバレてしまえば罰として自分に返ってきます。 信用も失いますし大事なものを失うかもしれません。 それ以外にもバチがあって、 罪悪感という形で自分の中に残り続けます。 時が経つか、それ相応の良い行いをしていかなければ罪悪感が消える事はありません。 罪悪感は自分の心に重くのしかかります。 それも立派なバチと言えるでしょう。 バチも全てのものは時間差でくる 悪いことをしたからといってすぐにバチが当たるとは限りません。 一年後かもしれませんし十年後かもしれません。 しかしバチはほとんど当たります。 散々人を騙し続けてきた人は、 噂が噂を呼び10年後には誰も相手にしてくれなくなってしまうかもしれません。 そういうものはすぐにはきません。 時間が経ってからくるものです。 それが罰というか因果応報というものなのです。 全ての出来事が因果として現れるわけではない 因果応報があるのなら、全ての出来事が因果として現れるかというとそんなことはありません。 もちろん原因と結果として現実には現れるのですが、悪いことをしたから悪いことが起きるかというとそれは別の話です。 悪いことをしても天罰が当たらないことはありますし、逆に何も悪いことをしていないのに悪いことが起きることもあります。 それは私たちの視点で言えば、原因と結果は違うかも知れませんが、しっかりとやったことの結果としては現れます。 天罰が当たろうが当たらなかろうが、自分の起こしたことの結果は現れるので、自分らしく自分の心に素直に生きることは大切だと私は思います。 良いこと悪いことは自分が決めている。 だから罰も自分が決めている 良いことをしたら良いことが起こると思っていますが、その良いこととはどんなことでしょうか。 宝くじが当たることでしょうか。 好きな人と結婚出来ることでしょうか。 自分にとって良いことというのは異なります。 一言で結婚と言っても、 結婚して幸せになる人もいれば、不幸になる人もいます。 嫌々で結婚する人もいるでしょう。 そう考えると何が良いことで何が悪いことかなんて分かりませんし自分次第です。 良いことも悪いことも定義がないのに、なぜ良い行いをすれば良いことが起こると言えるのでしょうか。 そもそも良い行いというのはどんなことなのでしょうか。 人に優しくすることなのか。 人に優しくすると言っても、相手が大きなお世話だと思ってしまえば優しさも罪になります。 そうなってしまうと、良い行いをしたはずなのに悪い結果になってしまうのは当然です。 良いも悪いも自分次第であり、相手の感じ方次第です。 極端な話、 過去には戦争でたくさんの人を殺してしまっている人でも、「英雄」なんて呼ばれたりしています。 人殺しが英雄になるのです。 それでは何が正しいのか分からないでしょう。 ですから何が良いのか悪いのか、そして何が天罰で神の恵みなのかなんていうのは、分かりませんし自分の感じ方が全てだということなのです。 神様から天罰というものは存在しない 当たり前のような罰は当たるとしても、それならスピリチュアル的な神様からのバチは当たらないのかというと、 それは当たりません。 神様というのは罰を与えるような存在ではありません。 もちろん自然の法則で自分がやってきた行いは自分に返ってきます。 自分のしたことの結果として自分に降りかかってくることはあるでしょう。 しかし神様が判断してそれの罰が下るというものではありません。 この世は神様の気分などで決められているわけではなく、自然の法則、自然の法則に従って因果応報が行われているのです。 厳密に言えば、天罰というものはないということなのです。 あとがき 悪いことをしている人は天罰が当たらないでくれと願うでしょう。 逆に悪いことをされた人は、悪いことをした人に対して天罰が下ってくれと願うでしょう。 そうやって人の心には確実に天罰やバチというものの存在が根付いています。 それだけみんなが因果応報があると知っているのです。 それはもちろん全てが同じ形でくるわけではなく、どんな形で返ってくるかは分かりません。 巡り巡って自分に返ってくるものなのです。 それが因果応報というものなのです。 ですから、 神様の罰があろうがなかろうが自分の思うように生きていけばそれだけ自分の納得する人生が送れるはずです。 バチが当たらないなら悪いことをしよう。 バチが当たるのならやめておこうではなく、 自分自身がやりたいように生きていくことが大切なのです。 バチがあろうがなかろうがそんなことは関係なく、 自分の心に正しく、そして自分が生きたいように生きることが自分が良いと思える人生を送るには大切なことだと私は思います。 是非参考にしていただけると幸いです。

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天罰は存在しない?悪いことをするとバチ(罰)は当たるのか。

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「罰が当たる」の意味とは? 「罰が当たる」の類語や似たことわざ• 「罰が当たる」の使い方• 「罰が当たる」を使った例文• 「罰が当たる」の反対語や対照語・対義語• 「罰が当たる」のバチとは 「罰が当たる」の意味とは? 「罰が当たる」は 「バチがあたる」と読みます。 普通に読むと 「バツがあたる」になると思いますが、この 「バチがあたる」の 「バチ」は呉音と呼ばれるもので、音読みの一種になります。 音読みには漢音と呉音があり、呉音とは方言のようなものになります。 六朝時代の中国の呉と交流のあった朝鮮の百済人が日本に伝えたもので中国南方系の字音に基づくといわれていますが、現在では殆どが仏教関係の用語として用いられています。 そしてこの 「罰が当たる」とは神仏において悪事を懲らしめるための償いや報いを受ける事を表しています。 罰と罪ひ表裏一体であり、人によってその罪深さや罪の種類は違いますが、どんなものであろうと反省をしその罪を認め償わなければいけません。 人間は完璧ではないので必ず間違いを起こしますし、ミスを犯します。 ですから罪を犯してしまう事は仕方がないところがありますが、そのままでは言い訳ではないので、償い省みるためにも 「罰」があるのです。 ですから 「罰が当たる」という気持ちを持つ事や、この言葉を使い表現をするという事は心の中に良心があるという事であり、そもそも何も考えず自分の事だけを考えている人や、倫理観や道徳観を持っていない人はこの言葉を使う事もないでしょうし、このような感覚もないかもしれません。 「ミイラ取りがミイラになる」【みいらとりがみいらになる】 ミイラ取りがミイラになるとは、人を連れ戻す為に出向いた者が、その目的を果たすどころか帰ってこなくなることをいいます。 もしくは人を説得しようとした者が、逆に相手に説得され同調してしまうことをいいます。 ですからこの"ミイラ''を採りにいく為に人々が砂漠を渡ったり、お墓に入ったりする必要があったため、本人が命を落とし"ミイラ''になる場合があったところから来ているといわれています。 ミイラになってしまう事自体は 「罰が当たる」という事に該当する訳ではありませんが、自分のした事がそっくりそのまま返ってくる、もしくはなんらかの形で返るという意味では同じ意味合いがあると言えるでしょう。 バチにも種類がある 「罰が当たる」のバチとは先述した通り 「罰」の事であり、自分が行った事に対する天からの報いを受ける事や償う事をいいます。 ですがバチとは、本人に良心の呵責があり物事の道理をわかっていないと意味がありません。 何が起きても反省せず、責任転嫁し、悪事を平気で行う人はたとえバチが当たっても気付かず、その時でさえ他人の責任にするでしょう。 「何で自分がこんな目に遭わなければいけないんだ」と開き直ったり、思い当たる節があったとしても自分の責任とは思わず、周りの人や環境のせいにしてしまうでしょう。 一見するとこんな人には 「バチの意味なんてない」と思ってしまいそうですが、冷静に客観視してみるとそのような人に心を許し、いざという時に助けてくれる人などいるかどうかがわかる筈です。 また利害関係で助けた仲は継続性は低いのではないでしょうか。 人間は一人では生きていけないので、必ずどんな形であれ大小問わず他人の力を借りているのですが、その力とは知性や知恵、情報なども含まれます。 つまりバチとは目に見えて痛い目に遭うだけではなく、徐々にと追い込まれたり、自覚はないけど気付いたら自分だけが取り残されているという事もバチにあたるのではないでしょうか。 感覚的なバチ 例えば同じサービスでクォリティが受けられるものが半額になっていたとします。 その情報を普段から 「バチが当たればいいのに」と思っている相手に伝えるでしょうか。 通常は仲良しの人やお世話になっている人など一緒に幸せを感じたい人に対して、情報を提供したり共有するのではないでしょうか。 つまり一人の一出来事としては影響力は小さいものでも、それが何人もいたり、継続的に行われた場合を考えると損害は大きくなるはずです。 そしてこれがビジネスや緊急時になると大変な事になりますし、命に関わってくるかもしれません。 一つずつは小さな事柄でも、積み重ねることで人脈にも影響が出てきますし、チャンスを失うことにも繋がるのです。 バチとは自分がしたことに対する報いを受ける事なので、形や種類、期間や質などは関係ありません。 むしろどんな形で返ってくるか分からないからこそ、良心がある人には怖い事なのだと思います。 もちろんバチに当たりたくないからという理由は不順になりますが、バチを怖がる事は大切な事なので、気付いたら何もなくなっていたという場合もバチが当たったからかもしれません。 スピリチュアルな面から見たバチ スピリチュアルな面から見るとバチは当たらないといわれています。 正確にいえば本人が気付かなければバチにはならないのです。 また天や神仏、ましてや人は人に対しバチを与える事が出来ないと考えられています。 それはバチがネガティブなものであり、そのマイナスのパワーを他人に与えるという事は、自分に向かって返ってくる事に繋がるからです。 ましてや過ちを犯す事が当然である人間が、人間に対して 「罰が当たればよい」と思う事自体が非常に罰当たりな事だと考えられるからです。 そんな他人に対するネガティブなエネルギーは自らの肉体や精神を蝕み、マイナスオーラを放ち纏う事になってしまいます。 結局は他人の人生ではなく自分の人生を狂わす事になってしまうのです。 では実際には何も変わらないのかといえばそうではありません。 自分がネガティブなエネルギーを持てばそのオーラを纏うと述べましたが、それは本人の意思に関係なくそうなるものだと考えられるので、逆を言えば、自分のオーラに気付いていない場合も多々あるという事になります。 まず罰当たりな事を平気で行い、悪事に対し何とも思わない人物は、自分が纏うオーラ、顔付きなどに気付いていない場合が少なくありません。 胡散臭さや嘘っぽさ、その人物から滲み出る何とも言えない負のエネルギーというものは他人が感じる事ですし、たとえ指摘を受けたり、自ら気付いても直しようがありません。 その人が生きてきた価値観や人生そのものが現れているものなので、考え方を改めたり価値観や倫理観など全てを見直さない限り染み付いたものは取る事が出来ないのです。 そしてまた人間は自分と同じような波動を持つ人と付き合い、仲を深めるものです。 類は友を呼ぶと言いますが、似た者同士ではないと疲れてしまうので、胡散臭く道徳観がない人には同じような人物が周りを固める事になるでしょう。 つまり 「罰が当たる」とはバチに値する事柄を自ら引き寄せている事になります。 胡散臭いネガティヴなところに穢れのない純粋でポジティブな人は寄ってくる事はないように、結局は自らが気付かない限りバチの中に居続ける事になるでしょう。

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スポンサーリンク バチは存在する?しない? 結果から言ってしまうと、「バチは当たらない」 違う見方からすると「すでにバチは当たっている!」 ということになります。 なぜバチが当たらないのか! そんなのずるい!って思いますよね。 ですが罰って周りの人の判断なんですよね。 周りの人、受けた人の価値観であって、相手がなんとも思っていなければその人は平気なんですよ。 罪悪感も持たないんですね。 周りが勝手に怒っているだけだったりするんですね。 (結構こういうことってありますよね?) その人にとっては日常の出来事のようにすでに悪気という概念がないんです。 ですが、それが日常のように当たり前になっている人ってすでに顔が体型がゆがんでいるんですよ。 胡散臭い顔だったり、偉そうな態度だったり、その場限りの調子の良いことばかり言って実際は何もしない動かない怠け者だったり って、顔や体型・立ち居振る舞いをみてだいたい想像がつきますよね? それで良い仕事に就けない、良い人に巡り会えない、人間関係に恵まれない。。。 などなど ということではすでにバチが当たっているんです! 人生の大切な部分ではすでにバチは当たっていて、その性格だからすでにそうなっている。 っていう世界なんですよね。 周りも怒っていながらも結局は顔や体型、普段の言動から慣らされてしまい、その時にはすでにゆでガエル状態。 相手には勝てないんですね。 それが度を超える(日常ではなく非日常な行為)と流石に黙ってはいられない!と行動を起こす人が出てくるのです。 これをバチが当たると捉えるのか捉えないのかの問題で、実際は周りの判断次第ということなんですね。 そう、あなた自身が我慢をするのかしないのか?という周囲の判断が罰が当たるとか当たらないとかになるんです。 日常ではすでにバチが当たっていますから。 良いプライベートは送れていないと思いますよ。 人は似た者同士と気が合い付き合えませんからね。 バチを与えるのは神ではないのです 上記でも説明したように、人間的に考えるバチを与えるのは周りの人なんですね。 エネルギー的には本人しかバチを与えられないんです。 それは顔・体・言動であって、顔の歪みから体型の変化そして病気へと移ります。 エゴを体に与えています。 どれだけ言動を変えても同じなんですよ! よく言われている言霊とか・・・って言葉を一生懸命に変えようとしていますが、これはっきり言って無駄です。 根本のエネルギーが変わらないので、思考の考え方というものは変わりません。 と言うより、言動が伴わない本当の嘘つきが出来てしまいます。 これに至っては、本人が嘘をついている、有言実行できていない事にすら気づくことが難しいので精神の病としか言いようのない所まで行ってしまいますし、 周りからは人間性を疑われていると思います。 自分は「やっているつもり」になっているので、気づけるという所からは遠く離れています。 自分を振り返らない限り裏では一生笑い者・・・・という人生ですね。 周りでは人それぞれのエネルギーがどう作用するかで変わります。 同じエネルギーの場所(似た者同士)であれば許容範囲が同じということですし、あまり問題にもされません。 気づかれないということですね。 しかし、自分は誤魔化せません。 自分の肉体を持ってバチが当たっています。 それすら、毎日みている自分なのであまり分からないですよね。 ですから、バチが当たれ! と思う心というのは相手には投げられることなく、自分自身の体にその怒りのエネルギーを打つけているにすぎません。 苛立つことの醜さは自分自身なのです。 常々自分を大切に!と書いているのは全てが自分にしか返ってないからです。 そしてそんな一生気付かないバカとは争わないことです。 あなたは冷静になってくださいね。 争うとは相手と同じ土俵にいます。 同じに見られますよ。 同じに見られたくない。 と思えば同じ行動はしないことです。 影響を受けるのなら立ち去ってください。 グループでも会社でも何かの輪というのはその特有のエネルギーがあります。 そこに属しているというだけで同じように見られるのです。 同じエネルギーを持っているのでそこにいられるのです。 ある意味、自分のエネルギーの何が同じなのかを見られるチャンスでもあるので、もしあなたがその場所にいるなら自分と同じ部分を探してみてくださいね。 結局バチが当たるか当たらないかより、どれだけ自分の肉体とエネルギーを破壊しているかという点を覚えてください。 人の人生が良くなろうと悪くなろうと「あなたの人生は変わらない」無駄に時間を過ごさず事実をしっかりと見てくださいね。 人の言動であなたのエネルギーを変えないというレッスンして見てください。 人の言動でエネルギーを変えてしまうとあなたの体・細胞を破壊していますよ。 あなたを守れるのはあなたしかいません! これをマスターできると、今度はどんな所にでもいられるようになります。 良い場所・悪い場所、いい人・悪い人なんて所にあなた自身が惑わされなくなり いつでもあなたは安定して、気分を害さず要られるからです。 自分を見失わないでくださいね。 今のまま、自分を見失った生き方はゆるく進む自殺行為と同じです。 自分の人生・体を自らの手で壊し続けている生き方に早く気づいて止めてくださいね。 スピリチュアル〜三位一体・ワンネスをお伝えします。 人間社会(分離の世界)から見たスピリチュアルではなく、ワンネス(統合の世界)の世界からみた本当のスピリチュアルをお伝えしています。 心羽の視点からお伝え出来るスピリチュアルとワンネスの世界です。 2006年よりSoul Design 心羽を開設 透視ヒーリングを行う事でエネルギーをさらに深く理解し、元々持っていた科学・解剖生理学・進化論・哲学などの知識から宇宙のシステムが分かり独学で自分と繋がり「無」「ワンネス」を体験する。 独学で身につけた、科学・解剖生理学・進化論・哲学をエネルギーを元に紐解いた生き方でこの独自の方法は最も自分の能力を発揮し三位一体になれる方法。 透視やヒーリング、占いなどが「幸せ」や「豊か」から最も遠ざかり人間にとって最も大切な「人の内なる能力」「考える力」を失くす事が分かり透視ヒーリング・占いなどを一切やめ、2008年よりスクールを開講する。 より幸せになるには? 知るほどに大切なのは「自分とつながること」と、常に新しいものを発見しより早く簡潔に出来るよう現在も進化し続けている。 活動は金沢のみだが海外・県外からも問い合わせがあり、スクールを習いに来ている 「自分とつながること」を軸に 「無」「ワンネス・三位一体」の世界を教えている 追伸 そのお方の開け癖には一切意味はありません。 (もし意味があったら私はたぶん絶対に掃除しないw) 本人は綺麗好きですが汚かったからといって怒られるわけでもありません。 ただお茶目なだけ、そのお方なりのコミュニケーション(笑) 事前連絡をくれたので、都合が悪いと断ることもできたし、掃除しないでそのままという選択もできる。 そう思いながら、せっせとマッハのスピードで夜なべして掃除。 もちろん意味はありません 笑 そのお方はまさか行くと言ったら大掃除させるとは心にも思ってないでしょう… きっと知ったら来なくなるかもしれません。 どうしてこのお方が私に関わりを持ってくれるのか?私にはわかりません。 たぶん切っても切れないくされ縁 いつもこのお方に沢山沢山救われていることだけわかります。 人間って大変!そして面白い!!.

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