こう そん さん。 山沢損 四爻(さんたくそん よんこう)の解説 | 易経独学

孫晧(そんこう)とはどんな人?呉のラストエンペラー「暴君」の名をほしいままにしたが、実は…

こう そん さん

公孫瓚 伯珪 こうそんさん はくけい 姓名 公孫瓚 字 伯珪 生没年 ? - 199年 所属 魏 能力 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: 推定血液型 不明 諡号 --- 伝評 北方の勇将として知られ、劉備と共に兵学を学んだ群雄 主な関連人物 劉備 関連年表 186年 張純の乱 191年 奮武将軍・薊侯となる 193年 劉虞を破る 199年 易京の戦い 略歴 公孫サン サンは[王偏]に[賛] 、字を伯珪といい、遼西郡令支県の人である。 従弟に公孫範、公孫越、子は公孫続らがいる。 遼西郡の門下書佐に任命された。 容姿美しく大声の持主だったために、侯太守が秀れた人材だと認め、自分の娘と結婚させ、琢郡の盧植のもとにやって、経書を学ばせた。 後にふたたび郡の役人になった。 劉基太守が法律に触れ、廷尉のもとに連行された際、公孫サンは法律では下役人が近づくことを禁止していたが、衣服を変え、囚人車の従者となり、自身で雑役を引き受けてやった。 劉基が日南郡に流されることになると、公孫サンは米と肉をお供えとしてささげ、北芒山の上で先祖を祭り、盃をかかげて祈願して、先祖に別れを告げ、再拝して感情を激しくたかぶらせて立ち上がった。 このとき、そのありさまを見ていた者は、みなすすり泣いたのだった。 劉基太守は途中で赦免され帰還することができた。 公孫サンは孝廉に推挙され郎となり、遼東属国長史に任命された。 あるとき、数十騎をひきつれて城を出、辺境の砦を巡視し、数百騎の鮮卑族をみかけた。 公孫サンはそこで人気のない物見台の中に引き退き、部下の騎兵に、これを突破しなければ殺されてしまうとして脅しつけると、みずから矛を手に持ち、その矛の両側に刃をつけ、馬を走らせて出撃し、えびすを刺殺した。 数十人を殺傷したが、部下の半数が落命した。 こうして、のがれることができたのだった。 鮮卑族はこれに懲りて、その後、二度と国境を越えて侵入しようとはしなかった。 琢県の令に栄転した。 光和年間、涼州の賊徒が蜂起したとき、幽州の突撃騎兵隊三千人の出動を命じ、公孫サンに都督行事の割符を与えて、彼らを指揮させた。 軍隊がやってきたとき、漁陽の張純が遼西郡の烏丸族の丘力居らをひきこんで叛旗をひるがえし、属国の諸城を攻撃し、破壊を行なった。 公孫サンは配下をひきつれ、張純らを追撃し手柄をたて、騎都尉に昇進した。 属国の烏丸族の王が部族民をひきつれて公孫サンに降服した。 公孫サンは中郎将に昇進し、都亭侯にとりたてられ、前進して遼東属国に駐屯し、えびすと五、六年間にわたって攻防をくりかえした。 丘力居らが青州・徐州・幽州・冀州を荒らしまわったため、被害を被り、公孫サンは防ぎ止めることができなかった。 朝廷では、宗正の東海郡の劉虞は徳義あって、昔、幽州刺史として、恩恵と信義をゆきわたらせ、えびすたちも彼に心服しているゆえ、鎮撫できれば、兵を労さずに安定させられると判断し、劉虞を幽州牧に任命した。 劉虞は着任すると、反逆をつづける場合の利害を説いて、張純の首を送れと厳しく要求した。 丘力居らは、劉虞がやってきたことを喜んで、それぞれ通訳をさしつかわして、帰順を申し出た。 公孫サンは、劉虞の手柄を妨害するために、こっそり人をやって、えびすからの使者を待ち伏せして刺殺させた。 えびすのほうでは事情がわかると、間道づたいに劉虞のもとにやってきた。 劉虞は上表して、諸地の駐屯兵をひきあげ、ただ公孫サンのみを留めて、歩兵・騎兵一万をひきいて、右北平に駐屯させた。 張純はそこで妻や子を見捨てて、鮮卑族に逃げ込んだが、食客の王政に殺害され、その首は劉虞のもとに送りとどけられた。 劉虞は手柄によってすぐさま大尉に任命され、襄賁侯にとりたてられた。 ちょうどそのころ、董卓が洛陽に到着し、劉虞を大司馬に昇進させ、公孫サンを奮武将軍・薊侯にとりたてられた。 反董卓連合の義軍が決起すると、董卓は帝を脅迫して長安へ遷都した。 劉虞の子の劉和は侍中として、長安に滞在していた。 天子 帝 は、洛陽へ帰りたいと考え、劉和に董卓のもとから脱走したとみせかけ、実はひそかに武関から出て劉虞のもとへ赴き、軍隊をひきつれて自分を迎えにこいと命じた。 劉和は袁術の領内を通過する途中、彼に天子の意向を説明した。 公孫サンは袁術が二心を持っていることを見抜いていたため、軍隊の派遣を望まなかったが、劉虞は聞かなかった。 公孫サンは、袁術がこのことを聞き知って彼を怨むのを恐れ、彼も自分の従弟の公孫越に千騎をひきいさせ、袁術と手を結ぶ一方、内密に劉和を逮捕して、劉虞から派遣された軍勢を奪いとるよう策動した。 このことから劉虞と公孫サンはますます険悪になった。 袁術は孫堅を陽城に駐屯させて董卓にあたらせていたが、袁紹は周昂に命じてその陣地を奪取させた。 袁術は公孫越と孫堅を派遣して周昂を攻撃したが、公孫越は流れ矢に当たって戦死した。 公孫サンは激怒して、弟が死んだのは袁紹のせいだといい、袁紹に報復しようとした。 袁紹は恐れて、勃海太守の印綬を、公孫サンの従弟の公孫範に与え、友好関係を結ぼうとした。 ところが公孫範はそのまま勃海郡の兵をひきつれ公孫サンに助勢し、黄巾賊を打ち破って軍勢はますます強力となって、界橋まで進軍した。 袁紹は広川に陣地をおき、大将の麹義を先陣として公孫サンと交戦させ、公孫サン配下の厳綱を生け捕りにした。 公孫サンは勃海を敗走し、公孫範とともに薊に帰還した。 州庁のある薊で大きな城の東南に小さな城を造営させたが、劉虞の居所と接近していたため、次第に双方の敵意が深まった。 劉虞は、公孫サンが乱を起こすことを恐れ、ついに軍隊を動かして公孫サンを攻撃した。 しかし劉虞は打ち破られ、居庸に逃走した。 公孫サンは居庸を攻め落とし、劉虞を生け捕りにし、劉虞を捕虜として薊につれ帰った。 おりしも董卓が死んだため、天子は、使者の段訓をつかわして劉虞の所領を増やし、公孫サンは前将軍に昇進し、易侯にとりたてられた。 公孫サンは、劉虞が皇帝を名乗ろうとしていると誣告し、段訓を脅迫して劉虞を斬刑に処した。 かくして公孫サンは慢心し、人の過失は記憶にとどめ、善行は忘れ去って、多くの人々を毒牙にかけた。 劉虞の従事、漁陽郡の鮮于輔と斉周、騎都尉の鮮于銀らは、公孫サンに復讐せんとし、燕国の閻柔を烏丸司馬に推したてた。 閻柔は烏丸族と鮮卑族に誘いかけ、異民族・漢人あわせて数万を手に入れ、公孫サンの配下の鄒丹と交戦し、打ち破って鄒丹を斬り殺した。 袁紹のほうでも麹義と劉虞の子の劉和に軍兵を指揮させ、公孫サンを攻撃させた。 公孫サンはたびたび敗北を重ね、その結果易京に逃げ帰って、守備を固めた。 城壁を高くして土山を築き、物見の楼を築いた。 三百万石の穀物をたくわえ、そこに居住し、これを頼りながら袁紹の疲れを待つつもりだった。 袁紹は何年経っても陥落させることができなかった。 199年、袁紹は全軍をあげて公孫サンの守備する城を包囲した。 公孫サンは息子を使者に立てて黒山賊に救援を依頼させる一方、自分も突撃騎兵隊をひきいて、一気に包囲を突破し、冀州を抑えて袁紹の背後を断ち切ることを考えた。 長史の関靖が公孫サンを諌めて、篭城して袁紹が撤退するのを待つように進言した。 公孫サンはけっきょく出撃を中止した。 公孫サンは、黒山賊の救援が到着したならば、内外から袁紹を攻撃するつもりで、期日を定めて、のろしをあげて知らせよ述べた。 しかし、袁紹の斥候がその手紙を手に入れ、約束の期日にのろしをあげた。 公孫サンは救援隊が来たものと思いこんで、そのまま出撃したが、袁紹は伏兵を設けて、さんざんにこれを打ち破ったため、公孫サンは引き返して守備を固めた。 袁紹は地下道を掘って、その城楼を突きくずし、だんだんと公孫サンへと近づいた。 公孫サンは敗北をまぬがれぬと悟り、その妻子を殺害したのち、自殺した。 享年不明。 評価 『献帝春秋』によると、公孫サンは薊城が崩壊する夢をみて、自分が必ず敗北することを悟った。 そこで密使を派遣して、息子の公孫続に手紙を送った。 袁紹の斥候がそれを手に入れ、陳琳にその手紙を一部書き直させ、送り届けた。 このことが敗北の結果に繋がったのであった。 高い物見の楼を四桁ほど作り、公孫サンはそこで居住しながら、公文書さえも紐を使ってやりとりをして、直接配下と面識することはなかった。 こうしたことから、公孫サンは、袁紹に包囲されて以来、恐怖していたのであった。 裴松之の評では、公孫サンは黄巾賊を打ち破った勢いに乗って、野心を大きくふくらませ、三州に刺史を「置き、袁紹を討ち滅ぼそうと計画した。 敗北を招いたのは当然である」としている。 公孫サンは武勇に優れ白馬に乗っていた。 また降伏させた烏桓族から、騎射のできる兵士を選りすぐって白馬に乗せ「白馬義従」と名づけたので、異民族から「白馬長史」と恐れられた。 当時としては卑しい身分とされていた商人を重用し、交易などで多大な成果を上げ、莫大な利益を得ていた。 逸話 公孫サンは、役人の家の子弟に優秀な人材がいると、決まって故意に困窮に陥れ、凡庸な者を重用した。 公孫サンは「役人の家の子弟や立派な人物を取り立てて、彼らを富貴にしてやったとしても、自分がそのような官職につくのは(名声や実力から見て)当然だと考え、わしがよくしてやっていることに対して感謝しないだろう」と理由を挙げている。 このことが「名士を軽んじて、つまらない身分の人物を重用した」と非難されているが、袁紹との戦いにおいて名士たちがこぞって名門の出である袁紹を支持した事もあって、人間不信に陥ったという側面もあり、公孫サンばかりを責めるべき問題ではなかった。 一説では、公孫サンの生母が下賎の出で、彼が少年時代に有力豪族であった実父に疎まれた家庭環境の複雑な事情があった見方も窺える。

次の

公孫瓚 こうそんさん 後漢伝

こう そん さん

加藤大岳述 山風蠱 五爻 <説明の要点> 五爻は君の位ですが、これは陰爻なので柔中の君です。 蠱の時ですから、この爻も父の蠱を幹すわけですが、他の爻と違って蠱を上手く正すことができ、それが上手く運ばれ、名誉を得るのです。 五爻は賢明な太子で、蠱の時、死んだ父が遺していったやぶれを継承するのですが、幸い中の徳を持っているので、上手く治めていくことができるのです。 変ずると「巽為風」となりますが、これは風が二つ重なった卦です。 ですから風がその性能を最も働かせる時……万物に触れて新鮮な気をもたらしていくという流通無害の働きをします。 その結果、今まで蠱が悩みに悩み抜いていた「流通しない」という重くるしさを、さらりと吹き飛ばし、明朗にしてくれます。 それを「蠱を幹す。 用て誉れあり」としています。 蠱というのは初めから、このように流通するようになる事を目標としていたわけですから、誉れがあるのです。 ( 加藤大岳述 易学大講座 現代語要訳).

次の

公孫瓚(こうそんさん)とは

こう そん さん

朱儁の敗北 192年1月、 董卓 ( とうたく )は 牛輔 ( ぎゅうほ )を 司隷 ( しれい )・ 弘農郡 ( こうのうぐん )・ 陝県 ( せんけん )に駐屯させ、 司隷 ( しれい )・ 河内尹 ( かなんいん )・ 中牟県 ( ちゅうぼうけん )で挙兵した 朱儁 ( しゅしゅん )の攻撃を命じました。 牛輔 ( ぎゅうほ )は 李傕 ( りかく )・ 郭汜 ( かくし )・ 張済 ( ちょうせい )に歩騎数万を与えて攻撃を開始。 朱儁 ( しゅしゅん )を撃ち破ります。 李傕 ( りかく )らはさらに 兗州 ( えんしゅう )・ 陳留郡 ( ちんりゅうぐん )、 豫州 ( よしゅう )・ 潁川郡 ( えいせんぐん )の諸県に侵出して略奪暴行を行ったため、多くの民が犠牲になりました。 豆知識 荀彧の先見の明 董卓 ( とうたく )が朝廷の実権を握ると、 兗州 ( えんしゅう )・ 任城国 ( にんじょうこく )・ 亢父県 ( こうほけん )の 県令 ( けんれい )を務めていた 荀彧 ( じゅんいく )は、「 潁川郡 ( えいせんぐん )はきっと大変な 戦禍 ( せんか )に見舞われるだろう」と思い、官職を捨てて故郷の 豫州 ( よしゅう )・ 潁川郡 ( えいせんぐん )・ 潁陰県 ( えいいんけん )に帰って村人たちに避難を呼びかけました。 ちょうどその頃、同じく 潁川郡 ( えいせんぐん )出身の 冀州牧 ( きしゅうぼく )・ 韓馥 ( かんふく )が騎兵を派遣して村人たちを迎えに来ましたが、多くの村人たちは故郷を離れようとせず、ただ 荀彧 ( じゅんいく )だけが一族を連れて 冀州 ( きしゅう )に向かいました。 潁川郡 ( えいせんぐん )に残った人々はその後、この時 朱儁 ( しゅしゅん )を攻撃した 李傕 ( りかく )・ 郭汜 ( かくし )、 張済 ( ちょうせい )らの略奪を受け、犠牲になりました。 スポンサーリンク 界橋の戦い 董卓 ( とうたく )による 朱儁 ( しゅしゅん )討伐が行われている頃、 公孫瓚 ( こうそんさん )が 袁紹 ( えんしょう )への攻撃を再開します。 戦いに至る経緯 191年(8月〜10月頃)、 袁紹 ( えんしょう )が 豫州 ( よしゅう )の 袁術 ( えんじゅつ )( 孫堅 ( そんけん ))を攻撃した際、 公孫瓚 ( こうそんさん )が 袁術 ( えんじゅつ )の元に派遣していた 公孫越 ( こうそんえつ )が流れ矢に当たって戦死。 これを 恨 ( うら )みに思った 公孫瓚 ( こうそんさん )は 袁紹 ( えんしょう )の罪状を上奏して 磐河 ( ばんが )に出陣します。 すると、 豫州 ( よしゅう )での敗北に追い打ちをかけるような 公孫瓚 ( こうそんさん )の来襲にまともに戦えないと見た 袁紹 ( えんしょう )は、 公孫瓚 ( こうそんさん )の 従弟 ( いとこ )の 公孫範 ( こうそんはん )に 勃海太守 ( ぼっかいたいしゅ )の 印綬 ( いんじゅ )を送って和睦を 図 ( はか )りました。 そんな時、 青州 ( せいしゅう )の黄巾賊30万が 冀州 ( きしゅう )・ 勃海郡 ( ぼっかいぐん )に侵攻します。 191年11月のことです。 勃海太守 ( ぼっかいたいしゅ )となった 公孫範 ( こうそんはん )の助力を受けた 公孫瓚 ( こうそんさん )は黄巾賊を散々に撃ち破ると、数万の投降兵と多くの物資を得て益々勢いを増しました。 関連記事 界橋の戦い 192年1月、 青州 ( せいしゅう )の黄巾賊を 討 ( う )った 公孫瓚 ( こうそんさん )は、満を 持 ( じ )して 冀州 ( きしゅう )への侵攻を再開します。 すると、 公孫瓚 ( こうそんさん )が侵攻を開始したことを知った 冀州 ( きしゅう )の高級官吏たちは、次々に門を開いて 公孫瓚 ( こうそんさん )軍を受け入れていきます。 そして 公孫瓚 ( こうそんさん )が 冀州 ( きしゅう )・ 鉅鹿郡 ( きょろくぐん )・ 広宗県 ( こうそうけん )に駐屯すると、 袁紹 ( えんしょう )は 自 ( みずか )ら迎撃の兵を 率 ( ひき )いて 界橋 ( かいきょう )の南方20里(約8km)に布陣しました。 界橋 ( かいきょう )の戦いのはじまりです。 界橋 ( かいきょう ) 界橋 ( かいきょう )とは、 清河国 ( せいがこく )と 鉅鹿郡 ( きょろくぐん )の境界を流れる 清河 ( せいが )に 架 ( か )けられた橋のことです。 豆知識 朱霊の忠義 公孫瓚 ( こうそんさん )軍が 清河国 ( せいがこく )に侵入すると、 清河国 ( せいがこく )の 季雍 ( きよう )は 公孫瓚 ( こうそんさん )に降伏して 鄃県 ( ゆけん )を明け渡しました。 この時 袁紹 ( えんしょう )に 鄃県 ( ゆけん )の奪還を命じられたのが 朱霊 ( しゅれい )です。 公孫瓚 ( こうそんさん )が城中にいた 朱霊 ( しゅれい )の母と弟を城壁の上に立たせて 朱霊 ( しゅれい )に投降を誘うと、 朱霊 ( しゅれい )は城壁を見上げて涙を流しながら言いました。 「男がひとたび主君に仕えたからには、家族を 顧 ( かえり )みることはできません…」 その後 朱霊 ( しゅれい )は奮戦して 鄃県 ( ゆけん )を攻め落とし、 季雍 ( きよう )を生け捕りにしましたが、 朱霊 ( しゅれい )の家族は全員殺されてしまいました。 このエピソードは 界橋 ( かいきょう )の戦いの後の出来事の可能性もあります。 董昭の知恵 袁紹 ( えんしょう )が 公孫瓚 ( こうそんさん )を 界橋 ( かいきょう )に迎え撃った時のこと。 鉅鹿太守 ( きょろくたいしゅ )・ 季邵 ( りしょう )をはじめ郡の役人がみな 公孫瓚 ( こうそんさん )に従おうとしていることを知った 袁紹 ( えんしょう )は、 董昭 ( とうしょう )を 鉅鹿太守 ( きょろくたいしゅ )に任命して対応させました。 鉅鹿郡 ( きょろくぐん )に赴任した 董昭 ( とうしょう )は、まず郡の役人の意見に同調して内情を探ります。 そして、郡の豪族である 孫伉 ( そんこう )ら数十人が中心となって官吏・人民を惑わせていることを知った 董昭 ( とうしょう )は、 袁紹 ( えんしょう )の命令書を偽造して全員を捕らえて処刑しました。 この機転によって 董昭 ( とうしょう )は 鉅鹿郡 ( きょろくぐん )の離反を防ぐことに成功し、 袁紹 ( えんしょう )は彼を称賛しました。 麴義 ( きくぎ )が 白馬義従 ( はくばぎじゅう )を破る 界橋 ( かいきょう )の戦いの様子は、 『 魏書 ( ぎしょ )』 袁紹伝 ( えんしょうでん )の注に引かれている 『 英雄記 ( えいゆうき )』に詳しく記されています。 公孫瓚 ( こうそんさん )が歩兵3万で方陣を 敷 ( し )き、その左右に 白馬義従 ( はくばぎじゅう )を主力とする騎兵5千騎ずつを翼のように布陣すると、対する 袁紹 ( えんしょう )は先鋒として 麹義 ( きくぎ )に800の兵を与え、その両側に1千張の 弩 ( ど )兵を続かせました。 袁紹 ( えんしょう )はそのさらに後方に数万の兵で陣取ります。 界橋 ( かいきょう )の戦い布陣図 公孫瓚軍• 歩兵3万( 厳綱 ( げんこう ))• 騎兵5千( 白馬義従 ( はくばぎじゅう ))• 公孫瓚 ( こうそんさん )本営 公孫瓚 ( こうそんさん )軍の両翼を 担 ( にな )う 白馬義従 ( はくばぎじゅう )は 騎射 ( きしゃ )に優れた者を選んだ白馬の部隊で、左右から交差するように 射 ( い )る十字砲火を得意とし、蛮族たちに大変恐れられていました。 袁紹軍• 歩兵800( 麴義 ( きくぎ ))• 弩 ( ど )兵500• 袁紹 ( えんしょう )本営数万 袁紹 ( えんしょう )の先鋒を務める 麹義 ( きくぎ )は、長らく 涼州 ( りょうしゅう )にいて 羌族 ( きょうぞく )の戦法を熟知する勇敢な精鋭部隊です。 敵の先鋒が少ないことを見て取った 公孫瓚 ( こうそんさん )は、一気に蹴散らしてしまおうと自慢の 白馬義従 ( はくばぎじゅう )に突撃を命じます。 ですが、 麹義 ( きくぎ )隊は全員 楯 ( たて )の下に身を隠して動こうとしません。 そして敵が数十歩のところまで近づいたその時、一斉に立ち上がって大声をあげながら前進し、強力な 弩 ( いしゆみ )を 射 ( い )かけると、 白馬義従 ( はくばぎじゅう )は次々に撃ち倒されていきます。 麹義 ( きくぎ )隊はさらに大混乱に 陥 ( おちい )った 公孫瓚 ( こうそんさん )軍に襲いかかり、 冀州刺史 ( きしゅうしし )・ 厳綱 ( げんこう )をはじめ、千人余りを討ち取りました。 公孫瓚の敗北 麹義 ( きくぎ )隊が追撃を開始すると、統制を失った 公孫瓚 ( こうそんさん )軍は本営と合流すべく 界橋 ( かいきょう )に殺到。 橋の上で 公孫瓚 ( こうそんさん )軍の 殿 ( しんがり )が迎え撃ちますが、 麹義 ( きくぎ )隊はこれも撃破しました。 公孫瓚 ( こうそんさん )軍の本営に到達した 麹義 ( きくぎ )隊はついに 牙旗 ( がき )(大将旗)の立てられた軍門を突破し、 公孫瓚 ( こうそんさん )軍はちりじりになって敗走します。 袁紹 ( えんしょう )の危機 この時 袁紹 ( えんしょう )はほぼ全軍を追撃にあたらせ、自軍の後方、 界橋 ( かいきょう )から十数里のところで防備も設けず、ただ数十張の 弩 ( ど )隊と 大戟 ( おおほこ )を手にした100人あまりの兵だけが従うのみとなっていました。 そして、勝利を確信した 袁紹 ( えんしょう )が馬の 鞍 ( くら )を外してくつろぎ始めたその時、体勢を立て直した 公孫瓚 ( こうそんさん )の騎兵2千騎余りが突如来襲し、 袁紹 ( えんしょう )を包囲して矢を 射 ( い )かけてきます。 別駕従事 ( べつがじゅうじ )の 田豊 ( でんほう )が急いで避難させようとすると 袁紹 ( えんしょう )は、 「大丈夫たる者は突き進んで討ち死にするものだ! 垣 ( かき )の隙間に逃げ隠れして生き延びることなどできようかっ!」 と言って 兜 ( かぶと )を地面に叩きつけました。 ですが、まさかこんな小隊に 袁紹 ( えんしょう )がいるとは思っていない 公孫瓚 ( こうそんさん )の騎兵部隊は、 麹義 ( きくぎ )隊が救援に駆けつけると戦わずに兵を引いたので、 袁紹 ( えんしょう )は九死に一生を得ることができました。 一方、 界橋 ( かいきょう )の戦いに敗れた 公孫瓚 ( こうそんさん )は、そのまま 幽州 ( ゆうしゅう )・ 広陽郡 ( こうようぐん )・ 薊県 ( けいけん )まで撤退しました。 豆知識 程昱の知謀 まだ 袁紹 ( えんしょう )と 公孫瓚 ( こうそんさん )が友好関係にあった頃のこと。 袁紹 ( えんしょう )は 兗州刺史 ( えんしゅうしし )・ 劉岱 ( りゅうたい )の元に 妻子を預け、 公孫瓚 ( こうそんさん )は 従事 ( じゅうじ )・ 范方 ( はんほう )と騎兵を派遣して 劉岱 ( りゅうたい )を援助していました。 袁紹 ( えんしょう )と 公孫瓚 ( こうそんさん )が仲違いすると、 公孫瓚 ( こうそんさん )は 劉岱 ( りゅうたい )に 袁紹 ( えんしょう )の 妻子を引き渡すように要求し、もし断ったならば、 范方 ( はんほう )と騎兵を帰還させることを通告しました。 劉岱 ( りゅうたい )はどのように対応するべきか協議を重ねましたが、決心がつきません。 そこで 別駕 ( べつが )の 王彧 ( おういく )は、知謀の持ち主として名高い 東郡 ( とうぐん )の 程昱 ( ていいく )に相談することを提案します。 程昱 ( ていいく )は言いました。 「 公孫瓚 ( こうそんさん )は 袁紹 ( えんしょう )の敵ではありません。 今、 公孫瓚 ( こうそんさん )は 袁紹 ( えんしょう )軍を破りましたが、最後は 袁紹 ( えんしょう )に敗北するでしょう」 劉岱 ( りゅうたい )は 程昱 ( ていいく )の進言に従い、 范方 ( はんほう )は騎兵を 率 ( ひき )いて 公孫瓚 ( こうそんさん )の元に帰りましたが、到着する前に 公孫瓚 ( こうそんさん )は 袁紹 ( えんしょう )に敗れました。 また、 劉岱 ( りゅうたい )は 程昱 ( ていいく )を 騎都尉 ( きとい )に推薦しましたが、 程昱 ( ていいく )は病気を理由にこれを断りました。 もう一つの界橋の戦い 界橋 ( かいきょう )の戦いについては、 『 後漢書 ( ごかんじょ )』 袁紹伝 ( えんしょうでん )でも 『 英雄記 ( えいゆうき )』とほぼ同じ内容になっていますが、 『 魏書 ( ぎしょ )』 公孫瓚伝 ( こうそんさんでん )には次のような記述もありますので、ご紹介しておきます。 公孫瓚 ( こうそんさん )は 青州 ( せいしゅう )と 徐州 ( じょしゅう )の黄巾を賊を撃ち破り、軍勢はますます強力となって 界橋 ( かいきょう )まで進軍した。 袁紹 ( えんしょう )は 広川 ( こうせん )に陣地を置き、大将の 麹義 ( きくぎ )を先陣として 公孫瓚 ( こうそんさん )と交戦させ、 厳綱 ( げんこう )を生け捕りとした。 出典: 『正史 三国志2』ちくま学芸文庫 65ページ スポンサーリンク 公孫瓚はなぜ敗れたのか この 界橋 ( かいきょう )の戦いにおいて不思議に思うのは、 公孫瓚 ( こうそんさん )自慢の 白馬義従 ( はくばぎじゅう )・1万が、歩兵・ 弩 ( ど )兵合わせてたった1,800の 麹義 ( きくぎ )隊にいとも簡単に敗れてしまったことです。 敵の5倍という圧倒的な兵力差がありながら、 白馬義従 ( はくばぎじゅう )はなぜ敗れてしまったのでしょうか。 袁紹が少数の麹義を先鋒にした理由 今回の戦いのように 各々 ( おのおの )陣を構えて正面から戦う場合、まずお互いに自軍の威容を示して相手の士気を 挫 ( くじ )くことから始まります。 そのため 公孫瓚 ( こうそんさん )は、北方異民族の討伐で勇名を 馳 ( は )せた 白馬義従 ( はくばぎじゅう )を前面に押し立てて、相手を威圧したのです。 一方 袁紹 ( えんしょう )は 韓馥 ( かんふく )から 冀州 ( きしゅう )を奪ったばかりであり、その数万の兵はおそらく、 公孫瓚 ( こうそんさん )が黄巾賊を討伐している間にかき集めた寄せ集めの兵であったと思われます。 そのような兵を 白馬義従 ( はくばぎじゅう )の前に立たせれば、兵たちは 白馬義従 ( はくばぎじゅう )の勇名を恐れて一気に戦意を 喪失 ( そうしつ )してしまう恐れがあります。 そのため 袁紹 ( えんしょう )は、敵を恐れない少数の精鋭部隊を先鋒にせざるを得なかったのです。 白馬義従はなぜ敗れたのか もし 公孫瓚 ( こうそんさん )が 白馬義従 ( はくばぎじゅう )の機動力と 騎射 ( きしゃ )の能力を 活 ( い )かし、 袁紹 ( えんしょう )軍を包囲しながら矢を 射 ( い )かけ、3万の歩兵部隊を押し上げていったならば、いくら 麹義 ( きくぎ )隊が精鋭と言えどもなす 術 ( すべ )がなかったかもしれません。 ですが、敵の先鋒が少数と見た 公孫瓚 ( こうそんさん )は 白馬義従 ( はくばぎじゅう )に号令し、 麹義 ( きくぎ )隊を踏みつぶしにかかりました。 確かにここで一気に 麹義 ( きくぎ )隊を撃ち破れば、数万の 袁紹 ( えんしょう )軍本隊の動揺を誘い、その後の戦いを有利に進めることができたでしょう。 公孫瓚 ( こうそんさん )のこの判断により、 麹義 ( きくぎ )に勝機が生まれました。 前述のように、 麹義 ( きくぎ )隊は全員 楯 ( たて )の下に身を隠し、敵が数十歩のところまで近づくと、一斉に立ち上がって大声をあげながら前進して強力な 弩 ( いしゆみ )を 射 ( い )かけました。 馬は元々とても神経質で臆病な動物です。 ただの障害物だと思っていたもの( 楯 ( たて )の下に身を隠した兵)が、急に立ち上がって大きな声を出したのですから、多くの馬は驚いて制御が 効 ( き )かなくなり、 弩 ( いしゆみ )の 恰好 ( かっこう )の 的 ( まと )となってしまったのです。 そして、主力であり精神的支柱でもあった 白馬義従 ( はくばぎじゅう )が敗れたことによって、 公孫瓚 ( こうそんさん )軍は総崩れとなってしまいました。 これは、長らく 涼州 ( りょうしゅう )にいて 羌族 ( きょうぞく )の戦法や馬の性質を熟知していた 麹義 ( きくぎ )がいたからこそ得ることができた勝利だと言えます。 巨馬水の戦い 勢いに乗った 袁紹 ( えんしょう )は 幽州 ( ゆうしゅう )・ 涿郡 ( たくぐん )に侵入し、配下の 崔巨業 ( さいきょぎょう )に数万の兵を与えて 故安県 ( こあんけん )を包囲させましたが、 崔巨業 ( さいきょぎょう )は落とすことができず包囲を 解 ( と )いて南に撤退しました。 崔巨業 ( さいきょぎょう )の軍勢が 巨馬水 ( きょばすい )に差しかかった時、 公孫瓚 ( こうそんさん )の歩騎3万の軍勢が襲いかかります。 公孫瓚 ( こうそんさん )は 崔巨業 ( さいきょぎょう )を散々に撃ち破り、死者は7〜8千人にのぼりました。 そして 公孫瓚 ( こうそんさん )は勝利に乗じてそのまま南進を続け、 青州 ( せいしゅう )・ 平原国 ( へいげんこく )まで到達して 青州刺史 ( せいしゅうしし )・ 田揩 ( でんかい )に 青州 ( せいしゅう )・ 斉国 ( せいこく )を占拠させました。 巨馬水 ( きょばすい )の戦い 誰もが 公孫瓚 ( こうそんさん )の勝利を疑っていなかった 界橋 ( かいきょう )の戦いは、 麹義 ( きくぎ )隊の大活躍によって 袁紹 ( えんしょう )軍の大勝利に終わりました。 敗北した 公孫瓚 ( こうそんさん )は 冀州 ( きしゅう )を放棄して 幽州 ( ゆうしゅう )・ 広陽郡 ( こうようぐん )・ 薊県 ( けいけん )まで撤退します。 勢いに乗った 袁紹 ( えんしょう )軍はそのまま 幽州 ( ゆうしゅう )・ 涿郡 ( たくぐん )に侵入して 故安県 ( こあんけん )を包囲しますが、落とすことはできず、逆に 公孫瓚 ( こうそんさん )の追撃にあって敗北しました。 そして、今度は 公孫瓚 ( こうそんさん )が郡県を攻め落としながら南下。 冀州 ( きしゅう )・ 平原国 ( へいげんこく )まで勢力を広げ、 界橋 ( かいきょう )の戦い以前の勢力を回復しました。 スポンサーリンク.

次の