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実録 名古屋 やくざ 戦争 統一 へ の 道

概要 [ ] 、に於いてそれ以前までは主流であったの廃退により、はを製作し、成功を収めた。 それらは主にやが主演であり、「」、「」、「」などの代表作は、任侠をテーマにし正義が悪を倒すという、時代劇のころから受け継がれた単純なストーリーであった。 しかしに公開された主演・監督の『』はそれまでとは違い、実際に起こったでの抗争事件の当事者の一人が書いた手記をベースとしたを原作としており 、大ヒットした。 当時の東映のヤクザ映画は 実録映画、 実録路線と呼ばれた。 「実録」という呼称 [ ] こうした「 実録」という呼称は、のの実態を克明に描写したの『』あたりから用いられるようになった、と書かれた文献もあるが 、『バラキ』と『仁義なき戦い』第一作の公開は1ヵ月しか違わず、『キネマ旬報』1972年11月下旬号の『バラキ』の特集でも「実録」という言葉は使われていない。 1972年7月に『』が日本で公開されて間もなく、の社長が「『ゴッドファーザー』は、を大掛かりにしただけの作品。 事実を避けて通らず、克明に描いたところに大衆を引きつける魅力がある。 便乗企画といわれればそれまでだが、東映でも日本版マフィア映画を作るべきだ」と指示し、"和製ゴッドファーザー"として『仁義なき戦い』の製作を決定した。 これが日本の「実録ヤクザ映画」の実質的なスタートであるが 、『』1972年9月下旬号の「世界の映画作家」という記事で岡田は「時代の動きに応じて変わっていくが1972年の今求められているのは"実話性"の強いものではないか。 『ゴッドファーザ』にしてもしかり。 私は"実態映画"という名で呼ぶが、こういうものはスターシステムとは別の魅力が発揮される。 東映でもこうした"実態映画"を大作の構えで作っていきたい。 小さな作品にしたのでは魅力はない。 同じやくざものでも『』のような作品はスターを並べた伝統的なものとして今後もつくり、一方で『仁義なき戦い』のようなものを大がかりに撮って行きたい。 政界を題材にするのもいい、警察内部の実態でもいい、週刊誌で話題になるバーの内部も面白いだろう。 これなどは新しい形の"女性映画"になりうると思う」などと話し、この時点で、この後展開される「東映実録路線」のコンセプトを既に着想しており、さらに『キネマ旬報』1972年10月上旬号のインタビューでは「私は日本のには限界があると思う。 実際のがいないのだから、現実と虚構の接点が薄いわけだ。 のそれをマネても当たらない。 土壌が違うんで観客がバカにしちゃってる。 日本のアクションは日本の中にあるものから考えなければならない。 私もいろいろやったがやはり当たらなかった。 欧米と日本ではヤクザの実態が違い過ぎるんだ」などと話しており 、「」から「実録映画」への転換を構想していた。 1972年春の看板スター・の引退で、「任侠映画」に翳りが見え 、路線転換に悩んでいた岡田が暗中模索の中で閃いたのが「実録路線」「実録シリーズ」であった。 このインタビューでは岡田は"実録"という言葉は使っていないが、1972年9月1日に東映がに『仁義なき戦い』の脚本執筆を依頼したとき 、笠原は「"実録"という言葉を初めて聞いた。 それで会社はいよいよをやるのかと思った」と話しており 、『ゴッドファーザー』が日本で公開された1972年7月から間もない同年夏の時点で、東映の関係者は"実録"という言葉を使っていたと考えられる。 用語として定着するのは1972年11月21日に東映本社で『仁義なき戦い』の製作発表が行われ 、"実録映画路線"の第一弾として発表してからで 、「従来の任侠映画的なヤクザを美化したものでなく、実録の持つ迫力をドキュメンタリー・タッチのドラマとして、ヤクザの裏面を衝撃的に描く」と説明した。 1972年の暮れから『仁義なき戦い』第一作の公開が近づくにつれ、何枚もの宣伝、アド などを製作して、新聞に掲載したり、劇場内に次回作告知として貼り付けたが 、このポスターなどに、"実録シリーズ第一弾"、"日本の実録超大作"などと惹句()を入れて盛んに煽った。 実録ものは、覗き見趣味的な効果もあり、異様なパワーを持って観客に新鮮な感覚を与えた。 実録路線 [ ] 『仁義なき戦い』の大ヒットにより、岡田社長が「実録路線」第二弾として、主演映画に『』というタイトルを付け 、これもヒット。 ヤクザ映画のタイトルに「実録」という呼称が入ったのはこれが最初。 映画のタイトルに「実録」という言葉が入った映画は、戦前には多かったが 、戦後はあまり使われていなかった。 岡田は強力な抵抗を押し切って 、これらを「実録路線」としてシリーズ化し、「任侠映画」からの転換を図り 、以降も実録ヤクザ映画が量産され 、「実録」という言葉も一気に普及する。 『』1983年1月号の「実録/戦後日本映画史 人と事件とー最終回 任侠・実録で血路を開いた東映・岡田」という記事で、「映画史に一時期を画した東映の任侠映画もすでに下降線を迎え、それを象徴するかのように任侠映画の女王・が1972年3月公開の『』を最後に引退、スクリーンから消えていった。 それは任侠路線の終焉ともいうべき出来事であった。 また社内的には最盛期に肥大化した製作現場と製作要員の縮小という大きな問題もあって、好調を続けてきた東映が初めて直面する苦難のときでもあった。 このとき任侠路線につぐ"実録路線"を考え出したのは新社長の岡田茂である。 岡田は『日本映画界の最大の危機は1971年から1974年の三年間で、全部ダメになると思ったよ。 それから10年間は各社とも体質改善に励んでどん底から這い上がり、それぞれに生きる道を身に着けた。 ウチも落ち目になった任侠路線の次の手をと苦しんでいたとき、新人のライター(?)が書いた毛色の変わったシナリオが目についたんです。 ある組織暴力の実態をモデルにしたもので、ナマの迫力があった。 そのころの『ゴッドファーザー』が大当たりで、の『』や『』といったマフィアの暴露物が話題になっていた。 実在の暴力団をモデルにしているので、ちょっと危険はあるがとにかくやってみようというので、監督に深作欣二を起用して、まず第一作として作らせたのが『仁義なき戦い』で、これがヒットしたので実録路線でゆこうということにしたわけだ』とそのいきさつを語っている」と書かれている。 1973年1月13日に公開された『仁義なき戦い』は大ヒットにより、当時の東映では珍しいが実施され、1973年2月2日までの三週間興行だった。 岡田が「実録 路線」という言葉を使ったのは『仁義なき戦い』公開中と見られる1973年1月後半か2月頭のことで 、『』1973年2月12日号の記事で「"実録路線"は、やくざものとはかぎらない」と話しており 、『仁義なき戦い』は公開前より続編の制作が決定していたともいわれ 、つまり1973年に実録映画のヒットが続いたから「実録路線」を敷いたのではなく、『仁義なき戦い』がヒットしたら「実録映画」を路線化しようと決めていたものと見られる。 興味深いのは"岡田茂の『事件が起きたら即、映画』術"と評されるように 、当時の複数の記事で岡田が、を扱う『実録・プロ野球・黒い霧事件』 、『実録・連合赤軍』 、『実録大映興亡史』 、有名な『』 などを企画している、と話していることである。 『実録大映興亡史』はのの功績を讃えつつ、真の目的は、いずれの時代が来るとが不足すると読み 、テレビでまだ未放映の『』を始め、多くの名作を持つ会社中だった大映の旧作のを安く買い叩けないか企んでいたといわれる。 これは岡田が「実録ヤクザ映画」だけでなく「実録犯罪映画」などを含めて、範囲の広い「実録映画」の量産を最初は考えていたものと推察されるが、「実録ヤクザ映画」より「実録犯罪映画」などの方が製作に当たって問題が大きかったため、上記の企画を後回しにし、大きな支持を得た「実録ヤクザ映画」の製作を押し通したものと見られる。 東映実録映画の歴史 [ ] 「実録映画」というと通常は「実録ヤクザ映画」や「実録犯罪映画」、有名な事件やイベント、人などの内幕を描く映画をイメージすることが多いが 、岡田は「実録犯罪映画」「実録猟奇犯罪映画」()のパイオニアでもある()。 戦前さかんに作られたといわれる「実録犯罪映画」は 、戦後各社娯楽性の高い映画が量産され、あまり作られなかった。 東映も娯楽時代劇を量産したため手を出さなかったが 、1965年半ば以降、岡田が時代劇をヤクザ映画やエログロ映画に転換する過程で、企画として挙げてきた。 岡田のプロデュース三作目は、がをヒントに執筆したといわれる『』の映画化、1951年の『』で、早い時期に実録犯罪ものに興味を持っていた。 こうした小説由来ではないオリジナルの「実録犯罪映画」は、東映ではを扱った1966年3月公開の『女犯破戒』(主演・監督)が最初。 これは実録ものをやろうとして挙げた企画ではなく、好色路線()の一つとして思いついたものであった。 次がとを敷いた際に企画した1969年8月公開の『』。 『猟奇女犯罪史』の製作を伝える当時の1969年8月21日の記事に「史実を再現した異色作!! 五大犯罪事件に見る愛欲の陰惨な様相」「『猟奇女犯罪史』で実 話路線なるものの先鞭をつけた」などの記述が見られ 、1969年7月30日には「東映、"実 話路線"へ 第一弾は『猟奇女犯罪史』東映が㊙シリーズにかわって、新しく女の本性を描く、"実話路線"を打ち出した」などと書かれている。 『明治大正昭和 猟奇女犯罪史』は、後のの再現フィルムに影響を与えたと評価され 、今日、映画は勿論、テレビのでもよく扱われる"実録犯罪もの"とハシリといわれる。 また同じ1969年秋の『』製作を伝える記事に「東映は刺激路線から、 実話路線に切り変え『日本暗殺秘録』がこのほどクランクイン」 、「八つの事件、 実録風に」という記述が見られ。 「東映では明年(1970年)五月に『 実録二・二六事件』という作品も企画しており…」という記事が見られる。 『日本暗殺秘録』は、岡田が「を控えて映画も時代に即応した強度のが受けるはず。 の次回作『』でさえ、"ゲバふう"のムードを取り入れるつもりだ」などと打ち出した「暴力路線」「ゲバルト路線」の第一弾であった。 岡田は当時、東映映画の製作・配給・興行の全ての責任者だった。 また文中に"実録"とは書かれていないが1968年夏の複数の文献に「ヤクザ映画もやります、お色気も…というゴッタ煮商法のプランナー・東映岡田茂常務 製作本部長 が『ああ全学連』を企画している」などという記事があり 、岡田は「世界に勇名を馳せたと、いまの世界的なね、これを背景にしたの第二次黄金時代を正面から取り上げようと思ったんです... 特定のに捉われず、あくまでも中立的な立場でいきたい。 したがって派閥関係にも細心の注意を払いたい。 全学連をひとつの若いエネルギーの表れとして捉えてみたい。 さんの死とか、騒動のあと別の人生をたどった者もいる... やはりドラマは必要だと考えなおしているとこ... 今や"ゼンガクレン"は、フジヤマ、ゲイシャと並んで、世界に冠たるニッポン名物。 『ゼンガクレン』というタイトルで海外にも輸出できる。 公開は来年(1969年)6月を予定。 監督は"闘士"の、キャストはを中心に組むつもりだ」などと話しており 、1960年代後半に、既に"実録犯罪路線"を実施していた。 は実録路線の転換ではなく「任侠路線から政治路線への転換か?」と書いている。 つまり1973年の『仁義なき戦い』の大ヒットで実録路線を思いついたのではなく、実録路線は元からやっていたが、「実録ヤクザ映画」がウケたため、これはいけると「実録ヤクザ映画」を路線化したのである。 岡田東映社長は、"実録もの"がマスコミの話題になりやすいことから 、しきりに「実録ものを作れ」と指示した。 マスコミの話題にはなったが、トラブルも続出し 、ある"実録もの"を見て本気で怒った暴力団関係者が、東映映画の責任は社長にあると 、「岡田茂を殺しに行く」という物騒な話が出て、がビックリして知り合いに頼んで収めてもらったこともあるという。 「仁義なき戦いシリーズ」のキャメラマン・吉田貞次は、「実録やくざ映画は岡田茂社長の考え方がすごく入ってる。 さんが生きていたら実録やくざ映画は生まれなかったでしょう。 そこそこは、やったかもしれないけど、あんな極端には、やらせなかっただろうと思う」と述べている。 岡田は、「実録路線でいこうと。 何となくそういう勘があった。 でも実在の親分をコケにするような場面もあって、よくやれたなと思うね」などと話している。 実録映画が量産できたのは岡田がと仲がよかったためで 、実録映画の脚本を多数手掛けたは「『あいつぶちのめす』といわれたこともあったけど、僕の場合は東映が守ってくれた。 田岡一雄さんが壁になってくれたんです」と述べている。 「実録路線」の旗手となったのはであった。 深作は戦後史に対して強い問題意識を持っていた。 東映実録路線全般が凡庸なヤクザ映画に堕することなく、時代を撃つような批判力を持つ物になったのも、戦後史の底辺に流れていた物を掴み出したいという意思が、作り手側に確固としてあったからである。 虚飾を剥ぎ取り、内実に迫ろうとするこうした動きは、時代の趨勢だったといえる。 他社、他メディアへの波及 [ ] も東映の「実録路線」に対抗して 、1973年下半期の大攻勢として「ロマン・ポルノ」「アクション・ポルノ」「実録・ポルノ」「ドキュメント・ポルノ」の四本柱を打ち出し 、1974年から"実録ポルノシリーズ"を始め 、『実録エロ事師たち』や『OL日記 濡れた札束』『実録ジプシー・ローズ』 などを製作した。 鈴木義昭は「も、実は東映実録路線の影響を受けている。 とかの世代はね。 『』でが骨をかじるシーンを置き換えたのが『日本の拷問』の日野繭子です。 実録路線と相互乗り入れしていたのが日活ロマンポルノです。 スタートの『』からして実録的要素があるからね。 『一条さゆり 濡れた欲情』なんて本人が出てくる実録 笑 、に引っかかる犯罪映画。 『実録ジプシー・ローズ』とか『実録桐かおる』とかいっぱいあったね。 東映実録路線は、ある意味みんな犯罪映画。 東映実録路線で戦後史を勉強したから、だいぶ偏っちゃった 笑。 山口組ってスゲエみたいな映画ばっかりだったから。 自分らの時代って、子どもの頃、辺りでも発砲事件があって、やくざって凄くある意味身近だった」などと述べている。 映画各社からも実録の方がより興行力があるという認識が持たれ 、「実録」を掲げることが一種の流行になり 、容易にこれを冠した作品もあらわれるようになった。 また洋画配給会社も実録風の映画を買い付けたり 、実録風の宣伝を取り入れたりすることも増えた。 『』1973年3月12日号では「安上がりな"実録"に力を入れこむ邦画界」という記事が載り、「、、玉本敏雄といえば、なにを連想するかネ?さて、三人とも?いや、映画のモデルなんだ。 の『』、で『』、が『性豪列伝 チェンマイの幼な妻』てナ調子。 そういえばでも、・の"ワイン町長"の伝記を『喜劇・怪物町長』のタイトルで映画化するとか。 "実録路線"のトップをきったのは東映。 がモデルの拒否でボツになったのにコリず、『仁義なき戦い』を作ってバカ当り。 『マスコミで騒がれた事件や人物はなんでもかんでも映画にしてしまえ』とサ。 自社の俳優・安藤昇の"実録"まで作ってる。 早いハナシがヤクザ映画なんだがね。 で殺された16歳の・も『』で"やる"そう。 原作料もいらず、ウルサイ俳優も使わず、一般募集で似てるのを見つけてくりゃいいんだから、実録映画ただもうけみたいなもんだ。 日本ばかりでなく、海のむこうでも実録・伝記映画が大流行。 の『 ()』、の、、夫妻の伝などなど。 しかし、映画にされてウレシがってる人はいいが、『ネオンくらげ』のモデルの遺族は気の毒だねえ。 ゴタゴタがおきれば、話題になってなお結構、というのが普通だがねえ。 "実録"もいいが、あとで『実録・人権じゅうりん』て番外作がつくのはゴメンだ」と書かれた。 『』はのオリジナル脚本で"実録もの"という認識を持たれていないが、当初の企画は"実録もの"だったのある。 また同年4月には「オレがOKしなきゃ撮らせない」と、全ての企画を岡田自身が決定する陣頭指揮を宣言したが 、実録ものの新方針第一弾が主演の『』で、これは東映のプロデューサーが1973年に実録物の一つとして『実録・陸軍中野学校』というタイトルで企画を提出し製作が決まっていたが、1973年の4月に出身のの救出が不成功に終わり製作が延期された。 しかし1974年の小野田の発見で、岡田の新方針により急遽企画が復活、製作が決定した。 このように東映は実録ヤクザ映画を量産した時期に、ヤクザでない実録映画も多少作った。 は「東映がとつるんで実録映画を作り出したとき、東映に警察が入って『止めろ』って言った後、実録犯罪映画が増えました。 は実録映画や犯罪映画の全盛期でしたね。 ピンク映画でも実録犯罪ものがいっぱい作られましたし、『連続23人強姦魔』とか、『若妻人質性拷問』とか『誘拐密室暴行』とか『』や『冷血』とかね。 『』とか『』とか、やくざ映画をそのまま撮れないからっぽく撮る映画も出来た。 映画は実録的要素がどんどん増えました。 2010年代も流行ってますよ、『』とか『』とか、だと『』とかね。 今はが厳しいから昔とはタッチが違うけど。 1980年代のアイドル映画時代にもの実録みたいなのが出てきましたね。 の『ザ・オーディション』なんての実録の隠れた傑作です。 単なるアイドル映画とは明らかに一線を画しているけど、今は公開できないんじゃないかな。 の『』も芸能界の裏側を描いています」などと論じている。 テレビの番組タイトルで"実録"というタイトルが付けられた最初が何だったかは分からないが、 2019年12月27日には『』()と『』()という、ので同じ時間帯の二つの番組タイトルに"実録"というタイトルが冠された。 映画監督のが最初に発案したとされる。 実録シリーズの一覧 [ ] 東映実録路線 [ ]• - 1973 -• - 1973 - 菅原文太• - 1973 - 菅原文太• - 1974 - 菅原文太• - 1974 - 菅原文太• - 1973 -• - 1973 -• - 1973 - 安藤昇• - 1973 -• - 1973 - 安藤昇• - 1974 - 安藤昇• - 1974 - 菅原文太• - 1974 -• - 1974 - 高倉健• - 1974 - 菅原文太• - 1974 - 安藤昇• - 1974 -• - 1975 - 菅原文太• - 1975 - 菅原文太• - 1976 - 菅原文太• - 1975 -• - 1975 - 菅原文太• - 1975 - 小林旭• - 1975 - 松方弘樹• - 1975 - 松方弘樹• - 1975 - 高倉健• - 1975 - 松方弘樹• - 1976 - 松方弘樹• - 1976 - 松方弘樹・• - 1976 - 菅原文太• - 1976 - 安藤昇• - 1976 - 渡哲也• - 1976 - 松方弘樹• - 1977 -• - 1977 -• - 1978 -• - 1977 - 松方弘樹• - 1977 - 菅原文太• - 1977 - 菅原文太• - 1977 - 松方弘樹• - 1978 - 松方弘樹• - 1979 - 菅原文太• - 1979 -• - 1984 - 松方弘樹• - 1985 - 松方弘樹• - 1990 - オリジナルビデオ実録シリーズ [ ]• シリーズ - 2000• - 2001 -• シリーズ - 2001 -• - 2001 -• シリーズ - 2001 -• シリーズ - 2001 -• - 2002 -• シリーズ - 2002 - 竹内力• シリーズ - 2002 -• シリーズ - 2002• - 2002 - 清水健太郎• シリーズ - 2002 - 清水健太郎• - 2002 -• シリーズ - 2002 -• シリーズ - 2002 -• - 2003 -• シリーズ - 2003 - 小沢仁志• - 2003 -• - 2003 -• シリーズ - 2003 - 中野英雄• - 2003 - 白竜• - 2003 - 大和武士• シリーズ - 2003 - 風間貢• シリーズ - 2003 -• シリーズ - 2003 -• - 2003 -• - 2003 -• シリーズ - 2004 -• シリーズ - 2004• シリーズ -• シリーズ - 2005• シリーズ - 2006 -• シリーズ - 2006 -• シリーズ - 2006 - 大沢樹生• シリーズ - 2006 - 小沢仁志• シリーズ - 2007• シリーズ - 2007• シリーズ - 2007 -• - 2007 -• - 2007 - 小沢仁志• シリーズ - 2007 - 小沢仁志• シリーズ - 2007 -• シリーズ - 2007 - 本宮泰風 脚注 [ ] 注釈 [ ]• 毎日新聞 毎日新聞社. 2017年10月21日. の2017年12月9日時点におけるアーカイブ。 「日本映画とやくざ、あるいは『不良性感度の時代』 3. 実録路線映画の登場とその解体」。 石飛徳樹 2019年7月25日. 朝日新聞デジタル 朝日新聞社. の2019年7月25日時点におけるアーカイブ。 読売新聞 2014年8月11日. 2017年2月15日時点の [ ]よりアーカイブ。 2014年8月16日閲覧。 〈〉、 「」『』、、2012年12月25日、 2013年2月2日閲覧。 」『』1983年1月号、、 201-203頁。 nippon. com. 2018年5月18日閲覧。 「東映の今後についてのイメージ設計は?岡田茂社長にその方針を聞く 『日本アクションの限界』」『』1972年10月上旬号、、 114頁。 水野和夫・・「世界の映画作家19/アメリカ・イタリア・日本のトップ三人」『キネマ旬報』1972年(昭和47年)9月下旬号 86-89頁、キネマ旬報社。 、239-240頁。 、1-4頁。 巻末特別付録「笠原和夫と私ーインタビューによる証言 岡田茂」• 、147、152頁。 『映画はやくざなり』、2003年、57頁。。 インタビュアー 高田純「シナリオライターにとっての思想とは? 笠原和夫氏に聞く その2」『キネマ旬報』1975年(昭和50年)8月上旬号 79-80頁、キネマ旬報社。 「深作欣二監督の『仁義なき戦い』」『キネマ旬報』1973年(昭和48年)1月新年特別号 182-183頁、キネマ旬報社。 「興行価値 『日本映画 東映実録路線 後編』」『キネマ旬報』1973年(昭和48年)5月上旬号 144頁、キネマ旬報社。 、、、• 、「新聞広告に見る実録やくざ映画史」、2頁。 「日本映画 東映実録任侠発車」『キネマ旬報』1973年(昭和48年)特別号、160頁、キネマ旬報社。 「映画・トピック・ジャーナル他」『キネマ旬報』1973年(昭和48年)2月下旬号 158-159、164頁、キネマ旬報社。 、98-99頁。 「興行価値 『日本映画 東映実録路線 後編』」『キネマ旬報』1973年(昭和48年)5月上旬号 144頁、キネマ旬報社。 「連載・日本映画縦断・26 『東映京撮/映画づくりの現場から・下 〔回想のマキノ映画・その5〕』」『キネマ旬報』1974年(昭和49年)9月上旬号 128頁、キネマ旬報社。 植草信和「映画・書評 『映画界のドン岡田茂の活動屋人生』」『キネマ旬報』2012年(平成25年)7月下旬号 174-175頁、キネマ旬報社。 植草信和「2011年映画界十大ニュース 5月9日、東映名誉会長・岡田茂逝く 最後の活動屋の映画人生」『キネマ旬報』2012年(平成25年)2月下旬号 244頁、キネマ旬報社。 、228頁。 牧村康正・山田哲久『宇宙戦艦ヤマトを作った男 西崎義展の狂気』講談社、2015年、138頁。 、94-95頁。 、120-133頁。 米原尚志「聞き書き 東映元社長・岡田茂 『東映の神髄』とはなにか」• 、「仁義なき戦い 映画批評」、220頁。 、「東映実録やくざ映画 リアルタイム映画評論検証」、54-55頁。 「映画館」『キネマ旬報』1973年(昭和48年)正月特別号 164頁、キネマ旬報社。 品田雄吉「今週の映画 『仁義なき戦い』」『サンデー毎日』1973年(昭和48年)2月4日号 45頁、毎日新聞社。 「映画館」『キネマ旬報』1973年(昭和48年)3月上旬号 148頁、キネマ旬報社。 、423頁。 「プロ野球悲劇のスター映画界へ? 荒川尭(元ヤクルト)のこれから」『』1975年5月16日号、、 37頁。 「映画界東西南北談議 粒揃いの各社の企画ラインアップ」『映画時報』1973年3月号、映画時報社、 34頁。 ・・『昭和の劇 映画脚本家笠原和夫』、2002年、344-346頁。 、、、、、• 、329頁。 スポーツニッポン新聞社 : p. 1969年8月21日• 内外タイムス社 : p. 1969年7月30日• 「東映不良性感度映画の世界 東映実録犯罪映画の系譜 文・モルモット吉田」『映画秘宝』2011年8月号 60頁、、 60頁。 内外タイムス社 : p. 1969年8月30日• 夕刊 : p. 1969年9月25日• : pp. 1969年10月7日• スポーツニッポン スポーツニッポン新聞社 : p. 1969年5月24日 「70年安保も商売ダネ 東映が"刺激暴力路線"」『』1969年6月20日号、、 123頁。 「三行メモ」『』1969年8月14日号、、 14頁。 ・『石井輝男映画魂』、1992年、202-203、340頁。 「映画界の動き 大川東映社長好景気を語る」『キネマ旬報』1969年9月下旬号、キネマ旬報社、 80頁。 むろん新記録である。 好調の原因はなんといっても映画事業と付帯事業の二大支柱がぐんぐん伸びていることだ。 映画事業は、大川社長によると「製作・配給・興行の全部を映画本部という名のもとに一本化し、岡田茂常務・映画本部長にまかせてしまったのが、非常に効果をあげた」という... 夕刊 : p. 1968年7月9日• FB編集同人編「キャメラマン吉田貞次 聞き書き 満映から『仁義なき戦い』まで」『FB 映画研究誌』1994年(平成6年)第三号 128-129頁、行路社。 細野憲昭 1998年5月12日. 産経新聞 産経新聞社 : p. 、、、• 「ルック・るっく 人と事件 ポルノの旗手田中真理をイビってやれ」『』、、1973年12月27日号、 39頁。 埋もれた映画を語る」『. 28』2015年5月20日、、 42-45頁、。 「失業ポルノ女優の『求む! 就職先』」『週刊文春』1974年4月8日号、文藝春秋、 22頁。 「またぞろポルノ再開の東映」『』1975年2月1日号、、 33頁。 「東映不良性感度映画の世界 追悼・岡田茂 東映不良性感度HISTORY 」『』2011年8月号、洋泉社、 62頁。 , pp. 43—57. 「映画になる小野田寛郎元少尉ドノ」『』1974年3月31日号、、 40頁。 、52—53頁。 、 参考文献 [ ]• 関根忠郎・・『惹句術ー じゃっくじゅつー 映画のこころ』、1986年。 「映画懐かし地獄70's」『』第11巻、、1988年。 『映画100物語 日本映画篇 1921-1995』、1995年。。 、植地毅『仁義なき戦い 浪漫アルバム』、1998年。。 ・『任侠映画伝』、1999年。。 斯波司・青山栄『やくざ映画とその時代』、1998年。。 『悔いなきわが映画人生:東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年。。 ・・『昭和の劇:映画脚本家笠原和夫』、2002年。。 『臨時増刊 映画監督深作欣二の軌跡』、2003年。 ・米原尚志『「仁義なき戦い」をつくった男たち 深作欣二と笠原和夫』、2005年。。 ・・・(編)『日本映画は生きている 第四巻 スクリーンのなかの他者』、2010年。。 日下部五朗『シネマの極道 映画プロデューサー一代』、2012年。。 『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』、2012年。。 『鮮烈! アナーキー日本映画史 1959-1979』洋泉社〈映画秘宝EX〉、2012年。。 「実録やくざ映画大全」『』、、2013年。 伊藤彰彦『映画の奈落 北陸代理戦争事件』、2014年。。 斉藤守彦『映画を知るための教科書 1912~1979』洋泉社、2016年。。

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実録 名古屋 やくざ 戦争 統一 へ の 道

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実録 名古屋 やくざ 戦争 統一 へ の 道

概要 [ ] 、に於いてそれ以前までは主流であったの廃退により、はを製作し、成功を収めた。 それらは主にやが主演であり、「」、「」、「」などの代表作は、任侠をテーマにし正義が悪を倒すという、時代劇のころから受け継がれた単純なストーリーであった。 しかしに公開された主演・監督の『』はそれまでとは違い、実際に起こったでの抗争事件の当事者の一人が書いた手記をベースとしたを原作としており 、大ヒットした。 当時の東映のヤクザ映画は 実録映画、 実録路線と呼ばれた。 「実録」という呼称 [ ] こうした「 実録」という呼称は、のの実態を克明に描写したの『』あたりから用いられるようになった、と書かれた文献もあるが 、『バラキ』と『仁義なき戦い』第一作の公開は1ヵ月しか違わず、『キネマ旬報』1972年11月下旬号の『バラキ』の特集でも「実録」という言葉は使われていない。 1972年7月に『』が日本で公開されて間もなく、の社長が「『ゴッドファーザー』は、を大掛かりにしただけの作品。 事実を避けて通らず、克明に描いたところに大衆を引きつける魅力がある。 便乗企画といわれればそれまでだが、東映でも日本版マフィア映画を作るべきだ」と指示し、"和製ゴッドファーザー"として『仁義なき戦い』の製作を決定した。 これが日本の「実録ヤクザ映画」の実質的なスタートであるが 、『』1972年9月下旬号の「世界の映画作家」という記事で岡田は「時代の動きに応じて変わっていくが1972年の今求められているのは"実話性"の強いものではないか。 『ゴッドファーザ』にしてもしかり。 私は"実態映画"という名で呼ぶが、こういうものはスターシステムとは別の魅力が発揮される。 東映でもこうした"実態映画"を大作の構えで作っていきたい。 小さな作品にしたのでは魅力はない。 同じやくざものでも『』のような作品はスターを並べた伝統的なものとして今後もつくり、一方で『仁義なき戦い』のようなものを大がかりに撮って行きたい。 政界を題材にするのもいい、警察内部の実態でもいい、週刊誌で話題になるバーの内部も面白いだろう。 これなどは新しい形の"女性映画"になりうると思う」などと話し、この時点で、この後展開される「東映実録路線」のコンセプトを既に着想しており、さらに『キネマ旬報』1972年10月上旬号のインタビューでは「私は日本のには限界があると思う。 実際のがいないのだから、現実と虚構の接点が薄いわけだ。 のそれをマネても当たらない。 土壌が違うんで観客がバカにしちゃってる。 日本のアクションは日本の中にあるものから考えなければならない。 私もいろいろやったがやはり当たらなかった。 欧米と日本ではヤクザの実態が違い過ぎるんだ」などと話しており 、「」から「実録映画」への転換を構想していた。 1972年春の看板スター・の引退で、「任侠映画」に翳りが見え 、路線転換に悩んでいた岡田が暗中模索の中で閃いたのが「実録路線」「実録シリーズ」であった。 このインタビューでは岡田は"実録"という言葉は使っていないが、1972年9月1日に東映がに『仁義なき戦い』の脚本執筆を依頼したとき 、笠原は「"実録"という言葉を初めて聞いた。 それで会社はいよいよをやるのかと思った」と話しており 、『ゴッドファーザー』が日本で公開された1972年7月から間もない同年夏の時点で、東映の関係者は"実録"という言葉を使っていたと考えられる。 用語として定着するのは1972年11月21日に東映本社で『仁義なき戦い』の製作発表が行われ 、"実録映画路線"の第一弾として発表してからで 、「従来の任侠映画的なヤクザを美化したものでなく、実録の持つ迫力をドキュメンタリー・タッチのドラマとして、ヤクザの裏面を衝撃的に描く」と説明した。 1972年の暮れから『仁義なき戦い』第一作の公開が近づくにつれ、何枚もの宣伝、アド などを製作して、新聞に掲載したり、劇場内に次回作告知として貼り付けたが 、このポスターなどに、"実録シリーズ第一弾"、"日本の実録超大作"などと惹句()を入れて盛んに煽った。 実録ものは、覗き見趣味的な効果もあり、異様なパワーを持って観客に新鮮な感覚を与えた。 実録路線 [ ] 『仁義なき戦い』の大ヒットにより、岡田社長が「実録路線」第二弾として、主演映画に『』というタイトルを付け 、これもヒット。 ヤクザ映画のタイトルに「実録」という呼称が入ったのはこれが最初。 映画のタイトルに「実録」という言葉が入った映画は、戦前には多かったが 、戦後はあまり使われていなかった。 岡田は強力な抵抗を押し切って 、これらを「実録路線」としてシリーズ化し、「任侠映画」からの転換を図り 、以降も実録ヤクザ映画が量産され 、「実録」という言葉も一気に普及する。 『』1983年1月号の「実録/戦後日本映画史 人と事件とー最終回 任侠・実録で血路を開いた東映・岡田」という記事で、「映画史に一時期を画した東映の任侠映画もすでに下降線を迎え、それを象徴するかのように任侠映画の女王・が1972年3月公開の『』を最後に引退、スクリーンから消えていった。 それは任侠路線の終焉ともいうべき出来事であった。 また社内的には最盛期に肥大化した製作現場と製作要員の縮小という大きな問題もあって、好調を続けてきた東映が初めて直面する苦難のときでもあった。 このとき任侠路線につぐ"実録路線"を考え出したのは新社長の岡田茂である。 岡田は『日本映画界の最大の危機は1971年から1974年の三年間で、全部ダメになると思ったよ。 それから10年間は各社とも体質改善に励んでどん底から這い上がり、それぞれに生きる道を身に着けた。 ウチも落ち目になった任侠路線の次の手をと苦しんでいたとき、新人のライター(?)が書いた毛色の変わったシナリオが目についたんです。 ある組織暴力の実態をモデルにしたもので、ナマの迫力があった。 そのころの『ゴッドファーザー』が大当たりで、の『』や『』といったマフィアの暴露物が話題になっていた。 実在の暴力団をモデルにしているので、ちょっと危険はあるがとにかくやってみようというので、監督に深作欣二を起用して、まず第一作として作らせたのが『仁義なき戦い』で、これがヒットしたので実録路線でゆこうということにしたわけだ』とそのいきさつを語っている」と書かれている。 1973年1月13日に公開された『仁義なき戦い』は大ヒットにより、当時の東映では珍しいが実施され、1973年2月2日までの三週間興行だった。 岡田が「実録 路線」という言葉を使ったのは『仁義なき戦い』公開中と見られる1973年1月後半か2月頭のことで 、『』1973年2月12日号の記事で「"実録路線"は、やくざものとはかぎらない」と話しており 、『仁義なき戦い』は公開前より続編の制作が決定していたともいわれ 、つまり1973年に実録映画のヒットが続いたから「実録路線」を敷いたのではなく、『仁義なき戦い』がヒットしたら「実録映画」を路線化しようと決めていたものと見られる。 興味深いのは"岡田茂の『事件が起きたら即、映画』術"と評されるように 、当時の複数の記事で岡田が、を扱う『実録・プロ野球・黒い霧事件』 、『実録・連合赤軍』 、『実録大映興亡史』 、有名な『』 などを企画している、と話していることである。 『実録大映興亡史』はのの功績を讃えつつ、真の目的は、いずれの時代が来るとが不足すると読み 、テレビでまだ未放映の『』を始め、多くの名作を持つ会社中だった大映の旧作のを安く買い叩けないか企んでいたといわれる。 これは岡田が「実録ヤクザ映画」だけでなく「実録犯罪映画」などを含めて、範囲の広い「実録映画」の量産を最初は考えていたものと推察されるが、「実録ヤクザ映画」より「実録犯罪映画」などの方が製作に当たって問題が大きかったため、上記の企画を後回しにし、大きな支持を得た「実録ヤクザ映画」の製作を押し通したものと見られる。 東映実録映画の歴史 [ ] 「実録映画」というと通常は「実録ヤクザ映画」や「実録犯罪映画」、有名な事件やイベント、人などの内幕を描く映画をイメージすることが多いが 、岡田は「実録犯罪映画」「実録猟奇犯罪映画」()のパイオニアでもある()。 戦前さかんに作られたといわれる「実録犯罪映画」は 、戦後各社娯楽性の高い映画が量産され、あまり作られなかった。 東映も娯楽時代劇を量産したため手を出さなかったが 、1965年半ば以降、岡田が時代劇をヤクザ映画やエログロ映画に転換する過程で、企画として挙げてきた。 岡田のプロデュース三作目は、がをヒントに執筆したといわれる『』の映画化、1951年の『』で、早い時期に実録犯罪ものに興味を持っていた。 こうした小説由来ではないオリジナルの「実録犯罪映画」は、東映ではを扱った1966年3月公開の『女犯破戒』(主演・監督)が最初。 これは実録ものをやろうとして挙げた企画ではなく、好色路線()の一つとして思いついたものであった。 次がとを敷いた際に企画した1969年8月公開の『』。 『猟奇女犯罪史』の製作を伝える当時の1969年8月21日の記事に「史実を再現した異色作!! 五大犯罪事件に見る愛欲の陰惨な様相」「『猟奇女犯罪史』で実 話路線なるものの先鞭をつけた」などの記述が見られ 、1969年7月30日には「東映、"実 話路線"へ 第一弾は『猟奇女犯罪史』東映が㊙シリーズにかわって、新しく女の本性を描く、"実話路線"を打ち出した」などと書かれている。 『明治大正昭和 猟奇女犯罪史』は、後のの再現フィルムに影響を与えたと評価され 、今日、映画は勿論、テレビのでもよく扱われる"実録犯罪もの"とハシリといわれる。 また同じ1969年秋の『』製作を伝える記事に「東映は刺激路線から、 実話路線に切り変え『日本暗殺秘録』がこのほどクランクイン」 、「八つの事件、 実録風に」という記述が見られ。 「東映では明年(1970年)五月に『 実録二・二六事件』という作品も企画しており…」という記事が見られる。 『日本暗殺秘録』は、岡田が「を控えて映画も時代に即応した強度のが受けるはず。 の次回作『』でさえ、"ゲバふう"のムードを取り入れるつもりだ」などと打ち出した「暴力路線」「ゲバルト路線」の第一弾であった。 岡田は当時、東映映画の製作・配給・興行の全ての責任者だった。 また文中に"実録"とは書かれていないが1968年夏の複数の文献に「ヤクザ映画もやります、お色気も…というゴッタ煮商法のプランナー・東映岡田茂常務 製作本部長 が『ああ全学連』を企画している」などという記事があり 、岡田は「世界に勇名を馳せたと、いまの世界的なね、これを背景にしたの第二次黄金時代を正面から取り上げようと思ったんです... 特定のに捉われず、あくまでも中立的な立場でいきたい。 したがって派閥関係にも細心の注意を払いたい。 全学連をひとつの若いエネルギーの表れとして捉えてみたい。 さんの死とか、騒動のあと別の人生をたどった者もいる... やはりドラマは必要だと考えなおしているとこ... 今や"ゼンガクレン"は、フジヤマ、ゲイシャと並んで、世界に冠たるニッポン名物。 『ゼンガクレン』というタイトルで海外にも輸出できる。 公開は来年(1969年)6月を予定。 監督は"闘士"の、キャストはを中心に組むつもりだ」などと話しており 、1960年代後半に、既に"実録犯罪路線"を実施していた。 は実録路線の転換ではなく「任侠路線から政治路線への転換か?」と書いている。 つまり1973年の『仁義なき戦い』の大ヒットで実録路線を思いついたのではなく、実録路線は元からやっていたが、「実録ヤクザ映画」がウケたため、これはいけると「実録ヤクザ映画」を路線化したのである。 岡田東映社長は、"実録もの"がマスコミの話題になりやすいことから 、しきりに「実録ものを作れ」と指示した。 マスコミの話題にはなったが、トラブルも続出し 、ある"実録もの"を見て本気で怒った暴力団関係者が、東映映画の責任は社長にあると 、「岡田茂を殺しに行く」という物騒な話が出て、がビックリして知り合いに頼んで収めてもらったこともあるという。 「仁義なき戦いシリーズ」のキャメラマン・吉田貞次は、「実録やくざ映画は岡田茂社長の考え方がすごく入ってる。 さんが生きていたら実録やくざ映画は生まれなかったでしょう。 そこそこは、やったかもしれないけど、あんな極端には、やらせなかっただろうと思う」と述べている。 岡田は、「実録路線でいこうと。 何となくそういう勘があった。 でも実在の親分をコケにするような場面もあって、よくやれたなと思うね」などと話している。 実録映画が量産できたのは岡田がと仲がよかったためで 、実録映画の脚本を多数手掛けたは「『あいつぶちのめす』といわれたこともあったけど、僕の場合は東映が守ってくれた。 田岡一雄さんが壁になってくれたんです」と述べている。 「実録路線」の旗手となったのはであった。 深作は戦後史に対して強い問題意識を持っていた。 東映実録路線全般が凡庸なヤクザ映画に堕することなく、時代を撃つような批判力を持つ物になったのも、戦後史の底辺に流れていた物を掴み出したいという意思が、作り手側に確固としてあったからである。 虚飾を剥ぎ取り、内実に迫ろうとするこうした動きは、時代の趨勢だったといえる。 他社、他メディアへの波及 [ ] も東映の「実録路線」に対抗して 、1973年下半期の大攻勢として「ロマン・ポルノ」「アクション・ポルノ」「実録・ポルノ」「ドキュメント・ポルノ」の四本柱を打ち出し 、1974年から"実録ポルノシリーズ"を始め 、『実録エロ事師たち』や『OL日記 濡れた札束』『実録ジプシー・ローズ』 などを製作した。 鈴木義昭は「も、実は東映実録路線の影響を受けている。 とかの世代はね。 『』でが骨をかじるシーンを置き換えたのが『日本の拷問』の日野繭子です。 実録路線と相互乗り入れしていたのが日活ロマンポルノです。 スタートの『』からして実録的要素があるからね。 『一条さゆり 濡れた欲情』なんて本人が出てくる実録 笑 、に引っかかる犯罪映画。 『実録ジプシー・ローズ』とか『実録桐かおる』とかいっぱいあったね。 東映実録路線は、ある意味みんな犯罪映画。 東映実録路線で戦後史を勉強したから、だいぶ偏っちゃった 笑。 山口組ってスゲエみたいな映画ばっかりだったから。 自分らの時代って、子どもの頃、辺りでも発砲事件があって、やくざって凄くある意味身近だった」などと述べている。 映画各社からも実録の方がより興行力があるという認識が持たれ 、「実録」を掲げることが一種の流行になり 、容易にこれを冠した作品もあらわれるようになった。 また洋画配給会社も実録風の映画を買い付けたり 、実録風の宣伝を取り入れたりすることも増えた。 『』1973年3月12日号では「安上がりな"実録"に力を入れこむ邦画界」という記事が載り、「、、玉本敏雄といえば、なにを連想するかネ?さて、三人とも?いや、映画のモデルなんだ。 の『』、で『』、が『性豪列伝 チェンマイの幼な妻』てナ調子。 そういえばでも、・の"ワイン町長"の伝記を『喜劇・怪物町長』のタイトルで映画化するとか。 "実録路線"のトップをきったのは東映。 がモデルの拒否でボツになったのにコリず、『仁義なき戦い』を作ってバカ当り。 『マスコミで騒がれた事件や人物はなんでもかんでも映画にしてしまえ』とサ。 自社の俳優・安藤昇の"実録"まで作ってる。 早いハナシがヤクザ映画なんだがね。 で殺された16歳の・も『』で"やる"そう。 原作料もいらず、ウルサイ俳優も使わず、一般募集で似てるのを見つけてくりゃいいんだから、実録映画ただもうけみたいなもんだ。 日本ばかりでなく、海のむこうでも実録・伝記映画が大流行。 の『 ()』、の、、夫妻の伝などなど。 しかし、映画にされてウレシがってる人はいいが、『ネオンくらげ』のモデルの遺族は気の毒だねえ。 ゴタゴタがおきれば、話題になってなお結構、というのが普通だがねえ。 "実録"もいいが、あとで『実録・人権じゅうりん』て番外作がつくのはゴメンだ」と書かれた。 『』はのオリジナル脚本で"実録もの"という認識を持たれていないが、当初の企画は"実録もの"だったのある。 また同年4月には「オレがOKしなきゃ撮らせない」と、全ての企画を岡田自身が決定する陣頭指揮を宣言したが 、実録ものの新方針第一弾が主演の『』で、これは東映のプロデューサーが1973年に実録物の一つとして『実録・陸軍中野学校』というタイトルで企画を提出し製作が決まっていたが、1973年の4月に出身のの救出が不成功に終わり製作が延期された。 しかし1974年の小野田の発見で、岡田の新方針により急遽企画が復活、製作が決定した。 このように東映は実録ヤクザ映画を量産した時期に、ヤクザでない実録映画も多少作った。 は「東映がとつるんで実録映画を作り出したとき、東映に警察が入って『止めろ』って言った後、実録犯罪映画が増えました。 は実録映画や犯罪映画の全盛期でしたね。 ピンク映画でも実録犯罪ものがいっぱい作られましたし、『連続23人強姦魔』とか、『若妻人質性拷問』とか『誘拐密室暴行』とか『』や『冷血』とかね。 『』とか『』とか、やくざ映画をそのまま撮れないからっぽく撮る映画も出来た。 映画は実録的要素がどんどん増えました。 2010年代も流行ってますよ、『』とか『』とか、だと『』とかね。 今はが厳しいから昔とはタッチが違うけど。 1980年代のアイドル映画時代にもの実録みたいなのが出てきましたね。 の『ザ・オーディション』なんての実録の隠れた傑作です。 単なるアイドル映画とは明らかに一線を画しているけど、今は公開できないんじゃないかな。 の『』も芸能界の裏側を描いています」などと論じている。 テレビの番組タイトルで"実録"というタイトルが付けられた最初が何だったかは分からないが、 2019年12月27日には『』()と『』()という、ので同じ時間帯の二つの番組タイトルに"実録"というタイトルが冠された。 映画監督のが最初に発案したとされる。 実録シリーズの一覧 [ ] 東映実録路線 [ ]• - 1973 -• - 1973 - 菅原文太• - 1973 - 菅原文太• - 1974 - 菅原文太• - 1974 - 菅原文太• - 1973 -• - 1973 -• - 1973 - 安藤昇• - 1973 -• - 1973 - 安藤昇• - 1974 - 安藤昇• - 1974 - 菅原文太• - 1974 -• - 1974 - 高倉健• - 1974 - 菅原文太• - 1974 - 安藤昇• - 1974 -• - 1975 - 菅原文太• - 1975 - 菅原文太• - 1976 - 菅原文太• - 1975 -• - 1975 - 菅原文太• - 1975 - 小林旭• - 1975 - 松方弘樹• - 1975 - 松方弘樹• - 1975 - 高倉健• - 1975 - 松方弘樹• - 1976 - 松方弘樹• - 1976 - 松方弘樹・• - 1976 - 菅原文太• - 1976 - 安藤昇• - 1976 - 渡哲也• - 1976 - 松方弘樹• - 1977 -• - 1977 -• - 1978 -• - 1977 - 松方弘樹• - 1977 - 菅原文太• - 1977 - 菅原文太• - 1977 - 松方弘樹• - 1978 - 松方弘樹• - 1979 - 菅原文太• - 1979 -• - 1984 - 松方弘樹• - 1985 - 松方弘樹• - 1990 - オリジナルビデオ実録シリーズ [ ]• シリーズ - 2000• - 2001 -• シリーズ - 2001 -• - 2001 -• シリーズ - 2001 -• シリーズ - 2001 -• - 2002 -• シリーズ - 2002 - 竹内力• シリーズ - 2002 -• シリーズ - 2002• - 2002 - 清水健太郎• シリーズ - 2002 - 清水健太郎• - 2002 -• シリーズ - 2002 -• シリーズ - 2002 -• - 2003 -• シリーズ - 2003 - 小沢仁志• - 2003 -• - 2003 -• シリーズ - 2003 - 中野英雄• - 2003 - 白竜• - 2003 - 大和武士• シリーズ - 2003 - 風間貢• シリーズ - 2003 -• シリーズ - 2003 -• - 2003 -• - 2003 -• シリーズ - 2004 -• シリーズ - 2004• シリーズ -• シリーズ - 2005• シリーズ - 2006 -• シリーズ - 2006 -• シリーズ - 2006 - 大沢樹生• シリーズ - 2006 - 小沢仁志• シリーズ - 2007• シリーズ - 2007• シリーズ - 2007 -• - 2007 -• - 2007 - 小沢仁志• シリーズ - 2007 - 小沢仁志• シリーズ - 2007 -• シリーズ - 2007 - 本宮泰風 脚注 [ ] 注釈 [ ]• 毎日新聞 毎日新聞社. 2017年10月21日. の2017年12月9日時点におけるアーカイブ。 「日本映画とやくざ、あるいは『不良性感度の時代』 3. 実録路線映画の登場とその解体」。 石飛徳樹 2019年7月25日. 朝日新聞デジタル 朝日新聞社. の2019年7月25日時点におけるアーカイブ。 読売新聞 2014年8月11日. 2017年2月15日時点の [ ]よりアーカイブ。 2014年8月16日閲覧。 〈〉、 「」『』、、2012年12月25日、 2013年2月2日閲覧。 」『』1983年1月号、、 201-203頁。 nippon. com. 2018年5月18日閲覧。 「東映の今後についてのイメージ設計は?岡田茂社長にその方針を聞く 『日本アクションの限界』」『』1972年10月上旬号、、 114頁。 水野和夫・・「世界の映画作家19/アメリカ・イタリア・日本のトップ三人」『キネマ旬報』1972年(昭和47年)9月下旬号 86-89頁、キネマ旬報社。 、239-240頁。 、1-4頁。 巻末特別付録「笠原和夫と私ーインタビューによる証言 岡田茂」• 、147、152頁。 『映画はやくざなり』、2003年、57頁。。 インタビュアー 高田純「シナリオライターにとっての思想とは? 笠原和夫氏に聞く その2」『キネマ旬報』1975年(昭和50年)8月上旬号 79-80頁、キネマ旬報社。 「深作欣二監督の『仁義なき戦い』」『キネマ旬報』1973年(昭和48年)1月新年特別号 182-183頁、キネマ旬報社。 「興行価値 『日本映画 東映実録路線 後編』」『キネマ旬報』1973年(昭和48年)5月上旬号 144頁、キネマ旬報社。 、、、• 、「新聞広告に見る実録やくざ映画史」、2頁。 「日本映画 東映実録任侠発車」『キネマ旬報』1973年(昭和48年)特別号、160頁、キネマ旬報社。 「映画・トピック・ジャーナル他」『キネマ旬報』1973年(昭和48年)2月下旬号 158-159、164頁、キネマ旬報社。 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1969年5月24日 「70年安保も商売ダネ 東映が"刺激暴力路線"」『』1969年6月20日号、、 123頁。 「三行メモ」『』1969年8月14日号、、 14頁。 ・『石井輝男映画魂』、1992年、202-203、340頁。 「映画界の動き 大川東映社長好景気を語る」『キネマ旬報』1969年9月下旬号、キネマ旬報社、 80頁。 むろん新記録である。 好調の原因はなんといっても映画事業と付帯事業の二大支柱がぐんぐん伸びていることだ。 映画事業は、大川社長によると「製作・配給・興行の全部を映画本部という名のもとに一本化し、岡田茂常務・映画本部長にまかせてしまったのが、非常に効果をあげた」という... 夕刊 : p. 1968年7月9日• FB編集同人編「キャメラマン吉田貞次 聞き書き 満映から『仁義なき戦い』まで」『FB 映画研究誌』1994年(平成6年)第三号 128-129頁、行路社。 細野憲昭 1998年5月12日. 産経新聞 産経新聞社 : p. 、、、• 「ルック・るっく 人と事件 ポルノの旗手田中真理をイビってやれ」『』、、1973年12月27日号、 39頁。 埋もれた映画を語る」『. 28』2015年5月20日、、 42-45頁、。 「失業ポルノ女優の『求む! 就職先』」『週刊文春』1974年4月8日号、文藝春秋、 22頁。 「またぞろポルノ再開の東映」『』1975年2月1日号、、 33頁。 「東映不良性感度映画の世界 追悼・岡田茂 東映不良性感度HISTORY 」『』2011年8月号、洋泉社、 62頁。 , pp. 43—57. 「映画になる小野田寛郎元少尉ドノ」『』1974年3月31日号、、 40頁。 、52—53頁。 、 参考文献 [ ]• 関根忠郎・・『惹句術ー じゃっくじゅつー 映画のこころ』、1986年。 「映画懐かし地獄70's」『』第11巻、、1988年。 『映画100物語 日本映画篇 1921-1995』、1995年。。 、植地毅『仁義なき戦い 浪漫アルバム』、1998年。。 ・『任侠映画伝』、1999年。。 斯波司・青山栄『やくざ映画とその時代』、1998年。。 『悔いなきわが映画人生:東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年。。 ・・『昭和の劇:映画脚本家笠原和夫』、2002年。。 『臨時増刊 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