聖書 に 由来 する 言葉 は。 聖書に由来する言葉は?【ことば検定】 答え林修

【聖書の名言集】愛にまつわる言葉14選~落ち込むあなたに贈る、心が穏やかになる言葉たち~│美容男子

聖書 に 由来 する 言葉 は

言葉の語源を調べてみよう! この言葉は実は新約聖書から来ています。 神の光によって視力を失ったサウロにイエスの使いが手をかざしたところ、目から鱗のようなものが落ちてきて視力を取り戻したという事から、あることがきっかけで急に理解できるようになるような状況を「目から鱗が落ちる」と言うようになったのです。 日頃、何気なく使っている言葉の意外な由来を知って、まさに「目からウロコ」ですよね。 こういった知識を得ることで、言葉や漢字への興味もアップし、延いては漢字力も身に付いていくのではないかと思います。 では早速、意外な言葉の由来を他にもご紹介します! 新約聖書「マタイ福音書」の言葉から 上記の「目からウロコ」の他にも新約聖書に由来があることわざや慣用句があります。 【豚に真珠】 「真珠を豚に投げてはならない。 それを足で踏みにじり、向き直ってあなた方に噛みついて くるだろう」 人間にとっては貴重な真珠も豚にはその価値は分からず、与えても何の役にも立たないことから、どんなに貴重なものでもその値打ちを知らない者には無意味である、という意味になった。 【狭き門】 「破滅への道は広く門も大きいが、天国への道は狭く門も小さい。 しかし神の救いを受けるためには、力を尽くしてその狭い門から入らなければならない」 目的や理想の実現のためには困難である道を選ぶべきという教えから、入学試験や就職試験で競争が激しく突破することが難しいことのたとえとなった。 日本文化、生活、動植物などから由来する言葉 【ミーハー】 昭和初期の女性のあだ名の「みいちゃん」と「はあちゃん」の略とされる。 当時の女性の名は「み」や「は」で始まるものが多かったことから、世の中の流行にされやすいこと、また、そのような人のことを言うようになった。 【段取り】 もとは歌舞伎の言葉で、筋の運びや組み立てのことを言った。 「段」は物語の構成単位や話の一コマを数える言葉で、何段かの話を組んで一つの物語が出来上がる。 そこから、事がうまく運ぶように手はずを整えることを段取りと言うようになった。 【几帳面】 もとは建築の言葉で、柱などの角の部分を削って丸みをつけ、両側に刻み目を入れる技法を言った。 「几帳」とは、昔の貴人の家で室内の仕切りに使った調度のこと。 主に几帳の柱に用いられたことから、細部まで気を配る意味となった。 【メリハリ】 もとは邦楽の用語で、音の抑揚や強弱の変化のことを言った。 「減り張り」と書いてゆるめることと張ることを表す。 「乙張り」とも書き、この言葉が一般化して物事の調子を表す意味で使われるようになった。 【目白押し】 「目白」はスズメ目メジロ科の鳥。 メジロは木に止まるとき押し合うように並んで止まることから、たくさんの人が一箇所に集まって混み合ってる様子や、多くの物事が集中することを言うようになった。 【葛藤】 「葛」はカズラ、「藤」はフジで、どちらもつる性の植物。 葛や藤のつるがもつれからみ合うように、物事が複雑にからみ合ったり、いざこざや争い、あるいは心の中の相反する欲求や感情で選択に迷う状態のことを言うようになった。 西洋の文化、故事などから由来する言葉 日本の慣用句や食物の言葉には、西洋の言葉や書物、地名に由来するものも多くあります。 意外な言葉の由来とは 【飴(あめ)と鞭(むち)】 1870年代にドイツの政治家ビスマルクが社会主義勢力を支配するために行った政策から。 ビスマルクは社会主義者への弾圧(鞭)と、社会保険制度の導入(飴)を行い、政策を巧みに使い分けて民衆の反発をやわらげた。 このことから、おだてたり脅したりして上手に人を動かすことのたとえとなった。 【一石二鳥】 17世紀のイギリスのことわざ「kill two birds with one stone」の訳。 一度の手間で多くの利益を得るという意味で、四字熟語として使われることが多い。 【ジャガイモ(馬鈴薯)】 オランダ語で「ジャガタラ(インドネシアのジャカルタ)」のこと。 16世紀の終わり頃にジャガタラから伝わったことから「ジャガタライモ」と言われた。 この植物に漢名の「馬鈴薯」を当てたが、中国産の馬鈴薯は実は全く別の植物である。 【カボチャ(南瓜)】 ポルトガル語で「カンボジア」のこと。 16世紀ごろにカンボジアから伝わったことから、「南蛮渡来の瓜」の意味で「南瓜」と書くようになった。 【天婦羅】 ポルトガル語で調味料の意味の「テンペロ」からと言われているが、スペイン語からきたいう説もある。 【ピーマン】 フランス語で唐辛子の意味の「ピーマン・ドゥー」から。 明治初期にアメリカから伝えられた。 ちなみにピーマンは漢字で「青椒」と書きますが、これは漢字検定では出題されません。 中国の文化、故事などから由来する言葉 漢字の源流である中国で使われた言葉が日本で定着したものは多数あります。 【蛇足】 昔の中国の楚の国で、召使い達が早く蛇の絵を描き上げた者が酒を飲めるという賭けをした。 最初に描いた者が蛇にない足まで描いてしまい、他の者から「蛇に足などない」と言われ、賭けに負けて酒を飲み損ねたという故事から。 あっても意味のない余計なもの、無用なものの意味となった。 「要」は腰(こし)で、「領」は襟(えり)の意味。 衣服を扱うときに必ず腰と襟の部分を持つことから、物事の要点の意味が生まれた。 「要領を得ない」とは、要点がはっきりしないことで、「要領がいい」は処理や立ち回りがうまいことを言う。 ちなみに要領と同じ意味の「コツをつかむ」の「コツ」は、漢語の「骨」から。 【圧巻】 昔、中国の官吏(かんり:役人)の登用試験で、答案用紙のことを 「巻」と言った。 「圧」は上からおさえる意で、最も優秀な者の「巻」を一番上に載せていたことから、最もすぐれた部分や場面のことを「圧巻」と言うようになった。 【丁寧】 昔、中国の軍隊で使っていた金属製の打楽器のこと。 注意や警戒の知らせのために使ったことから、礼儀正しい、注意深いの意味を持つようになった。 【紅一点】 中国の王安石の詩「万緑叢中(ばんりょくそうちゅう)紅一点」から。 多くの緑の草木の中にただ一つだけ赤い花が咲いていることの意で、多くの男性の中にただ一人女性がいることに使われるようになった。 西洋、中国、日本の文化、建築、音楽、体の部位や動植物まで、言葉の語源は様々です。 古人の叡智によって生み出された言葉、その大元を探って新しい発見をするのも漢字の面白さのひとつです。 語源の知識を蘊蓄として蓄えれば、自ずと漢字力もアップするでしょう。

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漢字は聖書の真理を表す

聖書 に 由来 する 言葉 は

ヘブライ語は2つあります。 まず1つ目は、古典ヘブライ語と言われる古代ヘブライ人が使用していた言語です。 古代ヘブライ人は現在のパレスチナで生活していたとされ、ユダヤ人の母体となった存在です。 ちなみにヘブライは、ユーフラテスという中東地域に流れる川を越えて移住した人々をへブル人と呼んだことに由来します。 古典ヘブライ語は、ヘブライ人が日常使っていた言語とカナン語という中東地域の言語が混ざった言語だとされています。 当時はアラム語が席巻していましたが、徐々にこちらの言語が使われていきました。 ユダヤ人がディアスポラで散り散りになったため、日常的に使われることはなくなってしまいました。 現代ヘブライ語|イスラエルのユダヤ系住民の言語 ヘブライ語の人名、1つ目はジョンです。 男性名でキリスト教の聖人ヨハネに由来し、神は親切を意味します。 ちなみに、ヨハネはラテン語形式です。 ヘブライ語ではヨハナンという単語になります。 新約聖書には洗礼者とキリスト教の使徒の2人のヨハネが登場します。 洗礼者ヨハネはイエス・キリストに洗礼を授けた人物です。 十二使徒のヨハネはイエスの最初の弟子だったそうです。 ヤコブという兄弟がおり、2人で漁をしていたところ、声をかけられて弟子になりました。 気性の激しさから雷の子の愛称が付けられています。 キリスト教の十二使徒の中では唯一生涯を全うし、トルコ西部のエフェソスで亡くなりました。 ヨハネにはジョニー、イアン、ジャン、ハンスなど派生形がたくさんあります。 ヨーロッパ以外に、アフリカにもDeshawnなどヨハネのルーツがある名前があります。 男性名でイスラエルの英雄ダヴィデに由来し、愛される・伯父の意味の単語です。 ダヴィデの正式名はダーウィーズです。 旧約聖書に彼の功績が記されており、それによるとゴリアテという巨人の敵と戦って倒し、その後の戦争も勝ち抜いてイスラエルの王となったそうです。 ダビデは王として40年イスラエルを統治したのち、息子のソロモンに王位を譲りました。 死後は、芸術の対象となりダビデ像などの作品が生み出されています。 また、新約聖書によると、イエスはダビデの子どもとされています。 ちなみに、トランプのスペードの王様はこのダビデがモデルになったそうです。 現在のイスラエル国旗の六芒星はダビデの星と呼ばれ、ユダヤ人の象徴となっています。 デイビッドの派生形はダヴィド、デイブなどがあります。 女性形はダビナです。 女性名でヘブライ語のDevorahに由来し、蜂蜜を意味する単語です。 旧約聖書では女性の預言者、乳母の2人が登場します。 預言者デボラは士師と言われる裁判官のような仕事をしていました。 彼女が裁判をしていた場所を「デボラのナツメヤシの木」と呼んでいたそうです。 デボラが士師となったのは、カナン人の支配下にあったイスラエルの民衆の頼みによるものです。 のちにデボラはバラクという同僚とともにカナン軍と戦う兵士を召集し、その際にした預言が的中しました。 戦いには勝利し、士師記5章では歌を贈られています。 デボラは士師の中で唯一の女性であり、夫よりも活躍していました。 デボラにはデビー、デブといった短縮形があります。 長らくユダヤ人の間でのみ使用されていた名前で、イギリスで使われだしたのは清教徒革命以降です。 旧約聖書のレビに関係する男性名で、参加した・付属したという意味がある単語です。 リヴァイは英語読みで、オランダではレビと発音します。 ユダヤ人が主に使用する名前です。 イギリスにはデボラと同じように清教徒革命の後に入ってきました。 聖書のレビはヤコブというヘブライ人の息子で、彼と一緒にエジプトへ移り住んだのち、レビというイスラエルの一族の始祖となりました。 レビは職業と土地を受け継がなかったために、彼の子孫はイスラエルで重要とされる氏族から外れています。 その代わりに、祭司の仕事を父親から与えられています。 旧約聖書のレビ記には、祭司の規則やユダヤ人のための規則が記されています。 ちなみに、このレビ記はモーセが書いたとされています。 出エジプト記で有名なモーセはレビ族の出身です。 彼はアーロンという同族とともに、奴隷であったイスラエル人を脱出させることに成功しました。 日本人女性の人名1つ目は、直美です。 なおみや尚美などの表記の仕方も豊富ですが、ユダヤ人名でもある名前です。 由来は旧約聖書のルツ記に登場するナオミで、愉快な・愛想の良いという意味です。 エリメリクという男性の妻であったナオミは、夫の死後に息子の妻であるモアブ人のルツと生活し、彼女の再婚を見届けます。 ルツが再婚したのはナオミの夫の親戚であるヘブライ人でした。 2人の間に産まれた子はナオミが預かって育てたそうです。 この子孫からあのダヴィデ王が誕生します。 聖書にルツ記があるのは、ダヴィデ王のルーツに異なる民族の人間がいて、それを神が受け入れる寛大さを象徴するためだという解釈がされています。 この名前もユダヤ人によって長く用いられてきました。 イギリスで一般的になったのは清教徒革命後、日本で使われるようになったのがいつ頃なのかははっきりしていません。 短縮形の麻里などもよく見かける名前ですね。 この名前はキリスト教の聖母マリアに由来します。 マリアのヘブライ語表記はミリアムです。 正確な意味は分かっていませんが、苦しみの海・反抗・子どものために祈るといった仮説があります。 聖母マリア以外にマグダラのマリアも有名です。 福音書によると、イエスの母マリアは処女のまま出産したことになっています。 そのため「処女マリア」や「乙女マリア」といった称号が贈られています。 ほかに「神の母」「我らが貴婦人」といった呼び名があり、特にカトリック教徒に崇拝される存在です。 マグダラのマリアは娼婦扱いでしたが、最近は見直す動きがあります。 日本で最古のマリアは京極マリアという安土桃山時代の女性です。 彼女は浅井久政の娘で、キリスト教の神父からドンナ・マリアという洗礼名を授かったことでマリアと名乗るようになりました。 海外ではキリスト教の影響もあり、ユダヤ人以外でも古くから使われてきた名前です。 サラには沙羅双樹由来の名前もありますが、ユダヤ人名のサラが由来の場合もあります。 ヘブライ語で意味は貴婦人・王女となります。 旧約聖書ではアブラハムの妻として登場し、ユダヤ人にわれらの母と呼ばれる存在です。 理由は、夫・アブラハムが最初のヘブライ人とされているためです。 聖書によると、彼女は不妊でしたが90歳のときに息子イサクを産みました。 それ以前にアブラハムの側女がイシュマエルという名の子を産んでおり、親子共々サラによって追放されてしまいます。 のちにイサクはユダヤ人の太祖として、イシュマエルはアラブ人の先祖として称えられるようになります。 日本では、江戸時代初期にやってきたヤックス・スベックスというオランダ人が日本人との間にもうけた娘がサラだということが分かっています。 サラは日本語に近い響きで馴染みやすいので人気な名前です。 こちらの記事でさらに使える漢字を知りましょう。 日本人男性の名前1つ目は、譲です。 作曲家の久石譲さんが有名ですね。 ジョーはラテン語のジョゼフの変化形であり、元々はヘブライ人名のヨセフです。 単語の意味は加える・すすぐとなります。 母親のラケルの初めての子どもで、神がその恥を注いだという説と、もう一人男の子を加えることを神に願ったという説があります。 このヨセフは、旧約聖書にユダヤ人の祖先であるヤコブの11番目の子として登場します。 ヨセフは父親に溺愛され、他の兄弟から妬まれた結果エジプトに向かいます。 そこで宰相にまで登り詰め、イスラエルを大飢饉から救うことになります。 兄弟たちとは飢饉の最中にエジプトで再会し、紆余曲折を経て仲直りを果たしました。 譲によく似た譲二という名前はジョージが由来のため、ジョーとは関係がありません。 ジョーの派生形としては、ジョーイ、ジョゼ、ジュゼッペが代表的です。 ウルトラマン7にちなんで名付けられる名です。 ダンの由来は2つあり、1つはヘブライ人名のダンが由来で、彼は判断したという意味です。 ヨセフと同じようにヤコブの子で、ダン族の先祖として名を残します。 のちに、ダン族からはサムソンという怪力の士師が旧約聖書に登場します。 もう1つの語源は、ダニエルというヘブライ人名です。 ダニエルの短縮形はダンで、意味は「神は私の審判者」です。 旧約聖書にバビロン王に仕える賢明な男性として登場し、色々な謎解きや預言をしています。 ある説ではこのダニエルは想像上の人物で、当時抑圧されていたユダヤ人を励ます意味がある書だとしています。

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目からウロコは新約聖書からだった!意外な言葉の由来 [漢字検定] All About

聖書 に 由来 する 言葉 は

漢字は聖書の真理を表す 聖書の真理を表した漢字が、なぜこうも多いのか。 アダムとエバ 私たちの普段使っている漢字の多くは、不思議なことに、聖書的な真理を表しています。 たとえば、どんなものがあるでしょうか。 義 その一つに、「義」という漢字があります。 私たちは決して、自分の行ないによって義とされて救われるのではありません。 行ないにおいて完全な人はいないからです。 もし善行や、完全に正しい生活を条件にするなら、誰一人救われる人はいません。 私たちは、キリストの十字架の贖いによって、救われるのです。 キリストは、私たちの罪を全部背負って、身代わりに (あるいは私たちの存在を引き込んで)死んでくださいました。 この死により、信じるすべての人に罪の赦しが与えられます。 自分のすべての罪が赦され、神の前に「義」 (正しい)と認められます。 「義」という字は、 義=羊+我 となっています。 聖書でキリストは、象徴的に「犠牲の小羊 (羔)」と呼ばれていますから、「義」とは、 "小羊なるキリストが我の上にあること" です。 「義」とは、自分 (我)の上にキリストを置き、自分の救い主として王座にお迎えすることなのです。 この「義」の字は、中国で伝道したイギリス人宣教師ハドソン・テーラーが、よく用いたことでも有名です。 船 ノアとその家族は、彼の時代に起きた大洪水のとき、「箱船」に乗って救われました。 このときノアとその妻、また彼らの息子セム、ハム、ヤペテとその妻たち、計八人が箱船によって救われたのです (Iペテ三・二〇。 「船」という字は、中国人テモテ・ザオ宣教師や、C・H・カング宣教師によると、もともと"ノアの箱船"のことだそうです。 「船」は、 船=舟+八+口 となっています。 このうち「口」は、「人口」という言葉にも見られるように、人のことです。 中国では人を数えるのに「口」を用いました。 つまり「船」は、 "八人の乗った舟" ということです。 つまりノアの箱船のことなのです。 「船」に限らず、漢字の中には、創世記の内容を表した漢字が多くあります。 次のものもそうです。 ノアの箱舟には8人乗っていた。 造 聖書・創世記二・七に、 「神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。 そこで、人は生きものとなった」 と書かれています。 土から形造られた肉体に、いのちの息=霊が吹き込まれて、人が「創造」されたのです。 創造の「造」の字は、 造=土+ノ+口+ となっています。 このうち、「土」は、アダムの肉体を形成した「土」を思い起こさせます。 また「ノ」 のかんむり は、生命を表すものだそうです。 たとえば「鳥」「牛」「血」「生」の字に見られるように、「ノ」は生命に関係しています。 「口」は、いのちの息をアダムに吹き入れる神の口を想起させます。 また「 」 (しんにゅう)は、歩行を表します。 たとえば「送」「退」「迎」「追」「逃」「迷」「進」「道」などの字に見られるように、「 」は歩行を表すのです。 ですから「造」の字は、 "土に、神の口からいのちの息 (ノ)が吹き込まれ、歩く ( )ようになったこと" を表すもので、まさにアダム創造の出来事を想起させる字であるわけです。 先 アダムは、人類最初の人でした。 彼が、人類で一番「先」の人だったのです。 この「先」という字は、 先=土+ノ+ となっています。 「 」は、「 」 (にんべん)と同じように、「人」を表します。 つまり「先」は、 "土で形造られ、生きる(ノ)ようになった人( )" のことで、まさにアダムのことです。 アダムが、「先」なのです。 元 さて、神はアダムを造られたのち、女エバを造られました。 アダムのわきから取って、エバを造られたのです。 彼らアダムとエバが、私たち全人類の両親です。 彼らが全人類の「元」となりました。 この「元」という字は、 元=二+ です。 先に見たように「 」は人を意味しますから、これは、 "二人" ということで、私たちにアダムとエバの二人を思い起こさせます。 彼ら二人が、全人類の「元」となったのです。 完 アダムはエバを妻とし、一つの住まいをかまえました。 こうして家庭が「完全」になりました。 この「完」という字は、先の"二人"を意味する「元」に、「 」 (うかんむり)をかぶせたものです。 「 」は、屋根を意味します。 つまり「完」は、 "一つ屋根 ( )のもとにアダムとエバの二人 (元)が暮らすようになった" ことを表し、こうして家庭が「完全」になったのです。 田 アダムとエバは、「エデンの園」に暮らしていました。 聖書によるとエデンの園からは、地下水がわき出ていて、四つの川となっていました。 「一つの川が、エデンから流れ出て園を潤し、そこから分かれて四つの川となった」 (創世二・一〇 と書かれています。 日本語で「田」というと「田んぼ」のイメージしかありませんが、じつは中国で「田」は「田んぼ」だけでなく、「園」や「畑」のようなところも意味しました。 つまり「田」の字は、まさに四つの川が流れ出ていたエデンの園を、思わせる字であるわけです。 果 エデンの園の中央には、「いのちの木」と「善悪を知る木」が生えていました。 それらの木は、それぞれ「果実」をならせていました。 果実の「果」は、 果=田+木 となっています。 「果」とは、もともとエデンの園の木の果実を表したようです。 エデンの園の中央には、「いのちの木」と 「善悪を知る木」とがあった。 裸 アダムとエバは、罪を犯す前は、裸でした。 また、裸を恥ずかしいとは思いませんでした。 「そのとき人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいとは思わなかった」 (創世二・二五。 しかし彼らが神の命令に背き、「善悪を知る木」の果実を取って食べたとき、不思議にも彼らは自分たちが「裸である」と思うようになりました。 そして以後「衣」を着るようになりました。 「裸」という字は、 裸=衣 ころもへん +果 です。 つまり「裸」とは、 "果実を食べ、衣を着るようになった以前の状態" を意味する言葉に思えます。 福 アダムは、エデンの園で創造されてのち、神の「祝福」のもとにありました。 この「福」( )という字は、 福=ネ(示)+一+口+田 となっています。 このうち、「ネ」 (しめすへん)は、じつは単に「示す」ということでなく、「神」を意味するものです。 たとえば「禊 (みそぎ)」 (清め)、「祠官 (しかん)」 (神官)、「祠祀 (しし)」 (やしろを建てて祭ること)というように、「示」 (しめすへん)は、それだけで神を表すのです。 また「一」は、数字の「一」です。 「口」は、「くち」の意味もありますが、中国では「人」の意味もあります。 日本でも、「人口」という言葉があるように、昔の人々は口の数をもって人を数えたのです。 また「田」をエデンの園と解すれば、結局「福」の意味は、 "一人の人 (口)がエデンの園 (田)で、神 (示)と共にいる" ことです。 神はエデンでアダムと共にいて、彼を祝福されたのです。 禁 神はエデンの園の中央に、二本の木「いのちの木」と「善悪を知る木」を生えさせられました。 そしてそれら二本の木を示して、人に命じられました。 「善悪を知る木からは、取って食べてはならない」 (創世二・一七。 神は、一つの禁止事項を示されたわけです。 この「禁」という字は、 禁=木+木+示 で、"二本の木を示す"ということです。 神は二本の木を示し、そこで禁止事項を語られたのです。 魔 そののち、アダムとエバのもとにサタン=悪魔が、「へび」の姿をして近づいてきました。 そしてふたりを誘惑しました。 悪魔の「魔」という字は、 魔= +木+木+鬼 というふうになっています。 このうち「 」 まだれ は、"おおい"を表します。 また二本の「木」は、エデンの二本の木を思い起こさせます。 つまり悪魔は、 "二本の木の陰に隠れていた ( )鬼" であったわけです。 この「鬼」ですが、 鬼=田+ノ+ム+ となっています。 「田」はエデンの園、「ノ」は生きていること、また「ム」は、漢字辞典によると「ぼう」と読み、「某」の意味だとのことです。 「 」は人です。 つまり「鬼」とは、 "エデンの園にいたある霊的存在" を意味するものでしょう。 世 ノアの大洪水以前の地球の上空には、「大空の上の水」 創世一・七 と呼ばれる水蒸気層があったので、それが宇宙から飛んでくる有害な宇宙線や紫外線を遮断し、地上の人々の寿命を長く保っていました。 しかし大洪水後、その水蒸気層がなくなると、地上の人々の寿命は激減し、長くても「一二〇歳」 創世六・三 程度となりました。 また人が親になる年齢も早くなり、「一世代」は約三〇年程度になりました。 創世記一一章を見ると、大洪水後の人々は、だいたい三〇歳前後で第一子を生んでいます。 昔は「三十」を「卅」と書きました。 この「卅」から「世」の字が生まれたようです。 実際漢字辞典を見ると、「世」には"三十年"の意味もある、と書いてあります。 このようにノアの大洪水以後、一世代は約三〇年になったのです。 乱 大洪水後、人々は再び地上に増えていきました。 数百年たって、地上に最初の帝国主義があらわれました。 人々は、その帝国主義の象徴として、「バベルの塔」と呼ばれる巨大な塔を建設しようとしました。 しかし神は、その試みをお喜びにはなりませんでした。 神は人々の言葉を「乱す」ことによって、塔の建設を中断させ、人々を全地に散らされました。 「それゆえ、その町の名はバベル (混乱の意)と呼ばれた。 主 (神)が、全地の言葉をそこで混乱させたから、すなわち主が人々をそこから地の全面に散らしたからである」 (創世一一・九。 「乱」という字は、 乱=舌+ となっています。 「舌」は言葉を話す舌、「 」は人を意味する「兀」の右足部分です。 つまり「乱」は、 "人々が舌をみだされ、全地に散って歩いて いった" という、バベルの塔の出来事を象徴している字に見えます。 架 バベルの塔から二千数百年の歳月が過ぎ、ついに紀元前四年、ユダヤのベツレヘム村にイエス・キリストが降誕されました。 このかたは、旧約聖書によって何百年も前から予言されていた通り、私たちを罪と滅びから贖ない出すために、十字架にかけられました。 十字架の「架」の字は、 架=力+口+木 となっています。 「口」は、先に見たように人の意味ですから、これは、 "力あるかた (口)が木の上におられる" という意味です。 私たちはこの"木にかけられた力あるかた"を信じることによって、罪と滅びと呪いから救われるのです。 「架」とは、力ある方が木の上におられたこと。 救 キリストのことや、キリストがお与えになる「救い」については、すべて『聖書』の中に記されています。 「救」の字は、 救=求+文 で、"聖書という文を求めること"です。 私たちは神の御言葉=聖書を求めることによって、「救い」を見いだすことができるのです。 忙 一方、神の言葉=聖書を求めず、日常の事ばかりに「忙しく」していると、救いを見いだすことはできません。 「忙」の字は、 忙=心+亡 で"心を亡ぼす"と書きます。 日常の事ばかりに忙しくしていないで、聖書を求め、永遠を思い、神を思うことが大切なのです。 信 私たちは創造主なる神を信じ、救い主なるキリストを信じることが大切です。 私たちは、そのことによって救われるのです。 「救い」とは、結婚のようなものなのです。 男性が女性に求婚しても、女性が「ウン」と言わなければ結婚はできないでしょう。 また女性が男性に求婚しても、男性がそれを受け入れなければ結婚はできないでしょう。 同様に、「救い」は人が神との"愛と生命の交わり"の中に入ることですから、人の側で、 「はい、神様とイエス様を信じます」 と言って、神様とイエス様を心に受け入れなければ、神との交わりには入れず、救われません。 私たちは、素直に神とキリストを信じる「信仰」によって救われるのです。 「信」の字は、 信= +言 で、「 」と「言」が夫婦のように互いに寄り添っています。 「 」 (にんべん)は人です。 一方、キリストは聖書の中で、「神の言」とも呼ばれています。 「はじめに言 ロゴス があった。 ・・・・このかたは初めに神と共におられた。 ・・・・言は人となって、私たちの間に住まわれた」 (ヨハ一・一〜一四。 つまり「信」とは、 "人が神の言なるキリストと共に歩むこと" です。 キリストが「花婿」、私たち人間が「花嫁」なのです。 木 「木」の字をよく見ると、"十" (十字架を表す)と"人"から成っています。 木=十+人 "人"が"十字架"につけられているのです。 "木"はまさに、キリストの十字架を思わせるものです。 木は、十+人である。 それはキリストの十字架を思わせる。 休 「休」は、"人"と"木"から成っています。 休=人+木 「休」の字の中で"人"が"木"に寄りかかっているのです。 "木"は先に見たように、キリストの十字架です。 すなわち、私たちが真に「休む」ためには、十字架にかかるほどに私たちを愛されたイエス・キリストのもとへ行くことです。 イエスは言われました。 「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。 わたしがあなたがたを休ませてあげます」 (マタ一一・二八。 来 イエス・キリストは、 「わたしは、世をさばくために来たのではなく、世を救うために来た」 (ヨハ一二・四七 と言われました。 この「来」という字は、まさに、キリストの十字架を表しているように思えます。 『中国字福音教材』も同じ視点からとらえているのですが、「来」は古くは「來」と書き、「來」の字を見ると、"十" 十字架 と、ふたりの小さな"人"、およびひとりの大きな"人" (キリスト)から構成されています。 來=十+人+人+人 これは、聖書の次の記述を思わせるものです。 「ほかにも、ふたりの犯罪人が、イエスと共に死刑にされるために、引かれていった。 ・・・・人々は、イエスと犯罪人とを十字架につけた。 犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に」 (ルカ二三・三二〜三三 イエスは、ふたりの犯罪人らと共に、十字架にかかられました。 それは私たち罪人のために、あがない 救い の死を全うされるためでした。 十字架の死こそ、イエスがこの世に「来られた」目的だったわけです。 イエスは、十字架の贖ない (救い)のために世に「来られ」ました。 キリスト来臨の目的である十字架の光景が、このように「來」の一字の中に、示されているのです。 こうしたことを見ると、なんと聖書の記事と深いかかわりがあるだろうかと、思わざるを得ません。 計 キリストが世に来られ、人々の贖いのために十字架にかかられることは、神のご計画によるものでした。 聖書に、 「イエスが (十字架に)渡されたのは、神の定めた計画と予知とによる」 (使徒二・二三 と記されています。 この「計画」の「計」の字ですが、"言"と"十" 十字架 から成っています。 計=言+十 "言"から思い起こされることは、聖書でキリストは「神の言」と呼ばれていることです。 「言は人となって、私たちの間に住まわれた」 ヨハ一・一四 つまり「計」の字は、神の"言"なるキリストが"十字架"にかかられることを、示しています。 神の"言"が"十字架"にかかることが、神の「ご計画」だったのです。 「キリストは、すべての人の贖ないの代価として、ご自身をお与えになりました」 Iテモ二・六 キリストは、神のご計画にしたがって世に来られ、さらには十字架上で尊い血潮を流して、「すべての人の贖いの代価」となられたのです。 聖 「聖」は、聖書の中にはよく出てきます。 「聖」は一般には、「清くて罪のない」の意味に思われています。 しかし聖書において「聖」は、そうした意味よりむしろ、"神に属するもの"の意味に使われます。 「聖」は神に属することを表し、「俗」はこの世に属することです。 聖書はクリスチャンたちのことを「聖徒」と呼んでいますが、これはクリスチャンが全く罪のない人間という意味ではなく、神に属する者たちである、という意味であるわけです。 さて「聖」の字は、"耳"と"口"と"王"から成っています。 聖=耳+口+王 これは、聖書の次の言葉を思い浮かべさせるものです。 「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについての御言葉によるのです」 (ロマ一〇・一七 「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われる」 同一〇・九 結論はこうです。 キリストは、われらの"王"です。 そのかたについての御言葉を"耳"で聞き、そのかたを心に受け入れて、キリストこそ人生の「主」また"王"であると"口"で告白するなら、あなたは救われます。 罪と滅びから救われ、「聖」とされるのです。 つまり神に属するもの、神のものとされるのです。 「聖」は、キリストを"耳"で聞き、彼こそ"王"であると"口"で告白した者のことを示しているように思えます。 滅 「滅」という字は、恐ろしいものです。 「滅」は、"水" (さんずい)、また"火""成"からできています。 滅=水+火+成 聖書にはこう書かれています。 「当時の世界 ノアの大洪水の時の世界 は、その水により、洪水におおわれて滅びました。 いわゆるノアの大洪水です。 また来たるべき日には、今度は"火"によって滅ぼされることが、はっきりと警告されています。 天地は、世の終わりに、火のうちに過ぎ去るのです。 すなわち神による滅びは、「滅」の字自体に示されるとおり、水と火によって成就するわけです。 世界の「滅」は"水と火によって成る"のです。 なんと驚くべき、漢字の意味する聖書の真理でしょうか。 「滅」の字は、「水」と「火」と「成」からできている。 神 「神」という字は、"示" (しめすへん)と、"申"から成っています。 神=示+申 「神」の字が私たちに教えてくれることは、真の神は「示し」「申す」かたである、ということです。 これは、偶像の神と対照的です。 偶像の神は、 「口があっても語れず、目があっても見えない。 耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。 手があってもさわれず、足があっても歩けない。 のどがあっても声をたてることもできない」 (詩篇一一五・五〜七 者です。 しかし聖書の神は、そうではありません。 真の神は、つねに私たちに働きかけ、アクションを起こしておられます。 自らを「示し」、語りかけておられるのです。 神はおもに三つのものを通して、私たちにご自身を「示し」、語りかけておられます。 一つは大自然です。 「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせ」 (詩篇一九・一 ています。 すべての被造物は、神の永遠の力と神性を表しています。 二つ目は、聖書です。 神は聖書を通して、私たちに語りかけておられます。 そして三つ目が、神の御子イエス・キリストです。 「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われ」 (ヘブ一・三 です。 神はご自身を、御子キリストを通し、完全なかたちで私たちに啓示されました。 初 「初」という字は、"衣" ころもへん と、"刀"から成っています。 初=衣+刀 聖書を読んでみましょう。 こう記されています。 「神である主は、アダムとその妻のために皮の衣を作り、彼らに着せてくださった」 (創世三・二一 アダムとエバは、神の御言葉に従っていた時は、裸だったのですが恥ずかしいとは思いませんでした。 しかし御言葉に反して罪を犯してからは、自分たちが裸であることを、恥ずかしく思うようになりました。 彼らは葉をつづり合わせて、腰をおおいました。 しかしそれは葉だったので、すぐに枯れてしまいました。 そこで神は、ふたりのために「皮の衣をつくり、彼らに着せてくださった」のです。 神は「初め」に「刀」を用いて、「衣」をつくられたのです。 それは罪にけがれた人を、おおうためでした。 これが、神の人間に対するすばらしい愛と赦しの「初め」です。 アダムとエバが神の御言葉を無視して罪を犯したにもかかわらず、神は愛と赦しをもって彼らを受け入れ、皮の衣を着せてくださいました。 神の愛と赦しの「初め」が、「初」の一字の中に示されているのです。 なお「皮の衣」の出来事は、キリストの尊い血潮が流されることによって私たちに着せられる「義の衣」 (イザ六一・一〇 の予型だとも言われています。 被 「被」という字は、"皮"と"衣" ころもへん から成っています。 被=皮+衣 つまり「被」は、もともと「皮の衣」であった被服を表すものです。 「皮の衣」が、アダムとエバを「被った」のです。 「被」とは、皮+衣である。 また「初」は衣+刀である。 住 「住」という字は、"人" にんべん と、"主"から成っています。 住=人+主 つまり"人"が"主イエス"と共にいること、それが「住む」ことです。 そのときにこそ、人は安住できるのです。 英語では「生きること」も「住むこと」も、同じくliveと言いますが、「住む」ことは、すなわち生きることでもあります。 "人"が"主イエス"と共にあゆむとき、人は真に「生きる」ことができるのです。 命 「命」の字は、"一"と"人"と"叩"から成っています。 命=一+人+叩 つまり、"一人のひとが叩ふりがなたたいている"わけです。 聖書の次の言葉が浮かんできますね。 「見よ。 わたし (キリスト)は、戸の外に立って叩く。 誰でも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは彼のところに入って、彼と共に食事をし、彼もわたしと共に食事をする」 (黙示三・二〇 キリストは、私たちの心の戸を叩いておられます。 そして私たちの心に入って、私たちと共に生きたい、と願っておられます。 私たちは心の扉を開いて、彼を内に迎え入れされすれば、彼の与える「永遠の命」に生きることができるのです。 「見よ。 わたしは戸の外に立って叩く」 協 聖書に、 「三つよりの綱は、たやすくは切れない」 伝道四・一二 とありますが、私たちが力を合わせて「協力する」ことは、強い力を生み出します。 また聖書に、 「私たちは神の協力者である」 Iコリ三・九 とあるように、クリスチャンは互いに神のために力を合わせています。 「協」の字を見てみると、"十" 十字架 と、三つの"力"から成っています。 協=十+力+力+力 まさに、私たちが"十字架のキリスト"と共に、「三つよりの綱」のごとく互いに"力"を合わせていくことこそ、クリスチャンにとっての「協力」と言えるのではないでしょうか。 道 主イエス・キリストは言われました。 「私が道です」 (ヨハ一四・六 この「道」という字は、"首"と" " (しんにゅう)から成っています。 道=首+ "首"について、聖書にはこう書かれています。 「キリストは教会の首 (かしら)」 エペ五・二三 文語訳。 「かしら」は今は「頭」と書きますが、昔は「首」とも書いたわけです。 キリストが"首"なのです。 一方" " (しんにゅう)は、「行く」とか「歩く」の意味を持っています。 それは「迎」「追」「迷」「速」「通」の字に見られるように、歩行を表します。 つまり「道」は、"かしら" (首)なるキリストの"歩まれた"道のことでしょう。 キリストは私たちに、模範として足跡を残されたのです。 「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を示されました」 (Iペテ一二・二一。 私たちは人生の中で、「これが道だ」「あれが道だ」という多くの声を聞きます。 しかし真実の道は、一つしかありません。 すなわち、イエス・キリストの示された道です。 私たちは迷わず、この道を歩もうではありませんか。 「信」とは、人が神の言なるキリストと歩むこと。 「道」とは、"かしら"なるキリストの歩まれた道。 こうして見てみると、聖書の真理を表した漢字がなんと多いことでしょうか。 こうした漢字はユダヤ人やクリスチャンたちが発明したのではないか、と思えてきますね。 Kang and Ethel R. Nelson, Concordia Publishing House, U. 表示される文章はこちらです。

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