船村 徹。 作曲家・船村徹 魂の旋律20曲!“みだれ髪”から“矢切の渡し”まで

作曲家・船村徹の名曲をたどる『追悼 船村徹 大全集』発売

船村 徹

1932年6月12日生まれ、栃木県塩谷郡船生村(現・塩谷町)出身の作曲家/歌手。 本名は福田博郎。 東洋音楽学校(現・東京音楽大学)ピアノ科在学中に歌謡曲へ転向。 盟友の作詞家・高野公男と精力的に曲作りに励み、53年に作曲家デビュー。 55年に春日八郎「別れの一本杉」を皮切りに、戦後初のミリオンセラーとなった村田英雄「王将」などヒットを量産。 88年よりフリーとして「風雪ながれ旅」「兄弟船」「矢切の渡し」など歌謡史に輝く名曲を多数輩出。 95年の紫綬褒章や2016年の文化勲章など受章歴も多数。 日本作曲家協会最高顧問を長年務め、刑務所の慰問など社会福祉活動にも尽力。 2017年2月16日、神奈川県藤沢市の自宅で死去。 84歳没。 すべて表示 閉じる 1曲まるごと収録されたCDを超える音質音源ファイルです。 <フォーマット> FLAC (Free Lossless Audio Codec) サンプリング周波数:44. 1kHz|48. 0kHz|88. 2kHz|96. 0kHz|176. 4kHz|192. 0kHz 量子化ビット数:24bit• ハイレゾ商品(FLAC)の試聴再生は、AAC形式となります。 実際の商品の音質とは異なります。 ハイレゾ商品(FLAC)はシングル(AAC)の情報量と比較し約15~35倍の情報量があり、購入からダウンロードが終了するまでには回線速度により10分~60分程度のお時間がかかる場合がございます。 ハイレゾ音質での再生にはハイレゾ対応再生ソフトやヘッドフォン・イヤホン等の再生環境が必要です。 詳しくは をご確認ください。

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船村徹記念館 クチコミ・アクセス・営業時間|今市【フォートラベル】

船村 徹

大ヒット曲「別れの一本杉」は、船村徹が23才の時の作品。 作詞した高野公男は2才年上の25才だった。 船村は当時、銀座の流しをして歌い、キャバレーのバンドマスターもしていた。 高野は大ヒットの翌年、昭和31年9月8日に26才の若さで亡くなる。 船村は24才だった。 その日以降、日本の作曲界を代表する今日まで、彼は高野の意思を歌づくりの中心に置き続けている。 「二人の出会いから別れまでは、わずか7年でしかない。 しかし、その7年が私の原点であり、全てのような気がする。 高野は今でも、私の中で生きている」「高野の無念を思えば、私は彼の分まで生き、二人で誓い合った夢に向かって、歌を書き続けることが、自分の使命だと思っている」 船村は常々、こう語っていた。 船村の一年は、9月の高野の祥月命日の墓参りから始まる。 没後60年の今日まで、それが変わることはなかった。 日本人は信義を貴び、友情に厚い民族である。 故郷を愛し、家族と相和し、古い良いものを大切にする。 温故知新の賢明さも持つ。 しかし、船村の高野を追悼する思いの熱さは、一個人への友愛に止まってはいない。 船村が高野から受け継いでいるものは、日本人としての身の処し方から歌づくりまでの、独特の美学であり、特異な美意識なのだ。 功なり名遂げた船村(享年84歳)の胸中に揺れていたのは、「24才の別れ」の痛恨と「わずか7年の交友」で体得した全人生そのものだった。 だとすれば彼が紡ぎ出したおびただしい数のヒット曲の核にあるものは「愛」であり「祈り」だろう。 彼の作品が日本人の心を打ち、外国の人々の心にも通じるのは、彼が日本の歌、つまりは日本のソウルミュージックの稀有の書き手であり、作品に「祈る」心の熱さが託されているせいだろう。 館内では飲食・喫煙・ペットの連れ込み(補助犬を除く)・展示物(映像音声等含)の写真動画等による撮影録音はご遠慮ください。 DVD製作可能曲 別れの一本杉 春日八郎 あの娘が泣いている波止場 三橋美智也 男の友情 青木光一 風説ながれ旅 北島三郎 さだめ川 ちあきなおみ 兄弟船 鳥羽一郎 哀愁波止場 美空ひばり 女の港 大月みやこ 矢切の渡し ちあきなおみ 東京だョおっ母さん 島倉千代子 みだれ髪 美空ひばり 王将 村田英雄 北窓 森サカエ おんなの出船 松原のぶえ おんなの宿 大下八郎 柿の木坂の家 青木光一 紅とんぼ ちあきなおみ 海の祈り 鳥羽一郎 ひばりの佐渡情話 美空ひばり のぞみ 希望 船村徹.

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【船村徹さん死去】妻の佳子さん「旦那としては最低。作曲家としては最高」

船村 徹

演歌の世界で、並ぶものがない大御所の作曲家。 昭和7年、栃木県船生村生まれ。 父親は獣医だった。 高校時代は数学が苦手で、教室ではいつも一番前に座らされていたという。 そこで数学の教師からは、「いつもいじめられていた」 本人談 という。 大学受験には全く自信がなかった。 そのころ、船村は音楽部の部長をやっていて、そこへ同級生が、「ここなら入れるんじゃないか」と音楽学校の入学願書を持ってきた。 そして入学、昭和24年のことだった。 その東洋音楽学校 現東京音楽大学 ではピアノ科に学ぶ。 同校の声楽科に在籍していた高野公男と知り合い、二人で作品作りを精力的に始める。 昭和20年代、まだ駐留米軍が数多くいた時代、船村は米軍キャンプ専門のバンドでそのリーダーをつとめたこともあったという。 高野と共に生活は困窮を極め、バンド・リーダーのほか流しの歌手なども経験する。 ただ栃木にいる頃は、生活には困窮し朝食は向こうが透けて見えるトースト一枚。 あとは水を飲んで飢えをしのいだという。 「ピアノを弾くことはエネルギーがいりますから」とても腹が減って、辛かったとも船村は語っている。 そこで知り合った同級生・高野公男の弁当からにぎりめしを取って食べてしまったことをきっかけに仲良くなり、一生の「友人」としての交際がはじまった。 その高野が、「焼け野原で働く大衆のための歌を作れ」と言い出して、船村は演歌を志すようになった。 船村が栃木の出身、高野が茨城。 ともに地方出身ということもあり、意気投合したこともあったらしい。 ともに演歌を自分の仕事と思い定め、二人揃って貧乏暮らし。 キャバレーのボーイのアルバイトでは、客の残したビールを洗面器に集め、二人でそれを飲んだこともあったという。 この当時、東洋音楽学校の一級上に黒柳徹子がいた。 黒柳は声楽科で、そのような上級生の伴奏を勤めさせられることがあり、そのことを「指導」と呼び、船村も黒柳からたびたびそのような「指導」を受けたことがあるという。 昭和30年、キングレコードから春日八郎のデビュー作として「別れの一本杉」が発売される。 昭和31年、コロムビアレコードから招かれて、高野公男とともに専属となる。 そのとき高野26歳、船村24歳。 昭和31年8月、コロムビア入社第1作「早く帰ってコ」を発売。 その翌月、高野は26歳で結核のため亡くなってしまう。 昭和36年、村田英雄による「王将」を発売。 戦後初のミリオンセラーとなる。 昭和53年、22年在籍したコロムビアを退社、フリーの作曲家として活動を始める。 同時に、「二代目・船村徹」として、歌作りの原点に立ち返るとして、演歌巡礼の旅を発想し、全国を歌いながら回ることになる。 小さな街や刑務所で慰問し、法務大臣より感謝状を送られる。 これまでに世に送り出した作品は約4500曲。 弟子の北島三郎によれば「職人の名人芸」という。 作詩家とのつきあいは。 西條八十、野村俊夫、石本美由起、丘灯至夫、西沢爽といった、いまでは超ベテランと呼ばれるひとたちから、なかにし礼、吉岡治、阿久悠に繋がる幅の広さだ。 「柿の木坂の家」「早く帰ってコ」「あの娘が泣いてる波止場」「矢切の渡し」「おんなの宿」「王将」「新宿情話」など、多くの人たちが、折りにふれて口ずさむ歌の数は、圧倒的に多い。 日本作曲家協会理事長を、吉田正から引き継ぎ平成17年まで務めた。 作曲家として十分以上の実績を積み上げながら現役にこだわりつづけ、今なお作曲を休まない。

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