ベートーベン 生涯。 ベートーベン(年譜)(べーとーべんねんぷ)とは

ベートーヴェンのおすすめ名曲15選を彼の生涯や逸話とあわせてご紹介 | VOKKA [ヴォッカ]

ベートーベン 生涯

こんにちは。 千葉市中央区、花見川区でピアノ教室を主宰、指導歴30年以上の鳥海加奈子です。 今回は、 ピアノ学習者にとって必須である、ベートーベンのピアノソナタの難易度について触れようと思います。 ベートーベンは、生涯をかけて32曲のピアノソナタを作曲しました。 全32曲もあると、まずどこから手をつけていいのやら… 戸惑ってしまう方もいらっしゃいますでしょう。 ・有名な曲を弾きたいけど、いったいどれがどの程度の難易度なの? ・自分に弾ける曲はある? と、そのように思っていらっしゃる方に向けて、私自身が過去に勉強した歳やレベルを基準にした、私なりのベートーベンピアノソナタ難易度レベル1から10までをお伝えいたしましょう。 これからベートーベンのピアノソナタを弾こうと思っている、あなたの参考になりましたら幸いです。 ベートーベンのピアノソナタの難易度レベル1~10まで それでは、難易度の易しい順レベル1から順にご紹介していきましょう。 全楽章を通して平均を取っています。 例えば1楽章はそれ程でもなくても、3楽章が難しかったり、あるいは、その逆の場合もあります。 本番まで1年間かけて準備をしました。 その時は出来る限りのことをしたつもりですが、今になれば、あれこれ足りないことばかりだったと思います。 29番は演奏時間が40分にも及ぶ大作です。 これを人前で弾けるようになる人はどれ程練習をするのでしょう…。 力量、体力、記憶力、精神力、どれも私にはかないません。 レッスンの過程でのベートーベンピアノソナタ ピアノレッスンの過程で、ベートーベンのソナタを学び始めるのは、ソナチネアルバムが終わりソナタアルバムに入る頃です。 その後さらに進度が進んだり、音大受験を考えている学習者は、全32曲2巻に分かれた電話帳のように分厚いベートーベンのソナタアルバムを、数年かけてじっくりと学習します。 私自身も高校3年間はずっと、音大受験に向け受験課題曲であるベートーベンのソナタアルバムを勉強していました。 一度譜読みをしてさらっていた曲が課題曲になれば、そこから更に深く学べるわけですから、課題曲がでる数年前からベートーベンのソナタアルバムの1曲でも多くさらう必要があるのです。 ベートーベンのピアノソナタ全32曲を前期・中期・後期で分けてみる さて、私なりのベートーベンピアノソナタの難易度レベルをご紹介したところで、全32曲が前期・中期・後期のどの時期に作曲されたものか照らし合わせつつ、彼の人生とともに振り返ってみましょう。 2-1~op. 26 no. 1~12 前期のこの時期、ベートーベンはピアニストとして活躍していましたが、作曲家としても認められ始めていました。 ベートーベンは音楽家に生まれましたが、残念ながらお父さんには恵まれませんでした。 お父さんはベートーベンを稼ぎ頭にして、自分は楽をするような人だったようです。 スパルタ教育でベートーベンをモーツァルトのように育てたかったようですが、今の世の中的に言えば純粋な教育というより、強要だったのではないでしょうか? そのせいか、ピアノを嫌いになってしまった時期がベートーベンにもあったようです。 27~op. 90 no. 13~27 この時期から徐々に、彼は耳が聞こえなくなっていきます。 作曲家としては元より、ピアニストとしても活躍している彼としては致命的ですよね…。 どれほどの不安や焦りがあったでしょう。 そのような苦悩を抱えながらも、当時のピアノ 68鍵 をフルに活用したベートーベンらしい作風で最高傑作を出した、充実した時期です。 101~op. 111 no. 28~32 遂に全く耳が聞こえなくなりました。 また、亡き弟の息子カルルの後見人になり、甥っ子と同居してピアニストにさせようと育てるのですが子育てに苦労します。 自分自身が父親の愛情に恵まれなかったので、どう接してよいのかわからなかったのかもしれませんね。 自分自身の病状や甥っ子との関係を抱えながらも、人生に達観していく円熟期の作品になります。 ベートーベンの生涯の中で、苦悩や絶望を味わい、葛藤しながらも、彼がそれらを情熱をもって全て芸術に昇華していったことを理解した上で弾くことも大事でしょう。 楽譜を読み込み、読み解き、技術的なテクニックの上達をはかるのはもちろんのことですが、ベートーベンに限らず、作曲家の人生の背景や心の揺れをおもんぱかることも、ピアノ表現には必要です。

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ベートーベンの雑学まとめ6選!トリビア&豆知識を一覧にしました

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[ スポンサードリンク ] ベートーベンにまつわる噂 ベートーベンには、現代においても様々な逸話が伝えられています。 生前のベートーベンから生まれた逸話から、ベートーベンの没後である現代に生まれた逸話など、その内容は様々です。 ベートーベンとCDの関係 コンパクトディスク(CD)は、人類が初めてデジタル方式を採用した記録媒体です。 現在ではDVDにその地位を奪われつつあるCDですが、音楽業界においてはその地位はいまだ健在であるといえます。 このCDが誕生する際に、ベートーベンが非常に深く関わっているのは有名な話です。 CDの長さとベートーベン CDは、読み取り装置に赤外線レーザーを使いCDの記録面に刻印された微細な凹凸から0と1のデジタル信号に変換・記録された情報を読み取り、音楽や映像などの本来の形で再生する構造になっています。 CDの原型はオランダのフィリップス社によって開発され、現在のCDはフィリップス社とソニーの共同開発によって作り上げられたものでした。 開発途上の1980年当時、フィリップス社とソニーの間で「CDの記録時間」についての論争がありました。 フィリップス社は60分前後の長さに、ソニーは74分前後の長さを主張していたのです。 この長さを決定したのが、ベートーベンの代表曲の一つである「第九」なのです。 ソニー側の開発者・大賀典雄は、「74分前後の長さならばオペラは一幕分途切れることなく収められるし、第九をはじめとするクラシック音楽の95%はCD一枚に収められる」と主張していました。 この主張を後押ししたのが、有名な指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンでした。 ベートーベンとカラヤン カラヤンは、CDは音楽業界に大きな影響を与えるであろうことからフィリップス・ソニーから開発会議に招かれていました。 その際、大賀の発言を支持したのです。 このことから、「カラヤンは自分の指揮した第九が収まる規格を支持した」と囁かれるようになります。 実際のところ、カラヤンの指揮する第九は60分前後がほとんどで、カラヤンは歴史的な指揮者のフルトヴェングラーによって指揮された第九をCDに収めたいからこそソニーの74分を支持したようです。 現在では、CDの記録時間は74分から80分に増大していますがカラヤンの支持がなければ、ベートーベンの第九がなければ、CDは60分前後のままだったのかもしれません。 ベートーベンの容姿・外見 現代に残されているベートーベンの肖像画は、ライオンのような髪型を振り乱しながら一身に楽譜に向かうものが一般的になっています。 しかし、ベートーベン自身の肖像画はこの一枚だけではなく、他にも数多く存在しています。 ベートーベンはいったいどのような外見をしていたのでしょうか? ベートーベンの実際の容姿 ベートーベンの肖像画の中にはアーチェリーの山本博先生にそっくりなものもあり、私たちが知っているベートーベンのイメージから、かけ離れているものも多数あります。 まだ写真技術が開発されていなかった時代は、人の顔を知るためには肖像画に頼るしかありませんでした。 肖像画も結局は絵なのでモデルと画家の胸先三寸で決まるといっても過言ではありません。 実際のベートーベンは、色黒で当時流行していた天然痘のあとが残ったブツブツ顔だったといわれています。 また、フリーランスの音楽家として活動するようになって以降のベートーベンは着るものに無頓着になっていき、「汚れ熊」というあだ名がつけられるほど雑だったようです。 また、身長も当時の平均よりも低く小太り気味であったといわれています。 ベートーベンの性格 天才肌の人物は、常人とはかけ離れた性格や性質を持っているというのは一種の定説となっています。 ベートーベンもその例に漏れず、偏屈を通り越して完全な変人であったようです。 怒れるベートーベン ベートーベンは、強い癇癪 かんしゃく 持ちであったようで何かあれば手近なものを投げる習性があったようです。 その暴れ方は、前述の「汚れ熊」の熊部分にかかるほど手のつけられないものだったようです。 ベートーベンからレッスンを受けていた弟子には、楽譜を破かれたり肩に噛み付かれたりした者もいるのです。 そのためか、ベートーベンに師事したのは貴族子弟や音楽家の卵といったベートーベンの指導に耐えられるような人材だけだったようです。 ベートーベンの変わったところ 前述のようにベートーベンは、年を取るにしたがってどんどん服装に無頓着になっていきました。 現代でも、服装に無頓着なお年寄りは大勢いますがベートーベンは一味違います。 浮浪者と間違われてしょっ引かれたこともしばしばだったようです。 ある弟子によれば「ロビンソン・クルーソーかと思った」といわれるほど、文明社会から乖離した服装をしていたようです。 その代わりなのかベートーベンは手を洗うことに執着していたと言われ、精神的な疾患があったのではないかと思わせる人物像であったようです。 ベートーベンの遺髪 モーツァルトにしてもナポレオンにしても、当時の偉人たちは不可解に近い最期を迎えています。 モーツァルトの場合、「秘密結社フリーメーソンの秘儀を「魔笛」の中で暴露したので命を奪われた」「才能に嫉妬したサリエリによって一服盛られた」などの説が当たり前に存在していますし、ナポレオンも「元部下に砒素を盛られた」という説があります。 こうした偉人たちの命を縮めたものの正体を知るために活躍するのが髪の毛なのです。 髪の毛には、髪の持ち主が摂取したミネラルや金属の量が如実に現れる性質があります。 つまり、遺髪を調べればどのような有害金属や毒物が使われていたかを知ることが出来るのです。 遺髪からわかったベートーベンの不調の原因とは? ベートーベンの遺髪は、偶然から表舞台に立つことになります。 ベートーベンと交流のあった指揮者フェルディナンド・ヒラーが形見分けにもらった遺髪が、巡り巡って1995年にイギリスのサザビーオークションにかけられたのです。 この遺髪はアメリカのベートーベン協会によって落札され、科学的な分析が行われることになったのです。 この分析の結果、ベートーベンは慢性的な鉛中毒であったことがわかったのです。 生前のベートーベンは腹痛と下痢に悩まされ、癇癪と同時に憂鬱を抱えていたことがわかっています。 これらの症状と難聴は、鉛中毒の症状に符合するものなのです。 ベートーベンの生きていた時代は、砂糖は高級品であったため化学的に合成した甘味料で甘みをつけていました。 この甘味料に使われていたのが鉛なのです。 葡萄の果汁を鉛製の鍋で煮ると甘みの強いシロップになるのですが、このシロップには葡萄果汁の成分と鉛の化合物である酢酸鉛が含まれていたのです。 ベートーベンは、このシロップが使われている食品を好んで食べていたことがわかっており、必然的に慢性的な腹痛を抱え難聴に悩まされていたのです。

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ベートーヴェンの生涯に迫る ~「楽聖」とよばれたドイツの音楽家~

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バッハの肖像 学校の音楽室などに肖像画が飾られているバッハは、正式にはヨハン・ゼバスティアン・バッハ J. バッハ といいます。 彼は大バッハとも呼ばれ、生涯のうち20名もの子どもがいました。 そのうち10名は早逝してしまいますが、音楽家として大成した息子もいます。 18世紀頃までは息子たちの知名度の方が高かったため、「バッハ」と言えば彼の次男・エマヌエルや末子・クリスティアンたちのことを指し、J. バッハは「バッハの父」と呼ばれていました。 しかし19世紀頃よりJ. バッハについてあらゆる再発見がされたため徐々にその知名度は逆転し、今や「バッハ」といえばJ. バッハのことを指します。 この記事でもバッハ=J. バッハのこととして、声楽家である筆者がバッハの魅力を余すことなくご紹介していきます。 バッハとはどんな人? 名前 ヨハン・セバスティアン・バッハ(Johann Sebastian Bach 誕生日 1685年3月31日 生地 神聖ローマ帝国 アイゼナハ(現在のドイツ・アイゼナハ) 没日 1750年7月28日 没地 神聖ローマ帝国 ライプツィヒ(現在のドイツ・ライプツィヒ) 配偶者 マリア・バルバラ・バッハ(1720年病没) アンナ・マグダレーナ・ヴィルケ ソプラノ歌手・音楽家 埋葬場所 聖トーマス教会 バッハが活躍した時代は? バロック時代に活躍したバッハ バッハが生きていた時代は音楽史でいうと「バロック時代 バロック音楽 」と分類されます。 世界史でいえば王侯貴族に権力が集中した「絶対王政」の全盛期とほぼ同じです。 バッハはその時代の中でも一番後期に登場した人物で、バッハの没年がバロック時代の終わりの年であると定義されることも多いです。 バロック音楽は同時代の美術や建築と同様に、生き生きとした躍動感やドラマティックな感情表現を追及しているのが特徴です。 特にこの時代は王侯貴族のためにオペラが盛んに上演されるようになり、イタリアやフランスではオペラが目覚ましい発展を遂げていきました。 しかしバッハはバロック時代の代表的な音楽家でありながらも、オペラを作曲していません。 バッハが活躍したのはドイツの教会などが中心であったため、劇場で仕事をすることがなかったのです。 このように他の代表的なバロック時代の音楽家たちとバッハでは、作曲ジャンルや作風で異なる部分があるのも特徴です。 バッハはどんな生涯を送った? オルガン奏者としてキャリアを積む J. バッハは1685年3月31日現在のドイツ・アイゼナハに生まれました。 宗教改革を行ったマルティン・ルターもアイゼナハ出身ということもあり、一家でルター派のプロテスタント教徒であったことがわかっています。 18歳の頃、バッハはヴァイマルの宮廷楽団のヴァイオリニストとして就職しますが、代役としてオルガン演奏も担当するようになり、その後もオルガニストとしてのキャリアを積み上げていくことになります。 1706年にマリア・バルバラと結婚し7名の子どもを授かりますが、マリアは1720年にバッハの出張中に急逝します。 翌年、バッハはまだ幼い子どもたちのためにと16歳年下のアンナ・マグダレーナ・ヴィルケと再婚しました。 彼女は優れたソプラノ歌手であり、同じ音楽家としてバッハの仕事を助けることになります。 バッハはかなりの働き者だった 1723年にバッハはライプツィヒの聖トーマス教会にてカントルという仕事に就きました。 当時のカントルの仕事はオルガン演奏家と作曲家、合唱指揮者、さらに小学校教諭の仕事を兼任したような仕事で、バッハも日々激務だったということが伝わっています。 1749年5月末にバッハは脳卒中で倒れました。 何とか命は取り留めましたが、次いで眼科手術に失敗するなど度重なる不運と体調不良のため、病床に伏したまま1750年7月28日にこの世を去りました。 バッハが再発見されたのは? バッハの死後は作品たちは急速に忘れ去られることになります。 当時の音楽の流行は、より「わかりやすく」「聴きやすく」「取っつきやすい」ものへと変化していったのに対し、当時のバッハ作品は対位法を極限まで進化させた精緻なものでした。 精巧で完成度が高い作品であるからこそ、皮肉にもバッハの楽曲は「難解なもの」とみなされ、時代遅れの作風とされました。 また、当時は楽曲が再演されることが珍しかったということもあり、J. バッハの楽曲は80年ほど聴衆に忘れられることになります。 モーツァルトなどに影響を与えた しかし誰からも忘れ去られていたわけではなく、モーツァルトや、リストなどに影響を与えながら細々と愛好家たちの間でその音楽は受け継がれていきました。 そして18世紀の後半頃より「古楽」の研究が活発になったという時代の動きもあって、1829年3月11日メンデルスゾーンが20歳の若さでバッハの晩年の大作「マタイ受難曲」を指揮し、大成功させました。 このことをきっかけにバッハの作品が大きく見直され、今日の評価に至ります。 バッハの代表曲や名曲 多作で有名なバッハ。 その数なんと1000曲を超えます。 「G線上のマリアは知っているけど、それ以外の曲あんまり知らない・・・」 という方も少なくはないと思います。 そこでバッハの代表曲・人気曲・隠れた名曲などをまとめました。 それだけで一つの記事になってしまうのでもし興味がある方は下記の記事からご覧ください。 「オルガン編」バッハの代表曲3選• 「鍵盤曲編」バッハの代表曲2選• 「無伴奏曲編」バッハの代表曲2選• 「マタイ受難曲編」バッハの代表曲2選• あのミュージシャンたちも?意外すぎるバッハのカバー曲2選• 筆者オススメの隠れたバッハの名曲編 バッハにまつわる都市伝説・武勇伝 都市伝説・武勇伝1「バッハは大のコーヒー好き?」 コーヒーに夢中だったバッハ 当時は健康に悪いもの、という認識だったコーヒーですが、バッハは毎日浴びるように深煎りのコーヒーを飲んでいたとの噂です。 またコーヒー好きが高じて「コーヒーカンタータ」という世俗的な作品も書いており、バッハのユーモアのセンスを感じられる数少ない作品と言われていますので、後ほど動画でご紹介したいと思います。 また、バッハはヘビースモーカーであったとも言われています。 歴史上の人物でコーヒー好きだという記録が残っている人物は多いようで、音楽家ではなどもコーヒー好きであったことがわかっているようです。 都市伝説・武勇伝2「バッハは失明していた?怖すぎる300年前の眼科手術」 目の病を患っていた バッハは白内障を患っていたと言われており、65歳の頃に眼科の手術を受けます。 イギリスの高名な眼科医ジョン・テイラーに手術を依頼し、手術後テイラーは「手術は成功し、バッハの視力は回復した」と言っていたそうですが、結果は失敗でした。 テイラーがどのような手術を行ったかは明らかになっていませんが、術後のバッハはとてつもない眼痛を訴えており緑内障を発症したと推測されています。 更には眼内炎を起こしており 水晶体に手を加えられた可能性があるようです 網膜剥離の可能性もあったとのことです。 これらの後遺症によって、65歳のバッハの体力は急速に衰えたといわれています。 そして病床に伏したままその半年後に亡くなってしまいました。 バッハと同い年で著名な音楽家・も同じ医師の手術を受け、バッハと同じように失明したと言われています。 明らかになっていない部分も多いですが、当時の手術が如何にハイリスクだったのかが推測できます。 バッハの略歴年表 バッハの具体年表 1685年 — 0歳「 J. バッハ誕生」 同い年の巨匠たち ミュージアムとして残るバッハの生家 バッハは1685年3月31日・アイゼナハにて誕生します。 町楽師をしていたヨハン・アンブロジウス・バッハの8番目の末子として誕生しました。 兄弟構成などははっきりとわかっていません。 同い年の作曲家にはゲオルク・フリードリヒ・がいます。 彼らは同じ年に同じ国で生まれましたが、活躍した国や音楽ジャンルなどは対照的です。 また、ドメニコ・スカルラッティも1685年生まれでバッハたちと同い年です。 1705年 — 20歳「 20歳で大出世のチャンスがあるも辞退」 10歳上の女性と結婚させられそうになる キャリアと交換条件の結婚 最初はバイオリニストとして音楽家のキャリアをスタートさせたバッハですが、アルンシュタットの新教会でオルガニストを務めていた頃からバッハは既にオルガンの名手として認められていました。 しかし更に演奏の腕を磨くために400km離れたリューベックまで徒歩で行き、オルガニストのディートリヒ・ブクステフーデに演奏を習いに行きます。 ブクステフーデはバッハの演奏を認めて聖マリア教会のオルガニストに推薦します。 しかしこれにはある条件がありました。 当時約30歳だったブクステフーデの娘と結婚することを条件にされたのです。 当時68歳と高齢だったブクステフーデは娘のことが心配だったようで、やヨハン・マッデゾンにも同じ条件で聖マリア教会のオルガニストに推薦しますが、3人とも辞退しています。 1729年 — 44歳「 ヘンデルに会いたかったバッハ」 当時一番知名度が高い音楽家はヘンデルだった ヘンデル ヘンデルは神聖ローマ帝国・ハレ生まれですが、イギリスに渡って音楽家として名声を博していました。 1729年に帰省のためハレに滞在していたヘンデルに会いたいと切望していたバッハは、長男のフリーデマンを派遣して面会を求めました。 しかしその面会はヘンデルに断られたために実現せず、バッハは生涯ヘンデルに会うことはできませんでした。 当時ヘンデルは国際的に活躍する高名な音楽家だったのに対し、バッハは地方の学校の校長先生のような立場でした。 バッハはヘンデルの知名度や名声を意識していましたが、ヘンデルにとってバッハはあまり意識するような存在ではなかったと言われています。 1749年 — 64歳「 脳卒中で倒れる」 聖トーマス教会の人事に介入される 1549年5月末にバッハは脳卒中で倒れます。 当時聖トーマス教会の学長という地位にあったため、その地位を羨んだ人たちの企みでゴットロープ・ハラーという後任を勝手に決められてしまいました。 しかしバッハは一時健康を取り戻して復職します。 当時ほとんど視力を失っていたため翌年眼科手術を受けますが、その手術は失敗し、術後の容体は悪くそのまま病床で亡くなってしまいます。 1829年 — 没後79年「 マタイ受難曲が再演される」 若き日のメンデルスゾーンによって蘇った傑作 バッハの死後、一部の鍵盤練習曲以外は忘れられてしまいます。 しかし愛好家や演奏家たちの手でその音楽や手法は細々と受け継がれていきました。 時代が下ると古楽研究が活発になったということもあり、当時20歳で新進気鋭の音楽家・メンデルスゾーンの指揮によって晩年の名作「マタイ受難曲」が蘇演されます。 メンデルスゾーン 初演当時の書評は大絶賛というほどでもなく、どちらかというと題材のストイックさや作品の精巧さが一般市民には敬遠され、無理解な記者による批判的なものもありました。 しかしこの再演は今日のバッハの知名度に至るきっかけとなりました。 この再演は学校設立のためのチャリティー公演として、俳優のエドゥアルト・デヴリエントが協賛し、興業的には成功をおさめました。 メンデルスゾーンは「キリスト教徒の最も偉大な音楽を世界に蘇らせるには、俳優とユダヤ人の息子が必要だったということになりますね!」と思わず皮肉を言ったようです。 メンデルスゾーンはユダヤ人ですが、バッハと同じ敬虔なルター派教徒でもありました。 バッハの関連作品 おすすめ書籍・本・漫画 J. バッハ 講談社現代新書 リンク 俳優ではなく若い頃の古楽演奏家・グフタフ・レオンハルトがバッハ役をつとめ、演奏シーンではリテイク無しで実際に演奏しています。 できるだけ服飾品や建物などで当時を再現しており、演奏場所の環境の悪さなどにリアリティを感じます。 関連外部リンク• (音楽家グッズの販売サイト バッハについてのまとめ いかがでしたでしょうか?筆者は声楽家ですが、マタイ受難曲のソロやコーヒーカンタータは歌ってみたい憧れの曲です。 ジャズやロックなど、即興性のある音楽を演奏する人にもバッハの愛好家は多く、日本で「音楽の父」と呼ばれている理由がよくわかります。 ストイックな作風で敬遠されがちなバッハですが、バッハについて知っていると良いことが沢山ある気がします。 少しでも興味を持って頂けると嬉しいです。

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