スペイン 風邪 発生 源。 スペインかぜ5000万人死亡の理由

史上最悪のパンデミックだったスペイン風邪の大流行

スペイン 風邪 発生 源

同じインフルエンザだから たぶんそうでしょうね。 ウィキペデアを参照。 第一次世界大戦時に中立国であったため情報統制がされていなかったスペインでの流行が大きく報じられたことに由来する(スペインが発生源という訳ではない)。 1918年パンデミックとも呼ばれる。 1918年1月から1920年12月までに世界中で5億人が感染したとされ、これは当時の世界人口の4分の1程度に相当する。 その中には太平洋の孤島や北極圏の人々も含まれた。 死者数は1,700万人から5000万人との推計が多く、1億人に達した可能性も指摘されるなど人類史上最悪の感染症の1つである。 アメリカ合衆国ではパンデミックの最初の年に平均寿命が約12歳低下した。 近年の研究により、スペインかぜはH1N1亜型インフルエンザウイルスによるものと判明している。 (H1N1によるパンデミックは、スペインかぜと2009年の新型インフルエンザの2回である) 概要[編集] 第一次世界大戦中の士気維持のため、ドイツ、イギリス、フランス、アメリカ合衆国での病状や死亡の初期報告は検閲により最小限に抑えられた。 一方で中立国スペインにおける伝染病の影響は自由に報道され、アルフォンソ13世の重病を初めとする多数の記事はスペインが特に大きな被害を受けたという誤った印象を生み出した。 ここから「スペインかぜ」という呼称が広まった。 しかし歴史的、疫学的データは地理的起源を確実に特定するには不十分であり、その起源には諸説ある(後述)。 ほとんどのインフルエンザの流行では死者が乳幼児と高齢者に偏り、その中間の年齢層の生存率は高いが、スペインかぜでは若年成人の死亡率がその他のインフルエンザと比較して高かった。 科学者たちは、1918年のインフルエンザ大流行の死亡率の高さについて、いくつかの可能性のある説明を提示している。 いくつかの分析はウイルスがサイトカイン放出症候群を引き起こし強い致死性を得ることを示している(サイトカインストーム)。 サイトカインストームは若年成人の強い免疫システムを破壊する。 これとは対照的に、パンデミック期以降の医学誌に対する2007年の分析では、スペインかぜのウイルス感染は以前のインフルエンザ株よりも攻撃的ではなかったことが判明した。 その代わり、栄養失調、過密な医療キャンプや病院、劣悪な衛生状態が細菌性の重複感染を促進していた。 ほとんどの犠牲者はこの重複感染が死因であり、重篤期間はやや長期化することが多かった。 起源[編集] 起源については諸説あるが、いずれも仮説の域を出ていない。 アメリカ疾病予防管理センター CDC は、アメリカでは1915年と1916年に既にインフルエンザと肺炎による死亡率の急増が見られていたと指摘する一方で、この増加と1918年のインフルエンザパンデミックとの関連性は不明としており、パンデミックの地理的な発生源を特定するには歴史的・疫学的なデータが不足していると述べている。 カナダの鴨のウイルスがイリノイ州の豚に感染したとの推定もある。 近年のコンピューター解析によって、1918年型インフルエンザウイルスの前駆体が1907年頃に発生したことが判明している。 経緯[編集] 起源に諸説あることから必然的に経緯も諸説ある。 以下は諸説の1例に過ぎないと考えるべきである。 スペインかぜは、記録にある限り人類が遭遇した最初のインフルエンザの大流行(パンデミック)である。 第1波は1918年3月にアメリカのデトロイトやサウスカロライナ州付近などで最初の流行があり、アメリカ軍のヨーロッパ進軍と共に大西洋を渡り、5月から6月にヨーロッパで流行した。 第2波は1918年秋にほぼ世界中で同時に起こり、病原性がさらに強まり重篤な合併症を起こし死者が急増した。 第3波は1919年春から秋にかけて、第2波と同じく世界で流行した。 さらに、最初に医師・看護師の感染者が多く医療体制が崩壊してしまったため、感染被害が拡大した。 この経緯を教訓とし、2009年新型インフルエンザの世界的流行の際にはインフルエンザワクチンを医療従事者に優先接種することとなった。 被害状況[編集] スペインかぜの患者でごった返すアメリカ軍の野戦病院。 マスクをつける日本の女性たち。 被害者数[編集] 世界[編集] 世界全体の推定感染者数は世界人口の25-30%(WHO)、または世界人口の3分の1、または約5億人とされる。 当時の世界人口は18億人から20億人と推定されている。 世界全体の推定死者数は1700万人から1億人と幅がある。 アメリカでも50万人が死亡したとされる。 これらの数値は感染症のみならず戦争や災害などすべてのヒトの死因の中でも、最も多くのヒトを短期間で死亡に至らしめた記録的なものである。 日本[編集] 日本では、1918年10月に大流行が始まり、世界各地で「スパニッシュ・インフルエンザ」が流行していることや、国内でも多くの患者が発生していることが報じられた。 第1回の流行が1918年10月から1919年3月、第2回が1919年12月から1920年3月、第3回が1920年12月から3月にかけてである。 当時の人口5500万人に対し約2380万人が感染したとされる。 第1回の患者数・死亡者数が最も多い。 第2回では患者数が減少する一方、致死率は上昇している。 第3回の患者数・死亡者数は比較的少数であった。 日本におけるスペインインフルエンザの被害 流行 患者 死者 致死率 1918(大正7)年8月-1919(大正8)年7月 2116万8398人 25万7363人 1. 22% 1919(大正8)年9月-1920(大正9)年7月 241万2097人 12万7666人 5. 29% 1920(大正9)年8月-1921(大正10)年7月 22万4178人 3698人 1. 65% 合計 2380万4673人 38万8,727人 1. 63% 感染者数2380万人、死亡者約39万人が内務省衛生局編『流行性感冒』による統計数値である。 速水融は死亡者を約45万人(肺結核、気管支炎等が死因とされていた者を含む)と推計している。 特徴[編集] スペインかぜはH1N1型インフルエンザウイルスが原因とほぼ特定されているにもかかわらず、他のインフルエンザ流行とは異なる特徴がいくつか見られる。 ただし、第1次世界大戦中の流行であり、当時の記録には様々な混乱要素が含まれ得ることを考慮する必要がある。 被害者の年齢層[編集] 若年成人が死に至りやすい傾向が見られた。 一般にインフルエンザの犠牲者は乳幼児(0—2歳)、高齢者(70歳以上)、免疫不全者に集中することから、これはスペインかぜの際立った特徴と考えられる。 65歳未満の死亡率は65歳以上の6倍であった。 1920年になると65歳未満の死亡率は65歳以上の半分まで減少したが、それでも死者数の92%が65歳未満であった。 日本の記録でも同様の傾向が見られた。 若年成人の死亡率の高さについては、スペインかぜのウイルスが引き起こすサイトカイン放出症候群が若年成人の強い免疫システムを破壊することが原因の一説として挙げられている。 妊婦の死亡率が特に高いことも若年成人の死亡率を高くした要因と見られる。 また、実際にはスペインかぜのほとんどの犠牲者が栄養失調、過密な医療キャンプや病院、劣悪な衛生状態による細菌性の重感染を死因としているとの指摘もあり、第一次世界大戦による過酷な兵役、軍需産業への動員が若年成人の死亡率を引き上げた可能性もある。 高齢者の死亡率の低さについては、この時代の高齢者は1889年頃に流行した「ロシアかぜ」で免疫を獲得していたのではないかとの説もある。 流行時期[編集] 夏から秋にかけて大流行した。 一般のインフルエンザの流行ピークは冬季である。

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大正時代、日本でも流行したスペイン風邪感染対策の為に作られた啓蒙ポスターと調査報告書(2020年4月28日)|BIGLOBEニュース

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過去におこったインフルエンザ・パンデミックにはどのようなものがありますか? インフルエンザ・パンデミックと考えられる流行の記録は1800年代ころからありますが、パンデミックの発生が科学的に証明されているのは1900年ころからです。 また、最近1889〜1891年にもH3N8によるパンデミックが発生していたとの報告(Taubenberger J, 2006. があります。 世界的な患者数、死亡者数についての推定は難しいのですが、患者数は世界人口の25-30%(WHO)、あるいは、世界人口の3分の1(Frost WH,1920)、約5億人(Clark E. 1942. )で、致死率(感染して病気になった場合に死亡する確率)は2. )、死亡者数は全世界で4,000万人(WHO)、5,000万人(Crosby A, 1989; Patterson KD, Pyle GF, 1991; Johnson NPAS, Mueller J, 2002. )、一説には1億人(Johnson NPAS, Mueller J, 2002. )ともいわれています。 日本の内務省統計では日本で約2300万人の患者と約38万人の死亡者が出たと報告されていますが、歴史人口学的手法を用いた死亡45万人(速水、2006. )という推計もあります。 スペインフルの第一波は1918年の3月に米国とヨーロッパにて始まりますが、この(北半球の)春と夏に発生した第一波は感染性は高かったものの、特に致死性ではなかったとされています。 また、これに引き続いて、(北半球の)冬である1919年の始めに第三波が起こっており、一年のタイムスパンで3回の流行がみられたことになります。 これらの原因については多くの議論がありますが、これらの原因については残念ながらよくわかっていません。 1918年の多くの死亡は細菌の二次感染による肺炎によるものであったとされていますが、一方、スペインフルは、広範な出血を伴う一次性のウイルス性肺炎を引き起こしていたこともわかっています。 非常に重症でかつ短期間に死に至ったため、最初の例が出た際にはインフルエンザとは考えられず、脳脊髄膜炎あるいは黒死病の再来かと疑われたくらいです。 もちろん当時は抗生物質は発見されていなかったし、有効なワクチンなどは論外であり、インフルエンザウイルスが始めて分離されるのは、1933年まで待たねばならなかったわけです。 このような医学的な手段がなかったため、対策は、患者の隔離、接触者の行動制限、個人衛生、消毒と集会の延期といったありきたりの方法に頼るしかありませんでした。 多くの人は人が集まる場所では、自発的にあるいは法律によりマスクを着用し、一部の国では、公共の場所で咳やくしゃみをした人は罰金刑になったり投獄されたりしましたし、学校を含む公共施設はしばしば閉鎖され、集会は禁止されました。 患者隔離と接触者の行動制限は広く適用されました。 感染伝播をある程度遅らせることはできましたが、患者数を減らすことはできませんでした。 このなかでオーストラリアは特筆すべき例外事例でした。 厳密な海港における検疫、すなわち国境を事実上閉鎖することによりスペインフルの国内侵入を約6ヶ月遅らせることに成功し、そしてこのころには、ウイルスはその病原性をいくらかでも失っており、そのおかげで、オーストラリアでは、期間は長かったものの、より軽度の流行ですんだとされています。 その他、西太平洋の小さな島では同様の国境閉鎖を行って侵入を食い止めたところがありましたが、これらのほんの一握りの例外を除けば、世界中でこのスペインフルから逃れられた場所はなかったのです。 また、このころにはスペインインフルエンザの時代以降の医学の進歩もあり、インフルエンザウイルスに関する知見は急速に進歩し、季節性インフルエンザに対するワクチンは開発され、細菌性肺炎を治療する抗生物質も利用可能でした。 またWHOの世界インフルエンザサーベイランスネットワークはすでに10年の稼働実績がありました。 1957年2月下旬に中国の一つの地域で流行が始まり、3月には国中に広がり、4月中旬には香港に達し、そして5月の中旬までには、シンガポールと日本でウイルスが分離されました。 1週間以内にWHOネットワークは解析を終了して新しい亜型であることを確認後、世界にパンデミックの発生を宣言しました。 ウイルスサンプルは即座に世界中のワクチン製造者に配布されました。 国際的伝播の速度は非常に速く、香港への到達後6ヶ月未満で世界中で症例が確認されました。 しかしながら、それぞれの国内ではかなり異なった様相を呈し、熱帯の国と日本では、ウイルスが入ると同時に急激に広がり、広範な流行となりました。 欧米では対照的で、ウイルスの侵入から流行となるまで少なくとも約6週間かかったとされています。 疫学的には、この間に静かにウイルスが播種(seeding)されていたと信じられています。 すなわち、あらゆる国にウイルス自体は侵入していたものの、感染拡大のタイミングが国によって異なっていた、ということです。 この理由は定かではありませんが、気候と学校の休暇の関係だったと考えられています。 一旦流行が始まると罹患のパターンはどこの国もほとんど同様で、スペインフルの第一波の時のように膨大な数の患者と爆発的なアウトブレイクの発生がみられましたが、致死率はスペインフルよりもかなり低かったとされています。 死亡のパターンは、季節性インフルエンザと同様、乳児と高齢者に限定されていました。 第一波では患者のほとんどは学童期年齢に集中していました。 第一波の終息後2〜3ヶ月後、より高い致死率の第二波が発生しましたが、これは主に学童中心だった第一波と異なり、第二波では高齢者に感染が集中したためと考えられています。 このパンデミックにより世界での超過死亡数は200万人以上と推定されています。 アジアフルのときにも、1918年よりは少数でしたが、同様の細菌感染が見つからないウイルス性の肺炎も存在しました。 剖検所見も1918年にみられたものと類似していましたが、ほとんどのこのような症例は基礎疾患のあるかたに限られており、以前より健康な人ではまれではなかったものの少なかったとされています。 ニューヨークでの報告によると、特にリウマチ性心疾患と妊娠第三期の妊婦においてもっともよく見られたとされています(Louria DD,Blumenfeld HL, Ellis JT, et al. 1959. ワクチンは米国では8月に、英国では10月に、そして日本では11月に使用可能になりましたが、広く使用するのは少なすぎる量でした。 多数の人が集まるような、会議やお祭りなどの場で感染が広がったという事実から、非医学的な対策としては、集会の禁止と学校閉鎖がパンデミックインフルエンザの伝播を防止できる唯一の手段だったとされています。 初期の国際的な伝播はアジアフルに類似していましたが、世界のいずこでも臨床症状は軽く、低い致死率でした。 ほとんど国では、その前のパンデミックにみられたような爆発的なアウトブレイクはなく、流行の伝播は緩やかで、学校での欠席や死亡率に対する影響は非常に少ないか、全くありませんでした。 そして、医療サービスへの負荷もほとんどみられず、インフルエンザに起因する死亡は、実際前年の季節性インフルエンザよりも少数で、世界での超過死亡は約100万人でした。 この原因については、直前のパンデミックがH2N2亜型であり、香港フルのH3N2とN2を共有していたため、これに対する免疫が防御的に働いたとの説が多くあります(Schulmann JL, Kilbourne ED. 1969. ; Stuart-Harris C. 1979. ; Monto AS, Kendal AP. 1973. ; Viboud C, Grais RF, Lafont BA, et al. 2005. 1969. )もあります。 また、1889年に発生したH3N8亜型によるパンデミックにより、これに対する免疫をもっていた高齢者は守られたという報告もあります(Taubenberger J. 2006. 参考文献:.

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歴史も証明。中国という国を滅ぼしかねぬ新型肺炎という「疫病」

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【中国問題グローバル研究所】は、中国の国際関係や経済などの現状、今後の動向について研究するグローバルシンクタンク。 関係各国から研究員を募り、中国問題を調査分析してひとつのプラットフォームを形成。 発生源については「感染拡大がウイルスに感染した動物との接触から起きたのか、武漢の研究所での事故が原因なのか判断するため、今後も情報を精査していく」としている。 中央テレビ局CCTVでは毎日トランプとポンペオの発言に関する特集番組を組んで報道しているし、また中国共産党の機関誌「人民日報」は5月1日から毎日連続のシリーズで抗議論評を発表し続けている。 これを1時間に1回ずつくらい、CCTVで「さあ、仇を取ってやるぞ!」という顔つきと声の張りで「キリッ!」と叫び続ける。 中国の、このニュースへの飛びつきようは尋常ではなく、鬼の首でも取ったような勢いだ。 その発生源に至っては、アメリカ説が最も多いが、フランス説や中国説などもあり、100年経った今でも、まだ解明されていない。 だからウイルス発生源で勝負しようと思ってはいけない。 トランプの大統領再選にも影響するし、アフターコロナの米中パワーバランスにも悪影響を与える。 トランプは中国攻撃のトーンをすっかり弱めているのだ。 トランプとポンペオは最初のころは明確に「ウイルスは武漢の研究室(実験室)から出た。 それに関するレポートも出す。 膨大な証拠がある」と言っていた。 ところが次の日になると、大統領副補佐官(安全保障担当)のMatthew Pottingerが「アメリカは報復措置を求めていない。 Matthew Pottingerはかなりの対中鷹派なので、ホワイトハウス全体が口裏を合わせてトーンを変え始めたという印象を与える。 こうなると「譲歩の連続」であり、ウイルス発生源論争に関するアメリカの敗北を招く。 これを最も恐れていたので、トランプ政権のウイルス発生源「武漢研究所説」に関しては動静を静かに見守りながら、筆者自身の発信は控えていた。 しかし事態は「愉快でない方向」に動き始めた。 これはアフターコロナの米中パワーバランスを決める大きな要因の一つになるので、確かでない噂に乗っかって煽らないようにしなければならないだろう。 さもないと、中国に有利に働く危険性を孕んでいる。 トランプが言う通り、責任は習近平にある。 その線は譲ってはならない。 dni. people. com. people. com. people. com. people. com. people. com. people. com. people. com. bbc. bloomberg. theguardian. reuters. politico. com. cnn. html.

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