天気の子 考察 魚。 新海誠作品「天気の子」の考察

映画『天気の子』気象神社(氷川神社)の天井画について考察!どこがモデル?

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「」が大ヒットした監督。 最新作「天気の子」を観てまいりました。 このブログに書くのはFROZEN()についてだけにしようと思っていましたが、他作品の感想・考察も書いてほしい、というお声をいただくようになりましたので、気まぐれに書くことにしました。 よろしければお付き合いください。 みんさんは作品をどうやって知られたでしょうか? 「」で初めて知って好きになったという方は、過去の新海作品、または今回の「天気の子」に違和感を持たれるかもしれません。 個人的には「」が例外的であり、こう言ってしまうと失礼かもしれませんが、受け手の好き嫌いが分かれる新海作品の「クセ」の部分が、大衆向けにチューニング(これはさんがそう表現されていたのですが、とてもわかりやすかったのでここでも使わせていただきます。 さんはこのクセがチューニングされたことを「消臭」とも表現されていました。 参照:、『天気の子』を語る!【映画評書き起こし2019. 26放送】 )されたためヒットしたのだと考えています。 そのため「天気の子」で通常運転に戻った「無修正の新海ワールド」に触れたとき「」のイメージしか持たれていない方の中には、戸惑いや違和感を覚えた方もいると思います。 さんの作品には一貫したテーマがあり、それが独自の世界観で繰り返し描かれています。 基本的にはどの作品も「同じテーマ」と「同じ登場人物」で作られています。 テーマは「個人の願いと救済」もっと言うと、さん自身の願いと救済という、さんによるさんのための、極めて個人的な目的の作品群です。 このような自己救済・自己免罪のために毎度用いられるのが「世界の危機」と、主人公(さん自身)を徹底的に肯定する役割を担った「記号としての女の子」です。 基本的に、新海作品には悩める少年とそれをひたむきに支える少女が登場します。 しかし「主人公」は常に一人しかいません。 「天気の子」は帆高と陽奈の二人が主役でしょう?と思われるかもしれませんが、陽奈は帆高をどこまでも容認する「記号」 として、つまり役割としてしか画面に存在しないので、個人的に「天気の子」は帆高の帆高のためのお話、つまりさんが新海 誠さんを救うためのお話であり、私は「主人公は一人(さん本人)」だと思っています。 実際は「」もそういう作りになっているのですが、三葉側の描写が瀧と 分量的には同等に描かれ、生活の場所も互いの行動も半々で描かれてい たので、そういう構造的なものの結果、三葉にも「主体」がある ように見えていました。 そのためにそこまで「ん?」と感じずに観ることができ、たくさんの人が受け入れやすかったのだと思います。 帆高くんに都合よく話回りすぎじゃない? 帆高くん許されすぎ じゃない? てか周り犠牲払いすぎじゃない? 今回の「天気の子」は無修正の新海ワールドだったため、このような違和感が多くの方にはっきりと、体感としてわかっていただけると思うので、非常に書きやすいです。 笑 「大人はわかってくれない」-The Catcher in the Ryeの世界- この場所は俗物と欺瞞に満ちている。 ここではないどこかへ行きたい。 「息苦しいんだ」 「帰りたくないんだ」 これは、帆高が繰り返しつぶやく言葉です。 東京に出てきた帆高は「The Catcher in the Rye(畑つかまえて)」をバイブルのように持ち歩いています。 ちなみに帆高が故郷の離島で自転車を飛ばし(おそらく父親に殴られて家を飛び出し)「光の水溜り」の中に入りたいと追いかけるも崖に阻まれるシーンがありますが、「The Catcher in the Rye」でも、主人公の少年が殴られて世界に嫌気がさすシーンがあります。 「畑」とは大人たちのいない美しい世界のことで、少年はそこで遊ぶ無邪気な子供たちが崖から落ちそうになった時に捕まえられる「畑のキャッチャー」に自分はなりたい、と願います。 「天気の子」に登場する「光の水溜り」とは、黄金色に輝く「畑」を表しているのでしょう。 それを追いかけて帆高は東京へ向かい、そこで陽菜と出会います。 ある意味で陽菜はを崖から落ちないよう捕まえた「畑のキャッチャー」であり、少年を少年のまま留めておく役割を担っています。 「光の水溜り」(屋上の鳥居もそうですね)つまり「畑」の中で出会う少年少女の、これは作品なのです。 こういう気持ちは、子供の頃は誰もが持っていたと思います。 子供の頃、世界の危機はいつだって目の前にありました。 気づいているのは自分だけ、だから、世界を救えるのも自分だけ。 大人に言ってもを持ってもらえない。 どんなに知らせても、 大人はすぐそこにある奇跡や危機に気づこうとしません。 子供たちにとってそこは息苦しく、もっと、汚れていない場所へ行きたい。 ここではないどこかへ。 そうして行きついた東京の街も、理想だけを追いかける帆高には「こわい場所」でした。 しかし、須賀、夏美、陽菜、凪という疑似家族を得て、陽菜の力で街を「光の水溜り」にすることで、「東京」は次第に彼らが子供のまま過ごせる「畑」となっていきます。 余談ですが、冒頭のフェリーのシーンや、東京の路地の上空に「雨の魚」を無意識に呼んでいるのは帆高なので、帆高は「雨男」と思われます。 登場人物の気持ち(内面)が世界の様相(外面)を変えてしまう「」の作品のため、帆高が東京に来たことで雨は加速したのでしょう。 帆高の出身は伊豆諸島の「」がモデルとされています。 古くは「」と呼ばれ、神々が命の源である「水」を、どこにどれくらい配分するかを会議した「水配り」と呼ばれる伝説がある島です。 須田がフェリーに乗っていた理由。 船内に避難せず甲板にいた理由。 訪ねてきた帆高に「晴れ女」の取材をさせる理由。 夏美が須賀と帆高が似ていると話す理由。 須賀が不自然に泣く理由。 「もう一度あの人に会いたい」という帆高の叫びに、須賀が急に心変わりする理由。 これらの理由から、帆高と陽奈/須賀と明日花 亡くなった須賀の妻 が並立して描かれていることがわかります。 一応書いておきますと、須賀はに「水配り」の取材に来たのでしょう。 須賀の娘の萌花は喘息があり、雨の日は体調を崩してしまいます。 東京は雨の日が続いていたので、須賀が取材で水や雨などの天候ネタを優先させるのは不自然なことではありません。 天候が崩れるので船内に戻るようアナウンスされたフェリーの甲板に、帆高と須賀だけが出ています。 これは帆高と須賀が、夏美の言うように似ている、つまり「同じ運命を背負った者」であることを示すための描写です。 帆高が無意識に呼んだ大きな「雨の魚」は、その後帆高が東京へやって来ると路地の上空にも現れます。 また須賀の亡くなった妻である明日花は「晴れ女」であったと思われるため、須賀は無意識に「晴れ女」の取材を帆高にすすめます。 陽菜が人柱となり晴れた東京で、須賀は半地下の事務所の窓を開けて水没させます。 その浸水の先に萌花の成長を刻んだ柱があり、その印は祖母に引き取られる2歳頃、つまり妻の明日花の死を境に終わっています。 妻の死、喘息の娘、人柱の結果としての晴れ、その残骸の水。 訪ねてきた刑事の安井が帆高について「そこまでして会いたいと思える人がいるのは羨ましい」と口にすると、須賀の目から不自然に涙があふれ出します。 ここで、妻の明日花が喘息の娘のために晴れを願い、人柱となって死んだことが観客にわかる作りになっています。 「思い出せない誰か/忘れてしまった何か」について描くときに、キャターが意識と関係なく涙を流すのは「」の瀧や三葉と同じで、新海作品の「パターン」のひとつです。 この「思い出せない誰か/忘れてしまった何か」については後ほど書くことにします。 帆高と同じように須賀もかつては家出少年で、その先で明日花と「運命」的に出会い、周囲の反対を押し切って結ばれました。 しかしまたも「運命」により明日花は犠牲を払って消えてしまい、残された須賀はそれまでの出来事、帆高が言うところの「本当のこと」を忘れています。 新海作品には「運命」により「特殊な力を持った女性」には植物の名前がつくという「パターン」が見られます。 明日花、陽菜、おそらく萌花もそうでしょう。 「」の宮水家は、祖母から一葉、二葉、三葉、と名前の漢字の他に、誰かと入れ替わるという「運命/特殊な力」も引き継いでいます。 ちなみに明日花の旧姓は「間宮」といい、宮水家と同様「宮」の字からわかるように、神事に関係のある家柄です。 陽菜の母親の病室にも「雨の魚」が入ってきますし、形見として引き継がれた「雨の石」のチョーカー(首輪)は陽菜が「晴れ女」の「お役目」から「解放」されると外れます。 神々の島からやって来た、空に選ばれた少年。 東京の廃ビルの屋上で、人類の人柱となった少女。 二人は運命的に出会い、世界の形を変えてしまう。 そしてその運命は、世代を超えて繰り返されている。 これがさんが毎回描いている「」作品です。 そして世界を変えてしまうそのような力も、世界の秩序も、極めてざっくりとした神話に裏付けられています。 例えば今回の「天気の子」ならば、お盆(彼岸)という仏教的な考えと、人柱や自然現象に神を見る的な考え、精霊馬を鳥居に置いてしまうような部分も、取材先の神主が800年前の天井画を見せることで、神仏融合時代の話として 天災や地形の変化、それらと人の営みとの関係も、アントロポセンの文字を画面に映したり、瀧の祖母による「昔語り」によって ストーリー全体の整合性も、光の水溜りを追って帆高が東京へ行き、結果として東京に大量の雨をもたらすということ自体が「水配り」であった、という風に・・・ とりあえずは「説明ができる」という体裁をとっています。 「」の瀧と三葉の名前は、日本神話のタキツヒコとから取っているのでしょうが、これはどちらも雨神ですし、また瀧と三葉は「天気の子」にも登場しているため、さんが常にイズムの力を借りて、個人的に描きたい、信じたいとしているものの説得力を、過去の作品と通して補強しようとしているのがわかります。 帆高はホタカミノミコトから、陽菜はアメノヒナミコトがモデルでしょうが、その説明は序盤の「占い師」の口からなされています。 「」の妻であるヒメは、への生け贄、つまり「人柱」であったため、明日花が晴れ女であったことを裏付ける要素として「」から「須賀」が、常に二人の女の子に囲まれている「凪」は、サクヤビメとの姉妹に嫁がれる「ニニギ」からとられているのでしょう。 「」の終盤で登場する「」はが祭神ですが、ホタカミノミコトを祭神にしているところもあり、須賀が帆高を庇護する流れも、一応は汲み取れます。 また神話だけではなく、既存の現代作品、具体的には監督の作品の力を借りて説明しようとしている箇所もあります。 「」からは、とハク(ニギハヤミコハクヌシ)の二人が過去に出会っていたという事実、そして忘れていた名前を思い出すというあの有名な落下のシーンが、雲の上から帆高と陽菜が落下するシーンとしてそのまま使われています。 ハクとの「運命性」や「神話性」、湯婆婆(敵対する世界)に対しての「共に対峙する決意」を、帆高と陽菜に置き換え、再生しているのです。 また「雨の魚」は「」からきていると思われますが、「」自体が「」がベースにされているためそもそもが神話的な上、ポニョが魔法の力を失って人間になることを宗介が受け入れるという流れは、晴れ女の役目を放棄した陽菜を帆高が受け入れるという形にそのまま対応しています。 このように、新海作品は神話や既存の物語の設定を多分に借り、説明的に使用しています。 こうしたオリジナル設定の乏しさ、ストーリーの構成的な精度の低さは、見る人の好みが分かれるところかもしれません。 話がそれましたが、畑に戻ります。 当然この「畑的な生活」は長くは続きません。 須賀と夏美も畑側の人間ではありますが、そこから出なくてはいけないとも感じています。 夏美が履歴書の志願理由に書いた「一員になりたい」という一文がフォーカスされることからもわかる通り、いつかは畑の外に出て行かなければ、社会の一員にはなれないのです。 「光の水溜り」=「畑」と考えると、人柱となった陽菜が連れていかれた雲の上の草原は、まさに大きな光の水溜りであり、大人(他者)の存在しない、自分だけの、美しく独り善がりな世界です。 そこへ帆高がやってきて「共に崖から飛び降りる」ように陽菜に言います。 そして「畑」から飛び降りた陽菜を、帆高は「崖の外で捕まえる」のです。 かつて畑のキャッチャーになることを夢見ていた少年は、地上にいる須賀と夏美の「子供」の部分を昇華するように連れて空へ行き、かわりにそこから陽菜を連れて地上へと落下していきます。 もうそこに、畑がないとしても。 これが帆高が出した答えですが、この映画には問題があります。 帆高の選んだ答えが「東京の大水害」という、多くの人を巻き込んだ現実的な困難に結びついていることです。 「The Catcher in the Rye」は雨の中の安堵で終わりますが、「天気の子」も降り続く雨の中、の「大丈夫」が流れて終わります。 畑から飛び出す=子供が社会の中へ出ていく時の葛藤は、通界を変えてしまうようなことはなく、子供たち自身の中で起こる変化です。 しかし新海作品は「」のため、主人公の決断が世界の様相まで決定してしまいます。 このため、冨美、須賀、からの回答である「大丈夫」が、畑の卒業という少年の選択に向けられたものなのか、個人の願いを優先した帆高の責任に対してのものなのかが曖昧になってしまいました。 また須賀や夏美が結果的に帆高に「代行」させただけで葛藤を昇華してしまう点や(もちろんその後のストーリーもあるでしょうが)、陽菜が同じ方を向いてくれなければ帆高は今も畑を選んでいただろうという点において、すべてが「都合がよく」出来ていてリアリティに欠けるということ、つまりさんの作品そのものが、未だ「畑」を脱せていないことにより成立しなくなってしまっているという根本的な問題を抱えています。 「作品の問題点」-災害、正義、性の記号化- 「災害」の扱われ方について 個人の願いと世界の秩序。 こうしたミクロなものとマクロなものが対比されて、個人の願 いが世界の秩序に勝る、というのが、さんが繰り返し作り続けている作品の特徴です。 君の名では「死んだ」三葉を救いたいという個人の願いから、時を 越え、過去を、未来を変えようとします。 だいぶチートでタブーな やり方ですが、これが受け入れられたのは、私たちに3. 11の経 験があるからでしょう。 彗星の落下で、一つの村が消滅する。 そこにあった景色、生活、命が、あの日なくなってしまったという 経験。 もしも戻って災害を防げるなら?悲劇をなかったことにできるなら ? 大切な誰かを守れるなら?まだ、間に合うなら? 思いを共有できたから、瀧や三葉と共に、私たちは走っていたのだと 思います。 しかしこれは決して現実的ではありません。 だから批判があるのは当然で 、あるべきだと私も思います。 命は、都合よく戻ったりはしません。 フィクションではないからです。 しかしあの時、仮初めでも私たちはスクリーンの中でひとつの村を守ること ができました。 11で私たちに植えつけられた無力感が、あの一時だけ消えた のかもしれません。 こんな風に「」は絶妙に「新海色」が消臭された作品でした。 そこに細やかな風景描写とキャッチーな音楽、少年少女の一 途な想いが重なり、大ヒットしたのだと思います。 「天気の子」も消臭されていないだけで中身は同じです。 しかし前作でひとつの村を救った「私たち」は、今回は二分されているでし ょう。 世界の秩序より個人の願いを優先させたのは、瀧と三葉/帆高と陽 奈、どちらも同じです。 「」では、個人の願い 過去をなかった ことにする、つまり現実を受け入れないことにすること が「災害 を未然に防ぐこと」とイコールだったため問題点がわかりにくくなって いた部分が、「天気の子」では個人の願い 帆高と陽奈が一緒にいるこ と vs世界の秩序 東京の大水害 という、「どちらを取るか」という構図がわかりやすくなっていたので、世界を 壊してでも突っ走れ少年少女派と、いい加減大人になれ少年少女派で観客も 分かれたのでしょう。 ミクロな願いを選んだ場合、前回は災害を未然に防ぎましたが、今 回は災害を招くことになり、しかもそれがリアルな東京の街と して描かれています。 私がこの映画で一番問題だと思ったのは、瀧の祖母である冨美の台詞です。 私は、これは冨美に言わせては一番いけなかった言葉だと個人的に思いまし た。 帆高たちの行動により、冨美の家は水没し生活を奪われてしまいま した。 しかし冨美の口から「元々は海だった。 だから元に戻っただけ」と いう、災害を甘んじて受け入れるような発言が「帆高 新海監督 の免罪符」として発せられます。 また須賀からも「気にするな。 世界は元から狂っている」と免罪さ れ、帆高はその二人の免罪を唱えながら陽奈と再会、そしてアンサーソン グの「大丈夫」が流れ、映画は終わります。 徹底的に帆高 新海監督 は免罪され、救済されるようになっているのです。 実際の被災者である冨美の口から「仕方のないことだった」と言わ せ、救われようとするやり方は、私は好きになれませんし、問題があると感じました。 それは被災者が決めることであり、自己の免罪には使ってはいけな いのではないかと感じたからです。 こうした自己免罪・自己救済のため映画作りを続けているため、新海作品が苦手だという人が一定数存在するのは理解できます。 「アントロポセン的な」冨美の「昔語り」と、衛星的視点からの「水没した東京」の画は、日本神話の「国生み」を表しているのでしょう。 雲の上の草原、日本神話でいうところの「」に上がり、そこで結ばれた帆高(ホタカミノミコト)と陽菜(アメノヒナミコト)が地上へ下る。 そこでは穢れた大人たちによる会の象徴「東京」が、「雨」で「浄化」されています。 繰り返される神話に裏付けされた「大丈夫」には、リアリティのある努力を私たちが選択するという余地はないのです。 「正義と悪の単」について 正義を果たすべきキーアイテムとして「銃」が登場します。 これは会において極めて問題がある設定だと思いますし、おそらく最も批判される点だと思いますが、古典的、典型的な男性性の象徴、特に「少年(さん)」の個人的なコンプレックスとして登場することは理解できます。 に銃は男性性の象徴であり、強い大人たち(警察)に対抗する力を非力な少年に与えるものです。 ナイフで刺したり拳で殴るなどの直接的な行動は相手と一対一で向き合わなくてはならず、また実際に反動が体感として得られるため「力」を感じたいときに使われますが、銃のように離れた場所から多勢の状況を支配できる武器は、力に自信がなく行動に伴う責任から目を背けたいときに使われます。 「警察」も「」も「大人(須賀)」も「迷惑をかけずに生きているぼくたち」を放っておいてはくれず、それぞれを引き離そうとする分からず屋の「悪」として描かれています。 なぜなら大人たちは本当のことを知らず、また知ろうとしないので、彼らの理解者にはなり得ないのです。 自分たちの世界の境界で危機に直面した少年少女は、全力で彼らに抗わなくてはなりません。 少年期の感覚として、これは経験者の多い感覚かもしれません。 この愚かさは少年に安易に世界へとを向けさせ、引き金を引くよう囁きます。 世界を変えられる力が、彼らにはあるはずなのです。 そして世界を変える責任も、運命も、彼らのその小さすぎる肩に乗っています。 少年期の世界観とは、そのようなものかもしれません。 これは一種のリアリティある感覚や経験ではありますが、必ずしも「リアル」であるとは限りません。 警察もも周りの大人たちも、実際には子供たちに耳を貸し、助けてくれる場合もあります。 また「正しい」と思うことを果たすためなら、銃を使っても、警察に追われても、社会のルールを破っても行動するべきという描き方は、現実の私たちに与えるメッセージとしては極めて大きな危うさを持っているでしょう。 「」でを爆破するという破壊行為が肯定的に描かれたときもこの点は問題になりましたが、「正義」を成し遂げる困難さの強調として「犯罪」や「破壊行為」を持ち出すという安易性と危険性は、批判され続ける必要があると思います。 「女性の記号化」の描かれ方について 「」でも「天気の子」でも、特殊な力を持っているという点で、女性キャターにも主体性があるように誤解されがちですが、彼女たちは「巫女」という、まさに「献身」のための存在でしかありません。 また「天気の子」ではフェリーの甲板で帆高が「禊の雨」を受けていますが、これは神の歓迎を示す事象のため、天(アメ)に選ばれ東京へ遣わされているのは、陽菜ではなく帆高です。 彼女たちは主人公である少年に対して理想的に動き、物語をサポートする「人柱」として常に一方的な犠牲を払わされています。 そしてどんなに犠牲を払っても、彼女たちは主人公の少年を「好き」であり、彼らの決断を支持し、自らの存在が彼らのおかげであると感謝さえします。 そして女性が「眺める対象」として描かれる部分も、新海作品に批判がある理由の一つでしょう。 陽菜の体を見て「風俗には向いていない」と言う帆高のセリフや、夏美のセックスシンボル的な描かれ方などは、少年のリビドーとしては健全かもしれません。 しかしこのような男性の理想としての女性像、つまり現実とは異なる「記号としての女性」が未だに描かれ、消費され続けることが「日本では受け入れられている」のだと受け取られることが対外的にどのような意味を持つのかは、私たちひとりひとり、関わる企業の一つ一つが、真剣に考えなくてはならないことだと思います。 「凪」というキャターと「子供の貧困」について ここで、個人的に良かったと思う点も書いておきたいと思います。 私は「子供たちの貧困」が描かれたことは良かったのではないかと思います。 個人的に「天気の子」で一番好きなキャターは凪です。 「イメージされた現代的で都会的な男の子」ではありますが、リアリティのある部分もあるからです。 可憐な容姿と女の子たちに対する人心掌握術に長けたませた小学生、というのは、一見単純に見えますが、彼は「貧困」を隠していません。 サバイバル・スキルとして小綺麗な身なりと容姿、そしてコミュニケーション能力を意識的に身につけ活用していますが、その姿のまま安売りのネギを買って帰り、に保護されたことも女の子たちに素直に知らせています。 女の子たちも凪を評価するときに家庭的な事情(経済的な事情)には関心がないように見えます。 「貧困」は彼らにとってもはや日常の一つであり、上辺だけの「虚構」も生き抜くすべとして甘受しているように見えるのです。 この点において凪は帆高とは対極的なキャターであり、世界が欺瞞に満ちていることを既に受け止めながら、それでも陽菜との小さな「畑」を汚さないように守って生きているように思えます。 「陽菜と一緒ならどこでもいい」というのは彼の世界の真理であり、全てなのでしょう。 このアンバランスさがむしろ作中最もリアリティを持ったキャターに思えました。 帆高と違い、陽菜の個人性が貧困の犠牲になっていることを理解していますが、それを世の中の理不尽のせいにせず、大人になって自分が支えられるようになること(それまでは心配をかけないように明るく振る舞うこと)、姉を独り占めするのではなく帆高が入ってきて姉が個人の人生を少しでも充実させられるのならそれを支持するという、現実的な痛みを伴った選択をする一方、女の子たちを利用しても姉を取り戻すという自分本位な部分も持っています。 帆高が陽菜を理想の象徴として縋っているのとは違い、自らの人生の答えとして陽菜の重要性を凪は持っているからです。 作中描かれている「子供の貧困」もイメージされた部分が多いかもしれませんし、少年少女の純心性を際立たせるために選んだ題材であれば真新しさはありませんが、それでもこの凪を貧困の中で描いたことを私は好ましく思います。 「思い出せない誰か/忘れてしまった何か」-少年期の「喪失感」の処理の仕方- 新海作品の主人公は、いつも大きな「喪失感」を抱いています。 少年期の喪失感を大人になっても抱き続けているキャターはビールとタバコに溺れるという、新海作品の「パターン」があります。 例えば「」の遠野、「天気の子」の須賀などです。 少年期の「喪失感」が作り出す「ここではないどこか」や「運命の相手」の存在を「ないのだ」と捉えることを徹底的に拒絶し「あるのだ」としてしまったのが、作品の最大の「こじらせポイント」であると私は考えています。 新海ワールドでは「ここではないどこか」も「運命の相手」も存在しています。 少年少女が見ているのは本当に「世界の真の姿」であって、大人たちは「見えていない、忘れている」のです。 そして少年少女に「本当のこと」を「見えなくさせようとするもの」、大人たちに「思い出させないようにしているもの」とは、スピリチュアル的な、宇宙の法則のような大きな力であり、私たちの世界ではそれが太古の昔から繰り返されている・・・ つまり、我々は生きた神話の中にいて、私たちは「神話そのもの」である、ということです。 これはもう、少年期の「喪失感」とはなんの関係もない話なのですが、なぜか「喪失感」の「正体」として「神話」が使われてしまっています。 「運命」に遭遇するも「神話的な力」により消されてしまったその記憶が「思い出せず」涙を流す、瀧や須賀。 彼らの「喪失感」は「本当」であって、それは酷く意地悪で残酷なカミサマが見えなくしてしまった「現実」なのです。 さんが「大人としての責任がある作品を作れない」と言われるのは、ここではないかと、私は思っています。 おそらくご本人が未だ少年期の「喪失感」を解消できずに抱き続けていて、その答えとして「神話」を見つけてしまったこと。 「本当のこと」をみんなに教えてあげることが、ご自身の使命であり、運命であり、喪失感を癒やす唯一の方法であると、今もひとり「神話」の中を走り続けていらっしゃるのではないでしょうか。 少年でいるための「畑」を自ら作り出せるようになってしまった大人は、永遠に少年でいるしかないのかもしれません。 moonboat.

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【ネタバレあり】新海誠監督『天気の子』考察と感想 / 狂った世界でも「大丈夫」—生きる強さを謳(うた)う物語

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映画『天気の子』の考察・批評・評論で、重要なものを15件掲載します。 2019年7月30日公開。 筆者は批評家・映画史研究者の渡邉大輔先生です。 他の考察とは切り口が違います。 文芸批評のアプローチが使われています。 独自性があります。 いくつもの論点が盛り込まれています。 ぜひ読んでください。 この文章の一部を私が要約するとこうなります。 『天気の子』がさまざまな面で、今日のポストヒューマン的な表現や世界観に馴染んでいる。 ポストヒューマン的な時代に生きるからこそ、現代人は自分たちが人間であることを自覚する。 だから現代においては「人間性」の擁護が進んだ。 この流れの中で、ハリウッド映画では公共性が表現された。 しかし『天気の子』においては、最後に帆高が公共的な社会秩序や厚生よりも私的な思いのほうを選んだ。 2019年9月6日に発売された雑誌『文學界』2019年10月号に掲載されました。 脚注まで含めると21ページの大ボリュームです。 難解です。 渡邉大輔先生は、まず新海誠監督の複数の作品に「父の不在」があることを指摘しました。 続いて『天気の子』に対して否定的な解釈を2点挙げました。 1点目に「日本的で微温的な保守性の感覚」、2点目に主人公の帆高が当初は責任を引き受けようとしたが、最後には自己愛的な決断をしたこと。 以上2点の問題を「父の不在」と結びつけました。 渡邉大輔先生は批評家の石岡良治による解釈を参照し、21世紀のアニメーション表象は、表層の情報量過多と、隠された深層の意味=理想の空洞化をもたらしている、とまとめました。 さらに渡邉大輔先生は松本卓也先生、ドゥルーズ、ラカンらによる議論を参照しましたが、この部分は私には難しすぎました。 文章の最後をこう締めています。 したがって、わたしたちに求められるのは、単に新海の世界における「父の不在」をむやみに批判することではない。 まずは「ポストヒューマン」の「享楽社会」のなかで、人間性に与えられる新しい倫理や社会の意味を考えることだろう。 少なくとも、『天気の子』をはじめとする新海のアニメーションは、そのための有益な指標となるはずだ。 270 6件目 2019年3月23日公開。 筆者は戸谷洋志先生です。 戸谷洋志先生は哲学研究者であり、私が以前からお世話になっています。 数多くの『天気の子』批評の中で、私は戸谷洋志先生の批評を最も強くお薦めしています。 考察が深く、他の方とは着眼点が異なり、しかも分かりやすい。 戸谷洋志先生は「ポリコレ的ネット社会は人間から責任の主体になる可能性を奪っている」「今ある社会を自然なものとみなすことで、大人たちは自分がその社会をもたらした責任を担わなくなる」と述べました。 私(街河ヒカリ)なりに解釈すると、『天気の子』で主人公は「大丈夫」と言うが、「自分たちに責任がないから大丈夫」なのではなくて、「責任を引き受けても大丈夫」なのです。 ネットでは「『天気の子』はセカイ系なのか?」を巡った議論が展開していますが、戸谷洋志先生は「セカイ系」とは別の視点から『天気の子』の価値を見い出しています。 戸谷洋志先生は『天気の子』の批評性を肯定しつつも、問題点を3点指摘しました。 1点目に、気象操作と拳銃の二つの要素があるため作品の焦点がぶれている。 2点目に、帆高と陽菜の出自について説明不足である。 3点目に、「魚」や「龍」について説明不足である。 7件目 2019年8月1日公開。 筆者は北出栞さんです。 この文書は独自性があります。 考察の範囲が非常に広い。 なんとBUMP OF CHICKENからドナルド・トランプまで書いています。 北出栞さんは野田洋次郎のソロプロジェクトであるillionとRADWIMPSの違いを考察していますが、ここまで細かく考察した人は、北出栞さんの他にほとんどいないでしょう。 『君の名は。 』と『天気の子』においては観客の感情をコントロールする装置がありました。 その代表例が「感情グラフ」です。 合唱のようにみんなで感情を共有する時代だからこそ、孤独が重要なのではないか?いいね戦争のように触覚性=リアルタイム性の価値が主流である現代だからこそ、意味のズレ、意味の多重性が重要なのではないか? 「感情グラフ」に基づく緻密なコントロールによって動かされてきたキャラクターも、映像には描かれていないところで、誰とも共有できない「孤独」を抱えている。 出典:同上 北出栞さんの文章は、鋭い。 他の『天気の子』の考察・批評・評論とは切り口がまったく違います。 8件目 9件目と10件目の作者はどちらも天候さんです。 2019年8月28日と、2019年9月14日に公開されました。 特に 「須賀は何故窓を開けて水を中に入れてしまうのか?【『天気の子』に隠された謎を読み解く】」は長文で、論理的で、独自性があります。 登場人物の行動の理由と新海誠監督の意図を読み解くには、「円環」と「死と再生」と「空気」が有効であると考察しています。 フィクションなので登場人物の考えを知ることはできませんし、新海誠監督の意図が何なのかは正確には分かりませんが、しかし作品世界と監督の意図を超えてたところにある解釈可能性を考えることに、批評と評論のおもしろさがあると、私(街河ヒカリ)は思います。 根拠もなく勝手に妄想するのではおもしろさがありませんが、天候さんはこの2件の文章において、作品内と作品外の両方から根拠を示しているので説得力があります。 なんと山本七平まで参照しています。 11件目 雑誌『CUT』2019年8月号.

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天気の子 謎の考察!魚と龍 意味と解釈!帆高の家出理由!須賀圭介の妻(嫁・奥さん)・アスカの死因は晴れ女で人柱?K&Aは?

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CONTENTS• 映画『天気の子』のあらすじ C 2019「天気の子」製作委員会 高1の夏。 離島から家出し、天候不順がつづく東京にやってきた帆高(声・醍醐虎沙郎)。 新宿・歌舞伎町のマンガ喫茶に泊まりながらアルバイトを探すも、生活はすぐに行き詰まってしまいます。 孤独な日々の果てにようやく見つけた仕事は、フェリーで出会った須賀(声・小栗旬)が営むオカルト雑誌のライター業でした。 母親を亡くし、弟とふたりで暮らす陽菜。 彼女には「祈る」ことで空を晴れにできる不思議な能力がありました。 『キャッチャー・イン・ザ・ライ』から『海辺のカフカ』へ J. サリンジャー著・村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(白水社、2003年) 離島から家出してきた帆高の手には、J・D・サリンジャー著『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(1951年刊)があります。 2002年に刊行した『海辺のカフカ』です。 出版年からすると、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』と同時期に執筆していたと考えられます。 まずここから、1点わかることがあります。 映画の終盤で、帆高が編集プロダクションで世話になった須賀に銃を発砲するのは「恩知らず」なのではなく、象徴的な「父殺し」をおこなったということです。 須賀は帆高を事務所から追いやる際に、「大人になれよ」と言います。 帆高は須賀の言葉どおりに、それを実行したのです。 『海辺のカフカ』においては、 「猫と会話できるという不思議な能力」をもつナカタさんが、夢と現実のはざまで、ジョニー・ウォーカーの格好をした男を刺殺します。 するとつぎの日に、町は空から魚が降ってくる現象に見舞われます。 そこで警官に対して、こんな予言をします。 「空から雨が降るみたいに魚が降ってきます。 たくさんの魚です。 たぶんイワシだと思います。 中にはアジも少しは混じっているかもしれません」 上巻 P356 そして実際に、大量の魚が降ってくるのです。 翌日実際に中野区のその一角にイワシとアジが空から降り注いだとき、その若い警官は真っ青になった。 何の前触れもなく、おおよそ2000匹に及ぶ数の魚が、雲のあいだからどっと落ちてきたのだ。 多くの魚は地面にぶつかるときに潰れてしまったが、中にはまだ生きているものもいて、商店街の路面をぴちぴちとはねまわっていた。 陽菜の弟の凪は、小学校から田端のアパートに帰って開口一番に「きょうはイワシが!」と叫びます。 『海辺のカフカ』の影響がないと考えるほうが、無理があるでしょう。 「空から降る魚」は「力の代償」を示すと同時に、「帆高の父殺しを予言していた」ことも推察させます。 須賀はどのような大人の立ち回りをしても、銃を向けられる運命にあったのです。 『海辺のカフカ』から『ペンギン・ハイウェイ』へ 魚が降ってくることの意味について、2本目の補助線を引いてみます。 今度は 「ペンギンをだすことのできる不思議な力」をもつ女性が登場する映画『ペンギン・ハイウェイ』(2018)です。 主人公のアオヤマ君は小学4年生。 投げたものからペンギンを生みだせる歯科医院のお姉さんを研究対象にしています。 ふたりがよくチェスをする場所は、 「海辺のカフカ」ならぬ「海辺のカフェ」と呼ばれています。 研究していくなかで、「お姉さんは元気だとペンギンをつくり、弱るとペンギンを食べるジャバウォックをつくる」ことが判明。 そしてそのペンギンは、学校の裏の森に浮かぶ「海」という球体を壊すこともわかり、やがて「海の大小とお姉さんが連動している」ことまで解明されます。 つまりお姉さんは、世界の裂け目に生じた「海」をペンギンによって消滅させるための存在であると、結論が導かれるのです。 時空の歪みが正されると、お姉さんは消えてしまいます。 『 天気の子』と『ペンギン・ハイウェイ』の類似 C 2019「天気の子」製作委員会 空の上は海よりも未知である、との台詞が『天気の子』にはありますが、 「天地の調和をもどせる力」で「水棲生物」が生まれ「代償に女性が消える」というプロットは、『ペンギン・ハイウェイ』と共通しています。 ただ、おなじ『海辺のカフカ』を土台としながらも、「消えた女性」のあつかいと、「残された少年」の選択は異なっています。 ここから、新海誠監督独自の答えが導かれるはずです。 アオヤマ君は、女性(他者)という謎を「論理では推し量ることのできない物ごと」と受けとめることにより、精神の調和を保ちます。 ぼくは世界の果てに向かって、たいへん速く走るだろう。 (…)世界の果てに通じている道はペンギン・ハイウェイである。 その道をたどっていけば、もう一度お姉さんに会うことができるとぼくは信じるものだ。 これは仮説ではない。 個人的な信念である。 帆高は、離島にいたころの夢をこうふりかえっています。 この場所から出たくて、あの光に入りたくて、必死に走っていた。 ……そしてその果てに君がいたんだ。 これは監督自身がこういうように、明らかです。 やりたかったのは、少年が自分自身で狂った世界を選び取る話。 別の言い方をすれば、調和を取り戻す物語はやめようと思ったんです。 (公式パンフレットより) まとめ C 2019「天気の子」製作委員会 あらためて両作品の母体となった『海辺のカフカ』における少年の選択、最後の居場所をみてみます。 これはカフカ少年の内なる声です。 「たとえ世界の縁までいっても、君はそんな時間から逃れることはできないだろう。 でも、もしそうだとしても、君はやはり世界の縁まで行かないわけにはいかない。 それはおそらく、『海辺のカフカ』のこの部分を踏まえています。 いや、そうじゃない。 僕がなにを想像するかは、この世界にあっておそらくとても大事なことなんだ。 上巻 P280 また、カフカ少年は名前について問われたときに、こう答えているのもポイントです。 「それは僕のほんとうの名前じゃない。 田村というのはほんとうだけど」 「でも君が自分で選んだんだろう?」 僕はうなずく。 名前を選んだのは僕だし、その名前を新しくなった自分につけることをずっと前からきめていた。 「それがむしろ重要なことなんだ」と大島さんは言う。 帆高は、カフカ少年が世界の果てでとるべきひとつの選択を提示したといえるでしょう。 村上春樹も新海誠も、家出少年に「想像力」を大事にするよう説いていますが、それを補足する連載コラム「新海誠から考える令和の想像力」もあわせてご覧ください。

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