会 いたく て 会 いたく て 星 の 数 の 夜 を 越え て ドラマ。 アニメ小説一覧

いずみたく

会 いたく て 会 いたく て 星 の 数 の 夜 を 越え て ドラマ

会いたくて会いたくて星の数の夜を越えていつまでもいつまでも君はきっと仆のヒカリ君のそばにいる风の朝も冻りそうな月夜もそうさ不器用な仆に出来る事瞬きするたび形変える云みたい... 会いたくて 会いたくて 星の数の夜を越えて いつまでも いつまでも 君はきっと仆のヒカリ 君のそばにいる 风の朝も 冻りそうな月夜も そうさ 不器用な仆に出来る事 瞬きするたび 形変える云みたいな君だけ ずっと 见つめて明日を駆け抜けたいんだ 暧昧な言叶は 心を昙らすだけ まっすぐに泣いて、笑ってよ 守り続けるから 会いたくて 会いたくて 星の数の夜を越えて いつまでも いつまでも 君はきっと仆のヒカリ 会いたくて 会いたくて 见つけたんだ仆の太阳 まぶしすぎる君の横颜 强くなれなくて 尖る言叶 ぶつけあう时もある いいさ ふたりがしたいと思うのなら I say Hi! 君はグッバイ? へそまがりな言叶も 君とのヒトカケラなんだよ 失くしたりはしない 会いたくて 会いたくて ココロ风に溶かしながら いつだって いつだって 君のそばに仆はいる 会いたくて 会いたくて ふれ出してしまう想い まぶしすぎる君の横颜 会いたくて 会いたくて 星の数の夜を越えて いつだって いつだって 君のそばに仆はいる いつかきっと いつかきっと 同じ梦に眠れるように 仆も君のヒカリになる ABC 见えない未来も Can't you see? 选びたいよ 君となら行けるどこまでも ABC 君への思いを Can't you see? 守りたいよ まぶしすぎる君の横颜 巡り会えた仆の太阳 展开全部 My SunShine - ROCK'A'TRENCH 作诗:オータケハヤ ト• 山 森大 2113辅& 5261jam 作曲:オータケハヤト 会(あ 4102)いたく て 会(あ)いたくて 星(ほ し) 1653の数(かず)の夜(よる)を超(こ)えて いつまでも いつまでも 君(きみ)はきっと仆(ぼく)のヒカリ 君(きみ)のそばにいる 风(かぜ)の朝(あさ)も 冻(こお)りそうな月夜(つきよ)も そうさ 不器用(ぶきよう)な仆(ぼく)に出来(でき)る事(こと) 瞬(まばた)きするたび 形変(かたちか)える云(くも)みたいな君(きみ)だけ ずっと 见(み)つめて明日(あす)を駆(か)け抜(ぬ)けたいんだ 暧昧(あいまい)な言叶(ことば)なんて 心(こころ)を昙(くも)らすだけ まっすぐに泣(な)いて、笑(わら)ってよ 守(まも)り続(つづ)けるから 会(あ)いたくて 会(あ)いたくて 星(ほし)の数(かず)の夜(よる)を超(こ)えて いつまでも いつまでも 君(きみ)はきっと仆(ぼく)のヒカリ 会(あ)いたくて 会(あ)いたくて 见(み)つけたんだ仆(ぼく)の太阳(たいよう) まぶしすぎる君(きみ)の横颜(よこがお) 强(つよ)くなれなくて 尖(とが)る言叶(ことば) ぶつけあう时(とき)もある いいさ ふたりがしたいと思(おも)うのなら I say Hi! 君(きみ)はグッバイ(Good Bye)? へそまがりな言叶(ことば)も 君(きみ)とのヒトカケラなんだよ 失(な)くしたりはしない 会(あ)いたくて 会(あ)いたくて ココロ风(ふう)に溶(と)かしながら いつだって いつだって 君(きみ)のそばに仆(ぼく)はいる 会(あ)いたくて 会(あ)いたくて あふれ出(だ)してしまう想(おも)い まぶしすぎる君(きみ)の横颜(よこがお) 会(あ)いたくて 会(あ)いたくて 星(ほし)の数(かず)の夜(よる)を越(こ)えて いつだって いつだって 君(きみ)のそばに仆(ぼく)はいる いつかきっと いつかきっと 同(おな)じ梦(ゆめ)に眠(ねむ)れるように 仆(ぼく)も君(きみ)のヒカリになる ABC 见(み)えない未来(みらい)も Can't you see? 选(えら)びたいよ 君(きみ)となら行(い)けるどこまでも ABC 君(きみ)への想(おも)いを Can't you see? 守(まも)りたいよ まぶしすぎる君(きみ)の横颜(よこがお) 巡(めぐ)り会(あ)えた仆(ぼく)の太阳(たいよう).

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自覚症状のない流産はあるのでしょうか

会 いたく て 会 いたく て 星 の 数 の 夜 を 越え て ドラマ

大山 48 山本伸一が聖教新聞社を出て、自宅に向かったのは、午後10時前のことであった。 空は雲に覆(おお)われ、月も星も隠れていた。 これで人生ドラマの第一幕は終わったと思うと、深い感慨(かんがい)が胸に込み上げてくる。 すべては、広布と学会の未来を、僧俗和合(そうぞくわごう)を、愛するわが同志のことを考えて、自分で決断したことであった。 彼は思った。 私が一身に責任を負(お)って辞任することで、いったんは収(おさ)まるかもしれないが、問題は、宗門僧らの理不尽(りふじん)な圧力は、過去にもあったし、今後も繰り返されるであろうということだ。 それは広宣流布を進めるうえで、学会の最重要の懸案(けんあん)となっていくにちがいない。 学会の支配を企(くわだ)てる僧の動きや、退転・反逆の徒(やから)の暗躍(あんやく)は、広宣流布を破壊(はかい)する第六天の魔王の所為(しゃさ)であり、悪鬼入其身(あっきにゅうごしん)の姿である。 信心の眼(まなこ)で、その本質を見破(みやぶ)り、尊(とうと)き仏子には指一本差させぬという炎(ほうお)のような闘魂(とうこん)をたぎらせて戦う勇者がいなければ、学会を守ることなど、とてもできない。 玄関で、妻の峯子が微笑みながら待っていた。 家に入ると、彼女はお茶をついだ。 「これで会長は終わったよ」 伸一の言葉に、にっこりと頷(うなず)いた。 「長い間、ご苦労様でした。 体を壊(こわ)さず、健康でよかったです。 これからは、より大勢の会員の方に会えますね。 世界中の同志の皆さんのところへも行けます。 自由が来ましたね。 本当のあなたの仕事ができますね」 心に光が差した思いがした。 妻は、会長就任の日を「山本家の葬式」と思い定(さだ)め、この19年間、懸命(けんめい)に支え、共に戦ってくれた。 いよいよ「一閻浮提広宣流布(いちえんぶだいこうせんるふ)」への平和旅を開始しようと決意した伸一の心も、よく知っていた。 彼は、深い感謝の心をもって、「戦友」という言葉を嚙(か)み締(し)めた。 大山 47 山本伸一は、記者団の質問に答えて、今後の自身の行動について語っていった。 「学会としては、世界の平和をめざし、仏法を基調(きちょう)として、さらに幅広い平和運動、教育・文化運動等を展開していきます。 私は、その活動に時間をあて、行動していきたいと考えています」 伸一への質問は続いた。 「会長交代によって、今後、学会と公明党の関係は変わりますか」 記者たちの最大関心事は学会と政治との関係にあったようだ。 伸一は微笑(ほほえ)みながら、「それは、新会長に聞いてもらわないと。 でも、これまでと同じでしょ?」と言って、隣の十条潔の顔をのぞき込んだ。 十条は大きく頷いた。 「やっぱり、同じですって」 また、笑いが広がった。 「これまで同様、学会が公明党の支援団体であることに変わりはないということです。 公明党には、いちばん国民のために貢献(こうけん)していると言われる党に、さらに成長していっていただきたいというのが、私の願いです」 彼は、すべての質問に、率直に答えた。 午後8時前、記者会見は終わった。 受付の女子職員が、心配そうな顔で伸一を見ていた。 彼は、微笑を浮かべて言った。 「大丈夫! 私は何も変わらないよ!」 それから別室に移り、青年部幹部らと懇談(こんだん)した。 彼は魂(たましい)を注ぎ込む思いで訴えた。 「私が、どんな状況に追い込まれようが、青年が本気になれば、未来は開かれていく。 弟子が本当に勝負すべきは、日々、師匠に指導を受けながら戦っている時ではない。 それは、いわば訓練期間だ。 師が、直接、指揮を執(と)らなくなった時こそが勝負だ。 しかし、師が身を引くと、それをいいことに、わがまま放題になり、学会精神を忘れ去る人もいる。 戸田先生が理事長を辞められた時もそうだった。 君たちは、断じてそうなってはならない。 「山本第三代会長の後を受けまして、新しい制度による出発となりました。 これまでに山本会長は、学会の運営は皆で行っていけるように、十分に指導してくださいました。 これからも、学会の進み方に変わりはありません。 誠(まこと)に大任ですが、決意を新たにし、この任を全うしていきたいと考えております。 今後は21世紀をめざし、5年単位の展望で前進してまいります。 特に最初の5年は人材の育成に力を注いでいく所存(しょぞん)です。 そして、二度と戦争を起こさせない、社会の安定した平和勢力に、学会を育てていきたいと思っております」 そこに、山本伸一が到着した。 彼は、記者たちに笑顔を向け、「大変にお疲れさまです」と言って礼をし、十条にも会釈して隣(となり)に座った。 すぐに、「現在の心境と会長勇退の理由をお聞かせください」との質問が飛んだ。 「大きな荷物を下ろしてホッとした気持ちです。 ただし、新しい会長中心の体制、これからの前進を見守るという意味では、また新しい荷物を背負ったような気持ちもいたします。 ゆっくり休ませてくれないんですよ」 彼の言葉に、どっと笑いが起こった。 どことなく重たかった空気が一変し、十条の顔にも笑みが広がった。 伸一は、新体制の出発を明るいものにしたかったのである。 ユーモアは暗雲(あんうん)を吹(ふ)き払う。 彼は、話を続けた。 「既に説明もあったと思いますが、会長を辞任しようと思った最大の理由は、足かけ20年という歳月を、一人で最高責任者をしていることは長すぎると判断したことです。 以前から、後進に道を譲(ゆず)ることで、新しい活気に満ちた創造もなされると考えてきました。 また、疲(つか)れもたまっています。 しかし、私は51歳であり、今ならば、まだ皆を見守りながら、応援していくことができます」 人生は、闘争(とうそう)の連続であるといえよう。 大山 45 県長会等のあとも、山本伸一は新宿文化会館にとどまり、彼の辞任にいちばん衝撃(しょうげき)を受けている婦人部の代表と懇談(こんだん)して励ました。 また、来客の予定があり、その応対にも時間を費やした。 夜には、創価学会として記者会見を行うことになっていたが、既に新聞各紙は夕刊で、伸一が会長を勇退(ゆうたい)し、十条潔が新会長に就任(しゅうにん)することになると、大々的に報じた。 それらの報道では、この日の「聖教新聞」に、伸一の所感「『七つの鐘』終了に当たって」が掲載されたことに触れ、それが「辞意」の表明であるなどとしていた。 記者会見の会場である聖教新聞社には、夕刻から、次々と新聞、テレビ、ラジオなどのマスコミ関係者が訪れ、午後6時過ぎには数10人の記者らでごった返していた。 午後7時、新会長の十条(じゅうじょう)と新理事長の森川一正(もりかわかずまさ)、副会長の秋月英介(あきづきえいいすけ)・山道尚弥(やまみちひさや)らが姿を現すと、いっせいにフラッシュが光り、カメラのシャッター音が響いた。 伸一は、30分ほど遅れて、会場に行くことにしていた。 新会長の十条を前面に立てなければとの思いからであった。 記者会見では、秋月が、本日の総務会で会長・山本伸一の勇退(ゆうたい)の意向が受理されて辞任し、名誉会長となったと報告。 そして、理事長であった十条が会長に、副会長の森川が理事長に就任したことが発表された。 また、伸一の会長勇退については、「七つの鐘」の終了という学会にとって大きな歴史の区切りを迎え、新しい制度、機構も整い、人材もそろったので、会長職を辞(じ)して、平和・文化・教育の活動に力を注(そそ)ぎたいとの希望が出されたことなどが伝えられた。 マスコミ関係者の多くは、辞任の情報は耳にしていた。 しかし、昨日まで、まだ先のことではないかと思っていたようだ。 学会が未曾有(みぞう)の大発展を遂げたのは、常に未来を見すえて、先手、先手と、素早(すばや)く手を打って前進してきたことにこそある。 大山 44 24日の総務会で制定された「創価学会会則」は、学会が宗教団体として、どのように宗教活動をしていくのか、また、どのように会員を教化育成していくのか、さらに、そのために組織をどのように運営していくのかなど、原則的な事項を定めたものである。 つまり、学会が宗教団体として活動を進めていくうえでの基本的な それまで学会は「創価学会規則」のほか、総務会規定、人事委員会規定など個別の事項について定(さだ)めた規定、さらに創立以来培われてきた慣例等が運営の基本となってきた。 この「会則」は、学会の飛躍的、重層的な発展と、「七つの鐘」終了にともなう新時代への前進に対応するため、それらを整理し、成文化してまとめたものである。 「会則」は15章からなり、会長及び理事長については、総務のなかから総務会が選出することが明記され、任期は5年と定められていた。 (その後、改定=編集部注) なお、この日の総務会には、副会長の鮫島源治からも役職辞任の申し出があり、受理されている。 県長会が終了し、正午ごろになると、「創価学会の山本伸一会長が辞任へ」とのニュースがテレビ、ラジオで流れた。 報道では、宗門の法華講総講頭も辞め、新会長には十条潔が就任し、伸一は名誉会長となる見込みであることなどが伝えられた。 既に情報が流されていたのである。 全国の学会員にとっては、まさに寝耳に水であった。 学会本部には、問い合わせや憤慨(ふんがい)の電話が殺到(さっとう)した。 電話口で泣きだす人もいた。 交換台は、大わらわであった。 海を進む船は、荒波にも揉(も)まれる。 疾風怒濤(しっぷうどとう)を越えてこそ、新天地へと至る。 伸一は、ただ一人、船首に立って風に向かった。 大山 43 会場の中央にいた男性が立ち上がった。 まだ30代の東北方面の県長である。 彼 は、県長会の参加者に怒(いか)りをぶつけるかのように、声を張(は)り上げて訴(うった)えた。 「皆さんは、先生が辞任されるということを前提に話をしている。 私は、おかしいと思う。 そのこと自体が、納得できません!」 沈黙(ちんもく)が流れた。 伸一の声が響(ひび)いた。 「辞任が大前提でいいじゃないか。 私は、そう決めたんだ。 これで新しい流れができ、学会員が守られるならば、いいじゃないか。 声を荒らげるのではなく、学会は和気あいあいと、穏やかに、団結して進んでいくことだよ。 私と同じ心であるならば、今こそ、同志を抱きかかえるようにして励まし、元気づけていくんだ。 みんなが立ち上がり、みんなが私の分身として指揮を執るんだ! 初代会長の牧口先生が獄死されても、戸田先生がその遺志を受け継いで一人立たれた。 そして、会員75万世帯を達成し、学会は大飛躍した。 その戸田先生が逝去(せいきょ)された時、私は、日本の広宣流布を盤石(ばんじゃく)にし、必ずや世界広布の流れを開こうと心に誓(ちか)った。 そうして今、大聖人の仏法は世界に広がった。 物事には、必ず区切りがあり、終わりがある。 一つの終わりは、新しい始まりだ。 その新出発に必要なのは、断固たる決意だ。 誓いの真っ赤な炎(ほのお)だ。 立つんだよ。 皆が後継の師子(しし)として立つんだ。 いいね。 頼(たの)んだよ」 県長会は、涙のなかで幕を閉じた。 何があろうと、皆の心に峻厳(しゅんげん)な創価の師弟の精神が脈動(みゃくどう)している限り、新しき道が開かれ、広宣流布は伸展していくのだ。 引き続き、午後には総務会が開かれた。 この席上、伸一の会長辞任の意向が伝えられ、受理された。 さらに総務会では、懸案(けんあん)であった「創価学会会則」の制定を審議し、採択(さいたく)。 これに基(もと)づき、新会長に十条潔(じゅうじょうきよし)が、新理事長に森川一正(もろかわかずまさ)が選任され、伸一は名誉会長に就任した。 それは、伸一にとって、壮大な人生ドラマの新章節の開幕であった。 大山 42 山本伸一は、力強い口調で語り始めた。 「これからは、新会長を中心に、みんなの力で、新しい学会を創(つく)っていくんだ。 私は、じっと見守っています。 悲しむことなんか、何もないよ。 壮大(そうだい)な船出(ふなで)なんだから」 会場から声があがった。 「先生! 辞(や)めないでください!」 すすり泣きがもれた。 それは次第に大きくなっていった。 号泣(ごうきゅう)する人もいた。 一人の壮年が立ち上がって尋(たず)ねた。 「今後、先生は、どうなるのでしょうか」 「私は、私のままだ。 何も変わらないよ。 どんな立場になろうが、地涌の使命に生きる一人の人間として戦うだけだ。 広宣流布に一身を捧(ささ)げられた戸田先生の弟子だもの」 青年の幹部が、自らの思いを確認するように質問した。 「会長を辞められても、先生は、私たちの師匠(ししょう)ですよね」 「原理は、これまでに、すべて教えてきたじゃないか! 青年は、こんなことでセンチメンタルになってはいけない。 皆に、『さあ、新しい時代ですよ。 頑張りましょう』と言って、率先(そっせん)して励ましていくんだ。 恐れるな!」 次々に質問の手があがった。 「県長会には出席していただけますか」 壮年の質問に伸一は答えた。 「新会長を中心に、みんなでやっていくんだ。 いつまでも私を頼(たよ)っていてはいけない。 これまで私は、全力で指導し、皆の育成にあたってきた。 すべてを教え、伝えてきた。 卒業のない学校なんかない」 「各県の指導には回っていただけるんでしょうか。 ぜひ、わが県に来てください」 涙(なみだ)を浮(う)かべながら、婦人が言った。 「ありがとう。 でも、今までに何度となく各県を回ってきたじゃないか。 これからは、平和のために、もっと世界を回りたい。 いつ戦争になるかわからない国もある。 できる限りのことをしておきたいんだよ」 平和への闘魂(とうそう)がほとばしる言葉であった。 大山 41 県長会のメンバーは、十条潔の説明で、山本伸一が会長辞任を決意した理由はわかったが、心の整理がつかなかった。 十条は話を続けた。 「先生は、この際、創価学会の会長だけでなく、法華講総講頭の辞任も宗門に申し出られました。 こちらの方は、宗門との間に生じた問題の一切の責任を負われてのことです。 先生が会長を辞められるというと、どうしても、私たちは悲しみが先に立ってしまう。 しかし、大切なことは、先生の決断を、その心を、しっかりと受けとめ、未来に向かい、明るくスタートすることではないかと思う。 力のない私たちではあるが、これから力を合わせて、『先生。 ご安心ください』と言える創価学会をつくることが、弟子の道ではないだろうか! なお、今後の流れとしては、先生の勇退のお話を受けて、本日、午後から総務会を開催し、勇退が受理されたあと、記者会見を開き、正式発表となる予定であります」 彼の話は終わった。 拍手が起こることはなかった。 婦人の多くは、目を赤く腫(は)らしていた。 虚(うつ)ろな目で天井を見上げる壮年もいた。 怒りのこもった目で一点を凝視(ぎょうし)し、ぎゅっと唇(くちびる)を噛(か)み締(し)める青年幹部もいた。 その時、伸一が会場に姿を現した。 「先生!」 いっせいに声があがった。 彼は、悠然(ゆうぜん)と歩みを運びながら、大きな声で言った。 「ドラマだ! 面白いじゃないか! 広宣流布は、波瀾万丈(はらんばんじょう)の戦いだ」 皆と一緒に題目を三唱し、テーブルを前にして椅子(いす)に座ると、参加者の顔に視線(しせん)を注いだ。 皆、固唾(かたず)をのんで、伸一の言葉を待った。 「既(すで)に話があった通りです。 何も心配はいりません。 私は、私の立場で戦い続けます。 広宣流布の戦いに終わりなどない。 私は、戸田先生の弟子なんだから!」 彼は、烈風(れっぷう)に勇み立つ師子であった。 創価の師弟の誇りは、勇気となって燃え輝く。 (2017年 2月20日付 聖教新聞) 大山 40(連載6000回) 山本伸一の会長辞任は、あまりにも突然(とつぜん)の発表であり、県長会参加者は戸惑(とまど)いを隠(かく)せなかった。 宗門との問題が、会長辞任の引き金になったことは紛(まぎ)れもない事実である。 しかし、伸一には、未来への布石のためという強い思いがあった。 十条の額には汗が滲(にじ)んでいた。 彼は、皆の表情から、まだ釈然(しゃくぜん)としていないことを感じ取ると、一段と大きな声で、「山本先生は、ご自身が勇退される理由について、次のように語っておられます」と言い、伸一の話を記したメモを読み上げた。 したがって学会の恒久的な安定を考え、まだ自分が健康でいる間にバトンタッチしたい。 牧口・戸田門下生も重鎮(じゅうちん)としており、青年の人材も陸続と育っている今こそ好機である。 それを踏まえた会則も、このほど制定される運びとなった。 次代へ向け、協議し合って進みゆく体制も整った。 会の運営を安心して託(たく)せる展望ができた。 この活動は、今後、日本、世界のために、さらに推進し、道を開いていかなくてはならないと感じている。 また、一緒に歴史を創り、活躍してくださった全国の功労者宅への訪問や、多くの執筆等も進めていきたい。 それには、どうしても時間を必要とする。 以上が、山本先生の会長勇退の理由です」 人も、社会も、大自然も、すべては変化する。 その変化を、大いなる前進、向上の跳躍台(ちょうやくだい)とし、希望の挑戦を開始していく力が信心であり、創価の精神である。 大山 39 未来を展望する時、社会も、学会も、ますます多様化していくにちがいない。 したがって、山本伸一は、これまで以上に、さまざまな意見を汲(く)み上げ、合議による集団指導体制によって学会を牽引(けんいん)していくべきであると考えていた。 もちろん会長はその要(かなめ)となるが、執行部が、しっかりとスクラムを組み、力を合わせ進んでいくことを構想していたのだ。 また、彼の組織像は、全同志が会長の自覚(じかく)に立って、互いに団結し合い、活動を推進していくというものであった。 理事長の十条潔は話を続けた。 「山本先生は、ご自分でなくとも、会長職が務(つと)まるように、制度的にも、さまざまな手を打たれてきたのであります。 先生は、以前から、私たちに、よく、こう言われておりました。 『私がいる間はよいが、私がいなくなったら、学会は大変なことになるだろう。 だから今のうちに手を打っておきたい。 いつまでも私が会長をやるのではなく、近い将来、会長を交代し、次の会長を見守り、育てていかなければならない』 また、『君たちは、目先のことしか考えないが、私は未来を見すえて、次の手を打っているんだ』とも言われております。 その先生が、今回、『七つの鐘』の終了という歴史の区切りを見極(みきわ)められ、会長辞任を表明されたのであります」 この瞬間、誰もが息をのんだ。 耳を疑う人もいた。 愕然(がくぜん)とした顔で十条を見つめる人もいれば、目に涙を浮かべる人もいた。 十条も万感の思いが込み上げ、胸が詰(つ)まったが、自らを励まし、言葉をついだ。 「先生は、『次の創価学会の安定と継続と発展のために、新しい体制と人事で出発すべきである』と言われ、熟慮(じゅくりょ)の末に会長勇退(ゆうたい)を決意されたのであります」 弟子のために道を開くのが師である。 そして、その師が開いた道を大きく広げ、延ばしていってこそ、真の弟子なのである。 この広布の継承(けいしょう)のなかに真実の師弟がある。

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小さいおうち

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戦時中ではないのだから過剰な自制は必要ないし、相互監視などもってのほかだけれど、逆にお気楽なユーチューブ・ラリーが続いているのも、いただけない。 仮にそれが「はげまし」の連鎖だとしても、自粛解除のあとはどうするのか。 きっとライブやドラマ撮影や小屋打ちが再開して、ふだんの平時に戻るだけなのだろう。 もっとも自粛中のテレワークはけっこう便利そうだったので、うまくリモート・コミュニケーションをまぜるだけになるのだろう。 思うに、ニューノーマルなんて幻想なのである。 その宿命を背負っているのは、なんといっても病院などの医事現場である。 感染治療も感染対策もたいへんだし、治療や看護にあたる従事者の心労も続く。 経営もしだいに逼迫していくだろう。 なぜこうなっているかといえば、原因はいろいろあるけれど、細菌やウイルスがもたらす疾病が「個人治療」だけではなく「人類治療」にかかわるからである。 人間一人ずつに対処して治療する。 これに対してウイルス対策は「究極要因」を相手にする。 いわば人類が相手なのである。 人類が相手だということは「生きもの」全部が相手だということで、人間も「生きもの」として見なければならないということになる。 これについては長谷川眞理子さんの『生き物をめぐる4つの「なぜ」』(集英社新書)という好著がある。 ゼツヒツの1冊だ。 進化医学では感染症の発熱を感染熱とはみなさない。 ウイルスなどの病原菌が生育する条件を悪化(劣化)させるために、われわれの体がおこしている現象だとみなす。 免疫系の細胞のほうが病原菌よりも高温性に耐性があることを活用して発熱をもたらしたのである。 だからすぐさま解熱剤を投与したり、体を冷却しすぎたりすることは、かえって感染症を広げてしまうことになりかねない。 ウイルスは血中の鉄分を減少させることも知られているが、これもあえてそういう対策を体のほうが選択したためだった。 「苦労する免疫」仮説を唱えて話題を呼んだ。 そういえば、かつてパラサイト・シングルといった用語をつくり、その後もフリーターや家族社会学について独自の見解を発表していた山田昌弘が、2004年に『希望格差社会』(筑摩書房)で、ネシーの「苦労する免疫」仮説をうまくとりあげていたことを思い出した。 いずれも大いに考えさせられた。 イーワルドはTED(2007)で急性感染症をとりあげ、「われわれは、細菌を飼いならせるのか」というユニークなトークを展開している。 イーワルドの言い分から今回のCOVID19のことを類推すると、武漢での飲料水や糞尿や補水がカギを握っていたということになる。 COVID19パンデミックの渦中の4月25日、HCU(ハイパーコーポレート・ユニバーシティ)第15期目の最終回をハイブリッド・スタイルで開催した。 本楼をキースタジオにして、80人を越えるネット参加者に同時視聴してもらうというスタイルだ。 リアル参加も受け付けたので、三菱の福元くん、リクルートの奥本くん、大津からの中山くんら、5人の塾生が本楼に駆けつけた。 さあ、これだけの参加者とぼくのレクチャーを、どういうふうにAIDAをとるか。 「顔」と「言葉」と「本」を現場と送信画面をスイッチングしながらつなげたのである。 まずは本楼で5台のカメラを動かし、チャット担当に2人(八田・衣笠さん)をあて、記事中継者(上杉くん)が付きっきりで事態のコンテンツ推移の様子をエディティングしつづけるようにした。 スイッチャー(穂積くん)にも立ってもらった。 かくしてハイブリッドHCUは、昼下がり1時の参加チェック開始からざっと7時間に及んだのである。 だからテレワークをしたわけではない。 ぼくは最近のテレワークにはほとんど関心がない。 当時はFAXもなく、オートバイで資料やダミーや原稿を運びあって、制作編集をしつづけたものだった。 最近のテレワークは適用機材の仕様に依存しすぎて、かえって何かを「死なせて」いるか、大事なことを「減殺しすぎて」いるように思う。 プロクセミックスとアフォーダンスがおバカになってしまうのだ。 テレビもネット参加の映像を試みているけれど、いまのところ芸がない。 はたしてうまくいったかどうか。 それは参加者の感想を聞かないとわからないが、ディレクターには小森康仁に当たってもらい、1週間前にラフプランをつくり、前日は映像・音声・照明のリハーサルもした。 こういう時にいつも絶対フォロアーになってくれてきた渡辺文子は自宅でその一部始終をモニターし、コメントしてくれた。 当日の現場のほうは佐々木千佳・安藤昭子・吉村堅樹が舞台まわしを仕切った。 安藤の胸のエンジンがしだいに唸りはじめていたので、この反応を目印に進めようと思った。 書物というもの、表紙がすべてを断固として集約表現しているし、それなりの厚みとボリュームもあるので、見せようによっては、ぼくの「語り」を凌駕する力をもつ。 けれどもやってみると、けっこう忙しく、目配りも届ききれず、自分が多次元リアル・ヴァーチャルの同時送受の浸透力にしだいに負けてくるのがよくわかった。 76歳には過剰だったのかもしれない。 まあ、それはともかく、やってのけたのだ。 すでに昨年10月から演劇ではこまつ座の座長の井上麻矢ちゃんが(井上ひさしのお嬢さん)が、スポーツからは昔なじみのアメフトのスター並河研さんとヘッドコーチの大橋誠さんが、ビリヤードからは大井直幸プロと岡田将輝協会理事が、文楽からは2日にわたって吉田玉男さんのご一門(3役すべて総勢10人余)が、そして茶道から遠州流の小堀宗実家元以下の御一党が(宗家のスペースも提供していただいた)、いったい稽古と本番とのAIDAにあるものは何なのか、いろいろ見せたり、話したり、濃ゆ~く演じてみせてくれたので、これをあらためて振り返るのはたいへん楽しかった。 たとえばベンヤミンやポランニーやエドワード・ホールだ。 ついでに最新刊の『日本文化の核心』(講談社現代新書)からのフリップも入れた。 とくに日本株式会社の多くが平時に有事を入れ込まないようになって、久しく低迷したままなので(いざというとお金とマスクをばらまくだけなので)、こちらについてはかなりキツイ苦言を呈してみた。 このことを前提にしておかない日本なんて、あるいはグローバルスタンダードにのみ追随している日本なんて、かなりの体たらくなのである。 そのことに苦言を呈した。 もっと早々にデュアルスタンダードにとりくんでいなければならなかったのである。 つまり地球生命系のアントロポセンな危機が到来しているということなのだが、そのことがちっとも交わされていない日本をどうするのか、そこを問うた。 ぐったりしたけれど、そのあとの参加者の声はすばらしいものだったので、ちょっとホッとした。 そのうち別のかたちで、「顔」と「言葉」と「本」を「世界と日本」のために、強くつなげてみたいものである。 RNAウイルスの暴風が吹き荒れているのである。 新型コロナウイルスがSARSやMARSや新型インフルエンザの「変異体」であることを、もっと早くに中国は発表すべきだったのだろう。 そのうえで感染症を抑える薬剤開発やワクチンづくりに臨んでみたかった。 せめてフランク・ライアンの『破壊する創造者』(ハヤカワ文庫)、フレデリック・ケックの『流感世界』(水声社)を読んでほしい。 千夜千冊ではカール・ジンマーの『ウイルス・プラネット』を紹介したが、中身はたいしたことがなく、武村政春さんの何冊かを下敷きにしたので(講談社ブルーバックスが多い)、そちらを入手されるのがいいだろう。 「自粛嫌い」のぼくも、さすがに家族からもスタッフからも「自制」を勧告されていて、この2週間の仕事の半分近くがネット・コミュニケーションになってきた(リアル2・5割、ネット参加7・5割のハイブリッド型)。 それはそれ、松岡正剛はマスクが嫌い、歩きタバコ大好き派なので、もはや東京からは排除されてしかるべき宿命の持ち主になりつつあるらしい。 そのうち放逐されるだろう。 学生時代に、このコンベンションに付き合うのは勘弁してもらいたいと思って以来のことだ。 下戸でもある。 だから結婚式や葬儀がひどく苦手で、とっくに親戚づきあいも遠のいたままにある。 たいへん申し訳ない。 レイ・ブラッドベリの家に行ったとき、地下室にミッキーマウスとディズニーグッズが所狭しと飾ってあったので、この天下のSF作家のものも読まなくなったほどだ。 これについては亡きナムジュン・パイクと意見が一致した。 かつての豊島園には少し心が動いたが、明るい改装が続いてからは行っていない。 格闘技はリングスが好きだったけれど、横浜アリーナで前田日明がアレクサンダー・カレリンに強烈なバックドロップを食らって引退して以来、行かなくなった。 ごめんなさい。 子供時代はバスケットの会場と競泳大会の観戦によく行っていた。 それは7割がたは「本」による散策だ(残りはノートの中での散策)。 実は、その脳内散歩ではマスクもするし、消毒もする。 感染を遮断するのではなく、つまらない感染に出会うときに消毒をする。 これがわが「ほん・ほん」の自衛策である。 ぼくとしてはめずらしくかなり明快に日本文化のスタイルと、そのスタイルを読み解くためのジャパン・フィルターを明示した。 パンデミックのど真ん中、本屋さんに行くのも躊らわれる中での刊行だったけれど、なんとか息吹いてくれているようだ。 デヴィッド・ノーブルさんが上手に訳してくれた。 出版文化産業振興財団の発行である。 いろいろ参考になるのではないかと思う。 中井久夫ファンだったぼくの考え方も随所に洩しておいた。 次の千夜千冊エディションは4月半ばに『大アジア』が出る。 これも特異な「変異体」の思想を扱ったもので、竹内好から中島岳志に及ぶアジア主義議論とは少しく別の見方を導入した。 日本人がアジア人であるかどうか、今後も問われていくだろう。 1月~2月はガリレオやヘルマン・ワイルなどの物理や数学の古典にはまっていた。 この、隙間読書の深度が突き刺すようにおもしろくなる理由については、うまく説明できない。 「間食」の誘惑? 「別腹」のせい? 「脇見」のグッドパフォーマンス? それとも「気晴らし演奏」の醍醐味? などと考えてみるのだが、実はよくわからない。 新型コロナウィルス騒ぎでもちきりなのだ。 パンデミック間近かな勢いがじわじわ報道されていて、それなのに対策と現実とがそぐわないと感じている市民が、世界中にいる。 何をどうしていくと、何がどうなるはかわからないけれど、これはどう見ても「ウィルスとは何か」ということなのである。 けれどもいわゆる細菌や病原菌などの「バイキン」とは異なって、正体が説明しにくい。 まさに隙間だけで動く。 ところがウィルスはこれらをもってない。 自分はタンパク質でできているのに、その合成はできない。 生物は細胞があれば、生きるのに必要なエネルギーをつくる製造ラインが自前でもてるのだが、ウィルスにはその代謝力がないのである。 だから他の生物に寄生する。 宿主を選ぶわけだ、宿主の細胞に入って仮のジンセーを生きながらえる。 ところがこれらは自立していない。 他の環境だけで躍如する。 べつだん「悪さ」をするためではなく、さまざまな生物に宿を借りて、鳥インフルエンザ・ウィルスなどとなる。 もっとはっきり予想していえば「借りの情報活動体」なのだ。 鍵と鍵穴のどちらとは言わないが、半分ずつの鍵と鍵穴をつくったところで、つまり一丁「前」のところで「仮の宿」にトランジットする宿命(情報活動)を選んだのだろうと思う。 たとえば一人の肺の中には、平均174種類ほどのウィルスが寝泊まりしているのである。 さまざまな情報イデオロギーや情報スタイルがどのように感染してきたのか、感染しうるのか、そのプロセスを追いかけてきたようにも思うのだ。 まあ、幽閉老人みたいなものだが、何をしていたかといえば、猫と遊び、仕事をしていたわけだ。 千夜千冊エディションを連続的に仕上げていたに近い。 木村久美子の乾坤一擲で準備が進められてきたイシス編集学校20周年を記念して組まれたとびきり特別講座だ。 開講から104名が一斉に本を読み、その感想を綴り始めた。 なかなか壮観だ。 壮観なだけでなく、おもしろい。 やっぱり本をめぐる呟きには格別なものがある。 ツイッターでは及びもつかない。 参加資格は編集学校の受講者にかぎられているのが、実はミソなのである。 ちょっと摘まんでみると、こんなふうだ。 赤坂真理の天皇モンダイへの迫り方も、大竹伸朗のアートの絶景化もいいからね。 イーガンや大澤君のものはどうしても読んでおいてほしいからね。 これらの感想について、冊師たちが交わしている対応が、またまた読ませる。 カトめぐ、よくやっている。 穂村弘『絶叫委員会』、原田マハ『リーチ先生』、上野千鶴子『女ぎらい』、畑中章宏『天災と日本人』、藤田紘一郎『脳はバカ、腸はかしこい』、ボルヘス『詩という仕事について』、松岡正剛『白川静』、モラスキー『占領の記憶・記憶の占領』、柄谷行人『隠喩としての建築』、藤野英人『投資家みたいに生きろ』、バウマン『コミュニティ』、酒井順子『本が多すぎる』、バラード『沈んだ世界』、堀江敏幸『回送電車』、アーサー・ビナード『日々の非常口』、島田ゆか『ハムとケロ』、ダマシオ『意識と自己』、荒俣宏『帝都物語』、白州正子『縁あって』、野地秩嘉『キャンティ物語』、ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡』、國分功一郎『原子力時代における哲学』、ミハル・アイヴァス『黄金時代』、ウェイツキン『習得への情熱』、江國香織『絵本を抱えて部屋のすみへ』、内田樹『身体の言い分』。 このへんも嬉しいね、アイヴァスを読んでくれている。 ぼくが読んでいない本はいくらもあるけれど、イシスな諸君の読み方を読んでいると、伊藤美誠のミマパンチを見たり、中邑真輔のケリが跳んだときの快感もあって、それで充分だよと思える。 もともとはモルフェウスのしからしむ誘眠幻覚との戯れなのだけれど、これを共読(ともよみ)に変じたとたんに、世界化がおこるのだ。 こんな快楽、ほかにはめったにやってこない。 満を持してのエディションというわけではないが(それはいつものことなので)、みなさんが想像するような構成ではない。 現代思想の歴々の編集力がいかに卓抜なものか、これまでのポストモダンな見方をいったん離れて、敷居をまたぐ編集、対角線を斜めに折る編集、エノンセによる編集、テキスト多様性による編集、スタンツェ(あらゆる技法を収納するに足る小部屋もしくは容器)を動かす編集、アナモルフィック・リーディングによる編集を、思う存分つなげたのだ。 かなり気にいっている。 なかでポランニーが「不意の確証」は「ダイナモ・オブジェクティブ・カップリング」(動的対象結合)によっておこる、それがわれわれに「見えない連鎖」を告知しているんだと展望しているところが、ぼくは大好きなのである。 鍵は「準同型」「擬同型」のもちまわりにある。 「世界は本である」「なぜなら世界はメタフォリカル・リーディングでしか読めないからだ」と喝破した有名な著作だ。 最後にキエラン・イーガンの唯一無比の学習論である『想像力を触発する教育』にお出まし願った。 この1冊は天才ヴィゴツキーの再来だった。 あしからず。 編集力のヒントとしては『情報生命』も自画自賛したいけれど、あれはちょっとぶっ飛んでいた。 『編集力』は本気本格をめざしたのだ。 ぜひ手にとっていただきたい。 あしからず。 ところが、気持ちのほうはそういうみなさんとぐだぐたしたいという願望のほうが募っていて、これではまったくもって「やっさもっさ」なのである。 やっぱりCOPD(肺気腫)が進行しているらしい。 それでもタバコをやめないのだから、以上つまりは、万事は自業自得なのであります。 来年、それでもなんだかえらそうなことを言っていたら、どうぞお目こぼしをお願いします。 それではみなさん、今夜もほんほん、明日もほんほん。 最近読んだいくつかを紹介する。 ジョン・ホロウェイの『権力を取らずに世界を変える』(同時代社)は、革命思想の成長と目標をめぐって自己陶冶か外部注入かを議論する。 「する」のか「させる」のか、そこが問題なのである。 同時代社は日共から除名された川上徹がおこした版元で、孤立無援を闘っている。 2年前、『川上徹《終末》日記』が刊行された。 コールサック社をほぼ一人で切り盛りしている鈴木比佐雄にも注目したい。 現代詩・短歌・俳諧の作品集をずうっと刊行しつづけて、なおその勢いがとまらない。 ずいぶんたくさんの未知の詩人を教えてもらった。 注文が多い日々がくることを祈る。 ぼくは鷲津繁男に触発されてビザンチンに惑溺したのだが、その後は涸れていた。 知泉書館は教父哲学やクザーヌスやオッカムを読むには欠かせない。 リアム・ドリューの『わたしは哺乳類です』とジョン・ヒッグスの『人類の意識を変えた20世紀』(インターシフト)などがその一例。 ドリューはわれわれの中にひそむ哺乳類をうまく浮き出させ、ヒッグスは巧みに20世紀の思想と文化を圧縮展望した。 インターシフトは工作舎時代の編集スタッフだった宮野尾充晴がやっている版元で、『プルーストとイカ』などが話題になった。 原研哉と及川仁が表紙デザインをしている。 最近、太田光の「芸人人語」という連載が始まっているのだが、なかなか読ませる。 今月は現代アートへのいちゃもんで、イイところを突いていた。 さらにきわどい芸談に向かってほしい。 佐藤優の連載「混沌とした時代のはじまり」(今月は北村尚と今井尚哉の官邸人事の話)とともに愉しみにしている。 ついでながら大阪大学と京阪電鉄が組んでいる「鉄道芸術祭」が9回目を迎えて、またまたヴァージョンアツプをしているようだ。 「都市の身体」を掲げた。 仕掛け人は木ノ下智恵子さんで、いろいろ工夫し、かなりの努力を払っている。 ぼくも数年前にナビゲーターを依頼されたが、その情熱に煽られた。 いろいろ呆れた。 とくに国語と数学の記述試験の採点にムラができるという議論は、情けない。 人員が揃わないからとか、教員の負担が大きいからとかの問題ではない。 教員が記述型の採点ができないこと自体が由々しいことなのである。 ふだんの大学教員が文脈評価のレベルを維持できていないということだ。 ラグビージャパンはよくやった。 予選リーグは実に愉快だった。 何度も観たが、そのたびにキュンキュンした。 堀江、松島、福岡には泣かされた。 これまでは力不足だった田村もよかった。 リーチ・マイケルのサムライぶりがやっと全国に伝わったのも嬉しかったが、こういうサムライは世界のラグビーチームには、必ず2~3人ずついるものだ。 リーチも田村もルークも姫野もイマイチだった。 CTBの中村のタックルとフルバックの山中の成長を評価したい。 5年ほど前は体が辛そうだった。 平尾とは対談『イメージとマネージ』(集英社文庫)が残せてよかったと、つくづく憶う。 あのときの出版記念パーティには松尾たちも来てくれて、大いに沸いた。 美輪明宏さんが「いい男ねえ」と感心していたのが懐かしい。 まさにミスター・ラグビーだったが、繊細で緻密でもあった。 「スペースをつくるラグビー」に徹した。 トップリーグよりも、冬の花園の高校生たちの奮闘を観てもらうのが、おそらくいいのではないかと思う。 ただし、カメラワークをもっとよくしなければいけない。 孫犁冰さんが渾身の翻訳をしてくれた。 『歴史与現実』という訳になっている。 孫さんは新潟と上海を行き来して、日中の民間外交に貢献している気鋭の研究者で、すばらしいコミュニケーターだ。 イシス編集学校の師範代でもある。 韓国語になった本が7冊になっているので、少々は東アジアと日本のつながりの一助を担ってくれていると信じるが、日中韓をまたぐこういう「言葉のラグビー」や「思想文化のまぜまぜアスリート」は、いまはまだからっきしなのである。 中国文化サロン、日本僑報社、日中翻訳学院、中国研究書店、日韓大衆文化セミナー、日中韓交流フォーラムなどの充実に期待する。 東方書店の「知日」という月刊雑誌ががんばってくれている。 京都初音中学2年の夏休み。 妹を連れて誰もいない校舎の屋上に上がり、落体の実験をした。 校庭にバケツをおき、一定の間隔をあけて幾つもの石ころを括り付けた長い紐を屋上から下に落とすというものだ。 石の間隔を変えた紐も何本か用意した。 バケツのそばには妹がストップウォッチをもって立つ。 タン・タン・タン・タン。 カン・カン・カン・カン。 ゴン・ゴン・ゴン・ゴン。 石ころはバケツに当たって音を立てるけれど、何度やってみても、速すぎて間隔などカウントなどできない。 「お兄ちゃん、測られへんよ。 むりやわ」と、小学六年生の妹は泣きそうになっていた。 何度も三階建ての屋上まで階段を昇り降りして「石ころ紐」をもってきてくれた妹である。 でもうまくいかなかった。 誠文堂新光社の「子供の科学」の色付きページのガイド通りのことをしたのに、ダメだったのである。 ガリレオになりそこねた夏の半日だった。 岩波文庫の『星界の報告』(山田慶児・谷泰訳)を読んでみて、科学者というものはこんなにも厳密に実験をするのかと思ったことがあった。 また測定器具がいかに大事かということを思い知らされた。 それとともに、なにより月や星を観察して描いたガリレオのスケッチが美しいのにも驚いた。 「見ながら思い描く」ということだ。 たんに「見ながら思い描く」ということなら、古代このかた植物や動物や人体の観察を通してそういうエクササイズをしてきた者たちはいっぱい、いた。 その積み重ねが解剖学者ガレノスからレオナルド・ダ・ヴィンチに及んだのである。 では、それが天体に向かうとどうなるのか。 それはティコ・ブラーエ、ケプラー(377夜)、ガリレオの時代に初めておこったことである。 なかで望遠鏡という武器を手にしたのはガリレオだけだった。 ガリレオを読むということは、このガリレオに宿った「天体を見ながら宇宙を思い描く」という劇的な体験を追想することなのだろうと思った。 ぼくが小学生の妹とともにやるべきは「落体の実験」ではなくて、天体望遠鏡を覗きながら宇宙に思いを馳せることだったのである。 そこで今夜は伊藤和行の新訳の『星界の報告』(講談社学術文庫)を傍らにおいて、いったい天体や星界を眺めるとは「何を、どうしたいこと」だったのかということを、少々ふりかえってみたい。 寺田寅彦(660夜)の戯れ歌なら「好きなもの いちご 珈琲 花美人 懐手して宇宙見物」の言い切りでいいのだけれど、今夜はもう少しガリレオっぽくしたい。 憶えば、ぼくが本格的な天体望遠鏡を覗いたのは、京都から転校して東京の九段高校に入ってからだった。 屋上にドームがあって、そこは山岳部の部室とも化していたのだが、顧問の先生に頼んで仲間たちと月と土星をドキドキしながら見た。 土星のぼうっとした輪っかがとても不思議で、いまもそのときの体のむずむずした感触を思い出せる。 ガリレオの望遠鏡 天文とか物候とかと言われてきた。 天体を眺め、その特徴のあれこれに言及することは、古代からさかんなことだった。 エジプトで1年を360日と端数エパゴメン(付加日)5日で数えたのも、バビロニアが三日月の観測で閏月(うるうづき)を発見したのも、古代中国が「蓋天(がいてん)と渾天(こんてん)と宣夜(せんや)」によって宇宙像を描いたのも、インドが二十八宿星座ナクシャトラの法則を確立し、ギリシア人がゾディアック(黄道)十二宮で天と人心とをつないだのも、いずれも天文学であり、物候学の賜物なのである。 「見ながら思い描く」の成果だったのである。 なぜ古代文明の発生期にそんなふうになれたかといえば、おそらく約1万年前に最後の氷河期がおわり、ヒプシサーマル(温暖期)がやってきて、農耕や牧畜を始めたのち、ふたたび寒冷と乾燥がすすんだ時期に、天空がよく見え、治水や農作業の計画と星の運行とが結びついたせいだったろう。 そのうち「天体の構造」を想定する連中が登場してきたわけである。 それが古代ギリシアに集中していたのはさすがなものと唸らせる。 曰く「天体の運動は図形であらわされるべきだ」としたピタゴラス派のフィロラオス、曰く「恒星天が回転しているように見えるのは地球の回転によるみかけにすぎない」としたエクパントスなどは、プラトン(799夜)やアリストテレス(291夜)に先行していた。 その後のサモスのアリスタルコス、ポントスのヘラクレイデス、ロードス島のヒッパルコスがそうだったように、かれらは離心円と回転円による運動モデル思考を始めたのだ。 古代ギリシアの自然哲学的宇宙観は、このあとのプトレマイオスが大著『アルマゲスト』(恒星社厚生閣)に記した天動説型の宇宙観によって普遍を求めようとしていたのに対して、ずっと動的で、ずっと本来的な宇宙観をもっていた。 ヒッパルコスなどは紀元前134年にさそり座にあらわれた新星に注目して、アリストテレスの「恒星界は不滅なり」をぐらぐらとゆるがしたのである。 しかし、ヨーロッパ中世の1000年間は、普遍というか不変というか、地上を動かさない天道説とキリスト教的宇宙観にとらわれて、動きの乏しい宇宙観にどっぷりはまってしまっていた。 ヨーロッパ中世は、こと宇宙観についてはなんら新機軸をもたらさなかったのだ。 だいたいユークリッドの『ストイケイア(幾何学原論)』(共立出版・中央公論社)を、読みもしなかったのだ。 これをふたたび動かしたのはイスラム圏の天文学者と物候学者と、ニコラウス・コペルニクスである。 ポーランドのクラクフ大学からイタリアに赴き、ボローニャ、パドヴァの大学で医学とギリシア語を習得したコペルニクスは、古代ギリシアの天文学のほうがプトレマイオスよりずっと革新的だったことに気づき、1543年に『天体の回転について』(岩波文庫・みすず書房『天球回転論』)を著して大胆きわまる思いの丈をぶちまけ、出版の2ヵ月後に没した。 それどころかカトリック教会のすべて、それに不満をもつマルティン・ルターたち、さらには安寧宇宙を貪(むさぼ)っていた大半の科学者たちから、激越な批判を浴びた。 なかでニコラウス・クザーヌスとジョルダーノ・ブルーノがこれを多重宇宙観として育くみ、ヨハネス・ケプラーがティコ・ブラーエの観測データにもとづいて地動説から惑星の運動法則を導き出したことが特筆される。 けれどもブルーノは火あぶりになり、ここで宗教宇宙と地動説宇宙とは決裂してしまったのである。 コペルニクスからティコを挟んでケプラーに及んだ天文学の未曾有の進展については、かのトマス・クーンが『コペルニクス革命』(講談社学術文庫)に「コペルニクス的転回」の意味を詳述している。 参考にはなったけれど、クーンの議論は退屈だった。 ぼくがガリレオに感じたいことには、ほとんど言及していなかった。 地動説を天体望遠鏡で確認したのはガリレオが最初である。 ひたすら実際の眼で天体現象を捉えた。 ガリレオはケプラーの7歳年上であるが、ケプラーが惑星の法則を書きこんだ『新天文学』刊行の翌年の1610年、オランダのレンズ職人が作った望遠鏡をヒントに自身で製作した20倍の倍率をもつ望遠鏡によって観察した天体現象について、その驚くべき事実を『星界の報告』にまとめた。 46歳だった。 『星界の報告』 1610年 とガリレオによる月の満ち欠けの観測図(1616年) きっとガリレオ・ガリレイはたいそう魅力的な職人気質の男で、頑健で意志が強く、手先がめっぽう器用で粘り強く、それでいて歴史の浪漫に夢中になるタイプだったのだろうと思う。 生涯でいちばん耽読したのがダンテ(913夜)の『神曲』なのである。 このことを知ったときの、ぼくなりの合点と得心はそうとうに香ばしい。 1564年にトスカーナのピサで生まれた。 父親はフィレンツェ生まれの音楽家で、仕立て屋も営んでいた。 音響学を研究して数学的な分析を好んだらしく、この得意技がガリレオに影響を与えたとおぼしい。 ガリレオにとっては、身近な父親がピタゴラスだったのだ。 ピサ大学に学んで、宮廷数学官のオスティリオ・リッチにユークリッド幾何学とアルキメデスの数学を教わったガリレオは、すぐに天秤などの測定器具に関心をもつ。 ピサ大学とパトヴァ大学で数学を教えるかたわら、測定器具の工夫を始めている。 「幾何学的・軍事的コンパス」と名付けられた測定器が遺されているのだが、実に興味深い複合的な計測計算装置である。 おそらくこれを両手で掲げて天体に向かえば、かなりの測定値が得られたのだろうと思う。 そんなところへ、オランダで望遠鏡が発明されたというニュースが入ってきた。 さっそく見本を手に入れたガリレオは望遠鏡製作に夢中になった。 6倍の、8倍の、20倍の月や木星がまざまざと見える望遠鏡を製作して、その成果をラテン語で『星界の報告』にまとめた。 日本の文庫本でも僅(わず)か80ページほどの小冊子だが、自分がつくった望遠鏡の話、月を眺めたときの誇り高い観察記、望遠鏡を星に転じて自由天界に参入したときの印象、木星の4つの衛星に出会った劇的な高揚など、どきどきするものがある。 木星の衛星にも「メディチ星」の名を冠した。 ガリレオにとってメディチ家のパトロネージュはどうしても欠かせない勲章のようなものだったらしく、それとともにフィレンツェへの凱旋もどうしても果たしたいことだったようだ。 しかし、フィレンツェには地動説に肯(がえ)んじない連中(イエズス会士など)がごっそり待ち構えていたし、ガリレオの成功を認めたがらない知識人の連中も手ぐすねひいて攻撃の準備をしていた。 そこでガリレオはトスカーナで大学教授や宮廷人を集めた惑星講義を開き、パドヴァで月や木星に関する講義を3度開いて、その勢いでフィレンツェに乗り込むことにした。 こういうところは用意周到なのである。 しかし、友人たちは心配した。 世の中、そんなに甘くないというのだ。 それでもフィレンツェに乗り込みたかったガリレオは、まずケプラーに試作した望遠鏡と『星界の報告』を送り、同意を求めた。 ケプラーはすぐさまガリレオの成果に応じ、木星の衛星がありうることを認めた。 ガリレオは土星も観測したが、土星の環を見分けられるほどの望遠鏡の性能ではなかったため、いくつかの衛星があるという程度にとどめた。 金星については、月と同じように満ち欠けがあるという重要な発見をしている。 この知らせはケプラーにアナグラムの文章で送ったようだが、ぼくはこのときガリレオとケプラーがアナグラムをコードブレイクしながら天体について交信している場面を想像して、いたく感激したものだ。 ぼくには自分が何かに到達したり、何か自信のある成果にさしかかったりしたときは、それを誇大に知らせるのが気がすすまず、むしろ半ばミステリアスにしたり暗示的なものにしたいと思う傾向があるのだが、それはこのガリレオとケプラーのアナグラム交信の影響があるのかもしれない。 ぼくの場合はアナグラムというより、俳諧数句を添えるという感じなのだけれど。 ガリレオとコジモ2世・デ・メディチ(1590年-1621年) コジモは温厚で教養豊かな人物であり、ガリレオの最初のパトロンとなった。 メディチ家の伝統である文化・学術の振興に尽力した。 ガリレオが来たらこっぴどくやっつけようと、ベラルミーノ枢機卿らは異端審問所にさまざまな訴状を送る準備をしていたのである。 それでもガリレオは楽観していたようだ。 ローマ教皇パウルス五世に謁見したときは教皇は親しく接してきたし、ローマで知識人サロンを開いていたチェシ侯爵も好意的だった。 1613年、コジモ二世の息子の洗礼を祝うパレードでは、メディチ星をあしらった山車(だし)が町を巡回してくれた。 自分が罠に落ちることはない。 ガリレオはタカをくくっていた。 しかし、ガリレオを異端者として裁判にかける用意は裏側で着々と進んでいたのだ。 1615年、ドミニコ修道士のロリーニがガリレオ攻撃の弾丸を発射した。 論争になった。 ガリレオは大いに気を吐いて応じた。 意気軒昂である。 翌年、第一回異端審問所の審査がおこなわれ、ローマ教皇庁検邪聖省(検察庁のようなもの)から、地動説を唱えないことを誓約すれば大目に見ると通達された。 担当判事はベラルミーノである。 ガリレオはとりあわず、このときも平気な気分でいた。 直後、コペルニクスの『天体の回転について』が閲覧禁止処分になった。 少し動揺したガリレオはフィレンツェ郊外のアルチェトリ修道院の近くの別荘に移り、ここで一念発起、『天文対話』(岩波文庫)を書いて出版した。 天動説と地動説の両方を仮説として、それをそれぞれ主張する二人の論者と中立論者との鼎談方式によって、注意深く綴った。 これでガリレオは裁判には勝てるだろうと見積もった。 1632年、ローマに出頭を命じられ、翌年、2回目の異端審問所審査が開かれた。 検邪聖省はガリレオの地動説に関する言説と信念を有罪とし、終身刑を言い渡した。 さすがにガリレオは呆然としたが、そのどこかで「それでも地球は動いている」(E pur si muove)と呟いたということになっている。 その直後にトスカーナのローマ大使館での軟禁刑に減刑され、半年後には釈放されてフィレンツェ近郊の家に戻ることが許された。 そらそら、この程度じゃないかとガリレオは思ったはずだ。 こうしてガリレオはこのあとの短い余生を蟄居しながら暮らし、最後の『新科学対話』(上下・岩波文庫)を口述した。 すでに失明しつつあったのである。 サグレドとサルヴィアチとシムプリチオの会話で進む遺著である。 シムプリチオは〝単純野郎〟といった意味で、教会を揶揄していた。 ロベルト・ベラルミーノ(1542-1621)とローマの異端審問所で異端審問を受けるガリレオ ベルトルト・ブレヒトに『ガリレイの生涯』(岩波文庫)がある。 ぼくは千田是也による演出の舞台を俳優座で見たが、おもしろくなかった。 ガリレオが苦悩しすぎているのだ。 権力に阿(おも)ねる姿も描いていたが、これも阿ねたというより、交渉権を保持したというのに近かったのではないかと思う。 何かが諄々(じゅんじゅん)として明示されていく文章の模範だとも書いている。 ヴァレリー(12夜)がそこを踏襲したとも見た。 ガリレオの評伝では、「世界の名著」(中公バックス)二六の『ガリレオ』に豊田利幸が付した長い解説が、ぼくが読んだ最初の評伝だった。 気合が入っていた。 その後、ジャン=ピエール・モーリの『ガリレオ』(創元社)、田中一郎『ガリレオ』(中公新書)、伊東俊太郎の『ガリレオ』(人類の知的遺産・講談社)、オーウェン・ギンガリッチの『ガリレオ・ガリレイ』(大月書店)などに目を通したが、フランクリンやゴッホやキュリー夫人の伝記のように、同じハンコがいくつも捺(お)されているような似たり寄ったりの印象だった。 ガリレオはもうちょっと愉快なのではないかと思う。 だから、もっと変ちくりんなガリレオ論があってもいいはずなのだ。 たとえばカラヴァッジョ(1497夜)やスピノザ(842夜)やモーツァルトについての評伝のように。 けれども、なぜかそんなガリレオ像とはめったにお目にかかれない。 ベルトルト・ブレヒト(1898-1956)(左)と舞台『ガリレイの生涯』 右は1971年のベルリナー・アンサンブルによる舞台。 中央のガリレイを演じているのはヴォルフガング・ハインツ。 ところで、ガリレオが相対性原理を確立したということについて、あまり強調されてこなかったのはなぜだろうか。 とくに万人向けのガリレオ案内にこそ不可欠であるはずなのだ。 どんな慣性系(inertial system)においても同じ物理法則が成り立ちうるというのが、相対性原理(principle of relativity)である。 ガリレオはこれをのちにネーミングされた「ガリレイ変換」という数学的操作によって成立しうることを示した。 ガリレイ変換の前後でニュートンの運動方程式は不変を保ったのである。 ガリレオの相対性原理は、いいなおせば「等速運動をしている系の中では、同じ運動の法則が成り立つ」ということにである。 運動場でボールを落としても、走っている電車の中でボールを落としても、同じく真下に落ちる。 この電車の中の出来事を外から眺めたら、電車内で落としたボールは電車の進んでいる方向に進んで落ちるように見える。 この両者の運動は観測者によってどう見えようとも、運動力学現象としては等価であることを示したのが「ガリレオの相対性原理」なのである。 ガリレイ変換とよばれる数学的操作で、そのように両者の運動が説明できることを保証した。 この原理はニュートン力学が及ぶすべての座標系で成り立つ。 われわれが回転する地球の上でその回転を感じられないのも、地上のどんな運動も地球の動きの影響を受けていないように見えるのも、この原理のおかげだ。 あらゆる機械工学による動きも、それがどんなに複雑になろうとも、この原理のもとに成り立っている。 ところが、このボールが光速ほどの速さになると、驚くべき変化がおこる。 それを明らかにしたのがアインシュタイン(570夜)の特殊相対性理論だった。 ガリレオの原理を光速度の世界に拡張したものだ。 このばあいはガリレイ変換ではなく、ローレンツ変換をする。 ガリレイ変換 座標系の標準構成。 等速運動をしている系の中では、同じ運動の法則がなりたつことを証明する。 「時間」が絶対的であることが前提。 ぼくの最初の本は『自然学曼陀羅』(工作舎)という。 最初の対談集は津島秀彦との『二十一世紀精神』(工作舎)である。 いずれも自然界の速度と場所に対する知覚の持ち方をめぐったものだった。 当時、ぼくは座標系(coordinate system)という考え方に痺れていた。 どんなことも、それを知覚するには座標系の場所を無視しては語れないと感じていた。 「座」はその場所に何かがくっついてあることを、「標」はその場所の目印のことである。 そういう座標系のおもしろさを刻印してくれたのがガリレオとアインシュタイン(570夜)と、そして杉浦康平(981夜)だった。 杉浦さんのイメージマップは座標変換によって、どのように知覚像が変貌するのかを見せていた。 いまは懐かしい「遊」創刊前後の話だ。 創刊号に「場所と屍体」「自然学曼陀羅」を載せ、杉浦康平のイメージマップを折り込んだのは、中学2年の夏休みにガリレオになりそこねたことへのリベンジだったのかもしれない。 医学を修めるべくピサ大学に学ぶ。 ユークリッド,アルキメデスの著作を通じて数学,力学に関心が移ったが,1585年学資不足のため学なかばにして大学を去った。 まもなく比重,重心の研究などで頭角を現し,1589~91年ピサ大学数学講師,1592~1610年パドバ大学数学教授。 さらに 1610年トスカナ大公付の数学者に登用される。 1611年ローマ,リンチェイ・アカデミー会員。 また力学をはじめとする自然現象に数学および思考実験の方法を用いて迫り,実験によって検証するというガリレイの方法は,新しい自然科学の方法の確立に大きく貢献するものであった。 1633年宗教裁判にかけられ地動説の放棄を命じられた。 1957年北海道生まれ。 北海道大学理学部物理学科卒、東京大学大学院理学系研究科修士課程科学史・科学基礎論専門課程修士課程修了、2002年「ガリレオの数学的運動論」で京都大学文学博士。 1995年京都大学文学部助教授、2006年京大文学研究科科学史教授。 著書に『ガリレオ 望遠鏡が発見した宇宙』(中公新書,2013)、共著に『イタリア・ルネサンスの霊魂論 フィチーノ・ピコ・ポンポナッツィ・ブルーノ』(三元社,1995年)。 翻訳にはパオロ・ロッシ『哲学者と機械 近代初期における科学・技術・哲学』(学術書房 科学史研究叢書 1989)、クリステラー『イタリア・ルネサンスの哲学者』(みすず書房,1993年)、ライナルド・ペルジーニ『哲学的建築 理想都市と記憶劇場』(ありな書房,1996)、『コンピュータ理論の起源 第1巻 チューリング』(近代科学社,2014) ガレノス レオナルド・ダ・ヴィンチ ティコ・ブラーエ ヨハネス・ケプラー 寺田寅彦 フィロラオス プラトン アリストテレス アリスタルコス ヘラクレイデス ヒッパルコス プトレマイオス ニコラウス・コペルニクス マルティン・ルター ニコラウス・クザヌス ジュルダーノ・ブルーノ ティコ・ブラーエ トマス・クーン ダンテ・アリギエーリ オスティリオ・リッチ コジモ・デ・メディチ二世 ベラルミーノ枢機卿 ローマ教皇パウルス五世 チェシ侯爵 ニッコロ・ロリーニ ジョヴァンフランチェスコ・サグレド サルヴィアチ 聖シンプリチオ ベルトルト・ブレヒト イタロ・カルヴィーノ ジャン=ピエール・モーリ 伊東俊太郎 オーウェン・ギンガリッチ アルベルト・アインシュタイン.

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