モロッコ 宗教。 イスラム教の背教は死罪に値しない モロッコの宗教当局が新たな見解 : 国際 : クリスチャントゥデイ

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1 ムハンマド五世:調停役としての国王 1956年独立を達成したモロッコ最初の国王は、ムハンマド五位であった。 彼はアラウィ一朝第15代君主として1927年11月18日に即位したが、政治の実権を回復したのは、モロッコ独立後である。 彼は王制の「調停役」としての役割を強調した国王であった。 保護領政府統治下のモロッコで、独立運動にとってムハンマド五世の王位回復は「独立の象徴」であった。 「調停者」としての国王を支えたのは、独立後に創設された軍と警察の、国王に対する絶対的忠誠であり、さらに省庁と軍の大臣・長官や高級官僚の人事権を首相ではなく、国王が一手に握ったことで、国王の権力はさらに強化された。 省庁のうちで、国王権力の強化に最も直接的に関与したのは内務省である。 1956年3月20日発令の勅令で、「カーイド及び知事の任命、昇進、辞職、降格、懲戒、転勤はすべて勅令によって発令されることとする」と定め、内務省の官僚および内務省管轄の役人の人事は国王がおこなった。 さらにその内務省の活動を支えたのは、軍である。 軍の活動は、内務省と連動して行われ、内務省の地方役人は、その地に駐屯する軍の分団を治安維持のために発動させることができた。 軍の果たすべき役割は、防衛や治安維持だけにとどまらず、中央官僚や地方役人として行政に参加することも含まれていた。 軍の編成実務の責任者は皇太子、そして国王が軍人事に関する最終的裁量権を持っている。 王制にとって潜在的な脅威であるイスラーム運動を監視することも重要な内務省の職務である。 この監視は、内務省が宗教省や「公的なイスラーム」を代表するウラマー協会と協力しておこなった。 立憲君主制の準備段階として、モロッコ国家諮問会議 Le Conseil national consultatif marocain が1956年8月3日の勅令によって設立されたが、この会議は三年間しか続かなかった。 なお、ムハンマド五世は宗教的な権威を示す「アミール・アル・ムーミニーン(信徒の指揮者)」の称号を、独立後も、破棄することはなかった。 独立の可視的な象徴となったことで、彼は世俗と聖の両方を、つまり保護領統治以前から有していた「アミール・アル・ムーミニーン」と独立後の近代的な意味での国家の長という二つの機能を体現することとなった。 後述するように、この聖俗両面での権威を、国王があわせもつ状況は、現在に至るまで続いており、イスラーム運動への対抗手段としても重要な役割を果たしている。 2 ハサン二世:憲法改正と権力の分配 モロッコの政治的場を構成する諸集団の間の「調停役」としての役割を推進することで、聖・俗両方の最高権威者としての国王権力の強大化を進めたムハンマド五世の後を継いだハサン二世 1961-1999年 は、憲法改正という法的手段を利用した、権力の巧みな分配によって、国王権力の強化をはかった。 独立後のモロッコ最初の憲法は1962年に制定された。1962年のアブドゥッラー・イブラヒーム内閣解散後に誕生したこの憲法では、「権力分立」とはほど遠く、国王の手にあらゆる権力が集中していた。憲法の条文をみると、モロッコは民主社会的王制 第1条 であり、憲法にかなった方法で設立された機関を通して行使される主権を有するのは国民である 第2条 と明記されている。しかし、閣僚の人事権を有するのは国王 第24条 であった。 国王は「アミール・アル・ムーミニーン」、国民の最高代表者、国家統合の象徴、国家の存在と継続の守護者であった。また信仰の擁護者であり、憲法尊重の守護者でもあった。国王は市民・共同体・組織の権利と自由を守る責任を有し、国家独立を守り、国土防衛の保障者 第19条 でもあった。しかし、緊急事態の際、介入する権利が国王に保障されていた 第35条 。どのような状況が「非常事態」であるのか、いつまでが「非常事態」なのかを判断するのは国王であり、「憲法体制を正常に再び機能させるために 第35条 」国王は、事実上無期限に無制限の権力を発動することが可能であった。実際1965年、ハサン二世は、「このまま空虚な議論を続けさせれば、モロッコの民主主義、倫理的価値観、創造への意志が失われてしまう」ことを理由に、議会を停止している。 1962年憲法では、議会は二院制と定められた 第36条 。下院議員は普通選挙で、上院議員は農商工会議所や労働組合が選出した 第44、45条 。新法が国王によって発布される前には、議会の承認か国民投票による承認が必要とされ 第26、62、73、75条 、立法権は、憲法上は議会に属していたのだが、実際は国王が「助言」することが度々であった。この憲法の文言では、国王の手に行政権を委ね、国王の立法権は制限されていた。しかし、立法権に関しても「助言」という形で、国王が大きな影響力を有していたのである。 1970年の憲法改正によって、国王権力はさらに強化された。首相の行政権の行使は、例外的な場合に制限され、しかも国王のイニシアティブによるものとされた 第29条および第62条 。この改正で、国王の行政権が強化された。また二院制が一院制に改められた 第36条 。議員の任期は6年で、直接選挙によるものと、商工会議所や職能組合を通した間接選挙によるものという二種類の選出方法が定められたが、直接・間接選挙による選出の具体的な 割合は、憲法では定められていない(第43条)。 この憲法改正の直後に議会選挙が実施されたが、再度憲法改正を実施することを理由に、1971年末には1970年に開始した会期の議会が停止されている。 1972年、二度目の憲法改正が行われた。この改正では「1962年憲法と1970年憲法に定められた中間的なところ」に議会を位置づけた。一院制のままであったが、3分の1の議員を直接選挙で、3分の2の議員を間接選挙で選出することを憲法に明記し(第43条、なおこの条文は1980年5月30日の国民投票で、3分の2を直接選挙で、3分の1を間接選挙での選出に変更 、二院制放棄を補完するものとした。 行政権は国王と政府に与えられていたが、国王は立法案や政府計画について「新しい解釈」を要求することが可能であり 第66条 、この国王の要求を政府が拒否することは認められていなかった 第67条。 首相を含む閣僚全員の人事権を国王が握っていることからも、議会が国王にコントロールされる機関であったことは明白である。さらに内閣不信任案の提出に必要な議員数は、1962年憲法では総議員の10分の1であったのが1972年憲法では4分の1に引き上げられた 第75条 。この改正で、政党が政府の政策に対して不信任案を提出することはほぼ不可能となった。 また1971年ラバト郊外のスヒラートの王宮で発生したクーデター、そして1972年に発生したウフキール将軍が首謀者とされるクーデターは、いずれも未遂に終わったものの、70年、72年の憲法改正への不信を象徴する事件であった。 1972年のクーデター未遂について、ウフキール将軍はハサン二世の乗る飛行機を襲撃した首謀者とされ、後に「自殺」したとされる。「反乱を企てた、あるいは反乱を起こす可能性のある」者の最期の近似例としては、1980年代サハラ問題で功績を挙げたアフマド・ドゥリーミー将軍が卓越した人気を得るようになった後、不可解な自動車事故で亡くなった事件がある。ドゥリーミー将軍の事件以後、軍の司令官級の人物は、国王のライバルとなる程に個人的に賞賛をうけることは事実上タブーとなった。 1970年代のモロッコは、二度のクーデター未遂を経験し、隣国アルジェリアとの関係も西サハラ問題をめぐって緊迫化した。 このような状況の中で、72年の憲法改正後の1972年4月30日に予定されていた議会選挙は延期され、結局実施されたのは1977年6月3日で、1971年末に停止された議会は、1977年10月に再開されるまで空白の期間が続いた。 前述したように、省庁のなかでも内務省は王制の番人とでもいうべき存在であったが、特にその役割が強調されるようになったのは、1979年イドリース・バスリーが内務大臣に就任してからである。首相は頻繁に交代し、様々な政党の出身者が就任したのに対して、バスリーは、1999年に現国王ムハンマド六世によって解任されるまで20年間にわたって内相の職にあり、西サハラ問題など、必ずしも内務省の管轄ではない重要な政策決定にも関わった。 1992年の改正では、国王が任命した首相による他の閣僚人事の提案を受けて、国王が任命するよう変更され 第24条 、1993年の内閣組閣に際してラムラーニー新首相に国王が実際に閣僚リストの提出を求めた。ただこの内閣の閣僚には国会議員はまったく含まれておらず、主権者であるはずの国民の意思が「憲法で定められた諸機関 第2条 」の代表的機関である国会を通じて政策に反映されるような状況とは程遠かった。 また「非常事態においても国会は解散されない」と明記された 第35条 。しかし、この憲法改正により新たに設置された憲法評議会の議長、首相、国会議長に諮ったのち、非常事態を宣言し、あらゆる必要な措置を国王自身がとる権限は何ら制限されていない。 1996年、一院制を二院制に変更するための憲法改正が国民投票で承認された。 1997年11月の選挙に続いて、大衆諸勢力社会主義連合 USFP:Union socialistes des forces populaires)党首アブドゥルラフマーン・アルユースフィーの首相任命は、左翼に権力を分配することで、近い将来の皇太子 現国王ムハンマド六世 の王位継承を円滑にする布石の一つであったとも考えられよう。 以上、これまで四度に渡った憲法改正のうち最初の二度の改正によって、行政・立法両方の権限を国王に集中させたうえで、後の二度の改正で憲法評議会の設置や非常事態での国会維持という「譲歩」、二院制の復活をおこない、そして長年国王と敵対関係にあった左翼政党党首を首相に任命して、国王権力の維持に「有益な」形で権力分配をおこなったといえよう。 3 ムハンマド六世:経済的発展と「民主化」 1999年7月23日に、ハサン二世の死去により、皇太子がムハンマド六世として36歳で即位した。 軍のコーディネーターであった皇太子時代、大衆は概ね彼に親しみやすい印象を抱いていた。 ムハンマド六世が強調しようとした国王像は「リベラルな改革者」である。 スピーチで、「立憲君主制を堅持し、複数政党制、自由経済、地方分権化、法の支配、人権尊重、個人の自由を推進する」と明言した。 また「父ハサン二世のすすめてきた教育改革計画と連動させて雇用問題の改善に尽くす」ど、モロッコで最も深刻な社会問題の一つである失業問題にも言及した。 このスピーチは、ハサン二世即位時のものに比較するとはるかに具体性があった。 ハサン二世のスピーチでは、イスラームの擁護と領土保全についての国王の決意が述べられた後、国民の義務についてのみ言及されている。 当時の諸社会問題の解決などはまったく触れられることはなかった。 政治面では、バスリーに代わってアブマド・ミダーウィーが内務大臣に任命された。 バスリーの内相退任を世論は非常に歓迎した。 実際、前述したようにバスリーは1979年から20年間内相を務め、モロッコの「治安維持」に大きな影響力をふるった人物であり、この退任はモロッコの政治展開を民主化の方向にひきよせる契機となった。 モロッコ王制を今後揺るがしかねないほどの国民の不満を生む可能性が最も高い問題は、ムハンマド六位があえてスピーチでも言及した失業問題であろう。 このラバトでの抗議デモは直接的には内務省を、間接的に王制に圧力を与えることとなり、ハサン二世は遅まきながら、失業問題を領土問題に次いで重要視することになった。 前述したようにハサン二世は、イスラーム運動の対抗を視野に入れ、王制の宗教的正当性として「アミール・アル・ムーミニーン」としての側面の強調につとめた。 ムハンマド六世もラマダーン期間中に、イスラーム世界各地から招聘された学者らが国王の前で講義をする「ドゥルース・ハサニーヤ」(その様子はテレビ中継される)を継承するなど、宗教的指導者として自己を演出する場はハサン二世のときと同様に維持している。しかし、イスラーム運動が社会的弱者の救済を担う限り、「アミール・アル・ムーミニーン」であることを強調するだけでは、有効なイスラーム運動対策とはなり得ない。 ハサン二世の宗教的正当性の強調という策の裏面は内務省と警察による「治安維持」であり、すでに1992年の憲法改正で国際社会を意識して「人権の擁護」が前文に掲げられたように、人権問題を無視できる時代は過ぎた。 ムハンマド六世は社会的弱者救済、具体的にはまず失業問題の解決を図ることなしには、イスラーム運動が王制の宗教的正当性を脅かす存在であり続けるだろう。 即位後すぐのスピーチで国王自ら述べたように、社会・経済分野で国民に満足を与えうる「リベラルな改革者」という新たなる正当性を確立することがムハンマド六世の今後の課題となろう。 4 イスラーム主義の挑戦 イスラーム運動は、ムハンマド六世の改革にとって障害となる可能性のある存在である。 彼は欧米流の「民主主義」や「近代化」には批判的で、同時に国内の社会的不正義や汚職、政治的腐敗について、ムハンマド六世の父、ハサン二世に対して公開書簡を送って自宅軟禁となるなど体制批判を繰り返している。 ただ、ヤースィーンにとって、指導者一人の手に権力が集中していても、その指導者が宗教的倫理を尊重している限り、その存在は受容できるものである。 欧米流の「近代化」については、「『近代化』のイスラーム化」を目指している。 ムスリムはイスラームの倫理的枠組みと社会秩序を維持する限りにおいて、欧米の科学技術や思想を借りることができる、とヤースィーンは考えている。 宗教を私的空間に限定し、公的空間では法の支配を強化しようとする近代化・民主化推進に対するこのようなイスラーム運動の抵抗は、ムハンマド六世が、保護領化される以前のモロッコに比べればかなり形式的になったとはいえ、預言者ムハンマドの子孫であるシャリーフとしての側面、そして「信徒の指揮者」としての側面といった宗教的正当性を維持している限りは、王制にとって決定的な脅威とはなり得ないだろう。 モロッコでは新たに国王が即位すると、バイアの儀式がおこなわれる。 ただかつてはモロッコ各地の共同体の代表者たち、宗教学者、有力者たちがバイアをおこなったが、現在では多くが政府高官、政府に雇われている宗教学者たち、官僚、宮廷に勤めている人々で、彼らと国王との関係は平等ではないため、かつてのように君主に対する要求を盛り込む余地がほとんどなく、バイヤは儀礼的なものとなる。 このような原則と現実の落差に、イスラーム運動が存在する場が生まれる。 しかし共同体の成員と代表者はともに良いムスリムで、常に共同体の利益を考えて行動するといったイスラーム運動の考える政治的代表の概念もまたユートピア的である点で、現実との落差があることは否定できないだろう。 現在、英国などの西欧諸国の立憲君主制とはかなり内容が異なるが、中東諸国のなかでモロッコとヨルダンのみが憲法と国会を伴った「立憲君主制」を有している。 前述したように、モロッコの場合、独立後ムハンマド五世が、保護領期以前から君主たちが依拠してきた宗教的権威を基盤に、王制を諸政治勢力の「調停役」として位置づけることで国王の権力強化をはかった。 続くハサン二世は憲法改正によって、国王-権力を集中させたのち、漸次的に諸政治勢力へ権力を分配し王制の安定化をはかった。 この安定化のプロセスは、王制にとって「潜在的脅威」であるイスラーム運動の対抗策としての、1970年代なかばから宗教的正当性の強調と並行してすすむこととなった。 その結果、中東地域で共和制を採用する諸国と比較して、モロッコは「安定した」社会を維持している。 しかし識字率は依然国民の6割程度にとどまり、失業問題は深刻である。 経済・社会面での満足感が生まれる状況をつくりだせるか否か、という点が、今後社会が王制に正当性を認める交換材料となるだろう。 失業問題は特に都市部で、そして貧困問題は特に地方村落部で深刻であり、1999年に即位した国王のムハンマド六世は、家族法を改正し女性の地位向上を推進するなど、積極的に自国の抱える社会・経済状況の改革に取り組んでいった。 2005年には国家人間開発イニシアティブ(INDH)を発表し、貧困対策と地域間・社会的格差の是正を目標として取り組んでいる。 このイニシアティブは当初2006年から2010年までの5カ年を目途に開始されたが、現在も継続している。 (国家人間開発イニシアティブについては、中川[2010]を参照。 ) 6 「アラブの春」と憲法改定 2010年末に、チュニジアに端を発した「アラブの春」の影響は、モロッコでは限定的なものとなった。 2011年2月20日と3月20日に若者を中心とした抗議運動が、モロッコでも行われ、彼らの運動は「2月20日運動」として継続することとなった。 国王は、2011年3月9日に、包括的改革として憲法改定を呼びかけた。 提案には、• 選挙で選ばれた議会に対する国王自らの権限の縮小: 現在、首相は国王の任命であるが、それを選挙結果に基づいて国会で選ぶようにし、国王の役割を、アミール・アル・ムーミニーン(信徒の指揮者)、そして「調停者」としての役割に限定する。 権力分立の強化、特に司法の独立の強化:司法に対する政治の介入をなくす。 これまで公正と和解委員会を設置して人権擁護に取り組んできたがそれをさらに推し進め、政治、経済、社会、文化、環境と発展、すべての側面において、人権システムを改革することで、個人や集団単位での自由の拡大や国家権の安定化をはかる。 地方分権:これまで中央が任命していた地方の知事を地方議会が選び、地方行政の意思決定を各地域が行うようにする。 文化の多様性の尊重:アラビア語と並んでアマジグ語を公用語とする。 その他に、個人の自由と人権の尊重、両性の法的な平等などが盛り込こまれていた。 この憲法改定案について、2011年7月1日に国民投票が実施された。 国内での投票率は73%、有効投票(在外投票分を含む)1006万3423票の98. 46%を占める990万9356票の賛成を得て可決され、新憲法は7月29日に公布された。 モロッコの場合、「アラブの春」が発生した時点で、国王によるイニシアティブで、女性の地位向上、貧困撲滅、人権、権力分立の強化など、さまざまな改革がすでに進められていた。 一連の改革は、チュニジアやエジプトのような大衆の力による改革要求から発した民主化ではないが、広く国民の支持を得ていたといえる。 つまり、モロッコでも、2011年2月以降、のちに「2月20日運動」と名付けられた若者を中心とした抗議運動があり、3月20日には、首都ラバトのほかに、カサブランカやその他の都市で、35000人が参加する規模となったものの、抗議の内容は、政府に対する批判であり、王制批判の声は、一部の極左を除いて、ほとんど出ていない。 4月末にも抗議デモがあったが、そこでの主張は、一部の政府高官が持つ実業界への強い影響力の排除、汚職撲滅、失業問題の改善、司法改革などであり、国王が3月9日にスピーチした内容が実現されるまで「戦う」という形での抗議運動であった。 一般国民や政党の多くは、国王の提案した憲法改革の方向性を支持し、歓迎の意を表明した。 昔の共産党系の人々の中には、国王の権限をより制限したものにして、国教としてのイスラームの記載を削除することを求めている人々もいるものの、非常に少数派である。 モロッコの場合、一度デモがモロッコで起こったタイミングで、国王が憲法改革についてスピーチを行ったことで、その後の「抗議運動」にとって、いわば議論のたたき台・枠組みを提供する形となったといえる。 言い換えれば、抗議運動の要求の限界を定めたことにもなったといえる。 また失業や汚職といった問題、社会の上の方の階層にいる人々の社会的流動性の低さといったモロッコの根本的な問題は、憲法改定だけでは解決することは難しく、それが憲法改定案発表後に、政府高官の退任を要求する声につながったと考えられる。 7 穏健イスラーム政党「公正発展党」の勝利 新憲法のもとでの初めての議会選挙が、2011年11月25日に実施された。 PJDは、獲得議席数第2位のイスティクラール党(PI:60議席、)第6位の大衆運動党(MP:32議席)、第8位の進歩社会主義党(PPS:18議席)と連立政権を組むに至った。 この第一次ベンキーラン内閣では、首相を除く23の閣僚ポストのうち、10をPJD選出の議員が占めた。 2013年7月に、連立政権からイスティクラール党が離脱し、第二次ベンキラン内閣が同年10月10日に発足する。 第二次ベンキラン内閣には、2011年の議会選挙で第3位の議席数(52議席)を獲得した国民独立連合(RNI)が新たに連立政権に加わった。 8 オトマーニー内閣の発足 2016年10月の議会選挙で公正発展党(PJD)は125議席を獲得し第1党となったが、その後5ヶ月間、他党との間で連立を組む合意に至らず、翌2017年3月17日、国王ムハンマド六世は、同じく公正発展党のサアードディーン・オトマーニー氏を首相として新たに任命した。 同月25日、公正発展党(PJD)、国民独立連合(RNI)、進歩社会主義党(PPS)、大衆運動(MP)、立憲連合(UC)、大衆諸勢力社会主義連合(USFP)の間で、連立を組む合意が成立し、4月5日オトマーニー内閣が発足し、現在に至っている。

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この項目では、国について説明しています。 映画については「」をご覧ください。 2 モロッコ本土のみのデータ。 東にと、南に()と、北にの(と)に接し、西はに、北はに面している。 首都は。 南に接する西サハラはスペインが放棄後、モロッコと現地住民による(亡命)政府であるサハラ・アラブ民主共和国が領有権を主張している。 モロッコは西サハラの約7割をしているが、国際的には認められていない。 実効支配下を含めた面積は約599,500km 2(うち、西サハラ部分が189,500km 2)、人口は33,848,242人(2014年国勢調査 )。 との一員であり、ととに加盟している。 モロッコはサハラ・アラブ民主共和国を自国の一部であるとの立場からとして承認していない。 1984年にサハラ・アラブ民主共和国の(2002年にアフリカ連合へ発展)加盟に反対して同機構を脱退し大陸唯一の(AU)非加盟国であったが、2017年1月31日に再加入した。 「の王国」を意味する。 公式のフランス語表記は、 Royaume du Maroc(ロワイヨーム・デュ・マロック)。 通称、 Maroc。 公式の英語表記は、 Kingdom of Morocco(キングダム・オヴ・モラコウ)。 通称、 Morocco。 日本語の表記は、 モロッコ王国。 通称、 モロッコ。 は、 摩洛哥・ 馬羅哥・ 莫羅哥・ 茂禄子など。 アラビア語の国名にある「」は、「日の没する地」「西方」を意味する。 「マグリブ」は地域名としては北アフリカ西部を指すが、モロッコはマグリブの中でも最も西の果てにある国と位置付けられる。 中世には他のマグリブ地域と区別するために「アル=マグリブ・ル=アクサー」(極西)とも呼ばれていた。 アラビア語以外の多くの言語での国名である「モロッコ」は、以前の首都に由来する。 での国名は「Fas」で、1925年までの首都に由来する。 歴史 [ ] の領域。 先史時代にが現在のモロッコに現れた。 古代には沿岸部にの人により港湾都市が築かれたが、内陸部ではベルベル系のが栄えた。 紀元前146年にでカルタゴが滅亡すると、マウレタニアはの属国となり、44年に帝の勅令によってローマのとなった。 ローマ帝国が衰退すると、429年にのがを渡り、アフリカに入った。 マウレタニアはの時代には再びの下に置かれたが、8世紀初頭にであるが東方から侵攻してモロッコを征服し、モロッコのイスラーム化とアラブ化が始まった。 はモロッコを拠点にジブラルタルを越え、のを滅ぼし、のイスラーム化を進めた。 788年にアッバース朝での勢力争いに敗れた亡命アラブ人が、イスラーム化したベルベル人の支持を得て、を建国した。 また、サハラ交易で栄えたにはが成立した。 その後、から興ったのの支配を経た後に、イドリース朝は985年にアル=アンダルスのに滅ぼされた。 しかし後ウマイヤ朝は1031年に滅亡し、その支配領域はと呼ばれる中小国家群に分裂した。 権力の空白地帯となったモロッコは南方のの流域から興ったの領土となり、1070年には新都が建設された。 ムラービト朝は南方にも攻勢をかけて1076年 ()を攻略してを滅ぼし、再度北進しジブラルタルを越えて軍と戦い、を統一した。 アメリカまでの大航海 [ ]。 1130年にが成立すると、1147年にムワッヒド朝はムラービト朝を滅ぼし、アル=アンダルスをも支配した。 第3代の時代にムワッヒド朝は東はにまで勢力を伸ばし、一帯を包括する最大版図を確立したが、続くは1212年にでレコンキスタ連合軍に敗れ、アンダルシアの大部分を喪失した。 ムワッヒド朝はこの戦いの後に衰退を続け、1269年にによってマラケシュを攻略され、滅亡した。 マリーン朝はに都を置き、しばしばを従えるためにアンダルシアに遠征したが、14世紀後半に入ると衰退し、にはのがの対岸のを攻略した。 セウタ攻略によってが始まった。 マリーン朝は1470年に滅亡したが、『』を著したなどの文化人が活躍した。 マリーン朝の滅亡後、1472年にが成立したが、1492年にの下で誕生したがナスル朝を滅ぼしてレコンキスタを完遂すると、ワッタース朝はポルトガルに加え、スペインの脅威をも受けることにもなった。 ワッタース朝は衰退し、ポルトガルに攻略されたなどを奪還した(サーディ朝)によってフェスを攻略され、1550年に滅亡した。 サアド朝は、を滅ぼしてにまで進出したオスマン帝国を退け、キリスト教徒との戦いにおいても、にで侵攻してきたポルトガル軍を破り、ポルトガルの国王は戦死した。 この事件がきっかけになって1580年にポルトガルはに併合された。 さらに南方に転じてに、内乱の隙を衝いてを攻略し、を滅ぼした。 しかし、17世紀に入るとサアド朝は急速に衰退し、1659年に滅亡した。 に現在まで続くが成立した。 1757年に即位したムハンマド3世はヨーロッパ諸国との友好政策を採り、を皮切りに各国と通商協定を結び、には世界で初めてを承認した。 フランス資本の定着まで [ ] 続くスライマーン()は政策を採ったが、1830年にがしたことにより、マグリブの植民地化が始まると、モロッコの主権も危機に脅かされた。 にアラウィー朝はによるの中で、を支援して軍を送ったが、 ()で敗れた。 にはとを結び、それまでの鎖国政策が崩れた。 にはの侵攻によりを攻略された()。 、新スルタンとしてムーラーイ・エル・ハッサン()が即位した。 ベルベル人などの諸勢力を掃討するため、財政支出により砲を導入するなどした。 後継の息子()は未成年で即位し、が政治へ助言した。 のでモロッコを狙っていた英仏両国の妥協が成立し、フランスがモロッコにおける優越権を獲得したが、このことは翌に英仏協商に反対するドイツ帝国がを起こすことを招いた。 さらににドイツ帝国が再びを起こし、フランスを威嚇したが、最終的にはドイツが妥協した。 ので国土の大部分がフランスの保護領となり、で北部リーフ地域は ()となった。 ()初代総督、。 ()の初代総督には将軍が就任した。 将軍は政情不安なからへ都を移した。 、のモロッコ支店がに売却された。 、(ONA Group)が設立された。 にが ()の地方で反乱をおこし、が勃発した。 アルカリームはの建国を宣言したが、スペイン軍とフランス軍に敗れ、にリーフ共和国は崩壊した。 1930年代から独立運動が盛んになった。 に駐モロッコスペイン軍の将軍がに対して反乱を起こし、の司令官が呼応したため、モロッコを拠点にした反乱軍と政府軍の間でが始まった。 スペイン内戦では7万人近いモロッコ人兵士が反乱軍側で戦った。 中にはがからモロッコを奪回し、にのとによってが開かれた。 モロッコはにフランスから独立した。 スペインは、、の飛地領とモロッコ南部保護領(地方)を除いてスペイン領の領有権を放棄した。 翌に・が国王となり、スルターン号が廃止された。 にイフニを巡ってスペインとの間で ()が勃発し、紛争の結果スペインは南部保護領だったタルファヤ地方をモロッコへ返還した。 外資と君主と実効支配 [ ]。 親西側政策の下モロッコを統治した。 にが父の死去に伴い国王に即位した。 翌1962年にが制定され、モロッコは君主の権限の強い国家に移行した。 ハサン2世は内政面では政党を弾圧し、軍部と警察に依拠して国内を統治しながら導入を軸に経済発展を進め、対外的にはをはじめとしたとの協力関係を重視しながらも、ではアラブを支持した。 にはハッサン2世への反対運動を展開していた人民諸勢力全国同盟 UNFP の党首・がで失踪する事件が起こった。 のとの結果、に復帰した。 にはスペインが飛地領のイフニをモロッコに譲渡したが、スペイン領はスペインの領有が続いた。 一方、内政は安定せず、7月に士官学校校長とらが夏の宮殿を襲ったが失敗に終わった ほか、翌 1972年には、ハサン2世の信任が厚かった ()将軍による国王が搭乗する旅客機の撃墜未遂事件が発生、ウフキル将軍と ()の排除が行なわれた()。 11月に西サハラに対して非武装で越境大行進を行い()、西サハラを実効支配した。 1976年にはモロッコとによって西サハラの統治が始まったが、同年に支援されたがの独立を宣言。 激しいゲリラ戦争の後、モーリタニアは西サハラの領有権を放棄したが、モロッコは実効支配を続けた。 にはマグリブ域内の統合を図る条約が調印された。 には西サハラ停戦が成立したが、住民投票は実施されず、は現在に至るまで未解決の問題となっている。 にが改正された。 に国王が死去したため、シディ・ムハンマド皇太子がとして即位した。 同年から受入額が急伸した。 、 ()が起こり、との間で緊張が高まったが、の仲裁で戦争には至らなかった。 5月16日に組織によって、で自爆テロ事件が発生した。 ムハンマド6世は2004年の新家族法の制定に主導権を執るなど、な改革を進める立場を示した。 モロッコの実質経済成長率は、1997年のマイナス成長を最後に、2015年までプラス成長を続けている。 が最も顕在化した10月、モロッコはの近隣諸国で初めて「優先的地位(Advanced Status)」を獲得した。 国際経済に占める「優先的地位」は、における行動計画の成果をもとに付与される。 モロッコに付与されたそれは、締結から一段踏み込み、財・サービス・資本の完全な自由移動と専門職の自由移動を実現することや、モロッコの国内法がEU法の総体(アキ・コミュノテール)を受容してゆくことを目標としている。 に起きたの影響を受けたにより7月に憲法改正。 翌年初め内閣が発足した(2017年4月まで)。 、ムハンマド6世がアフリカ連合への復帰を表明。 9月には加盟申請を行ったことを明らかにした。 、の首都で開かれた首脳会議でアフリカ連合への再加入が承認された。 5月1日、モロッコのブリタ外務大臣が、とのを断絶したと表明した。 西サハラで独立運動を展開するポリサリオ戦線に対して、イランおよびイランの影響下にある(の組織)がアルジェリア経由で支援を与えていることを理由に挙げた。 イランとは2009年~2014年にも断交していたことがある。 政治 [ ] 南部のの。 モロッコの国土は、アフリカ大陸の北西端に位置する。 東西1300km、南北1000kmに伸びる国土の形状は、約45度傾いたいびつな長方形に見える。 モロッコの南西に分布するはスペイン領であり、本土以外に国土を持たない。 国土の北部、地中海沿岸のとは、スペイン本国の飛地となっている。 陸続きにある南西のを実効支配しているものの、国際社会で占領行為の正当性が広く認められているわけではない。 なお、西サハラはかつてスペインの植民地()だった。 モロッコには大きな山脈が4つある。 (エル・リーフ)の山脈は他の3つの山脈とは独立し、地中海沿いのセウタやメリリャを北に眺め下ろしている。 最高地点は約2400である。 南方の3つの山脈はに属する。 アトラス山脈自体は北部からアルジェリア北部を通過し、ほぼモロッコの南西端まで2000km以上にわたって延びる。 アトラス山脈は複数のが平行に走るである。 モロッコ国内では北から順に、中アトラス山脈(モワヤンアトラス山脈)、大アトラス山脈(オートアトラス山脈)、前アトラス山脈(アンチアトラス山脈)と呼ばれる。 アンチアトラス山脈の南斜面が終わるところに国境がある。 アトラス山脈の平均標高は3000mを超え、国土のほぼ中央にそびえる(トゥブカル山) 4165m が最高地点であり、北アフリカの最高峰でもある。 などのモロッコの主要都市は大西洋岸の海岸線、もしくはリーフ山地の西、中アトラス山脈の北斜面から海岸線に向かって広がるモロッコ大平原地帯に点在する。 ジブラルタル海峡を挟んでスペインと向き合う。 スペイン=モロッコ間は、との境界に当たる。 アフリカプレートが年間0. 6cmの速度で北進したため、アトラス山脈が生成したと考えられている。 アトラス山脈の南には山脈の全長にわたって巨大な断層が続く。 このため比較的、地震が発生しやすい。 記録的な大地震は隣国アルジェリアに多いものの、と同時期のに発生した地震やの地震ではいずれも死者が3000人に達した。 の地震は被害が大きく、死者は1万5000人だった。 いずれもははっきりしていない。 主要河川は、地中海に流れ込む ()、大西洋に流れ込む (、)、 ()など10程度ある。 (、)とはに向かって流れ下りる。 もサハラ砂漠に向かって流れるが、この川は雨量が非常に多い場合サハラを横断して大西洋に注ぐことがある。 、を縦断するを除くと、モロッコは北アフリカでは最も水系が発達している。 気候 [ ] 一年を通じて、大西洋上にが居座っており、常に北東の風(北東)が吹いている。 このため、モロッコ沿岸を北から南にかけて寒流のが流れる。 によると、アトラス山脈より北は Cs に一部 Bs が混じる。 アトラス山脈の南斜面はそのままにつながっており、北部がギール砂漠、南部がドラー砂漠である。 気候区分は、 BW である。 アトラス山脈には冬季に積雪がある。 最大の都市カサブランカの気候は、1月の気温が12. 4度、7月が22. 年間降水量が379. 7である。 首都ラバトの気候もカサブランカとほぼ同じである。 植生 [ ] 大西洋沿岸、地中海岸と内陸部のオアシスを除き、植生はほとんど見られない。 を形成しているのはであり、特に大西洋岸に目立つ。 アトラス山脈に至ると、常緑樹林が広がる。 植生は、、、である。 アトラス山中からさらに南のステップには、や低木などが疎らに見られる。 栽培樹木としてのは以上の分布に当てはまらず、国土全体にわたる。 固有種としての( )があり、( Argan oil)(爪のケアに優れている)(別名:モロッカンオイル)の原料となる。 ただし、分布域は狭く、流域に限られる。 経済 [ ] カサブランカはモロッコ最大の経済都市であり、アフリカ有数のである。 の統計によると、2015年のモロッコのは約1,031億である。 国民一人当たりのGDPは3,079ドルとアフリカ諸国では比較的高い水準にあり、アジアなどのに匹敵するレベルである。 産油国ではないが、鉱業と軽工業など産業のバランスも良く、アフリカでは経済基盤も発達している方である。 埋蔵量世界1位の鉱石を中心とする鉱業と、生産量世界第6位の栽培などの農業が経済に貢献している。 大西洋岸は漁場として優れており日本にもなどが輸出されている。 観光資源も豊かで、観光収入は22億ドルに上る。 先進工業国とは呼べないが、衣料品などの軽工業のほか、石油精製や肥料などの基礎的な諸工業が発達している(以下、統計資料はFAO Production Yearbook 2002、United Nations Industrial Commodity Statistical Yearbook 2001年を用いた)。 かつてだったフランスほか欧米諸国の企業が、自動車や鉄道・航空機部品などの工場を増やしている。 これはモロッコがアフリカでは政情・治安が安定しているうえ、が整備されており、50以上の国・地域とを締結していて輸出がしやすいという背景がある。 その他諸国に出稼ぎ、移住したモロッコ人による送金も外貨収入源となっている。 カサブランカやタンジェ、には加工貿易用のフリーゾーンが設けられている。 カサブランカには金融フリーゾーン(カサブランカ・ファイナンス・シティ)もある。 モロッコ以外のアフリカ諸国へ進出する外国企業への税制面の優遇措置も導入し、アフリカ・ビジネスの拠点(ハブ)になりつつある。 鉱業・電力 [ ] 生産は、(採掘量世界第2位)、鉱(同7位)、鉱(同8位)が有力。 、、、なども採掘しており、も豊かである。 ただしの採掘量は1万トンと極めてわずかである。 鉱物資源はアトラス山脈の断層地帯に集中しており、アトラス山脈の造山活動によるものだと考えられている。 例えば、マラケシュ近郊やメリリャに近いウジタで亜鉛や鉛が採掘されている。 リンはカサブランカ近郊で採れる。 農業などに利用できない砂漠で、発電を拡大している。 所や所、所が相次ぎ建設されており、スペイン企業による風力発電機の生産も2017年に始まった。 エネルギー消費に占める再生可能エネルギーの比率(20%強)をに52%へ高めることを計画している。 農業 [ ] 岸、岸ではに頼った農業が可能である。 農業従事者は429万人(2005年)である。 FAO の統計(2005年)によると、世界第7位の(50万トン、世界シェア3. 主要穀物の栽培量は乾燥に強い(304万トン)、次いで(144万トン)、(110万トン)である。 中南部ケアラ・ムグーナ(「の谷」)で栽培されている用のバラなど農業も行われている。 畜産業は(1703万頭)、(1億4000万羽)を主とする。 工業 [ ] 工業は、リン酸肥料(生産量世界第6位)、オリーブ油(同9位)が目立つが、ワインや肉類などの食品工業、加工貿易に用いる縫製業も盛んである。 が2つの自動車工場を、が航空機部品工場を運営しているほか、やなども現地生産計画を進めている。 貿易 [ ] モロッコの輸出額は238億ドル。 品目は、 機械類 15. 2011年 ここでいう電気機械とは電気ケーブルを意味している。 リン鉱石は価格が安いため、品目の割合としては5位である。 主な相手国は、輸出は、スペイン、フランス 、ブラジル、イタリア、インド。 2014年 モロッコの輸入額は116億ドル。 品目は、原油 12. 主な相手国はスペイン、フランス、中国、米国、イギリスである。 2014年 日本との貿易では、輸出が 61. 輸入は、乗用車 32. 観光 [ ] 、、といった都市部の旧市街地から、など集落レベルの各種居住エリアにある世界遺産、やといった自然が見どころ。 観光施設だけでなく、古い邸宅を利用したという「モロッコ独特の宿泊施設」も知られている。 政府としても観光立国を掲げ、人材や観光地の育成に力をいれている。 2015年の観光客数は在外モロッコ人の割合が増加傾向にあるが、約1018万人を数えた。 交通 [ ] モロッコの民族分布地図(1973)。 2004年にムハンマド6世の主導権によって新家族法が成立し、女性の婚姻可能年齢は18歳以上に引き上げられ、についても厳しい基準が要求されるようになった。 ただし、現在も一夫多妻制は条件を満たせば認められる。 特に著名なモロッコのフェミニストとして、イスラーム教を的に読み替えることで男女平等の実現を達成することを主張するの名が挙げられる。 新家族法制定で、女性は結婚時に夫に複数の妻(イスラム教徒の男は4人まで妻を持てる)を持たないよう求めることができ、女性からを請求することができ、家庭における夫婦の責任が同等となり、女性は自分自身で結婚を決めることができるようになった。 1999年に法が成立し、政府やNGO団体の協力により受益者が増えている。 民族 [ ] 歴史的に、条件の良い平野部の土地を中心にが暮らし、アトラス山脈の住民の大半がである。 また過去に存在したベルベル人の独立問題などもあり()、国家としてはあくまでも両者はともにモロッコ人であるという考え方の元、民族ごとの統計を取るなどの作業は行われていない。 モロッコのアラブ人には、でのや17世紀のによってから移住した者もおり、彼等の中には現在でもスペイン風の姓を持つ者もいる。 はモロッコ各地の旧市街に存在するメラーと呼ばれる地区に古くから居住していたが、建国以来イスラエルやなどへの移住により減少傾向が続いており、時点で1万人以下である。 その他にもに起源を持つなどのマイノリティも存在する。 言語 [ ] とがである。 国民の大半はでを学習しつつも日常生活ではモロッコ特有のを話しているため、他の圏の住人とは意思の疎通が困難である。 また、かつてのであったためがとして教えられ、政府、教育、メディア、ビジネスなどで幅広く使われ、全世代に通用するなど準公用語的地位となっている。 一方、北部モロッコではスペインの影響が強く、もよく通じる。 公文書は基本的にアラビア語、一部の書類はフランス語でも書かれる。 商品や案内表記等はアラビア語とフランス語の併記となっていることが多い。 山岳地帯では、タマジグトと総称されるが話され、これらは大別して(モワイヤン、オートアトラス地域)、(アガディール地方、アンチアトラス地域)、(リーフ山脈地域)に別れている。 また、ベルベル人は、国内のアラブ人からはシルハと呼ばれるが、ベルベル人自身は自分たちをイマジゲン(自由な人の意)と呼ぶ。 ベルベル語が話されないアラブ人家庭に生まれ育つとベルベル語は全く理解できない事が多く、両者は全く異なった言語である。 とも禁止されてはいない。 教育 [ ] 7歳から13歳までの7年間の期間が義務教育期間となっているが、就学率は低い。 モロッコの教育は初等教育を通して無料かつ必修である。 それにもかかわらず、特に農村部の女子を始めとした多くの子供たちが未だに学校に出席していない。 教育はやで行われる。 2004年のセンサスによれば、15歳以上の国民の識字率は52. 主な機関としては、(859年)や(1957年)などが挙げられる。 文化 [ ] 中央市場のスパイス。 モロッコ料理は長らく世界で最も多様性に富んだ料理の一つと見なされてきた。 これは数世紀に及ぶモロッコと外部世界の相互作用の結果である。 モロッコ料理はベルベル、スペイン、コルシカ、ポルトガル、ムーア、中東、地中海、アフリカの各料理の混合である。 モロッコ料理は土着のベルベル料理、スペインから追放されたモリスコがもたらしたアラブ・アンダルシア料理、によってもたらされた、アラブ人がもたらした中東料理の影響を受けており、の影響も同等である。 はモロッコ料理に広く使われる。 香辛料は数千年来モロッコに輸入され続けたが、ティリウニの、メクネスのと、フェスのとなどの多くの材料は自生のものである。 モロッコで最も一般的に食される赤味の肉は牛肉であり、国産の羊肉は好まれるが相対的に高価である。 主なモロッコ料理としては、、などが挙げられる。 と呼ばれるミント緑茶に大量のを加えて飲む習慣がある。 文学 [ ] 『』の著者。 モロッコ文学はアラビア語、ベルベル語、フランス語で書かれる。 で発達した文学もまた、モロッコ文学に位置づけられる。 ムワッヒド朝下のモロッコは繁栄の時代を経験し、学術が栄えた。 ムワッヒド朝はマラケシュを建設し、「史上初の書籍市」と呼ばれることになる書店を設立した。 ムワッヒド朝のカリフ、は本を収集することをこの上なく好んだ。 彼は偉大な図書館を設立し、その図書館は最終的にカスバとなり、公立図書館となった。 中世においてタンジェ出身のはアフリカ、アジア、 ヨーロッパに巡る大旅行の体験を述べた紀行文学『』(『三大陸周遊記』、)を著した。 近代モロッコ文学は1930年代に始まった。 モロッコがフランスとスペインの保護領だったことは、モロッコの知識人に他のアラブ文学やヨーロッパとの自由な接触の享受からなる文学作品の交換と執筆の余地を残した。 1950年代から1960年代にかけて、モロッコは避難所、芸術の中心となり、、、のような作家を導いた。 モロッコ文学は、のようなアラビア語作家や、、のようなフランス語作家によって発達した。 現代の文学においては、モロッコ出身のフランス語文学者として、、、、そして1987年に『』でを獲得したなどが挙げられる。 また、アラビア語モロッコ方言やアマジーグでなされる口承文学はモロッコの文化にとって不可欠の存在である。 音楽 [ ] 詳細は「」を参照 サッカー [ ] が盛んであり、は過去に4回出場、の優勝経験もあり、アフリカの強豪国の1つとして数えられている。 著名なプロクラブとしては、などの名が挙げられ、やなどのように欧州で活躍している選手も存在する。 とには自国でが開催された。 陸上競技 [ ] のうち男子は、同じアフリカのおよびと並んで屈指の強さを誇る。 概してオリンピックや世界陸上においては、エチオピアは5,000m、10,000m、ケニアは3,000m障害そしてモロッコは800m、1,500mで世界一を輩出することが多い。 1980年代の男子中長距離界を席巻したとは、とりわけ日本の陸上競技ファンや関係者の中でも有名であり、ヒシャム・エルゲルージの出したと、の世界記録は未だに破られていない。 格闘技 [ ] (ヘビー級王者)はK-1世界ヘビー級王者戴冠後に「モロッコは世界的に自慢できるものがない国なんだ。 世界王者という部分が重要なんだ」と語っている。 テニス [ ] はに当時の国王の名を冠したモロッコ初の大会、が開催されるようになってから次第に同国でも人気の盛り上がりを見せるようになった。 1990年代に入ると、、という3人の男子選手が同時期に現れ、モロッコ初の国際的プロテニス選手として目覚しい活躍を残していくようになる。 に参加を開始したのも参戦以降長らく地域ゾーンの1チームに過ぎない弱小国であったが、代表を務めるようになった3人の活躍と共に次第に強くなっていき、彼らが全盛期を迎えた後半から前半には最上位カテゴリのワールドグループに通算5度の出場を果たすテニス強国の一角を占めるまでになった。 3人の引退に伴う2000年代後半以降は次世代が育たなかったこともあり低迷しているが、に入り上記の3選手以来久しぶりにシングルスランキングで100番台に乗せてきたのような若手も現れ始めている。 女子テニスにおいてもからの名を冠した大会を開催しているが、その一方国内女子選手の育成はほとんど進んでいない。 現在出場やツアーレベルに到達した選手は一人として現れておらず、世界レベルとの隔たりが大きい状況にあるのが現状である。 のも大会参戦開始はと中東諸国の中でも最も早いものであったが、この年の出場後、1995年に再び参加するまで30年近く国際舞台の場に出ることはなかった。 その後も断続的な参加を続ける形となっており、2010年現在までの通算参加年数はわずか9年に留まっている。 医療 [ ] この節のが望まれています。 性転換手術 [ ] 世界中の少なからぬ国において、モロッコという国名から「」をイメージする人々が、特に1970年生まれ以前の世代では少なからず存在している [ ]。 これは男性から女性への性転換手術、現在で言うの技法が、モロッコのマラケシュに在住していた人医師により開発されたことに起因する。 ビュルーが手法を確立した1950年代後半以降、フランスの有名な「カルーゼル」に所属していた多くの「性転換ダンサー」たちがビュルーの手術を受けたことから有名になり、一時期は世界中から、「女性に生まれ変わりたい」という願望を抱く男性たちが大量にマラケシュのビュルーの元に押し寄せる状況が見られた。 日本もその例外ではなく、1960年代に3度にわたって行われた「カルーゼル」のダンサー(いわゆる「ブルーボーイ」)の日本公演がこの様な性転換の存在が知られる1つのきっかけとなり、その後、知られるところでは芸能のやのなどがモロッコに渡航してビュルーの執刀による手術を受けている。 わけても、日本においては1973年以降のカルーセル麻紀に関する各種報道の影響から、「」=「モロッコ」のイメージが広がり、その影響は長らく残ることになった。 なお、ビュルーは1987年に亡くなっており、今日では性転換を希望する人は手術してくれる病院・医師の数が豊富なで受けるのが主流となっている。 妊娠中絶 [ ] モロッコではは法的に認可されていない。 (オランダの医師が1999年に設立した団体)が、モロッコで望まぬ妊娠をしている女性を船に乗せ公海上で中絶手術をする目的で2012年にモロッコに入港しようとしたが、モロッコ海軍に阻止されて追い返されている。 同船の医師は、モロッコでは違法に実施される危険な中絶処置のために、年間90人のモロッコ人女性の命が失われているとし、安全に中絶処置が実施される必要性を訴えた。 脚注 [ ] []• 2017年5月9日. 2017年5月23日閲覧。 モロッコ王国. 2017年5月23日閲覧。 「」、2010年4月21日閲覧。 「モロッコ軍部クーデーター失敗 国王殺害企てる 宮殿襲い銃撃戦」『中國新聞』昭和46年7月12日5面• 高崎春華 「EU広域経済圏の形成と金融FDI」 日本国際経済学会第70回全国大会• 2016年7月18日. 2016年7月24日閲覧。 2016年7月18日. 2016年7月24日閲覧。 Voice of America. 2016年9月24日閲覧。 AFPBB News 2017年1月31日• 『日本経済新聞』夕刊2018年5月2日掲載の配信記事。 2011年7月19日. 2011年7月19日閲覧。 「モロッコ王国」『世界年鑑2016』(、2016年)272頁。 2011年11月27日• 2011年11月28日。 最も狭い部分では幅14しかない• 「モロッコ 産業に厚み」2016年11月17日• 【新興国ABC】モロッコの産業フリーゾーン 車・航空機の産業集積『』2018年5月14日(グローバル面)。 フェルダウス投資担当によるコメント。 『』2018年5月29日(環境・素材・エネルギー面)掲載、モロッコ「再生エネ52%に」。 【旅】ケラア・ムグーナ(モロッコ)砂漠の中の「バラの谷」香り芳潤 美容にも一役『』夕刊2018年5月16日。 「モロッコ 産業に厚み」2016年11月17日• ワンダーラスト. 2018年7月6日閲覧。 菅澤彰子. 2018年7月6日閲覧。 外務省. 2018年7月6日閲覧。 2018年1月8日19時30分NHK総合放送「世界プリンス・プリンセス物語」• 2009年12月26日閲覧。 たとえばフィクションでは、1998年にで放映されたアニメ『』第8話では、登場した誘拐犯たち(の元店長と元従業員)が身代金の使い道の1つとして「モロッコに行って性転換」することを挙げている。 jp 2012年10月5日 金 12時53分配信 参考文献 [ ]• 『マグレブ紀行』〈中公新書246〉、、1971年1月。 、 [ ]編著『モロッコを知るための65章』〈エリア・スタディーズ〉、、2007年4月。 編『アフリカI』〈世界地理9〉、、2002年9月。 『アフリカ現代史V』〈世界現代史17〉、、2000年4月第2版。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 モロッコに関連する および があります。 には、 に関する旅行情報があります。 外部リンク [ ]• (アラビア語) (フランス語) (英語)• (日本語) (英語)• (日本語)• (日本語)• 旅行ガイド -• に関連する地理データ -• (英語)•

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イスラム教徒であるモロッコ人が「お酒を買う・飲む」って本当?

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北アフリカ北西部の国、モロッコ王国の高等宗教委員会は、イスラム教からの背教は死罪に値するとした過去の見解を取り消し、イスラム教徒は自身の宗教を変更することが認められるとする新たな見解を示した。 モロッコでファトワー(イスラム法に基づく勧告、見解)を発布する責任を負う同委は2012年、イスラム教から他宗教へ改宗することは死罪に値するという見解を示していた。 しかし、(英語)によると、同委は最近、これまでの立場を撤回する内容が記された文書「学者たちの道」を発表。 背教に対する死罪を宗教的な事柄ではなく、政治的な事柄として扱い、現在においては背教の多くが死罪には当たらないとする見解を示した。 文書には、「最も正確な理解であり、イスラム法と預言者ムハンマド——彼に平和がありますように——の実際的な方法と最も一致していることは、背教者を殺すことは、裏切り者や秘密を漏らす者(中略)に対するものであり、国際法における反逆罪に相当するものなのである」と記されている。 そして、背教はイスラム教の最も初期に、背教者が敵国に国の機密を漏らすかもしれないといった政治的影響のために罰せられるべきものであったと説明。 背教とそれに対する処罰には、多分に実際的、政治的な背景があったと述べている。 そして、このような緊張状態(背教者が国家機密を漏えいすること)はもはや大抵の背教の場合には当てはまらないとしている。 同委はさらに、コーランはさまざまな場面で、現世ではなく、来世において罰せられる背教について語っていることに言及した。 例えば、コーランの第2章「雌牛(アル・バカラ)」の217節には、「あなたがたの中で、もし信仰に背き、不信心者のままで死ぬ者があれば、このような者は、現世でも来世でも、その行いは徒(あだ)となる。 またこれらの者は、業火の住人である。 彼らは永遠にその中に住む」と述べられている。 同委はまた、「フダイビーヤの和議」(628年にムハンマドとメッカのクライシュ族の間で結ばれた和議)でムハンマドは、イスラム教を放棄した者がクライシュ族(ムハンマドの出身部族だが、当時のイスラム教にとって最大の敵でもあった)に戻ることが許されなければならないという伝統に従ったと述べている。 モロッコでは、イスラム教が国教と定められており、人口のほとんどをイスラム教スンニ派が占めている。 クリスチャントゥデイからのお願い いつもご愛読いただき、ありがとうございます。 皆様のおかげで、クリスチャントゥデイは 月間40万ページビュー(閲覧数)と、日本で最も多くの方に読まれるキリスト教オンラインメディアとして成長することができました。 記事の一つ一つは、記者や翻訳者、さらに編集者の手などを経て配信されているものです。 また、多くのコラムニストや寄稿者から原稿をいただくことで、毎日欠かすことなくニュースやコラムを発信できています。 支払いはクレジット決済で可能です。 申し込みいただいた方には、毎週のニュースやコラムをまとめた 申込者限定の週刊メールマガジンを送らせていただきます。 サポーターやサポートの詳細、またクレジットカードをお持ちでない方はをご覧ください。

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