小田急4000形電車 (初代)。 (N) 鉄道コレクション 小田急電鉄4000形(初代)冷房改造車 4両セット

小田急3000形電車_(初代) : definition of 小田急3000形電車_(初代) and synonyms of 小田急3000形電車_(初代) (Japanese)

小田急4000形電車 (初代)

7 (吊・3両固定編成) 2. 3(高) 制御装置 三菱電機 ABF-125-15 : AMMR-L・1968 昭和43 年まで : HSC・1969 昭和44 年以降 : 1969 昭和44 年以降 備考 諸元の「吊」は吊り掛け車時代、「高」は高性能車時代 小田急4000形電車(おだきゅう4000がたでんしゃ)は、(小田急)で(昭和41年)から(平成17年)まで運用されていたである。 また、特定の車両については車両番号から「デハ4100番台」などのように表記し、・をまとめて「HB車」 、・・・をまとめて「ABF車」 、を「HE車」、を「NHE車」と表記する。 ただし、以降の形式はそのまま表記する。 登場の経緯 [ ] 小田急開業当時からにかけて製造されたHB車は、後半に大規模な更新修繕や形態統一を行なっており 、「これで15年や20年は使える」と言われていた。 しかし、1960年代に入ると16m級車体で2扉の小型車であるHB車は、高くなる列車密度の中では機能的に使用できなくなっていった。 しかし、主要な機器は更新していたこと から、使用可能な部品を再利用の上 、NHE車と同様の大型車体を新造して 、逼迫した輸送需要に対応できる車両とすることになった。 こうして、開業当時からの車両の電装品を流用して登場したのが4000形である。 旧形式車両の車体更新自体は他の鉄道事業者においても例があるが、4000形は車体だけではなく制御機器や台車も新造し 、流用したものは電装品などの一部の機器のみにとどまっていることが特徴である。 車両概説 [ ] 本節では、登場当時の仕様を基本として、増備途上での変更点を個別に記述する。 更新による変更については沿革で後述する。 4000形は全長20の車両による3両固定編成で製造され 、1974年から1976年にかけて一部の編成が中間車を増備して5両固定編成となった。 形式は小田原方先頭車()がクハ4050形で、新宿方先頭車()と中間車()はいずれもデハ4000形である。 車両番号については、を参照のこと。 車体 [ ] 先頭車・中間車とも車体長19,500 ・全長20,000 mmで、車体幅は2,900 mmの全金属製車体である。 正面は貫通型3枚窓で、側面客用扉は各車両とも4箇所である。 基本的な車体構造はNHE車と同一となっている。 詳細は「」を参照 主要機器 [ ] 主電動機は前述の通り、HB車およびABF車から流用した製のである。 HB車に使用されていたMB-146-A型はデハ4000番台のうちのデハ4017まで とデハ4100番台のうちのデハ4117まで 、デハ4213 、デハ4313 に使用され、それ以外の車両にはABF車に使用されていたMB-146-CFR型が使用された。 これらの電動機の種車となった形式は、・・デハ1200形・デハ1400形・デハ1600形・デハ1700形・デハ1900形・デハ2100形の8形式に及んでいる が、全て端子電圧750 、出力93. 3 の主電動機で統一されており 、戦前からの統一化思想が役立ったことになる。 は三菱電機製の直並列抵抗電動カム軸式制御装置であるABF-125-15型を新製し、デハ4100番台・デハ4300番台の車両に搭載した。 4000形では1台の制御装置で8基の主電動機の制御を行なう方式 1C8M とした が、主電動機の端子電圧の関係から、主回路接続は電動機2基を直列に接続したものを1組として直並列制御を行なう方式 2S4P とした。 また、分流式の弱め界磁が設置された。 は装備せず、基礎制動装置として高速域からのブレーキ効果が高いを採用した。 1974年以降の増備車のうち、軸ばね式台車を装備した車両ではシングル式(片押し式)が採用された。 は、1970年までに製造された車両については製の軸梁ゴムブロック式台車であるを採用した。 電動台車がPIII-706M形 、付随台車はPIII-706T形 で、いずれも車輪径910 mm・軸間距離は2,350 mmである。 採用に先立って、1963年10月にからデハ7019・7020を借り入れて性能確認試験を行なった ほか、1964年にはデハ1304にP-III704形を取り付けて性能確認試験が行なわれている。 また、1974年以降に制御車用の台車として東急車輛製造製の軸ばね式空気ばね台車であるTS-814形台車が 、1976年に製造された車両のうち、デハ4212・4213・4312・4313には東急車輛製造製軸ばね式空気ばね台車のTS-818形台車が採用された。 いずれの軸ばね式台車も車輪径910 mm・軸間距離2,350 mm(TS-814形は軸間距離2200 mm)である。 補助電源装置は、デハ4000番台の車両に9kVAのCLG-318C型 MG を2台搭載した。 CP は、両方の先頭車にDH-25型を1台ずつ搭載した。 (パンタグラフ)は各電動車の小田原方屋根上に、PT42-K4形を設置した が、デハ4200番台・デハ4300番台では取り付け位置が車体中央方向に800 mm移設されている。 の機器配置はNHE車と同様であるが、車両の性能が異なるため、乗務員室の色彩を変えて区別している。 沿革 [ ] 登場当初 [ ] 1966年12月以降にNHE車と並行して増備され 、1970年までに22編成が導入された。 4000形3両固定編成での定員は450名となり、HB車の3両編成での旅客定員が352名であったのと比較すると大幅な収容力の増強を実現した。 1969年以降はABF車の1600形を種車として増備されている。 1968年度に製造された車両からはブレーキ装置がAMMR-LからHSCに変更され 、それまでに製造された車両についても1969年までにHSCに改造され 、同時にOM-ATSの設置と先頭部連結器のCSD78形密着連結器への交換が行なわれた。 この特別塗装は1968年3月に標準色に戻された。 登場後しばらくは単独編成でを中心に、以西のに使用されていた が、2編成を連結した6両編成で高加減速を必要としないやにも使用された。 連続脱線事故と5両固定編成の登場 [ ] 1969年から、小田急では朝の通勤輸送の対応策として、全長20m級の大型車による8両編成での運行を開始することになっていたが、この時点では大型車のみで8両編成を組成できる形式がとしか存在しなかった。 折りしも1800形は1967年から1969年にかけて体質改善工事が実施されており 、ブレーキも4000形と同じHSCに変更されていた。 このような事情から、4000形と1800形を連結した8両編成について検討が進められ 、理論上は問題ないという結論となった ことから、1969年から1800形と4000形を連結した5両編成での運用が 、それに4000形をもう1編成連結した8両編成での運用が開始された。 1800形と4000形の連結運用によって、朝ののうち9本が4000形と1800形を連結した大型8両編成で運行できるようになり 、大幅な輸送力増強が図られた。 暫定5両編成化の概略図 ところが、4年ほど経過した1973年、4月19日と5月2日に連続して脱線事故が発生した。 このため、急遽1800形との連結は中止されることとなり 、1800形と4000形の連結によって運行されていた9本の通勤急行のうち、7本を4000形だけで運用する必要に迫られた。 このため、7編成に対して制御車を外したうえで他の編成に連結する暫定5両編成が組成され 、編成から外された制御車7両は休車となった。 脱線事故については、内に「小田急線連続脱線事故調査委員会」が設置され 、同年5月28日深夜には検証と原因究明のために実車を使用した測定試験が行なわれた。 日本の私鉄における脱線事故で、大掛かりな現車試験が行なわれるのはこれが初めてのことであった。 この結果、脱線の要因は低速時の浮き上がり脱線であることが判明した。 当時小田急電鉄勤務だった生方良雄は、後年「4000形のパイオニアIII形台車と、ばねの固い1800形のDT13形台車の相性が悪かったことが真実だと思う」と述べている。 その一方、制御車7両がとなったことによって運用車両数が確保できなくなり 、一部列車の編成の削減を余儀なくされる状態となった。 この対応策として、1974年から4000形の中間電動車を増備することによって暫定5両編成を解消することになった。 5両固定編成化された4000形 中間電動車の増備にあたり、制御車に使用していたPIII-706T形台車を増備される中間電動車に流用することになり、1974年から1975年にかけて制御車の台車を新製された軸ばね式空気ばね台車のTS-814形に交換した。 PIII-706T形台車は若干の改造のうえで電動台車のPIII-706M形に変更された。 しかし、増備される中間車が26両であるのに対し 、パイオニアIII形台車を提供する制御車の両数は22両だった ため、不足する4両分の台車は軸ばね式空気ばね台車のTS-818形を新製した。 主電動機については、ABF車のものを流用することになり、ABF車の淘汰が進められることとなった。 5両固定編成化に伴い、デハ4000番台のパンタグラフを撤去した ほか、クハ4050番台の電動空気圧縮機 CP を大容量のC-2000M形に交換し 、デハ4200番台の車両にも搭載された。 中間電動車の増備により、1976年までに13編成が5両固定編成化され 、暫定5両編成は解消された。 1973年から1976年にかけてとの設置が行なわれた ほか、1976年から1978年にかけて全ての先頭車にスカートを設置した。 また、3両固定編成のクハ4050番台の電動空気圧縮機 CP を大容量のC-2000M形に交換した。 既に小田急の通勤車両は冷房付の高性能車が主力の状況であり 、4000形についても同等の水準とすることが望ましくなった。 このため、1985年から冷房化と高性能化を主とした改造が開始され 、同時に他の高性能車と同様の6両固定編成・4両固定編成への組成変更が行なわれた。 冷房・高性能化にあたり、主制御装置は元来装備していたABF-125-15形を流用した が、応荷重装置が加速時にも機能するようにした ほか、制御段数の変更が行なわれた。 主電動機は、同年から廃車が開始されたHE車の使用していた主電動機である三菱電機製MB-3039-A形を流用した。 3となった。 電動台車については、基礎制動装置をディスクブレーキとした軸ばね式空気ばね台車のTS-826を新製した が、ブレーキディスクはパイオニアIII形台車から流用された。 付随台車についてはTS-814とTS-818を流用した。 発電ブレーキは流用したモータの容量の関係上装備していない。 屋根上のクーラーキセ(カバー)は、8000形とは異なり各装置ごとに単独のものとなっている。 なお、工作の簡易化を図るために冷風ダクトの設置は行なわず 、補助送風装置としてを先頭車4台・中間車5台設置した。 また、補助電源装置については SIV が新製され 、4両編成ではクハ4050番台・デハ4000番台の車両に90 のSIVを1基ずつ 、6両固定編成ではデハ4200番台・デハ4400番台の車両に120 kVAのSIVを1基ずつ搭載した。 デハ4100番台・デハ4400番台の車両の新宿方には仕切り扉が設置された。 また、全車両の側面に種別・行先表示器が設置された。 パンタグラフの搭載位置は全て8000形と揃えられ、デハ4200番台を除く各車両の小田原方に搭載された。 乗務員室内の色彩も他形式と同様のライトグリーンに変更された。 組成変更は以下のような3パターンに大別される。 ・も参照されたい。 1988年度末に全車両の改造が終了した が、この改造および組成変更に伴い、92両全車両が改番された。 5両固定編成は1987年7月に運用を終了し 、さらに3両固定編成も1988年9月16日限りで運用終了となり 、小田急の路線から営業運行を行なう吊り掛け駆動方式の電車は消滅した。 ただし、同年9月22日に発生した車輌故障に関連して、8000形と併結のうえ、突発的な代走営業運転が行われた旨、鉄道友の会小田急部会会報に記載があるという。 これは代走とは言え、4000形の吊り掛け駆動時代最後の営業運転であり、さらには、小田急電鉄で記録に残るものとしては、最初で最後のカルダン駆動車と吊り掛け駆動車の併結運転でもあった。 淘汰 [ ] 改造後の4000形は、4両固定編成が江ノ島線の各駅停車を中心に (ただし、一部小田原・箱根湯本ゆきの併結急行では相模大野で分割される形で急行でも運転されていた)、6両固定編成は全線で運用されるようになった。 なお、高性能化以前は、5両固定編成と3両固定編成を組み合わせた8両編成がしばしばみられた が、高性能化以後は4両固定編成を2編成連結した8両編成で運行することは稀であった。 その後は大きな車両の動きはなかった が、2003年からは3000形の増備に伴い、NHE車とともに淘汰が開始された。 2004年12月のダイヤ改正前日をもって運用離脱、や引退式等は行なわれず 、2005年1月までに全車両が廃車・解体され 、現存していない。 また、この頃の小田急はダイヤ改正に合わせて種別幕が順次新しい物に交換されていたが、当形式は廃車時期が近いこともあり、最後まで旧幕のまま運用されていた。 編成表 [ ] 凡例 Tc …、Mc …、M …、T…、CON…、MG…補助電源装置(電動発電機)、SIV…補助電源装置(静止形インバータ)、CP…、PT… 吊り掛け車時代(1966年-1988年) [ ] 新製時 [ ] 当時は号車番号は付番されていなかった。 28t 37. 14t 37. 56t 定員 144 162 144 暫定5両編成(1973年-1976年) [ ] 当時は号車番号は付番されていなかった。 新宿方2両と小田原方3両の組み合わせは変更されることがあった。 28t 37. 14t 37. 56t 37. 14t 37. 56t 定員 144 162 144 162 144 一部5両固定編成化後(1974年-1988年) [ ] 1977年12月1日時点。 当時は号車番号は付番されていなかった。 28t 37. 14t 37. 79t 36. 89t 37. 54t 37. 10t 36. 28t 37. 14t 37. 56t 定員 144 162 144 冷房・高性能化後(1985年-2004年) [ ] 車両番号に I II と付記されているものは同じ番号を付けた初代および2代目の車両。 0t 39. 0t 38. 5t 32. 0t 39. 0t 38. 5t 39. 0t 38. 5t 30. 0t 定員 144 162 162 162 162 144 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 他の高性能車ではライトグリーンであったが、吊り掛け駆動方式時代の4000形では藤色となっていた。 当該編成に充当される制御車はCPが2台に増設された。 これらの連続脱線事故を重く見たは、運用を制限してでもパイオニア台車の車両と他の台車の車両の連結を禁止した(詳しくはを参照)。 1977年時点では暫定5両編成解消後も2台装備していた車両もあったが、この交換により1台に戻った。 クハ4069・4072はC-2000M形への交換まで2台装備。 出典 [ ]• 鉄道ダイヤ情報 通巻145号『EXE 115DAYS』 1996 p. 東京工業大学鉄道研究部(編)『私鉄電車ガイドブック 西武・京王・小田急・東京モノレール』、1981年(原著1978年)、新版。 、『日本の私鉄5 小田急』、1981年。 0165-508530-7700。 大幡哲海『小田急電鉄の車両』、2002年。 小山育男、諸河久『私鉄の車両2 小田急』保育社、1985年。 雑誌記事 [ ]• 大幡哲海「私鉄車両めぐり145 小田急電鉄」『鉄道ピクトリアル』第546号、1991年7月、 175-197頁。 大幡哲海「私鉄車両めぐり164 小田急電鉄」『鉄道ピクトリアル』第679号、電気車研究会、1999年12月、 201-243頁。 刈田草一「小田急電鉄 列車運転の変遷」『鉄道ピクトリアル』第546号、1991年7月、 145-156頁。 岸上明彦「小田急電鉄現有車両プロフィール」『』第829号、、2010年1月、 241-295頁。 橋本政明「固定編成 組み換えの記録」『鉄道ピクトリアル』第829号、電気車研究会、2010年1月、 192-203頁。 船山貢「小田急車両総説」『鉄道ピクトリアル』第405号、電気車研究会、1982年6月、 92-99頁。 松原淳「小田急4000形冷房改造」『』第296号、、1985年12月、 124-125頁。 山下和幸「私鉄車両めぐり122 小田急電鉄」『鉄道ピクトリアル』第405号、電気車研究会、1982年6月、 169-183頁。 山下和幸「私鉄車両めぐり101 小田急電鉄」『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション』第2号、電気車研究会、2002年12月、 59-82頁。 「小田急座談 Part1 車両編」『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション』第1号、電気車研究会、2002年9月、 6-16頁。 「小田急座談 Part2 輸送・運転編」『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション』第2号、電気車研究会、2002年12月、 6-20頁。 「甦る読者短信」『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション』第2号、電気車研究会、2002年12月、 130-141頁。 「小田急の技術」『鉄道のテクノロジー』第12号、、2011年10月、 100-109頁、。 関連項目 [ ]• ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。

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小田急4000形電車 (初代)

4 (4両) 車両定員 144名(先頭車) 162名(中間車) 編成重量 130. 46 (非冷房4両編成) 141. 90 t (冷房付4両編成) 221. 50 t (6両編成) 編成長 80. 0(4両) 120. 0m(6両) 全長 20,000 全幅 2,900 mm 全高 3,875 mm (非冷房先頭車) 3,995 mm (冷房付先頭車) 4,125 mm (集電装置付中間車) FS375(電動台車) 住友金属工業 FS075(付随台車) MB-3039-B 主電動機出力 135 (・340) 駆動方式 90:17 5. 3 (付) 制御装置 三菱電機 ABFM-188-15MD 併用 HSC-D 小田急5000形電車(おだきゅう5000がたでんしゃ)は、(小田急)がからまでの13年間にわたって導入を行なったである。 当初は4両固定編成で製造され、からまではの新造が行なわれたため増備が中断した が、から増備が再開された。 に増備された車両は正式な形式は変更されていないものの、編成が6両固定編成に変更された だけではなく、後述するように側面窓構造に相違がある ほか、設計変更ではなく新規に車両設計認可を受けている ことなどから、雑誌や書籍などでは6両固定編成で登場した車両については 5200形と通称される。 小田急の通勤車両では初めての新製冷房車となった形式 であり、ベース色をケイプアイボリーとした上でロイヤルブルーの太帯を入れるという、その後長期にわたって小田急通勤車両の標準色となるデザインを初めて登場当時から採用した形式でもある。 また、から続く「低の前面貫通型で行先表示は下部、は上部では左右上部」という、趣味的に「小田急顔」と俗称される前面様式が採用された最後の形式である。 長期にわたって小田急通勤車両の主力車両として運用されたが、以降は後継車両の導入により淘汰が進められ 、2012年3月のダイヤ改正をもって営業運転を終了した。 特定の車両については車両番号から「デハ5400番台」などのように表記し、本項で「急行列車」と記した場合は、やを、「5000形」とした場合は登場当時から4両固定編成だった車両を、「5200形」とした場合は登場当時は6両固定編成だった車両をさすものとする。 また、は「HE車」、は「NHE車」と表記する。 登場の経緯 1960年代の前半の時点で、小田急の朝ピーク時の運行本数はすでに1時間30本に達しており 、かつ比較的中距離区間の通勤客が急増していた。 これに対して、小田急では急行列車の運行本数の増加を図るため 、に全長20m・6両固定編成 の大型通勤車両であるを投入し、その分各駅停車の運行本数を減少させることで急行列車の運行本数を確保するという手法を採っていた。 また、この時点で当時の(営団地下鉄)との直通運転は決定していたが、まだ乗り入れ車両に関する具体的な設計協議には入っていなかった。 そこで、既にHE車で実績のある電装品とNHE車の車体を組み合わせる形で 、地上線専用の急行用車両として製造されることになったのが5000形である。 急行列車の8両編成化のための車両ではあるが、8両固定編成では運用上の制約が大きく 、また将来の10両編成化にあたっても6両固定編成を連結すれば対応可能で手戻りがないと判断され 、4両固定編成で製造し、8両編成で運行する際には4両固定編成を2編成連結して対応することになった。 小田急の通勤車両では、初めて製造段階で10両編成化を視野に入れて設計した車両である。 車両概説 本節では、登場当時の仕様を基本として、増備途上での変更点を個別に記述する。 更新による変更については沿革で後述する。 5000形は全長20の車両による4両固定編成で、5200形は同じく全長20mの車両による6両固定編成で製造された。 形式は先頭車がのクハ5050形で、中間車はのデハ5000形である。 車両番号については、を参照のこと。 車体 5000形では正面窓が外板と同一平面に近くなった 先頭車・中間車とも車体長19,500・全長20,000mmで、車体幅は2,900mmの全金属製車体である。 基本的な車体構造はNHE車と同様であるが、NHE車での運用実績を反映した骨組の改良がされている。 また、当時のが定めていた鉄道車両の防火基準である「」に対応させるため 、全体的に出火対策の強化が行なわれた。 正面は貫通型3枚窓であるが、それまでの小田急の通勤車両では正面窓が外板から1段窪んだ構造になっていたものを、5000形では見た目の向上 と清掃の容易化を図り 、外板と同一平面に近づける構造とした。 貫通扉下部への設置や助士席窓上の種別表示幕設置、貫通扉の脇に手すりが設けられている点についてはNHE車と同様である。 1976年に増備された車両からは、貫通扉脇の手すりの形状が変更されている ほか、それまでは手動であった正面の方向幕が自動化された。 手動方向幕は白地に黒文字であったのに対し、自動化された方向幕は黒地に白抜き文字に変更された。 1976年の増備車からは、が新造時点から設置された ほか、以降の増備車では56芯の設置が省略された。 5200形は1段下降窓・扉窓は、1 - 4次車はHゴム、5次車以降は押え金で固定 側面客用扉は各車両とも4箇所で 、1,300mm幅の扉である。 の増備車からは、客用扉の外側戸柱部分に指挟み防止安全ゴムが設けられた。 側面窓の配置は、920mm幅・高さ900mmの2段上昇窓 が客用扉間に2つ1組で、客用扉と連結面の間には2段上昇窓が1つ設けられ、客用扉と窓の間には幅285mmの窓を配置、乗務員扉と客用扉の間には戸袋窓のみが配置された点などはNHE車と同様である。 1978年以降に増備された5200形からは、側面窓が9000形と同様の1段下降窓に変更された 、妻面の窓も2段上昇窓から固定窓に変更された が、窓の位置自体は変更されておらず 、全体的に9000形よりも50mm低い位置になっている。 以降の導入車両では、扉窓及び戸袋窓のHゴム固定が廃止され 、金属製の押え金で固定する方法に変更された。 車両間の貫通路は1,080mm幅の広幅で、妻面の窓は2段上昇式である。 5200形では妻面の窓は固定化された ほか、車号5400番台の車両の新宿側には仕切り扉が設置された。 仕切り扉の窓はの増備車まではHゴム固定で 、の増備車では金属製の押え金で固定する方式である。 また、1979年の増備車では貫通路の保護装置が試験的に設置され 、その後改良型が5200形の全車両に設置された。 (上)種別のみの表示幕(写真はNHE車に使用された同一構造のもの) (下)種別・行先を併記する表示幕 車体側面中央の客用窓上部には、種別表示器が設置された。 当時の小田急では、急行列車では側面にを掲出していた が、主に各駅停車に使用する車両であったNHE車や4000形では、いっぱいまで車体を拡大する代わりにサボ受けを省略していた。 しかし、5000形はNHE車と異なり急行列車用の車両である ことから、側面への種別表示が旅客案内上必須と考えられた。 そこで、この時期にの車両で使用されていた表示器を参考にして 、車両限界を超過しないように車体内部に埋め込む形での電照式種別表示器が設置されたものである。 この表示器は、あらかじめ黒地に「準急」「急行」と表記した板を裏側からで照らすというもの で、正面の種別幕とともにボタン1つで操作できるものであった。 1976年の増備車両からは、側面の種別表示器が巻取り字幕式に変更され 、1978年12月に入線した増備車両からは、種別と行先を併記する仕様に改められた。 塗装デザインについては、ケイプアイボリーをベース色として、300mm幅でロイヤルブルーの帯を窓下に入れるという塗装が採用された。 この塗装は、その後の通勤車両の標準色となり、青帯については車体が無塗装の製となった以降も継承されている。 内装 座席はすべてで、客用扉間に7人がけ、客用扉と連結面の間には4人がけの座席が配置される。 NHE車では収容力増大のため座席の奥行き を480mmにまで縮小していたが、5000形では座面の奥行きを40mm拡大して、座席の奥行きを520mmとした。 座席上のについては網をアルミに変更した。 室内の配色は、天井が白色系で側壁はグレー系の色を使用した張りとし 、座席のモケットは青色とした のは、NHE車と同様である。 車内の照明装置は交流16本と直流蛍光灯2本で 、直流蛍光灯は予備灯兼用である。 主要機器 5000形の運転台(1977年以降の増備車・更新後) 5000形の設計に際しては、経済性を重視したMT同数 の編成とし 、やについてはHE車との互換性を保つ ほか、それ以外の機器においても極力他の形式との共通化することで保守の合理化を図る という、現実的かつ実用的な方針が定められた。 また、乗務員室についても、送風機や熱風式の設置 、椅子の位置調整機構の変更 など、作業環境の改善が図られた。 1976年以降の増備車では、機器類が増設されたことを踏まえ、機器配置の見直しと集約化が行なわれている。 主電動機はHE車と同型であるが、やTIなど 、当時としては新技術だった耐熱絶縁材料などの導入により 1時間出力を135(340)に増強した 製MB-3039-B型を採用した。 主制御器についても、HE車と同等ながら機器の集約化などの改良を加えた 三菱電機製ABFM-188-15MD型を採用した。 HE車と同様にを用いて、63段 ・制動55段の多段制御を行なう。 29に設定した ため、は通常時には2. また、低加速時の起動加速度は1. 付随台車 FS075 (車輪径762mm) は、電動車が径910mm・軸間距離2,200mmの製FS375 、制御車は車輪径762mm・軸間距離2,100mmの住友金属工業製FS075 である。 この台車は、NHE車で実績のある台車とほぼ同様の構造である が、前述したように高速域からの制動効果を確保するため に、基礎制動装置をクラスプ式(両抱え式)としたものである。 (パンタグラフ)はデハ5000の小田原寄りにPT42K4型集電装置を搭載した。 1976年の増備車両からは、集電装置枠をステンレス製としたPT-4212S-AM型集電装置に変更された。 また、集電容量の検討結果から、デハ5200番台の車両では集電装置の搭載は省略されている。 補助電源装置は、当初はデハ5000番台の車両に9kVAのCLG-318C型 MG を2台搭載していた が、の増備車からは搭載位置が変更され、クハ5050番台の車両に140kVAのCLG-350A型電動発電機を1台、クハ5150番台の車両にはCLG-318C型を1台搭載とされた。 さらに、1978年以降は、クハ5250番台・クハ5550番台の車両ともCLG-350A型を1台ずつ搭載することになった。 CP は、両側の先頭車にC-2000M型を搭載した が、1980年以降は低騒音仕様のC-2000L型に変更された。 このように、5000形では先頭車にも各種機器が搭載されているため、制御車の重量は33. 7 - 33. 9tと比較的重い車両となっている。 冷房装置 CU-12C(カバーのみ、内部の本体はステンレス筺体の新しいものに交換されている)。 CU-12Bも外観は同様 については、当時HE車のクハ2478においてCU-12型冷房装置の実用試験が行なわれていたため 、1970年までに製造された車両については試験終了後に冷房装置を搭載することを考慮しつつ、非冷房車として設計した。 は先頭車では8個、中間電動車では7個設置した。 また、乗務員室直後の戸袋窓についても、HE車やNHE車と同様に外側をとした通風口とした。 これが小田急の通勤車両では初めての量産冷房車となった。 室内の天井は、風道が室内に張り出した船底型である。 1971年度の導入車両ではベンチレーターを一部に残している が、その後の増備車両では換気機能も冷房装置に組み込まれたため、単独のベンチレーターは設置されていない。 1976年以降の増備車では、低騒音型のCU-12C型冷房装置に変更された ほか、送風装置も扇風機からに変更された ため、室内の天井は平天井となった。 なお、新造時から冷房を搭載した車両では、乗務員室直後の戸袋窓は固定窓となった。 沿革 登場当初 1969年10月から11月にかけて1次車として4編成が入線し 、同年11月24日のから朝ラッシュ時の急行列車の大型8両編成での運転が開始された。 その後、1970年11月9日のダイヤ改正にあわせてさらに2次車として4編成が同年9月から10月にかけて入線した。 1971年4月19日ダイヤ改正の直前に入線した 3次車の4編成は、小田急の通勤車両では初の量産冷房車として登場し 、最初に入線した8編成についても1972年までに冷房改造が行なわれた が、改造車の冷房装置は改良型のCU-12B型が採用され 、ベンチレーターの設置はされなかった ため、最初に冷房車として入線した3次車の4編成のみが特殊な屋根上機器配置となった。 1972年からは9000形の製造が開始されたため 、5000形の増備は一旦中断となった。 なお、特に目立った特徴のない車両である にもかかわらず、により毎年優秀な車両を表彰する制度として制定されているの1970年(第10回)投票では次点となっている。 1976年から増備が再開され、4次車として2編成が導入された。 1977年には5次車として1編成が導入されたが、この編成では外観上の識別点として、56芯ジャンパ連結器の設置が省略されたためにスカート形状が一部変更されている ほか、前面の表記が間延びしている という特徴があった。 6両固定編成の登場 1977年7月1日のダイヤ改正からは急行列車の大型10両編成による運転が開始された。 既に大型通勤車両の6両固定編成にはNHE車と9000形が存在したが、NHE車は当時は車両特性が他形式と異なるという理由により 他形式との連結を行なわない方針であった ため、連結可能な大型6両固定編成が不足していた。 また、9000形は地下鉄直通にも使用されるために地上線で使用できる編成は少なく 、その必要両数も満たされていた ことから、地上線専用の大型6両固定編成(5200形)を増備することになった。 同年12月には5200形3次車として2編成が増備されたが、この時から側面表示器が種別のみのものから種別・行き先を併記する仕様に変更された。 この後も1982年までに毎年増備が行なわれ、最終的には5200形だけで20編成が製造された。 折りしも1982年7月12日のダイヤ改正からは、箱根登山鉄道線への大型6両編成乗り入れが可能となり 、5200形はの急行列車の主力となった。 一方の5000形も、の急行列車を主体に運用されるようになっていた。 車体修理 には特徴的であった5000形3次車の屋根上のベンチレーターが撤去され 、からにかけて全車両に戸閉保安装置の設置が行なわれた ほか、1989年からはの更新が開始された。 また、初期車の登場から20年前後が経過し、車体や床下電気機器に経年劣化が見られたことから 、1990年からは5000形の車体修理が開始された。 車体修理の内容は車体補修や化粧板や床材、座席下暖房器の交換が主であるが、特に車内イメージを一新することに重きが置かれ 、化粧板は模様入りとなったほか、座席の変更、車内端部座席への肘掛設置などが行なわれた。 また、側面の表示装置も種別・行先を併記した仕様に変更された。 この音声や映像がうまく視聴できない場合は、をご覧ください。 一方、5200形の車両についても度から度にかけて更新が実施された。 基本的には5000形と同様の内容であるが、座席のモケットはに変更されている ほか、が設置され 、扉窓の支持方式はHゴムから金属枠抑えに変更された。 また、年が変わるごとに更新の内容も進化したものとなった。 さらに、度の更新車からはの設置が行なわれた が、このドアチャイムは八幡電気産業製のYA-99105型で 、小田急では5200形だけに採用された音色となった。 同年度の更新車からはデハ5400番台の車両の集電装置を撤去した ほか、座席部分の握り棒増設が行なわれた。 度の更新車からは前照灯が2灯式に変更され 、2001年度の更新車では集電装置がシングルアーム式に変更された ほか、車内の車椅子スペースの設置位置が変更された。 これらの更新のうち、シングルアーム式の集電装置については、小田急のその他のほぼ全車両に波及することになった。 この時点で5000形は小田急の通勤車両では最も古い車両となっており、の増備に伴い、同年から淘汰が開始された。 以降はの増備が開始され、4両固定編成の5000形にも廃車が発生した。 しかし、この時期の小田急では6両固定編成が余剰気味になっている一方 、4両固定編成が不足気味になっているという状況であった。 編成の短縮にあたっては制御装置の限流値を変更の上、一部機器の移設が行なわれている。 これに伴い、時には全て下降窓の車両で揃った5200形の10両編成もみられるようになった。 その後も3000形と4000形の導入により廃車が進められ、11月時点では4両固定編成・6両固定編成を合計しても66両にまで減少した。 5200形を含む4両固定編成については引き続き運行が継続された が、その後も廃車が進められ、2011年10月時点では5000形・5200形とも各1編成ずつの合計8両にまで減少した。 引退後は5000形、5200形を含めて全車両が解体されており、現存する車両は存在しない。 40t 40. 20t 36. 60t 33. 90t 40. 55t 36. 80t 41. 25t 35. 80t 33. 90t 40. 55t 36. 80t 33. 90t 5555 5505 5405 5255 車両番号 5556 5506 5406 5256 5558 5508 5408 5258 脚注 注釈• 元小田急電鉄の社員であり、車両部長・運輸部長・運輸計画部長などを歴任したも、自著の中で「5200形」と表記している。 小田急電鉄広報課が1986年11月15日に発行した広報紙『コミュニケート小田急 No. 66』p. 4では「系列の中に5200形という新しいタイプが量産された」と記されており、広報上では「5200形」としていたことが伺える。 ただし、登場当初はの延伸が間に合わず5両編成で運用されていた。 この当時、急行列車のほとんどはで小田原線と江ノ島線の列車のが行なわれており、1973年時点で相模大野での分割併合は上下合計154回にも上っていた。 当時、小田急の各駅停車では、種別の表示は行なっていなかったため、「各停」という表示はない。 座面の奥行きと背もたれの厚さの合計。 1つの編成の中に、駆動用のモーターを装備した電動車と装備しない付随車の両数を同一にすることを、このように表現する。 内訳は直列25段、並列31段、弱め界磁7段。 発 電制動・ 空気制動を併用するという表記。 「ハイスピードコントロール High Speed Control ・ダイナミックブレーキ Dynamic Break 付」の略である。 この事象のために「HE車はヒーター車の略か」と軽口をたたかれたことさえあったという。 ただし、クハ5150番台の車両は31. 4tである。 なお、電動車の重量は制御装置搭載の車両(デハ5100番台・デハ5300番台・デハ5500番台)は40. 2 - 40. 55tだが、制御装置を搭載しない車両(デハ5000番台・デハ5400番台)では36. 6 - 36. 8t、当初からパンタグラフを搭載していないデハ5200番台の車両では35. 8tである。 当時のローレル賞は鉄道友の会会員の投票により選定されていた。 ただし、下枠交差型集電装置を使用している・・は除く。 『鉄道ダイヤ情報』通巻145号 p. 『鉄道ピクトリアル』通巻679号 p. 138• 参考文献 書籍• 、『日本の私鉄5 小田急』、1981年。 0165-508530-7700。 生方良雄、諸河久『日本の私鉄5 小田急』保育社、1985年。 小山育男、諸河久『私鉄の車両2 小田急』保育社、1985年。 東京支部『コロタン文庫46 私鉄特急全百科』、1979年。 『小田急 車両と駅の60年』、1987年。 0025-301310-4487。 雑誌記事• 生方良雄「小田急5000形の生い立ち」『 アーカイブスセレクション』第2号、、2002年12月、 96-100頁。 大幡哲海「私鉄車両めぐり145 小田急電鉄」『鉄道ピクトリアル』第546号、電気車研究会、1991年7月、 175-197頁。 大幡哲海「私鉄車両めぐり164 小田急電鉄」『鉄道ピクトリアル』第679号、電気車研究会、1999年12月、 201-243頁。 刈田草一「小田急列車運転慨史」『鉄道ピクトリアル』第405号、電気車研究会、1982年6月、 15-23頁。 岸上明彦「小田急電鉄現有車両プロフィール」『鉄道ピクトリアル』第829号、電気車研究会、2010年1月、 241-295頁。 岸上明彦「小田急電鉄 車歴表」『鉄道ピクトリアル』第829号、電気車研究会、2010年1月、 300-309頁。 草門隆「車両総説」『鉄道ピクトリアル』第679号、電気車研究会、1999年12月、 36-41頁。 結解学「3月17日ダイヤ改正レポート 小田急線を駆け抜けた4形式の思い出」『鉄道ダイヤ情報』第337号、交通新聞社、2012年5月、 28-37頁。 酒井明「車両総説」『鉄道ピクトリアル』第546号、電気車研究会、1991年7月、 22-27頁。 杉田弘志「小田急電鉄 列車運転の変遷とその興味」『鉄道ピクトリアル』第829号、電気車研究会、2010年1月、 204-219頁。 船山貢「小田急車両総説」『鉄道ピクトリアル』第405号、電気車研究会、1982年6月、 92-99頁。 高嶋修一「小田急電鉄 車両カタログ」『鉄道ピクトリアル』第679号、電気車研究会、1999年12月、 173-188頁。 中山嘉彦「小田急車両 -音と色-」『鉄道ピクトリアル』第829号、電気車研究会、2010年1月、 189-191頁。 南謙治「特急あさぎり 22年目の再出発」『鉄道ジャーナル』第548号、鉄道ジャーナル社、2012年6月、 44-51頁。 山岸庸次郎「2400形、2600形の記録」『鉄道ピクトリアル』第679号、電気車研究会、1999年12月、 131-139頁。 山岸庸次郎「小田急電車 進歩のあと」『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション』第2号、電気車研究会、2002年12月、 46-58頁。 山岸庸次郎「5000形、9000形の記録」『鉄道ピクトリアル』第829号、電気車研究会、2010年1月、 109-117頁。 山下和幸「私鉄車両めぐり122 小田急電鉄」『鉄道ピクトリアル』第405号、電気車研究会、1982年6月、 169-183頁。 山下和幸「私鉄車両めぐり101 小田急電鉄」『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション』第2号、電気車研究会、2002年12月、 59-82頁。 「小田急座談 Part2 輸送・運転編」『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション』第2号、電気車研究会、2002年12月、 6-20頁。 「小田急車両カタログ」『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション』第2号、電気車研究会、2002年12月、 36-44頁。 「Railway Topics」『』第534号、鉄道ジャーナル社、2011年4月、 p. 144。 「POST」『』第604号、、2011年8月、 162-178頁。 「小田急通勤型電車大図鑑」『鉄道のテクノロジー』第12号、三栄書房、2011年10月、 80-99頁、。 「DJ NEWS FILE」『鉄道ダイヤ情報』第335号、交通新聞社、2012年3月、 68-80頁。 「Railway Topics 『小田急の引退予定車両の動き』」『鉄道ジャーナル』第546号、鉄道ジャーナル社、2012年4月、 147頁。 外部リンク ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 - 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(N) 鉄道コレクション 小田急電鉄4000形(初代)冷房改造車 4両セット

小田急4000形電車 (初代)

1 2005年1月に全車廃車された初代4000形 2001. 1985年度から冷房化並びに高性能化と車体更新が施工されることになり、主電動機の交換、駆動装置は吊掛式からWNドライブへの変更、台車はパイオニア台車(PIII台車)からペデスタル式への変更が行われている。 また、編成の組み替えも同時に施工され、4連8本と6連10本に組み替えられている。 このため改番や車種の変更も行われている。 永らく使用されてきたが、3000形の投入により、2004年12月のダイヤ改正で全車運用を離脱。 2005年に全車廃車となっている。 0m 座席配置:ロングシート 客用ドア:1. 5 大和にて 6連口の4251F 2004. 5 38. 5 39. 0 30. 0 30. 0 38. 5 39. 0 38. 5 39. 0 30.

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