天使と悪魔道後。 論理クイズの答えについて。問題は天使と悪魔の見分け方。

道後

天使と悪魔道後

問題No. 2つの村は隣り合っていました。 あるとき2つの村の住人たちは、そこを訪れた旅人に「あなたの村はどちらですか?」 と毎回訊かれることに嫌気が差したので2つの村を1つにして 天使と 悪魔は一緒に暮らすことにしました。 村の住人は皆、人間のような姿で見分けがつきません。 天使と 悪魔は死ぬことはありません。 そして、村に何人住んでいるか、 天使と 悪魔が何人いるか、自分が 天使か 悪魔かさえ忘れてしまいました。 その上、他人が 天使か 悪魔か触れてはならない掟があったのです。 掟を破った者には 1億円天を神様に支払うというペナルティがあります。 しかし、自分が 天使か 悪魔かわかるときがきました。 百年に一度、 審判の広場にて 天使しか参加できない祭りの開催です。 誰も自分が 天使か 悪魔かを知らないので、知らないうちは、祭りに参加出来ます。 しかし、もし自分が 悪魔だとわかったら最後、翌日からの参加は出来ないのです。 初日は、村人全員が参加しました。 集まった村人は全部で、400人でした。 村人たちはそれぞれ1つずつ 聖なる十字架を持っていて、それを相手にかざすことで相手が 天使か 悪魔か知る事ができます。 聖なる十字架は何度でも使う事ができます。 みんな密かに 天使と 悪魔が何人いるか数えてみました。 でも掟のため、話題にできません。 村人たちは、自分の推理で自分が 天使か 悪魔かを判断しなければならないのです。 神様はこの祭りの様子をじっと見ていました。 じつは、この祭りの初日には 天使が、200人。 悪魔が、200人参加していました。 もちろん、村人たちは、自分以外の 天使と 悪魔の内訳しか分かっていません。 ミステリーではジャンルがずれている気はしますが・・・ また、下の方でも論議されていますが ・全員が参加しており、かつ全員がそのことを知っている ・全員が全員のチェックをしており、かつ全員がそのことを知っている ということが必要ですね。 あとはそこから発展させていけばOKです。 「悪魔が1人も来なくなった日」を答えれば良いみたいですね。

次の

道後

天使と悪魔道後

日本語の悪魔 [ ] 漢語の「悪魔」は本来、漢訳仏典に由来する語であるが、現代日本語では西洋のサタン、デビル、デーモンの訳語としても用いられている。 の『破提宇子』には「じゃぼ」(の Diabo の音訳)、「悪魔」、「天狗」、「鬼物」といった、によるキリスト教の悪魔の翻訳例が示されている。 仏教語としての悪魔はサンスクリット語の音訳「魔羅」「魔」と同義である。 「」という漢字は、死者を指し超自然的なものを含意する意符「」と、マーラの音を表す音符「麻」とを組み合わせたものである。 唐のによれば、古くは「磨」と書かれていたのを梁の武帝以来「魔」と書くようになったという(『止観輔行伝弘決』: 「古訳経論 魔字従石 自梁武帝 謂魔能悩人 字宜従鬼」)。 これはにも記されている通説であるが、梁の武帝よりも前の時代に書写されたと推定される「魔」の字を含む考古学史料が存在する。 日本のでは、災いをなす原因と想定されるモノを漠然と擬人的に「悪魔」と呼ぶようになった (も参照)。 ダイモーンのラテン語綴り daemon はキリスト教的文脈においてほぼ悪霊・悪魔の意味で用いられている。 英語での悪魔の俗称「オールド・ニック Old Nick」は北欧神話の「 Woden」に他ならないという説がある。 キリスト教の悪魔 [ ] 『』 たちは、かつては神に仕えた天使の罪について論じた。 中世のでは善良な天使と邪悪な天使との人間の交流についての的な論究が交わされた。 に入ると悪魔の存在が現実の危機として考えられるようになり、より具体的、現実的な考察が行われるようになった。 特に悪魔と人間のについては関心を寄せ、教義の一つへと発展していった。 なかでも、当時絶大な権威を持っていた神学者は、悪魔(、)は人間の姿をとって人間と交わることが可能であり、神の許しのもとに人間にあらゆる害を与える力があると主張し議論を決定づけた。 キリスト教神学では、神に対して謀反を起こした堕天使()の手先である。 神学では、人間を誘惑して堕落させ、を滅ぼそうとするものとされた。 また、角、翼・蹄・尻尾などを持つ姿で表現されるほか、黒い影でも表現された。 一方で、のため教会が利用した。 キリスト教と異教 [ ] ギリシア語の旧約および新約聖書では悪霊的存在がダイモーン(またはダイモニオン)と記されており、使徒、教父は、異教の神と悪魔を同一のものとして記述している。 は『』第10巻において、人を欺くダイモーンの危険性を指摘したの哲学者の不徹底を批判し、ダイモーンはすべて悪霊であって、異教の神々は悪霊が偽装したものであるとした。 11世紀のの知識人で宮廷の有力者でもあったはの著作を遺している Greenfield, Traditions of Belief in Late Byzantine Demonology を参照。 新プラトン主義的な発想や民俗的デーモン観を取り入れたプセルロスの鬼神論は、の中心地であったで重んじられたほか、ラテン語訳されてルネサンス期に西方教会の領域にも広まった。 悪魔の罠 [ ] 悪魔はを用いるとされる。 悪魔に立ち向かうようにと勧められてはいるが 、全世界は悪しき者の配下にあるとされているため 、悪魔の罠を見破るのは一般人には容易ではない。 イスラムの悪魔 [ ] の文化においては悪魔はアラビア語で「」という。 これはイスラム教以前からあったアラブ人の言葉であるアラビア語に由来するが、がユダヤ教やキリスト教の影響下でヘブライ語のサタンに関連付けた。 その頭目は堕天使イブリース(キリスト教のルキフェルに相当)であるが、キリスト教とは違い、それ以外の悪魔はたんなる人に悪さをする()にすぎない(を参照)。 グノーシス派の悪魔 [ ] では、の創造神がこの世の悪しき支配者とみなされ、悪魔化された。 それ以下の偽りの神や悪霊的存在とみなされたものはと呼ばれた(、、を参照)。 この語が魔羅、悪魔などと漢訳される。 仏典にみられる悪魔の名称には、(パーピーヤス)、魔羅()、パーピマンなどがある。 この他、や仏教の万神殿には、()、ヤクシャ()、ラークシャサ()といった悪神や悪鬼的存在がいる(詳細は各項目を参照)。 神話や民間信仰における悪魔 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2012年1月) 各地のや等においては、人を傷つけ、あるいは悪い感情を誘発するなど、人を不幸にするような神秘的力を持つものが語られる例は珍しくない。 それが人格を持って語られる場合、それは悪魔的なものとなる。 翻訳する際には悪魔とされることもあり得る。 のヒーシなどはこれに当たる。 それらは悪意を持って人を傷つけるだけでなく、場合によってはいたずらが予想外な事態を引き起こし、巡り巡って新たなものの誕生などにつながる。 そのようなものをという。 宗教史学による悪魔と近代の悪魔観 [ ] の文化に根ざした西洋の悪魔は、大文字の〈悪魔〉(英語の the Devil)と小文字の複数の悪魔(英語の devils)とに区別される。 後者のような悪霊ないし悪鬼的存在(英語の demons)は多くの宗教伝統の中に見出されるが、前者のような単独の〈悪魔〉の観念をもつ宗教は限られている。 悪魔の概念史の研究で知られるは、〈悪〉の人格化としての単独の〈悪魔〉の概念は、古代、キリスト教、イスラム教の4宗教に特有のものであると論じている。 ただし、の立場から的二元論を回避しようとするキリスト教では、〈悪魔〉もまた神の被造物であって、完全に神から独立した存在ではないとする捉え方が一般的である。 厳格な一神教であるイスラム教では、悪魔は神の特別な許可に拠って活動するのであって、神の計画の一部であるとされる。 〈悪魔〉は一般にや異教徒などの不信心者に関連づけられる。 その他の多くの宗教にもキリスト教の〈悪魔〉に類似したトリックスターないし誘惑者がある。 〈悪魔〉についての近代的な観念には、〈悪魔〉は人間の下等な本性や罪深さを象徴しているとする考え方もある。 信仰の危機、、、智慧、啓蒙などを象徴するとみなされることもある。 アブラハムの宗教の悪魔 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2012年1月) の宗教分類で並置されるユダヤ教、キリスト教、イスラム教(いわゆる)は、さまざまな名で呼ばれる〈悪魔〉を、人間をそそのかして罪を犯させたり悪行をはたらいたりするひとりの反逆的なないし()とみなしてきた。 アブラハムの宗教における悪魔は元来、神とその使いを除く超越的な存在全てであった。 であるは、他宗教の神々を悪魔と称して否定した。 その派生であるとも同様であった。 西方キリスト教世界における悪魔は、地中海世界で信仰されていた古代文明の神々が否定され悪魔とされたものが多く、神や神などは代表的なものである(これらの神格はの時点で「魔神」シェディムであるとされていた)。 ただし、唯一神以外の神々が全て悪魔とされたわけではなく、キリスト教に取り込まれた例もある。 その代表例は、かっては地域の神々、あるいは神の諸側面を表象する存在であったやである。 ユダヤ民族のバビロン捕囚時代以降にペルシアの宗教(とくにのアムシャ・スプンタ)に影響を受けて、ユダヤ教に天使として取り入れられた。 ミカエルやガブリエルは旧約聖書にも登場し、キリスト教ではとして継承された。 ヨーロッパ土着の神々が矮小化され伝承となったこともあるらしい。 人間に試練を与えるための神の道具であった(試みる・誘惑する者)はにおいて悪魔ではなく、人間の敵ではあっても神の僕であった。 サタンは「大敵」と呼ばれ、異教の神とは区別された。 近代オカルティズムの悪魔論 [ ] は、古代世界の際立った宗教の慈悲深い神と悪神のうち、悪神は悪魔とは呼ばれなかったと述べており、その悪神の例としての、、エジプトの宗教の、、、の、をあげている。 また、神が悪魔を許容するのは、悪魔が宇宙の推圧遮断機であって、神々の清掃人だからであり、破壊的な力が魔神ではなく神として分類されている理由は、それが宇宙の法則による反作用であり、無秩序で乱れた力ではないからだ、と説明している。 悪魔の姿形 [ ] 「」も参照 悪魔の姿を見た、というは古来から様々な形で残るものの、信頼に足る映像記録などは現在のところ存在しない。 悪魔の観念が固定しつつあったごろのに登場する悪魔は黒い服を着たグロテスクな異形であり 、今日でもやの建造物のにそういったデーモンを見ることができる。 よくある類型的な悪魔像は、ある程度「人間に似た形」をし、肌が紺色、あるいは黒や赤色で、目は赤く、とがった耳を持ち、とがった歯を有する裂けた口を持ち、頭部にはのような角を生やし、とがった爪の付いたのようなに、矢印のように鋭く尖ったを持つ、といったもの。 また、がないことも重要な特徴とされる。 絵に描かれた悪魔は、これらの特徴のほぼすべてを備えているものもあれば、一部のみを有するものもある((山羊頭の悪魔)の項目を参照)。 高等な悪魔は外見が男性的であったり、女性的であっても実際は両性具有であるという説もある。 中世には、女性に近づく悪魔は上品な身なりの伊達男や兵士、騎士の姿をしていると言われていた。 や初期ゾロアスター教の悪魔はトカゲ・ヘビ・人間の若者と姿形を変化させることができるとされたが、後期の文献では、実体を持った物質世界は神の創造した善の領域であり、悪魔は実体を持たず人間や動物の中に住むと説明している。 比喩・強調としての「悪魔」 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2012年1月) 悪魔という言葉は、残忍・非道でずる賢いの喩えとしても用いられる。 議論の方法として、あえて個々人の賛否について反対の立場から議題を眺め、批判や矛盾点を明らかにするという方法がある。 このときの役割を担う人をと呼ぶ。 「 小悪魔」という表現は、見せかけの可愛らしさと性的魅力とで男性を誘惑する女性を指すことがある。 「悪魔のささやき」は常に甘美である。 神に従うのは潔癖さや信仰への忠誠が求められるなど厳しい道であるが、悪魔に従うのは堕落であり、むしろこちらの方が魅力的な場合が多い。 音楽 [ ] の速弾きによるは往々にして悪魔に結びつけられる。 でもあるのだが、音楽においては神のそれはゆったりしたものとの定見がある。 遅いで美しい旋律が流れる音楽は「天国的」といわれる。 また、の音楽は悪魔が書かせたもの、との言葉がある。 音楽美において、的美と的美を対立させる考えがあり、モーツァルトのそれは後者の代表とされるが、はで悪魔の性質も神々が抱えており、中でも酒の神であるディオニューソスは集団的狂乱を呼び起こしたりと悪魔的な側面が強い。 哲学者のはこのディオニーソス的な狂乱を美徳とし、ディオニーソス賛美の著書を記した。 科学の世界の悪魔 [ ] が「」を導くために悪魔を仮定したことで知られる。 の『』で描かれるところのは「は持っているがは持たない」ことになっている。 そのものも悪魔とは親和性がある。 科学は積み重ねによって当たり前には人間の手の届かないところまで手を届かせてしまい、ありえそうにない現象をも扱ってしまう。 しかもそこに絶対的な善悪を論じない、あるいはその判断が科学そのものからは生まれない。 [ ] 科学の分野でも悪魔の存在を仮定する例がある。 「」や「」が有名で、いずれもに関わっている。 近年でも、やなどに関わる学者は「悪魔の科学者」といわれることがある。 創作の中でのはその例である。 出典 [ ] []• 大貫隆、名取四郎、宮本久雄、百瀬文晃 編 『』 岩波書店、2002年、pp. 16-17• 『悪魔学入門』 、2010年、pp. 20-21• - 青空文庫• 船山徹 『仏典はどう漢訳されたのか - スートラが経典になるとき』 岩波書店、2013年、185-187頁。 福田アジオ、新谷尚紀、湯川洋司、神田より子、中込睦子、渡邊欣雄 編 『精選 日本民俗辞典』 吉川弘文館、2006年、p. 9 「悪魔」(池上良正 筆)• 『リーダーズ英和辞典』、『ジーニアス英和大辞典』など。 フレッド・ゲティングズ 『悪魔の事典』• 著、今泉忠義・訳『民俗学の話』角川文庫、1955年、62p。 『天使論序説』• 54-61. [監修]岡田温司『「聖書」と「神話」の象徴図鑑』ナツメ社 p166• 田中雅志 『魔女の誕生と衰退』 三交社、2008年、pp. 34-41• 『ルシファー 中世の悪魔』 野村美紀子訳、教文館、1989年、p. J・B・ラッセル 『ルシファー 中世の悪魔』 野村美紀子訳、教文館、1989年、p. 大貫隆、名取四郎、宮本久雄、百瀬文晃 編 『岩波キリスト教辞典』 岩波書店、2002年、p. 17 「悪魔」(筆)• 『新佛教辞典』• 『悪魔』 高山宏訳、研究社出版、1995年、p18• J・B・ラッセル 『悪魔の系譜』(新装版)、大瀧啓裕訳、青土社、2002年、p16• A・リチャードソン、J・ボーデン編 『キリスト教神学事典』 古屋安雄監修、佐柳文男訳、教文館、2005年、p25• J・B・ラッセル 『ルシファー 中世の悪魔』 野村美紀子訳、教文館、1989年、pp. 51-52• 『心霊的自己防衛』 pp. 90-91• ジョン・R・ヒネルズ『ペルシア神話』井本英一、奥西峻介訳 青土社 1993年 pp. 107-119. 参考文献 [ ].

次の

天使と悪魔とは?白魔術や黒魔術の必須知識。天使の階級と悪魔との関係

天使と悪魔道後

日本語の悪魔 [ ] 漢語の「悪魔」は本来、漢訳仏典に由来する語であるが、現代日本語では西洋のサタン、デビル、デーモンの訳語としても用いられている。 の『破提宇子』には「じゃぼ」(の Diabo の音訳)、「悪魔」、「天狗」、「鬼物」といった、によるキリスト教の悪魔の翻訳例が示されている。 仏教語としての悪魔はサンスクリット語の音訳「魔羅」「魔」と同義である。 「」という漢字は、死者を指し超自然的なものを含意する意符「」と、マーラの音を表す音符「麻」とを組み合わせたものである。 唐のによれば、古くは「磨」と書かれていたのを梁の武帝以来「魔」と書くようになったという(『止観輔行伝弘決』: 「古訳経論 魔字従石 自梁武帝 謂魔能悩人 字宜従鬼」)。 これはにも記されている通説であるが、梁の武帝よりも前の時代に書写されたと推定される「魔」の字を含む考古学史料が存在する。 日本のでは、災いをなす原因と想定されるモノを漠然と擬人的に「悪魔」と呼ぶようになった (も参照)。 ダイモーンのラテン語綴り daemon はキリスト教的文脈においてほぼ悪霊・悪魔の意味で用いられている。 英語での悪魔の俗称「オールド・ニック Old Nick」は北欧神話の「 Woden」に他ならないという説がある。 キリスト教の悪魔 [ ] 『』 たちは、かつては神に仕えた天使の罪について論じた。 中世のでは善良な天使と邪悪な天使との人間の交流についての的な論究が交わされた。 に入ると悪魔の存在が現実の危機として考えられるようになり、より具体的、現実的な考察が行われるようになった。 特に悪魔と人間のについては関心を寄せ、教義の一つへと発展していった。 なかでも、当時絶大な権威を持っていた神学者は、悪魔(、)は人間の姿をとって人間と交わることが可能であり、神の許しのもとに人間にあらゆる害を与える力があると主張し議論を決定づけた。 キリスト教神学では、神に対して謀反を起こした堕天使()の手先である。 神学では、人間を誘惑して堕落させ、を滅ぼそうとするものとされた。 また、角、翼・蹄・尻尾などを持つ姿で表現されるほか、黒い影でも表現された。 一方で、のため教会が利用した。 キリスト教と異教 [ ] ギリシア語の旧約および新約聖書では悪霊的存在がダイモーン(またはダイモニオン)と記されており、使徒、教父は、異教の神と悪魔を同一のものとして記述している。 は『』第10巻において、人を欺くダイモーンの危険性を指摘したの哲学者の不徹底を批判し、ダイモーンはすべて悪霊であって、異教の神々は悪霊が偽装したものであるとした。 11世紀のの知識人で宮廷の有力者でもあったはの著作を遺している Greenfield, Traditions of Belief in Late Byzantine Demonology を参照。 新プラトン主義的な発想や民俗的デーモン観を取り入れたプセルロスの鬼神論は、の中心地であったで重んじられたほか、ラテン語訳されてルネサンス期に西方教会の領域にも広まった。 悪魔の罠 [ ] 悪魔はを用いるとされる。 悪魔に立ち向かうようにと勧められてはいるが 、全世界は悪しき者の配下にあるとされているため 、悪魔の罠を見破るのは一般人には容易ではない。 イスラムの悪魔 [ ] の文化においては悪魔はアラビア語で「」という。 これはイスラム教以前からあったアラブ人の言葉であるアラビア語に由来するが、がユダヤ教やキリスト教の影響下でヘブライ語のサタンに関連付けた。 その頭目は堕天使イブリース(キリスト教のルキフェルに相当)であるが、キリスト教とは違い、それ以外の悪魔はたんなる人に悪さをする()にすぎない(を参照)。 グノーシス派の悪魔 [ ] では、の創造神がこの世の悪しき支配者とみなされ、悪魔化された。 それ以下の偽りの神や悪霊的存在とみなされたものはと呼ばれた(、、を参照)。 この語が魔羅、悪魔などと漢訳される。 仏典にみられる悪魔の名称には、(パーピーヤス)、魔羅()、パーピマンなどがある。 この他、や仏教の万神殿には、()、ヤクシャ()、ラークシャサ()といった悪神や悪鬼的存在がいる(詳細は各項目を参照)。 神話や民間信仰における悪魔 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2012年1月) 各地のや等においては、人を傷つけ、あるいは悪い感情を誘発するなど、人を不幸にするような神秘的力を持つものが語られる例は珍しくない。 それが人格を持って語られる場合、それは悪魔的なものとなる。 翻訳する際には悪魔とされることもあり得る。 のヒーシなどはこれに当たる。 それらは悪意を持って人を傷つけるだけでなく、場合によってはいたずらが予想外な事態を引き起こし、巡り巡って新たなものの誕生などにつながる。 そのようなものをという。 宗教史学による悪魔と近代の悪魔観 [ ] の文化に根ざした西洋の悪魔は、大文字の〈悪魔〉(英語の the Devil)と小文字の複数の悪魔(英語の devils)とに区別される。 後者のような悪霊ないし悪鬼的存在(英語の demons)は多くの宗教伝統の中に見出されるが、前者のような単独の〈悪魔〉の観念をもつ宗教は限られている。 悪魔の概念史の研究で知られるは、〈悪〉の人格化としての単独の〈悪魔〉の概念は、古代、キリスト教、イスラム教の4宗教に特有のものであると論じている。 ただし、の立場から的二元論を回避しようとするキリスト教では、〈悪魔〉もまた神の被造物であって、完全に神から独立した存在ではないとする捉え方が一般的である。 厳格な一神教であるイスラム教では、悪魔は神の特別な許可に拠って活動するのであって、神の計画の一部であるとされる。 〈悪魔〉は一般にや異教徒などの不信心者に関連づけられる。 その他の多くの宗教にもキリスト教の〈悪魔〉に類似したトリックスターないし誘惑者がある。 〈悪魔〉についての近代的な観念には、〈悪魔〉は人間の下等な本性や罪深さを象徴しているとする考え方もある。 信仰の危機、、、智慧、啓蒙などを象徴するとみなされることもある。 アブラハムの宗教の悪魔 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2012年1月) の宗教分類で並置されるユダヤ教、キリスト教、イスラム教(いわゆる)は、さまざまな名で呼ばれる〈悪魔〉を、人間をそそのかして罪を犯させたり悪行をはたらいたりするひとりの反逆的なないし()とみなしてきた。 アブラハムの宗教における悪魔は元来、神とその使いを除く超越的な存在全てであった。 であるは、他宗教の神々を悪魔と称して否定した。 その派生であるとも同様であった。 西方キリスト教世界における悪魔は、地中海世界で信仰されていた古代文明の神々が否定され悪魔とされたものが多く、神や神などは代表的なものである(これらの神格はの時点で「魔神」シェディムであるとされていた)。 ただし、唯一神以外の神々が全て悪魔とされたわけではなく、キリスト教に取り込まれた例もある。 その代表例は、かっては地域の神々、あるいは神の諸側面を表象する存在であったやである。 ユダヤ民族のバビロン捕囚時代以降にペルシアの宗教(とくにのアムシャ・スプンタ)に影響を受けて、ユダヤ教に天使として取り入れられた。 ミカエルやガブリエルは旧約聖書にも登場し、キリスト教ではとして継承された。 ヨーロッパ土着の神々が矮小化され伝承となったこともあるらしい。 人間に試練を与えるための神の道具であった(試みる・誘惑する者)はにおいて悪魔ではなく、人間の敵ではあっても神の僕であった。 サタンは「大敵」と呼ばれ、異教の神とは区別された。 近代オカルティズムの悪魔論 [ ] は、古代世界の際立った宗教の慈悲深い神と悪神のうち、悪神は悪魔とは呼ばれなかったと述べており、その悪神の例としての、、エジプトの宗教の、、、の、をあげている。 また、神が悪魔を許容するのは、悪魔が宇宙の推圧遮断機であって、神々の清掃人だからであり、破壊的な力が魔神ではなく神として分類されている理由は、それが宇宙の法則による反作用であり、無秩序で乱れた力ではないからだ、と説明している。 悪魔の姿形 [ ] 「」も参照 悪魔の姿を見た、というは古来から様々な形で残るものの、信頼に足る映像記録などは現在のところ存在しない。 悪魔の観念が固定しつつあったごろのに登場する悪魔は黒い服を着たグロテスクな異形であり 、今日でもやの建造物のにそういったデーモンを見ることができる。 よくある類型的な悪魔像は、ある程度「人間に似た形」をし、肌が紺色、あるいは黒や赤色で、目は赤く、とがった耳を持ち、とがった歯を有する裂けた口を持ち、頭部にはのような角を生やし、とがった爪の付いたのようなに、矢印のように鋭く尖ったを持つ、といったもの。 また、がないことも重要な特徴とされる。 絵に描かれた悪魔は、これらの特徴のほぼすべてを備えているものもあれば、一部のみを有するものもある((山羊頭の悪魔)の項目を参照)。 高等な悪魔は外見が男性的であったり、女性的であっても実際は両性具有であるという説もある。 中世には、女性に近づく悪魔は上品な身なりの伊達男や兵士、騎士の姿をしていると言われていた。 や初期ゾロアスター教の悪魔はトカゲ・ヘビ・人間の若者と姿形を変化させることができるとされたが、後期の文献では、実体を持った物質世界は神の創造した善の領域であり、悪魔は実体を持たず人間や動物の中に住むと説明している。 比喩・強調としての「悪魔」 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2012年1月) 悪魔という言葉は、残忍・非道でずる賢いの喩えとしても用いられる。 議論の方法として、あえて個々人の賛否について反対の立場から議題を眺め、批判や矛盾点を明らかにするという方法がある。 このときの役割を担う人をと呼ぶ。 「 小悪魔」という表現は、見せかけの可愛らしさと性的魅力とで男性を誘惑する女性を指すことがある。 「悪魔のささやき」は常に甘美である。 神に従うのは潔癖さや信仰への忠誠が求められるなど厳しい道であるが、悪魔に従うのは堕落であり、むしろこちらの方が魅力的な場合が多い。 音楽 [ ] の速弾きによるは往々にして悪魔に結びつけられる。 でもあるのだが、音楽においては神のそれはゆったりしたものとの定見がある。 遅いで美しい旋律が流れる音楽は「天国的」といわれる。 また、の音楽は悪魔が書かせたもの、との言葉がある。 音楽美において、的美と的美を対立させる考えがあり、モーツァルトのそれは後者の代表とされるが、はで悪魔の性質も神々が抱えており、中でも酒の神であるディオニューソスは集団的狂乱を呼び起こしたりと悪魔的な側面が強い。 哲学者のはこのディオニーソス的な狂乱を美徳とし、ディオニーソス賛美の著書を記した。 科学の世界の悪魔 [ ] が「」を導くために悪魔を仮定したことで知られる。 の『』で描かれるところのは「は持っているがは持たない」ことになっている。 そのものも悪魔とは親和性がある。 科学は積み重ねによって当たり前には人間の手の届かないところまで手を届かせてしまい、ありえそうにない現象をも扱ってしまう。 しかもそこに絶対的な善悪を論じない、あるいはその判断が科学そのものからは生まれない。 [ ] 科学の分野でも悪魔の存在を仮定する例がある。 「」や「」が有名で、いずれもに関わっている。 近年でも、やなどに関わる学者は「悪魔の科学者」といわれることがある。 創作の中でのはその例である。 出典 [ ] []• 大貫隆、名取四郎、宮本久雄、百瀬文晃 編 『』 岩波書店、2002年、pp. 16-17• 『悪魔学入門』 、2010年、pp. 20-21• - 青空文庫• 船山徹 『仏典はどう漢訳されたのか - スートラが経典になるとき』 岩波書店、2013年、185-187頁。 福田アジオ、新谷尚紀、湯川洋司、神田より子、中込睦子、渡邊欣雄 編 『精選 日本民俗辞典』 吉川弘文館、2006年、p. 9 「悪魔」(池上良正 筆)• 『リーダーズ英和辞典』、『ジーニアス英和大辞典』など。 フレッド・ゲティングズ 『悪魔の事典』• 著、今泉忠義・訳『民俗学の話』角川文庫、1955年、62p。 『天使論序説』• 54-61. [監修]岡田温司『「聖書」と「神話」の象徴図鑑』ナツメ社 p166• 田中雅志 『魔女の誕生と衰退』 三交社、2008年、pp. 34-41• 『ルシファー 中世の悪魔』 野村美紀子訳、教文館、1989年、p. J・B・ラッセル 『ルシファー 中世の悪魔』 野村美紀子訳、教文館、1989年、p. 大貫隆、名取四郎、宮本久雄、百瀬文晃 編 『岩波キリスト教辞典』 岩波書店、2002年、p. 17 「悪魔」(筆)• 『新佛教辞典』• 『悪魔』 高山宏訳、研究社出版、1995年、p18• J・B・ラッセル 『悪魔の系譜』(新装版)、大瀧啓裕訳、青土社、2002年、p16• A・リチャードソン、J・ボーデン編 『キリスト教神学事典』 古屋安雄監修、佐柳文男訳、教文館、2005年、p25• J・B・ラッセル 『ルシファー 中世の悪魔』 野村美紀子訳、教文館、1989年、pp. 51-52• 『心霊的自己防衛』 pp. 90-91• ジョン・R・ヒネルズ『ペルシア神話』井本英一、奥西峻介訳 青土社 1993年 pp. 107-119. 参考文献 [ ].

次の