楔形 文字 変換。 楔形文字|メソポタミア文明で使われた人類最初の文字

「白川フォント」

楔形 文字 変換

楔形文字 楔形文字は、絵文字 のような「記号」が話し言葉の事物の名前と結び付いて誕生したことが知られます。 このシュメール人の文字は、アッカド帝国(BC2300-BC2150)の時代にアッカド人が使用することで音節文字や文法が明瞭になりました。 シュメール人の最後の王朝であるウル第3王朝(BC2100-BC2004)が滅ぶとシュメール語もアッカド語も認識されなくなりますが、アッカド帝国の時代の文書の形式は紀元前1世紀ごろまで大変長い間使用されることになります。 このアッカド文字のシステムは、シュメール語でもアッカド語でもない音声言語の人々によって使用されました。 楔形文字は粘土板(タブレット)におうとつによって記録され、大変長い間保存されました。 粘土板は意図的に焼成され、あるいは火災によって焼かれ今日まで残ることになりました。 「」 「」 楔形文字の始まり 楔形文字が楔形文字の形状になるのは BC2600 ころのようです。 AD75頃の天文に関する記録が最後のようです。 粘土に印を付けたものはBC8000頃からの小片が多数見つかると言うことです。 家畜の計数に使用されたと考えられています。 また、陶片を使った計算は楔形文字の時代になっても長く使用されたとも言われるようです。 クレイ・トークンと呼ばれる陶片はスサで見つかったものの写真が公開されています。 この写真ではウルク古拙文字と同じデザインと見ることができるものがあります。 スサはエラムの主要都市で、原エラム文字はウルク古拙文字と同源の文字だと考えられています。 類似の陶片は広範囲に分布し、長い期間使用されました。 スサの出土品の年代はBC3000頃とされています。 こうした陶片は、アナトリア半島の地中海沿岸(BELDIBI)からパキスタン、エジプトでも見つかるものだと言うことです。 陶片の形状と、それに刻んだ記号を合わせて、文字の形になったと見られています。 しかし、粘土板や陶片の年代や生産地が直接知られることはほとんどありません。 荷物の封印(シール)が焼かれて陶片として出土することも知られています。 クレイ・トークンが計数に使われたものなら、数字を表す陶片は、物を表す陶片より数が多いだろうと推測されます。 また、古拙文字で数字に使われている指の先の形状の窪みはスタイラス(筆記具)の後端を使って付けられたようですが、その形が先立つ陶片の形だと言うのは説明を要します。 ウルク古拙文字 BC3200頃のイラク中部のウルク遺跡から、完全な粘土板800枚と多数の破片が見つかり、ウルク文字と呼ばれています。 楔形文字ではなく、絵文字(ピクトグラム)と表現されています。 商取引に関するものが多く、数字、人名、地名など記録しているとされています。 現在まで古拙文字の文書は6,000点ほど見つかり、1割以上が語彙リストだと言うことです。 こうしたリストは、これは、都市名、職業、金属、容器、献納品を列挙したものが地域、時代を隔ててたくさん同一内容で見つかるようです。 マスに1語彙ずつ、「ひとつ、ウル」、・・・のように記されるためほとんどが数字を伴っています。 書記の訓練用だたったと言うことです。 後に、アッカド語の読みを付したものが作られ解読に役立ったようです。 約1000種類の記号があるようです。 筆記方法の制約から、ウルク古拙文字は、記号を増やすことを諦めて、表音文字化する方向に発達することになるのだと推測します。 古拙文字の数の表現は、その後の楔形文字とは少し違っているようです。 同じ時代にエラムでも古拙文字が見つかると言うことです。 類似性がある別のもの、あるいは同源と説明されています。 アッカド文字 BC2600ころに筆記方法が定まって楔形の形状の文字になりました。 アッカド帝国の時代にはアッカド人が主要な文字の担い手になりました。 その後、シュメール人の最後の王朝とされるウル第3王朝が百年ほどバビロニアを統治しました。 アッカド帝国とウル第3王朝の時代(BC2300-BC2000)に使用された文字が Unicode の楔形文字のようです。 Unicode は主に数字として使用された記号を除くと 879 の字形を収録しています。 字形には名前を付与していますが、表す音節が名前となっているものが多くあります。 アッカド文字では 879 中の 246 が音節文字として使用されました。 ウル第3王朝の時代には、既に字形の変化が見られます。 BC1800頃のマリ文書では大きく字形が変化しています。 おそらく、アッカド帝国の統制が効かなくなった後は、アムル人など後のカナン諸語を話す人々の使用していた字形が普及したものと思います。 この字形は「新アッシリア」と呼ばれています。 「新アッシリア」と言う時代は千年も後の時代です。 多くの文書は「新アッシリア」の書体に近い字形で書かれています。 しかし、権威を感じさせる古い書体はずっと使用されました。 ハンムラビ法典のような碑文や、建物のレンガの刻印などは Unicode に収録されている書体で書かれました。 BC2000以降は、シュメール語やアッカド語を話す人々は認識されなくなり、文字の使用者はアムル人など後のカナン諸語を話す人々に移ります。 寿命の長い文字が成立するには、3つの使用者が必要なようです。 楔形文字を作り出した人々は、話し言葉と文章の関係が明瞭ではありません。 同じ音声言語でも物には複数の名前があり、文字列がどのように読まれるかが一義に定まっていたかどうかも分かりません。 アッカド人のように異なる音声言語の人々が文字を流用すると、文字の音や文法が明らかになります。 その時代に作成された文書を読み書きする必要性があれば、続く世代は音声言語に係らず、その文字システムを使い続けることになります。 アッカド文字と漢文 アッカド文字のシステムがどのようなものか想像できないので、漢文の例を考えて見ます。 漢字の起源は定かではありませんが、周代以降重要な漢籍が残されました。 漢籍を残した人々は漢字を作った人々ではなく、アッカド人のように異なった音声言語を話す人々だったのだと思います。 秦王朝が中国を統一すると、長く強力な王朝によって漢字は統制が効いた状態になりました。 中国の王朝は、その音声言語とは関係なく、古い漢籍と同様の文章を書き続けました。 四書五経と言うように、近代まで漢籍を学ぶことは知識を得る重要な方法でした。 こうした漢籍の表現は簡潔とも言われますが、文字として時制や人称、掛かり受けの明示されない文章で、背景が分からないと理解できないような文章です。 秦代の王朝の人々にとっても、四書五経は文章語であって、話し言葉とは大きく離れたものだったのだと思います。 日本への漢字の伝来は、漢籍の伝来で、中国語の伝来ではありませんでした。 日本は中国の文章語を導入しました。 太安万侶は古事記の序に「於姓日下謂玖沙訶於名帶字謂多羅斯」と書きました。 これは、「姓に於きて日下は玖沙訶と言い、名に於きて帯を多羅斯と言う」と書いたもので、読みもそう「訓読」されました。 太安万侶は漢文を書いたのであり、中国語を理解したかどうかは分かりません。 漢文は日本語で、漢文を読み書きした日本人は、まず、中国語を理解しなかったと思います。 しかし、漢文は、漢籍と同様の文字列を作り出します。 事情は同じ時代の中国も周辺国も同様で、漢文と同様に、漢字列をそれぞれの訓で読み、漢籍と同じ文字列を書きました。 ここに上げた「於姓日下謂玖沙訶於名帶字謂多羅斯」の例は、人名の「くさかたらし」から日本語だと判断できる可能性があります。 楔形文書も、漢文と同様、どのように読まれるかは、読む人の音声言語で決まります。 しかし、内容に立ち入ると音声言語の影響を見出すことが出来るのだと思います。 アッカド文字以外の楔形文字 アッカド文字は広い地域で長い間使用されました。 これは漢文のように文書としては共通だったことによります。 その規範はアッカド帝国やウル第3王朝の時代にあります。 しかし、日本人が仮名文字を使うように特定の音声言語でだけのための文字システムが使用されても不思議はありません。 漢字を学ぶことは語彙を増やし知識を得ることです。 仮名文字は語彙を持ちません。 音節を表すもので語彙は話し言葉によります。 仮名文字は話し言葉を書き留めるもので機能が異なっています。 仮名文字のように楔形文字を使用した例はエラム楔形文字が知られます。 アッカド文字を元に BC1500 ころから使用された音節です。 ダレイオス1世(Dareios I、BC522-BC486)のベヒストゥン碑文には、アッカド文字、ペルシア楔形文字と共にエラム楔形文字も刻まれました。 アケメネス朝ペルシアの作った音素文字のペルシア楔形文字と、エラム楔形文字によってアッカド文字の音を確認できます。 エラム人はウルク古拙文字の時代から文字を使用していました。 エラム人はたびたびバビロニアに王朝を築きました。 アケメネス朝ペルシアの時代になってもエラム人は認識されます。 これは、シュメール人やアッカド人、アムル人が認識される長さと比べて大変長く同じ基準で取らえれられていないように思います。 2千年の間にはエラム人も、エラム語も大きく変わったはずです。 楔形文字の転写 楔形文字のうちアッカド帝国とウル第3王朝の時代(BC2300-BC2000)の字形は Unicode に収録されています。 したがって楔形文字の文書も電子テキストとして扱える可能性は十分ありますが、実際にはラテン転写したものか翻訳が公開されています。 図の転写は Bassetki statue(RIME 2. 10, ex. 01 )の一部を Unicode の字形で表したものです。 クサハ(Cuthah、Kutha、Tell Ibrahim)のネルガル(Nergal)と読まれています。 アッカド帝国の王ナラム・シンに神殿の建設を請願した1人です。 七十人訳聖書(列王記下17. ラテン転写には2つの意図があります。 翻字と音写です。 翻字は元の字形が再現できることで、音写はどのように発声されたかを示そうとするものです。 楔形文字のラテン転写は翻字が主目的で、字形の名前が音節に由来しています。 同じ音節を表しながら、字形が異なる場合は ne3、iri11 のように数字を付加して字形を区別しています。 「わたしは」の翻字は「wa-ta-shi-ha」で、音写は「wa-ta-shi-wa」となり、ラテン転写は必ずしも音を表しません。 古代の発音の実際は誰も知りません。 また、手書きされた文字が厳密に同じものであることもなく、何種類の字形を使っていたのかさえ確かなことは分かりません。 それでも、ベヒストゥン碑文などによって裏付けられる字形と音の関係が千数百年前にも当て嵌まることは確かそうです。 Unicode の 1202D は AN と名前が付いています。 上図のANは {d} と転写されています。 これは、AN が神を示す限定符で、読まれない文字と見られるためのようです。 楔形文字のラテン転写は、翻字だけでなく意味的な解釈も含んでいます。 語の認識も行われています。 「neirigal in gudua」 と言う読み方が得られますが、これは翻字の結果、自動的に生じたもので、翻字した人が読み方を示そうとしたわけではありません。 下図は、アマルナ文書 EA 35 の最初の行を Unicode で表して、字形は「新アッシリア」で表したものです。 これはアッカド語の音を前提とした転写です。 アッカド語の王は sharru 、国は matu のようです。 「ミザリの王へ。 兄弟は語る。 」のように解釈され、王は主格ではないので活用され shar-ri と表されたと解釈されたものと思います。 しかし、これには疑問があります。 アッカド文字のシステムは漢文のようなもので音声言語を直接表していません。 アッカド帝国の時代から千年が経ちアッカド語を母語とする人々が記したと見られる訳でもありません。 ローマの時代にはギリシア語文献がラテン語に翻訳されることになりますが人名などはローマナイズによって表記されました。 現在ではローマナイズはISO規格にもあります。 翻字は電信や計算機処理するには都合の良い方でした。 ローマ時代のローマナイズは単純な翻字ではないようです。 これはラテン語の文法の影響で、ラテン語として読めば、アレクサンドルやプラトンだと思います。 google翻訳で「ライオン」をラテン語に翻訳すると Leo になりますが、「ライオンを」は Leonem となり、ライオンを表す語幹は Leon のようです。 英語文献は英文の中にラテン語を埋め込んでいるのだと思います。 ラテン語では Michael でした。 Michael と言う人名は、マイケルと読まれます。 アッカド文字と音声言語 LUGALと言う文字を sharru と転写することの妥当性を、日本の漢字の導入に引き当てて考えて見ます。 古事記には、「益我王而甚貴」、「德跨周王」と記された箇所があり、「わがきみにましていととうとし」、「しゅうおうのとくをこえたまいき」と訓読されます。 「王」は常に「きみ」と読まれた訳ではないようです。 外来の表語文字を導入すると、話し言葉と文字の意味が完全には対応しないので、相互に一対多の関係になります。 1つの文字には多くの読みを生じます。 古事記では「刀」が、「御刀(みはかし)」、「麻刀(まど)」、「刀(かたな)」、「布刀玉(ふとだま)」、「大刀(たち)」などと読み下されます。 文字の名前として LUGAL に代えて sharru を使用することは有り得ても、LUGAL の読みを一律に sharru とすることは無理がありそうです。 「德跨周王」と言う漢字列を、日本の訓で読むか、中国、韓国、ベトナムの訓で読むかには明確な判断基準はありません。 必要に応じてと言う以外にはありません。 また、この文章の「跨(こ)えたまいき」は、偶然に日本語の訓と音が一致した例だと思います。 辞書の上では「跨」の訓に「こ」の読みは含まれていません。 アマルナ文書の時代(BC1350)の音声言語による差異を見られればと思います。 EA 1 はエジプト発バビロニア第3王朝(カッシート朝)宛て、EA 31はエジプト発のアルザワの王宛の書簡です。 EA 1 は、カルドニア(KUR ka-ra-an-ud-ni-ia-ash)の王カダシマン(ka-da-ash-ma-an en-lil)に送られました。 カッシート朝はカッシート語ではなく、カルドニア(バビロニア)の言葉を使用したと考えられています。 EA 31 はアルザワ(KUR ar-za-wa)の王タルフンダラドゥ(tar-hu-un-da-ra-ud)に宛てた書簡ですが、EA 32 の返信と見られています。 EA 32 ではヒッタイト語(ネサの言葉)で書簡が送られることを記しており、EA 31もヒッタイト語と見られています。 EA 1 と EA 31 の宛名 EA1 a-na 1 ka-da-ash-ma-an en-lil LUGAL KUR ka-ra-an-ud-ni-ia-ash ahi-ia ki-bi-ma un-ma 1 ni-ib-mu-a-ri-a LUGAL GAL LUGAL KUR mi-iz-ri-i-ki EA31 ahu-ka-ma un-ma 1 nu-mu-wa-ri-ia LUGAL GAL LUGAL KUR mi-iz-za-ri a-na 1 tar-hu-un-da-ra-ud LUGAL KUR ar-za-wa ki-bi-ma この書簡の書き出しの送信者、発信者の部分は逆順になっていますが、ほぼ同様です。 この2つの書簡には、同じ内容と見られる常套句があります。 「此方万事好し、其方万事好し」のようなことのようです。 E2-hi-aの-hiaはヒッタイト語の複数形。 KUR KUR は、国国(国々)で、これも複数形を作っています。 日本への漢字の伝来は、文字の伝来と言うよりも、漢籍としての知識の導入でした。 明治時代に入っても漢籍を読むことは重要なことであり続けました。 漢籍を訓読することで生じた漢文は、話し言葉とは異なった文章語ですが、話し言葉に大きな影響を与えました。 漢文は文章を書くと漢籍と同じになることが意図されています。 出来上がった漢文は日本語かどうかわからないものです。 訓読すれば、それは文章語(漢文)の日本語です。 漢文を読み書きした人々のほとんどは全く中国語を理解しなかったと思います。 アッカド文字の文書も、アッカド帝国時代の文書に範を求めることで、共通語ととして機能したものと思います。 LUGAL、DAN(妻)、tur(DUMU、子)、E2(家)のように1文字の表語文字は、それぞれの音声言語の訓で読まれたと考えられます。 ana、kibima、unma は、音節文字と見て読まれた可能性と、それぞれの訓で読まれた可能性が考えられます。 音節文字と見れば、音声言語によらず類似の音で読まれたことになります。 熟語と見ると、音で読んだとも、訓で読んだとも考えられます。 「朝刊(チョウカン)」は音で、「朝日(あさひ)」は訓で読みます。 音で読む場合は、音声言語によらず類似の音で読まれただろうと思います。 限定符は読まれないものとして翻字では小さい文字で書かれたりしますが単純ではないようです。 カルドニア王の名は、DISH KA TA IGI MA AN EN KID と表されています。 EN-KID は、神の限定符AN(DINGIR)がなくても音節文字としてエンリルと読めます。 アッカド帝国の時代のアッカド語ではありません。 一般的には古い時代の楔形文書をシュメール語、シュメール語が死語になる BC2000以降をアッカド語と言っているようです。 シュメール語に分類されない楔形文字の文書はアッカド語とされ、文章語として知られる楔形文書の言語をアッカド語と言うようです。 また、アッカド語は共通語だったとされています。 馬の導入はBC2300以降とされています。 sisi(ANSHE-KUR-RA)と言う馬を指す記述はBC2500以降に現れるもののようです。 メソポタミアで馬が知られなかったとされるのは、馬がほとんど絶滅状態だったとされていることによるようです。 馬の家畜化はウクライナ地方で確認されます。 積雪下で放牧可能な家畜として飼われるようになったと見られています。 BC4000頃のデレイフカ遺跡からはハミと見られるものが出土し乗馬の可能性もあるようです。 馬の家畜化が始まった時点で、馬は既に絶滅に近い状態だったと考えられています。 野生の馬は乗馬に向かないほど小型で、飼われた馬は主に食用でした。 騎馬民族が登場するには馬が大型化する必要がありました。 ANSHE はロバを表し、KURは山や地域を示します。 ANSHE-KUR-RA は、山のロバや、山の向こうのロバ、外国のロバのようです。 この時にはチャリオットは2輪となり方向転換も可能なものになっていたようです。 スポーク式の車輪の発明によって強度の高い大きな車輪が使われるようになりました。 スポーク式の車輪はウラル地方でBC2000ころに発明されたと見られています。 車輪の使用はコーカサス地方の洞窟の車輪痕が最も古い記録で BC3700 ころと見られています。 GISH-gigir(GISH LAGABxBAD)と言う、2文字の語はシュメール人によってBC2500より前から使用されていました。 「ウルスタンダード」と呼ばれるモザイク画には4輪の戦車が描かれています。 年代はBC2300頃とされています。 しかし、バラバラのモザイクを復元したものらしく、復元の妥当性や年代についても確実性は分かりません。 メソポタミアへの馬の導入時期から、戦車を引いているのは馬ではなくアジアノロバとされるようです。 馬車が走行できる場所は平坦な場所に限られ、4輪戦車は方向転換が困難だったと考えられます。 ANは神の限定符(Determinative)ですが、AN-IM は最高神や雷神を示し地域によって読み方が異なっていたと見られているようです。 シュメール人の使用した文字で AN(DINGIR)が神の限定符であることは確かそうです。 KI は限定符かどうかは分かりませんが長い間、地名に付加されました。 しかし、それ以外の限定符は必ずしもシュメール語のルールではないようです。 シュメール語では UD が神の名を表し、AN が神の限定符だと解釈されています。 ほとんどの文書がアッカド語と見なされ AN-UD はシャマシュのように読まれるのだと思います。 この場合、AN-UD は、2文字で神シャマシュを表していて、ANは限定符ではありません。 AN-IM はシュメール人はイシュクル、アムル人はアダドと読んだとされています。 この場合は、シュメール語でもアッカド語でも IM は神名の音を表していません。 しかし、前述の EA 1 のカダシマン・エンリルの名前のように、AN-EN-KID の AN は ka-da-shi-ma-an の最後の音節を表す文字になっています。 時代が下ってベヒストゥン碑文(Behistun Inscription)のアッカド文字のアフラマツダは、アッカド文字で AN-U-RI-MI-IZ-DA と表されました。 ペルシア楔形文字の部分は a-u-ra-ma-z-da と記されました。 ペルシア楔形文字は音素文字です。 アッカド文字の AN は A と読まれたようです。 AN について確かそうなのは神名の始まりに書かれることです。 神名は、1)AN-IM のようにANを含めた文字列で示す場合と、2)ANに続く文字列が音節文字として神名を示す場合があります。 神名が音節文字で表される場合、AN は読まれることがあるようです。 この場合も、AN は音節文字だと言うだけでなく神名の印も兼ねているのだと思います。 読みも AN とは限らないようです。 カルドニア王の名 KA TA IGI MA AN EN KID の AN は、kadashma-AN enlil と読まれていますが、この AN が神エンリルを想起させる役目も果たしているのは確かそうです。 シュメール人には何の不都合もなかったものと思いますが、アッカド人やアムル人が楔形文字を使用すると、AN は音節文字として使用されます。 同じ音節を表す複数の文字があるのが普通ですが、an は AN の記号だけです。 AN は限定符ではなく、音節文字と見た方が良いのかも知れません。 神名はANを含めて熟語と考えることになります。 フルリ人はミタンニを MI-IT-TA-AN-NI と表しました。 IT-TA は「タ」ですが、AN-NI は「ンニ」と読まれています。 AN は音節文字としても特別な文字のようです。 AN は常に「アン」なのか、ミタンニはミタニだったのか、ケースごとに異なるのかは分かりません。 シュメール語では地名が記されると KI が必ず付加されているようです。 KI は地名の後に付くことが多いようです。 都市名の限定符 URU が付くのはシュメール語の習慣ではないようです。 アマルナ文書には URU gub-la のような表記の他に、URU gub-la KI や URU KI gub-li のような例があります。 URUは、シティー・ビブロス のように読まれたとも、限定符で読まれなかったとも考えられそうです。 前述の EA 1の 「ni-ib-mu-a-ri-a(ニブムアリア) LUGAL GAL(大王) LUGAL KUR mi-iz-ri-i KI(エジプトの王)」のように、KUR はミザリ「の」王のように機能のある文字で読みにも反映されたものだと思います。 KUR も KI を伴うことがあります。 同じ文字を、限定符で使い分けて、字形の数を抑えるのが、限定符の目的のように思えます。 しかし、実際には容器を表す GISH-DUG や NA4-KU-KU-BU の限定符を交換した表記は使用されていないようです。 漢字の場合も、木辺の文字の辺を石にしても、素材の異なる同様の物を指すことにはなりません。 これは漢字の大半が形声で造りの部分が音のみを表しているからです。 椀、碗のような例はほとんどないようです。 材質や用途を示す楔形文字の限定符も同様で、音が同じになるので、話し言葉としては許容できないのだと思います。 アッカド文字の字形 アッカド帝国(BC2300-BC2150)とウル第3王朝(BC2100-BC2004)の時代の字形が Unicode に収録されています。 BC2000を過ぎると、シュメール人やアッカド人は認識されなくなって行きますが、アッカド帝国の時代の文字システムは、2千年以上に渡って使用されることになります。 文字を作った人々ではない、アッカド人が使用したことで文字の性質が明瞭になりました。 アッカド人の文字を規範に、シュメール人でもアッカド人でもない人々によって楔形文字は長期間使用されました。 アッカド文字の字形は2つに大別されています。 1つは Unicode が収録している「Sumero-Akkadian Cuneiform」です。 ウル第3王朝以前の字形を収録しています。 もう1つは「Neo-Assyrian Cuneiform」で、ウル第3王朝の滅亡した後の字形です。 「新アッシリア」と言う時代は千年も後の時代を指しますが楔形文字の字形はウル第3王朝の時代には既に「Neo-Assyrian Cuneiform」の字形に近いものが見られます。 楔形文字の字形は徐々に変化したものではないようです。 同じ文字の字形の差は、時代の近いものが似ているわけではなく、古い時代に生じた異字が、ほとんど変化なく受け継がれているようです。 おそらく、早い時点から筆記効率を高めるために文字は簡略化されていたものと思います。 アッカド人の王朝は字形を守ったと思いますが、それ以外では簡略化されていくのは当然なことです。 ただし、「Sumero-Akkadian Cuneiform」の字形がが使用されなくなって行った訳ではありません。 ハンムラビ法典のような碑文や、神殿などのブロックの刻印などは後々まで古い字形で記されました。 マリ文書のアムル人の間の書簡は「新アッシリア」の字形に近いものでした。 マリ王国を滅亡させたバビロン第1王朝のハンムラビのハンムラビ法典は Unicode の字形で刻まれました。 バビロニアの王は「シュメールとアッカドの王」を名乗り、シュメールの王権の継承者でした。 図は、アッカド語で、以下のように読まれたようです。 Unicode で TAG と名前の付いている文字は、シュメール語では tag で、アッカド語では、shum、tag、tak だったとされています。 shum-ma は、アッカド語では「もし」。 i-in は、「目」のようです。 (アッカド語の「目」は、inu で、IGIの文字を書く例があります。 ) 「ARAD TIMES KUR」 は、arad2 で奴隷を意味する表語文字です。 arad2 は、シュメール人とアッカド人は、それぞれの奴隷に当る音で読んだのだと思います。 実際には、シュメール語は arad で、アッカド語は ardu と翻字され、同源のようです。 おそらく、シュメール語の読みは、TAG MA I IN ARAD A PI IGI のようなもので、シュメール語としては意味を成さないものだと思います。 王を表す LUGAL の字形は以下のように、いろいろに書かれています。 「Sumero-Akkadian Cuneiform」の字形は、かなり複雑で、書簡のように記録密度の高い文書は字形の簡略化が必要なのは理解できます。 書簡で良く使用された be-li-ia (my lord)は以下のように書かれています。 be-li-ia をUnicode の文字で表すと以下のようになります。 be-li-ia は、アムル人が楔形文字の主要な使用者になってから多く使用されるようになったようですが ARM 01,037 は似ています。 他の3例の2文字目は明らかに違う文字です。 この文字は、左右に2分できる形をしていて、EA149 と EA151では左右が入れ替わっています。 この文字は、121F7 の LI と言う文字と見られているようです。 しかし、形が最も良く似ているのは、12363 の ZI のように見えます。 EA149は、そのまま、KAJ086 と EA151 は左右を入れ替えると、ほほ同じに見えます。 LI と ZI、NI は同じ口の形で発声される比較的近い音なのだと思います。 LI は接近音、ZIは歯擦音、NI は鼻音です。 EA149 には、下図の文字も登場します。 ZI と LI は書き分けられているようです。 しかし、TE と読まれている文字は2種類あり、同じ文字が2つの書体で書かれることがあるようです。 be-li-ia の2文字目に当る文字について、KAJ086 の左半分は SHE、EA149 の右半分、EA151の左半分は 2つ目のTEの形をしています。 be-li-ia の2文字目に当る文字が Unicode の LI(121F7)だとします。 Unicode の LI(121F7) は、SHE(122BA)+SHA(122AD)の形状をしています。 しかし、実際のSHE(122BA)は、EA149、EA151 では、TE(122FC)の形状に書かれていることになります。 Unicode のSHA の形状は左図のように簡略化されたと考えることになります。 と転写されています。 IA は、明らかに I と A を並べたものです。 アマルナ文書の時代には、I は、以下のように書かれました。 実際には、新アッシリアの字形ではなく、この形状がマリ文書の時代から長く使われたようです。 I を90度回転した形状、あるいは数字を表す FIVE DISH は IA と読まれたようです。 (EA1) しかし、ほとんど見かけないようです。 音節文字の DA も、「新アッシリア」の字形に近いものの、いろいろに書かれています。 BAD(be)は、三本の線が交わっているようにも、3角形を2つ合せたようにも描かれます。 楔形文字は粘土板の窪みなので、平面にインクで同じように書くことはできません。 ハンドコピーは文字を読んだ上で書かれるもののようでラテン転写を見るのと同じことですが、ラテン転写は完全な翻字になっていないことが多いようです。 BAD と同じように見える文字は Unicode に5つあります。 それらの文字は、新アッシリアの字形では区別されなくなったようです。 アマルナ文書の EA369、EA370 はエジプト発の書簡です。 ファラオからカナンの王に宛てた書簡が、なぜアマルナで見つかるのかは分かりません。 控えを取るルールならもっと多くの書簡の控えがあっても良さそうです。 アマルナ文書の文字は、Unicode が収録しているものより、ずっと新アッシリアの字形に近いのですが、それでも読み取りができない文字が多くあります。 緑が良く分からない字形です。 赤がUnicodeの文字、黒は「新アッシリア」の字形です。 EA369 と EA370 の書簡の慣用句 EA369 mil-ki-li gaz-ri a-na 共通 a-na 1 LU URU um-ma LUGAL-ma a-nu-um-ma tub-pa a-na-am ul-te-bi-la-ak-ku qa-be-e a-na ka-a-sa EA370 i-di-ia as-qa-lu-na-ki qi-bi-ma 楔形文字では綴りを同じにすると言う配慮は働いていないようです。 音節文字として同じように読まれれば良いようです。 文書の形式 楔形文字の文書の特徴は罫線が引かれていることです。 古いタブレットは小型で、枠の中に数文字が記されていて、記録密度の低いものです。 ほとんどは横書きで、左から右に書かれました。 最初に縦の罫線を引いてカラムを定めます。 横の罫線は、1マス分を書いて下に引きます。 1マスには複数行書かれることがあるので、水平の罫線はカラムで独立しています。 1マスに書かれるのは意味のある単位なのだと思います。 アマルナ文書の書簡の多くは縦の罫線はなく、横の罫線だけが引かれていて、1行は十数文字以上あるようです。 中には罫線の全くないものもあるようです。 アッシリアでは王の業績を記したシリンダーと呼ばれる粘土製の八角柱の文書が残されました。 八面のそれぞれを1つのカラムとして長文の文書が作られました。 また、新バビロニアやアケメネス朝ペルシアの時代にはキュロス・シリンダーのような紡錘型の文書が残されました。 紡錘の軸方向に文字が書かれています。 ハンムラビ法典の碑文の写真は、枠取りが縦長になっていて、縦書きされているようです。 しかし、「アッカド文字の字形」に挙げた図を90度回転した状態のようです。 普通に横書きしたものを90度回転して立てられているようです。 日本語の縦書きは文字自体は回転しないので、文字も回転している碑文は縦書きと言うのかどうか分かりません。 これは碑文に限らずシールの刻印も同じようです。 図の向きから見ると文字は縦に並んでいますが、文字も回転していて 90度回せば普通の横書きになります。 楔形文字は、罫線や空白で、分かち書きされているようです。 この点を除けば、ほぼ文字だけで情報を伝えました。 ヒエログリフは、読み取り方向を示すマーク、カルトゥーシュ、表音を示す記法、文字の大小などがあり、完全にはラテン文字に転写できません。 強調したい場所を大きな文字で書いたり、マークを付けるのは自然なことに思えますが、楔形文字の文書ではほとんど見られないようです。 粘土板と葦のスタイラスと言った筆記環境には制約があります。 読み上げて知らせるもので視覚効果は有効でなかったのかも知れません。 楔形文字の使用者 粘土板(タブレット)に楔形文字の記録は良く残りました。 特に焼成されたものは他の媒体と比べて突出しています。 しかし、粘土板自体は年代を測定できず、産地の特定も困難です。 しかし、大枠としては BC2600 ころに音節文字を含む楔形文書が使用されるようになったのは確かそうです。 その文書によって知られる音声言語をシュメール語と呼ぶのだと思います。 シュメール語を話す人々がシュメール人です。 BC3200頃から使用されたウルク古拙文字を残した人々の音声言語は知られません。 しかし、楔形文字は、同じ地域で、絵文字からウルク古拙文字を経て発達してきたと見られています。 この原シュメール語を話した原シュメール人はシュメール人と継続性のある人々だと考えられています。 原シュメール語六百年の発達過程が知られていることになります。 アッカド帝国の時代(BC2300-BC2100)の文字システムのアッカド文字は長い間使用され、最後の記録は75年の天文学の記録だと言うことです。 シュメール語を話す人がシュメール人と言うのは、楔形文字が解読されるようになる19世紀以降の認識です。 シュメール語や楔形文字は長い歴史を通じて知られていました。 オリエントの研究はアッシュールバニパル(BC668-BC627)のニネヴェ図書館の発見を機にアッシリア学として始まったらしく、楔形文字をアッシリア文字やアッシリア語と記していることもあります。 シャムシ・アダド1世(BC1813-BC1781)の率いるアムル人が王朝を築いて以来、アッシリは一貫して楔形文字の使用者でしたが、アッシリは常に強力な勢力だったわけではありません。 アッカド帝国、ウル第3王朝 BC2300 から BC2100 の二百年は、アッカド帝国の時代でした。 その後、百年間のウル第3王朝時代を経て、シュメール人やアッカド人は認識されなくなって行きました。 BC2000ごろシュメール語は死語になったとも言われます。 ウル第3王朝のシュメール人と、BC2600 ころのシュメール人の関係は明瞭ではありません。 しかし、シュメール語の認識がウル第3王朝の時代の文書に依存しているのは確かそうです。 アッカド人が何時から楔形文字を使用していたのかは分かりませんが、アッカド帝国の時代に確立されたスタイルの文書が二千年に渡って使用されることになりました。 続くウル第3王朝の文書も、このアッカド文字のシステムの影響を強く受けているはずです。 漢字の例では、秦朝以降強力な王朝によって文書は統制が効いた状態になりますが、その規範は周代や春秋・戦国時代の「漢籍」に求められました。 学問は漢籍を読み、漢籍と同じスタイルの文章を書くことでした。 日本に伝来したのは「漢籍」であって中国語ではありません。 中国でも日本でも大変長い間漢籍を読むことが学問の中心でした。 日本人は「漢籍」を「訓読」し、「漢文」によって「漢籍」と区別のない文章を作り出します。 音声としては全く通じませんが、文書は共通でした。 「漢籍」は秦代の人々の話し言葉ともかけ離れていましたが、この文章語は話し言葉の差異を越えて通じる共通語として大変長い間機能しました。 イシン・ラルサ時代、バビロン第1王朝 アッカド帝国の文字システムも「漢籍」のように機能し、アッカド文字は二千年に渡って使われることになります。 年代の確かなのはマリ文書でBC1800からBC1750ころの五十年間の資料です。 マリは古い都市ですが廃墟となっていて BC1800 ころアムル人によってマリ王国が築かれたことが知られています。 このマリ王国はバビロン第1王朝のハンムラビによって BC1750 ころ滅亡し、マリは再び廃墟になったと見られます。 BC2004にウル第3王朝が滅亡してから BC1750 ころハンムラビが帝国を築くまでの 250年間は、イシン・ラルサ時代と呼ばれています。 エラムによってウル第3王朝が滅ぶと、イシン第1王朝がバビロニアの最大勢力となりますが、やがてイシン第1王朝から分かれたラルサとの間で戦乱が続くことになります。 この戦乱はラルサの勝利に終わりますが、バビロニアを統一したのはバビロン第1王朝のハンムラビでした。 マリ文書によって知られるのは、イシン・ラルサ時代のメソポタミアの最大勢力はアレッポ周辺のヤムハド王国で、マリ王国、バビロン第1王朝とは良好な関係にあったことです。 ウル第3王朝の時代には既にメソポタミアの全域でアムル人が実権を持つようになっていたようです。 ウル第3王朝の時代のタブレットとされるものにも「新アッシリア」の字形が見られますが、「新アッシリア」の字形と言うのはアムル人の字形なのかもしれません。 イシン第1王朝、バビロン第1王朝、ヤムハド王国、マリ王国、ラルサ、エシュヌンナもアムル人の王朝でした。 アッシリアに王朝を築いたシャムシ・アダド1世(BC1813-BC1781)もアムル人でした。 イシン・ラルサ時代はアムル人の部族間の抗争のようで、ヤムハド王国、マリ王国の支援を受けたバビロン第1王朝によって帝国が築かれることになりました。 BC2000 頃から BC1595 までの四百年間の楔形文字の主要な使用者はアムル人でした。 BC1595 は、ヒッタイトのムルシリ1世がバビロンを急襲しバビロン第1王朝が滅亡した年です。 カッシート朝、ヒッタイト、ミタンニ バビロン第1王朝を滅ぼしたヒッタイトはバビロニアを統治することなく引き上げました。 バビロニアはバビロン第3王朝(カッシート朝)によって統一されます。 カッシート人の王朝は四百年に渡って続きます。 バビロニアでカッシート人が楔形文字の使用者だったころ、アナトリアではヒッタイトが楔形文字の使用者になりました。 ヒッタイトの言葉は印欧語族に分類されています。 ヤムハド王国の構成員だったフルリ人は、アレッポ周辺を拠点にミタンニ王国築き、楔形文字を使用しました。 フルリ人の言葉は、ほぼ孤立語と見られています。 アマルナ文書は、アマルナに都が置かれた50年間の間の文書です。 アメンホテプ3世からツタンカーメンの治世の BC1386 から BC1323 頃に相当します。 エジプトと周辺国はアッカド文字で書簡を交換していました。 エジプト発の書簡もアッカド文字で書かれました。 書簡は勢力下のカナン諸国やキプロスだけでなく、ヒッタイト、ミタンニ、カッシート朝の書簡も含まれています。 ミタンニは、BC1330 ころ、ヒッタイトによって分割され、その後は都市国家として存続しました。 ミタンニの支配下にあったアッシリは独立を回復します。 ヒッタイトは、BC1190 に、カッシート朝は BC1154 に滅びます。 エジプトは「海の民」の事変を記録し、文書の少ない期間に入ります。 これ以降の記録はアッシリアが残したものが中心になります。 暗黒時代 BC1200 から BC1100 の間の出来事は、ほとんど記録がないようです。 これに先立つアマルナ文書の時代にはエジプトの臣下のアムル王国はカナンにあり、カナンの軍事の指揮権を持っていたようです。 このアムル王国はイシン・ラルサ時代のアムル人とは直接結びつかないものと思います。 アムル王国は最終的にヒッタイトに付き、後には「海の民」の拠点ともなったようです。 ヒッタイトを滅ぼしたのは「海の民」としてエジプトが挙げた人々ではなく、カスカ人やブリゲス人でした。 アッシリはこれらの人々をムシュキと記録しました。 アッシリアのティグラト・ピレセル1世(Tiglath Pileser、BC1115-BC1077)は強力な王でムシュキを追ったことを記録しています。 アッシリアは、後の記録でフリギア王国(リディア王国)をムシュキと呼んでいます。 ティグラト・ピレセル1世の後、アッシリはアラム人の侵入を受け記録が残らないほど衰退します。 BC1050 ころには新しい勢力分布が出来たようで、フェニキア文字の使用が始まります。 カナンにはエジプトが海の民として記録したチェケル人やペリシテ人が都市国家を築いていました。 キリキアやアレッポ周辺にあった新ヒッタイト都市国家群は、アッシリアによってアラム人の都市国家と認識されました。 BC1021 には、エジプトから移入した人々によってイスラエル王国が作られます。 チェケル人の都市国家ドルは、これに先立って破壊されたことが知られています。 この年代以降の話しは聖書の物語として伝わっています。 ホメロスの「イーリアス」、「オデュッセイア」の物語のトロイア戦争は BC1200 のことだと考えられているようです。 この時代には、まだギリシア人もギリシア語も定かではありません。 ホメロスはアカイア人やダナオイと呼びました。 アナトリアなどでミケーネ文明に関連した遺物が見つかることからミケーネ人とも呼ばれるようです。 ミケーネ文明も BC1150 ころ突然終わりを迎えたとされています。 トロイア戦争に出撃したペロポネソス半島やクレタ島のアカイア人は勝利したものの容易に帰還することが出来ませんでした。 キプロスに漂着した人々は、そこに王国を築きました。 トロイアの王子アイネイアースは脱出してカルタゴの女王ディードーの支援を受けてローマ人の祖となりました。 シチリア島のエリュミア人はトロイアの末裔を自認し、シチリア島に達したローマはエリュミア人の租税を免除しました。 ホメロスはアナトリアのリディアを「メイオン人の地」と呼びました。 ドーリア人がペロポネソス半島に達したのは BC1100 ころと見られ、この時代にアナトリアにいた後のギリシア人はアカイア人やイオニア人だったのだろうと思います。 新アッシリア アッシリアはアダド・ニラリ2世(BC911-BC891)の時代になると「新アッシリア」と呼ばれ帝国を形成し、エジプトも支配するようになって行きます。 新アッシリの王宮では壁面に2人1組で戦利品を記録する書記の姿が描かれ、アッカド文字の書記とアラム語の書記とされています。 新アッシリアの時代にはアラム語が広く普及していたとされています。 アラム語はフェニキア文字(古ヘブライ文字)で記録されました。 カナンへの進出を開始した新アッシリはカルカルの戦い(BC853)でアラム・ダマスカスやイスラエル王国と戦います。 この時のカナンの最大勢力はアラム人でした。 しかし、アラム人を記録しているのは新アッシリアだけのようです。 ギリシア語では単にシリア人と記され、聖書の日本語でもスリアびとと訳されたようです。 新アッシリアによってアラム人の都市国家が解体されるとアラム人は認識されなくなったものと思います。 後に編纂されるヘブライ語聖書はアラム人となりました。 イスラエル王国の人々もアレッポ周辺などに連行され同化したものと見られます。 (失われた10支族) ヒッタイトを滅ぼしたブリゲス人はアナトリアの西にフリギア王国を築きました。 リディア王国は新ヒッタイト都市王国群の1つでした。 フリギア王国は前7世紀にリディアに吸収されたとされ、両者の区別は明確ではないようです。 アッシリアは前12世紀にヒッタイトを滅ぼしアッシリアに侵入したブリゲス人やカスカ人をムシュキと呼び、フリギア王国をムシュキと呼びました。 フリギア王国はキンメリア人の侵入によって衰退します。 アッシュールバニパルはリディアを支援し、キンメリアを撃退しました。 しかし、リディアはエジプトのプサメティコス(pi-sha-mi-il-ki)と結んで反抗します。 アッシュールバニパルは、キンメリアと結んでリディアへ侵攻し、ググ王を殺し、ググ王の子を王に付けて帰順させました。 おそらく、pi-sha-mi-il-ki は、ピシャ・ミルキで、カナン諸語の語根 mlk は王を表します。 エジプトはエサルハドン(Esarhaddon、BC681-BC669)によって征服されサイス朝に委ねられました。 しかし、サイス朝は弱体で第25王朝の残存勢力に脅かされていました。 プサメティコスはアッシリアに亡命し、アッシュールバニパルの遠征によってエジプト第26王朝の最初の王となりました。 エサルハドンの業績を記した The Esarhaddon Prism には、キプロスが Ia-at-na-na の10王によって治められていたことが記されています。 Ia はキプロスを指し、dana-na と読まれ、ホメロスのダナオイ、アカイア人だとされています。 アナトリア半島の西岸部には、アカイア人やイオニア人に加えて、ドーリア人も到達していたとされる時代です。 アッシリアは何も記録していないようですが、アケメネス朝ペルシアが出会うイオニア同盟の諸都市は BC800 ころに起源があるようです。 新アッシリアはエジプトの南限の守りにユダ王国の人々を徴用したと考えられています。 ナイル川の島エレファンティン(アスワン)のイスラエル人コミュニティは長く続きエレファンティン・パピルスが残されました。 ウル第3王朝の時代からメソポタミアの広い範囲は、アムル語のような、後にカナン諸語と呼ばれる音声言語に近い言葉を話すようになっていたようです。 アッシリアがアラム人の都市と見なしたところは、ヒッタイトやフルリ人の都市と考えられていた場所です。 しかし、アラム語もカナン諸語と大きく異なった言語ではなかったようです。 新アッシリアの三百年間のアッカド文字の使用者は主にアッシリアでした。 この時代にはフェニキア文字、ギリシア文字も使用されていました。 この時代には、まだアラム文字が使用されておらず、フェニキア文字の文書の多くはアラム語を表していることになるのだと思います。 新バビロニア 新アッシリアは、新バビロニアによって滅ぼされます。 新アッシリアの時代のバビロニアの王は、アッシリアの王が兼ねるようになっていました。 新アッシリアの敵対勢力はメディア王国(BC715-BC550)で、新アッシリアはスキタイと結んで、これを押さえていました。 BC614にメディア王国はスキタイ勢力を撃退します。 新バビロニアはメディア王国と結んで BC612 にニネヴェを陥落させます。 脱出したアッシュール・ウバリト2世はハランで即位し、エジプトの第26王朝のネコ2世と同盟して戦いますが BC609 に滅亡しました。 新バビロニアはカナンを支配しますが、エジプトには達しませんでした。 エジプトは独立を回復しました。 アナトリアではリディア王国が独立を回復しました。 新バビロニア、メディア王国、リディア王国、エジプト第26王朝の時代が百年続くことになります。 新バビロニアはバビロン捕囚を行いユダ王国は滅亡します。 ユダ王国の人々はバビロン捕囚の間にユダヤ教を確立し、アラム語を使用するようになったとされています。 しかし、新バビロニアの時代の文書はほとんど知られないようです。 バビロニアの王朝もアッカド文字やアラム語(フェニキア文字)の文書を残したと考えられますが、ほとんど伝わっていないようです。 ユダ王国の人々も聖書に繋がる文書を残したと考えられますが伝わっていないようです。 アケメネス朝ペルシア ペルシアのキュロス王は無血でバビロンに入り 新バビロニア(BC625-BC539)は滅亡します。 ベヒストゥン碑文は、ダレイオス1世(Dareios I、BC522-BC486)の王統の正統性と業績を示す内容で、在位中に作られたと見られています。 この碑文は、アッカド文字、エラム楔形文字、ペルシア楔形文字でほぼ同じ文章が記されています。 エラム文字は音節文字、ペルシア楔形文字は音素文字で、アッカド文字の音節文字の解釈を裏付けています。 エレファンティン・パピルスには、ベヒストゥン碑文の文章のアラム文字によるアラム語バージョンが含まれています。 アラム人やアラム語の指すものは明瞭ではありませんが、この文書がアラム語なら後のヘブライ語に繋がる言葉のようです。 この文書の文字は、後のヘブライ文字に繋がるのは確かそうです。 年代の確実なアラム文字の文書は、アケメネス朝ペルシアの時代の物のようです。 エレファンティン・パピルスに含まれるアラム文字の書簡には日付を記したものが含まれます。 アケメネス朝ペルシアの時代までは、メソポタミアの共通の文章語としてアッカド文字が機能していたのだと思います。 しかし、王朝の記録としては使用されなくなって行ったようです。 音と訓 アッカド人がシュメール文字を使用するようになると、「音」読みと「訓」読みが生じたと思います。 文字の読みは、文字の示す物の名前を称えることから生じ、文字を作った人々にとっては、必ずしも文字が音を定めているわけではありません。 「大きい」と「人」を書いて、「大人(おとな)」でも「大人(たいじん)」、「きょじん(巨人)」、「こうかん(高官)」、「くんし(君子)」でも有り得ます。 アッカド文字の王を表す LUGAL は、GAL と LU2 と言う2文字のことのようです。 文字を作った人々が LUGAL を1つの文字と思っていたのかどうかも定かではありませんが、「王」であることが定まる前から使用されていて、複数の意味を持っていたことは推測できます。 読みも意味に応じた話し言葉の語彙が発声されるので多様で、GAL、LU2 の順に読んだり、会意文字として新たな音が与えられていたかも知れません。 アッカド語を話す人々が楔形文字を使用すると、文字を特定するための文字の名前が必要になります。 GAL、LU2 に当るシュメール語の代表的な読み方は、アッカド語の「大きい」、「人」を示しませんが、アッカド人は、それを文字の名前や「音」読みとして知っていたものと思います。 Unicode は、字形に名前を付けています。 LUGALや、GAL、LU2 は Unicode で与えられた名前です。 この名前はシュメール語の音に由来することは確かそうです。 しかし、それを読みと見なすことは Unicode の趣旨に合いません。 306F の「は」は HIRAGANA LETTER HA と言う名前が与えられています。 「は」は「わ」とも読まれます。 こうしたことを承知の上で、Unicode の文字の名前を、シュメール語の読みと見なして考えようと思います。 正確な読みを知る方法はなく、長い年月一定であったはずもありません。 LUGALは、「王」を意味し、シュメール語では、そlのように発音されたものと思います。 アッカド語の王は sharru のような発音だったと考えられているようです。 LUGAL をアッカド人が sharru と読めば、それは「訓」読みです。 日本で漢字を導入した時には、王を「きみ」と読み、これを「訓読み」と呼んでいます。 古事記の「益我王而甚貴」は、おそらく「あがきみ」と読まれました。 「徳跨周王」は、「しゅうのきみ」とも、「しゅうおう」とも読めます。 外来で、熟語と思えば、元の音にそって「しゅうおう」のように読まれたと想像します。 王を「おう」と読むのを「音読み」と読んでいます。 音訓は漢字ごとに定まっているように思えますが、「周王」のように語の単位で適用されるものです。 熟語を訓読みすると、その個々の文字の読みが1つにならないので、多くの熟語は音読みされます。 おそらく、アッカド人も、シュメール人の文字を、音と訓の両方で使いました。 LUGALは、アッカド人によって lugal とも sharru とも読まれたものと思います。 BC2000頃にはアッカド人もシュメール人も認識されなくなって行ったようですが、その後に楔形文字を使ったカナン諸語の人々も、LUGAL を sharru と読んだことになっているようです。 しかし、カナン諸語の「王」は、マルクのような言葉だったようです。 後のフェニキア文字の文書から王に関する語根 mlk が知られ、ヘブライ語やアラビア語に残っています。 日本への漢字伝来を考えると、部分的な綴りを、音読みするか、訓読みするかには、あまり重要性はありません。 すらすらと訓で漢籍を読めば知性が高さを示せたでしょう。 音でお経を読めば有り難かったかも知れません。 むしろ、日本で見つかった文書なら「王」を「きみ」、大陸で見つかったら「オウ」と読むと言ったルールは混乱の元で、根拠がないのは確かです。 LUGAL は、文字の名前で、翻字に使用されるのは妥当性があります。 sharru と翻字するなら、そう読み書きされたと見る理由が必要そうです。 Unicode は主に数字として使用された記号を除くと 879 の字形を収録しています。 しかし、LUGAL のように表語文字として使われた文字は多くないようです。 筆記環境の制約から漢字のように字形を増やすことができないので熟語として語を定めるようになったのだろうと思います。 ANSHE-KUR-ra は馬を表します。 ANSHEはロバを表し、バビロニアの馬車を引いていたのはアジアノロバのようです。 馬は早くてもBC2300頃以降に導入されたとされています。 ANSHE-KUR-ra は、sisi と翻字され、話し言葉では sisi だったと見られているようです。 ANSHE-KUR-ra は、山を越えてきたロバのような会意のようです。 日本語の語彙の大半は漢字の導入に伴って得られたものです。 「大半」などは、中国の文書を音読みして日本語の語彙になりました。 「見る」ことを表す、見、観、監、看、診、視、閲、覧、省、相、瞻、瞰、題、眄、胥は、すべて話し言葉の「みる」が当てられましたが、日本人は漢字を使い分けています。 アッカド語とシュメール語で同じように読まれる語はあまりないようです。 両者には語彙数の点で大きな差はなかったようです。 金属を表す AN-TA-SUR-RA は、シュメール語とアッカド語で同じ音の言葉のようですが、両者にとって外来の同源の言葉なのだと思います。 接尾辞 「流星」は「りゅうせい」とも「ながれぼし」とも読まれます。 「流れ星」と書けば「ながれぼし」に決まります。 「幸」は「さち」、「しあわせ」、「さいわい」、「ねがう」などの読みが可能ですが、「幸せ」、「幸い」などと書き分けられます。 また、「屋根」や「晦日」は、本来、最初の1文字で意味を尽くしています。 2文字になったのは、おそらく、「屋」を「やね」、「晦」を「みそか」と読ませるためです。 日本人の「屋」には、「覆い」や「頂」の意味が含まれておらず、「晦」には30(みそ)の意味がありません。 ヒエログリフでは、表音表記の場合、最後の子音が、1子音文字で補われました。 ヒエログリフには1子音文字があり、都市タニスは d-a-n-t と表されたようです。 女神ワセトは、その笏(しゃく、リボンが付いたワス笏)で表されました。 アマルナ文書には、LUGAL-ri や LUGAL-ru のような記述が見られます。 ウル第3王朝の時代から LUGAL-ri と記す例があります。 これは、アッカド語の接尾辞のようです。 主格の王は shar-ru で、属格は shar-ri のように活用されているようです。 アッカド文字の文書にも、ana や in など、英語の前置詞に翻訳される語がありますが、接尾辞が助詞の役割をしました。 shar-ru 、shar-ri は接尾辞ではなく母音交替なのかもしれません。 こうした記述は、音声言語を推測する手掛かりを与えていますが、LUGAL-ri と記した人が、shar-ri と記したのかどうかは定かではありません。 「学而時習之」の「而」は、漢文では読まれない文字です。 日本人が漢文を書いて「而」を使っても中国語とは無関係です。 アマルナ文書では、-ru は、-ri の半分以下の出現頻度です。 単に LUGAL と記すことと LUGAL-ru は同じことなのだと思います。 -ma、-ra、-i、-ti もごくまれにあります。 LUGAL、LUGAL-ru は、sharru で、主語になる場合のようです。 しかし、書簡の始めの「どこどこの王は語る」の定型部分は LUGAL で、LUGAL-ru とは記されないようです。 LUGAL-ri は、「王の」、「王にとって」、「王に対して」と言った場合のようです。 -ti は、アッカド語の王を sharratu と言う場合に生じたのだろうと推測できます。 EA126 は、LUGAL が10回使われています。 うち1つが LUGALU-ri になっています。 主格でない LUGAL は3つあり、「王の領土」、「王の黄金」と言う場合は、LUGAL のままで、「黄金を王に与える」場合には、LUGAL-ri となっています。 これは、アマルナ文書、前14世紀の文書を見ての話しです。 前11世紀以降、フェニキア文字が使用されると、王は mlk と表されました。 カナンの人々の音声言語が変わったことは十分に有り得ますが、LUGAL が mlk と読まれていた可能性もあるのだと思います。 そうなら、LUGAL、RUGAL-ri、LUGAL-ru は話し言葉を反映したものではなく、そのように学習されたと言うことになります。 EA369の受取人は、mil-ki-lu で、人名のようですが、mlk がアマルナ文書の時代にも「王」を表したことの傍証にはなると思います。 LUGAL-ma は、EA369、EA370 にあります。 エジプトのファラオからカナンの王に宛てた書簡です。 エジプトの書記が記した書簡には特徴があるようです。 EA369 と EA370 の書簡の慣用句 EA369 mil-ki-li gaz-ri a-na 共通 a-na 1 LU URU um-ma LUGAL-ma a-nu-um-ma tub-pa a-na-am ul-te-bi-la-ak-ku qa-be-e a-na ka-a-sa EA370 i-di-ia as-qa-lu-na-ki qi-bi-ma 《人名》へ。 《都市名》の人。 あなたの王はかく語る。 あなたに送られたタブレットのごとく。 一般に王の書簡は使者によって運ばれた。 文中で「タブレットのように」と言うのはメッセンジャーを伴わないのかもしれない。 アッカド文字の書簡 アマルナ文書の EA 1 と EA 31 は、共にエジプトのファラオ発の書簡です。 アマルナ文書にエジプト発の書簡がある理由は分かりませんが同じような条件で作成されたと見なして考えて見ます。 EA1 は、バビロン第3王朝(カッシート朝)の王カダシマンに宛てたものです。 EA31は、アルザワ(アナトリア)の王に宛てた書簡です。 アマルナに都があったのは BC1350 頃の50年ほどで書簡の年代を示します。 この時代のバビロニアは後のカナン諸語に近い言葉を話していたものと思います。 カッシート語は対応表の出土があり、バビロニアの言葉とは異なっていたと見られているようですが、ほとんど知られない言語のようです。 EA31 は、EA32 の返信と見られています。 ファラオがアルザワへ使者を送ったことから、EA32がアマルナに送られることになりました。 このアルザワからの最初の書簡には、書記から書記へのメッセージが付けられています。 書記の神ナブーへの賛辞で始まる文章でヒッタイト語で書簡が作られることを伝えています。 アッカド文字では MESH は、前の語を複数形にします。 ヒッタイトは、-ahia と言う接尾辞によって複数形を表したようです。 ただし。 DAN-MESHは、ヒッタイトも使用し、ヒッタイトにとっては「妻たち」と言う成句なのだと思います。 同じ文字で同じ内容が示された例で、それぞれが、どのように読んだのかは分かりませんが、バビロニアとヒッタイトでは異なった読みで読まれたと思います。 メソポタミアの楔形文字の ana は、英語の to と訳されます。 EA1 は、ana ・・・ ka が繰り返されています。 ka は、2人称を示し、「あなたの・・・へ」と解釈されます。 EA31 には、前置詞はなく ・・・ti の繰り返しになっています。 1人称の「わたしの・・・」は、それぞれ ia と mi です。 これは、カルドニアとヒッタイトの音声言語の影響によるものだと考えられます。 一方、宛名書きの部分では、ana、kibima、unma が共通に使用されています。 これは、アッカド文字の文書も漢文のように文章語であることを示す物と思います。 音声言語によって書簡は「訓読」されますが、文書の上では区別がないことになるのだと思います。 王名は音節表示されたと考えられる。 書簡の書き出し 書簡の書き出しは、マリ文書(BC1800ころ)もアマルナ文書(BC1350頃)も大きな変化はないようです。 ウル第3王朝の滅亡以降、アムル人の王朝で使用されるようになったアッカド文字のシステムは、前12世紀ごろまでの八百年間、いろいろな勢力によって広く使用されました。 それ以降は、新アッシリアが主要なアッカド文字の使用者になって行きます。 それ以前の書簡の書き出しを見てみます。 シュメール語、アッカド語と書きますが、2種類あると言う以上の意味はありません。 この時代の書簡は、宛先と送り手の名前が明記されることは多くはないようです。 書簡は使者によって口上と共に伝えられるもののようです。 アッカド帝国の時代のシュメール語の書簡には、「語る」に相当する語が3つ記されています。 シュメール文字の E 、KA や NA-BE は「語る」ことを表していました。 先頭は受信者の名前や My lord で始まりました。 同じ時代にアッカド人は、送信者、受信者の順に書きました。 宛先にを示す「A-NA」が記され、「語る」は qi-bi-ma でした。 シュメール人最後の王朝とされるウル第3王朝では、送信者、受信者の順に書かれるようになったようです。 受信者の後にある ka-ra は、「・・・へ語る」なのだと思います。 マリ文書の時代(BC1750ころ)になると、シュメール人もアッカド人も認識されなくなっていて、ことごとくアムル人が王朝を築くようになりました。 この時期の書簡の形式は、大変長い間使用されることになります。 アッカド帝国の時代とは、送信者、受信者の順が逆に書かれるのが普通のようです。 ana(To)受信者と呼びかけることから始まります。 qi-bi-ma は、書簡の書き出し以外には見られないもののようです。 be-li-ia は、エジプト臣下のカナンの諸王から書簡の本文で何度も使用されます。 アニッタ文書 ヒッタイトはインド・ヨーロッパ語族なので、話し言葉の影響を知る手掛かりになるかも知れません。 アニッタ文書は、ヒッタイトの王の言葉が書かれた文書で、ハットゥシャで見つかり前18世紀の出来事を記録しています。 見つかった粘土板自体は古王国が成立するBC1595より後に作られた文書の写しだと考えられています。 アニッタ王は古王国が成立するより百年前の王で、継続した記録があるわけではないようです。 書き出しの部分を Unicode の文字で表すと下のようになります。 楔形文字の直下の文字列は、Unicodeの説明にある表記です。 図の最下行はラテン転写で、大文字は表語文字と受け取られている部分です。 DUMU:息子、LUGAL:王、QABU:語る、と言う意味です。 シュメール語の ka は口に関した語を作ります。 アニッタ 「息子」 ピトハナ 「王」 クシャラ 「語る」 DUMU、 LUGAL、QABU がどのように発声されたのかは分かりません。 「クシャラの王」のクシャラが国なら、LUGAL KUR ku-us-sha-ra のように KUR が書かれるのが普通ですが記されていません。 結局、この文章は、アッカド人が書いても、ヒッタイト人が書いても区別は付かないもののようです。 読み上げる場合は、アッカド人はアッカド語の発音をし、ヒッタイト人はヒッタイト語の発音をしたものと考えられます。 それぞれの「訓読」をしたのだろうと思います。 この文書には AN-IM-NU-NI と記された箇所があります。 また、AN-IM-NU-NI と言う新たな文字を作ったとも考えられます。 漢字は細かく書き分けられたので字形を増やすことが出来ましたが、楔形文字は字形を増やすことが困難です。 文字の組み合わせで新たな語を表すことは必然です。 漢字の形声文字のようなものとも見られます。 鮎は「なまず」を意味し、現在の日本では「あゆ」を表します。 これは、日本人が鯰(なまず)と鮎(あゆ)を同一視していることにはなりません。 しかし、鯰と鮎は同じ川魚で、いずれも食用になるなど大きくかけ離れたものではありません。 イシュクル、アダド、ハダト、タルフンニは同一視されたと説明されます。 同一視は、本来異なることを前提とした言葉です。 「お日様」と「太陽」は同じものを指していて、同一視とは言わず、別名と呼びます。 したがってイシュクルとタルフンニは本来異なる神だと言うことです。 しかし、知りたいのは AN-IM-NU-NI と記した人々はイシュクルを知っていたのか、知っていたなら別名と思っていたのかどうかです。 もちろん、タルフンニを AN-IM-NU-NI と書くことに決めた人々はイシュクルを知っていたことは確かです。 しかし日本人が弥勒菩薩を知りながらボーディ・サットヴァを知らないように AN-IM-NU-NI はタルフンニを表しただけのことなのかも知れません。 これが、ヒッタイト語なのかどうかは分かりません。 ラテン文字転写したものがヨーロッパの何かの単語に聞こえるなら解読で取り残されたはずはありません。 四方の王 楔形の字形になるのは BC2600 以降のようです。 この文字をシュメール人だけが使用した時期があるのかどうかは分かりません。 速い時点から、シュメール人もアッカド人も楔形文字を使用していたものと思います。 BC2300 ころアッカド帝国の時代になると主要な文字の担い手はアッカド人になったものと思います。 ウル第3王朝が誕生する BC2100 ころからBC2000ころまでは、再びシュメール人が主要な担い手となります。 その後は、シュメール人もアッカド人も認識されなくなって行き、アムル人の王朝が主要な文字の担い手になりました。 楔形文字を使い始めた人々と、ウル第3王朝のシュメール人との間には五百年の隔たりがあります。 アッカド帝国からウル第3王朝の時代の文書には2種類の文体があり、それがシュメール人とアッカド人に比定されるのだと思います。 この判定は地理的な分布の偏りによる判断だと思います。 「新シュメール語」は BC2300-BC2000 を指し、アッカド帝国からウル第3王朝の時代のシュメール人の連続性があると見られているようです。 この時代の文書が2種類に大別されるとしても、シュメール語とアッカド語を母語とした人々だけが文書を残したわけではないと思います。 アッカド帝国の王ナラム・シンは、kibiratim arbaim と号し、4つの世界の王でした。 千数百年後のアケメネス朝の時代にも、キビラティ エラベティ のように伝わっていました。 google翻訳では「4」のアラビア語は「エラバワ」と聞こえます。 シュメール語からは、4世界を1つにする王のようです。 最初の統一王朝はアッカド帝国で、実際に称号を使用したのはアッカド帝国でした。 シュメール人の王が、この称号を使うのはウル第3王朝の時代になります。 anubda limmuba は、ナラム・シンにも付けられていて kibiratim arbaim より後で作られたとも言えません。 ただし、単に数詞で表すことは少ないと言うだけなのかも知れません。 この字形は「隅」や「窪み」であり、「隅々まで明らかにする」と解釈されるようです。 「まったき四方」の王や、「四方を統べる」王のようです。 新アッシリアのエサルハドン(Esarhaddon、BC681-BC669)の時代には、nu-ur kib-ra-a-ti 四方の光り のようにも使われます。 アッカド帝国の人々は既にカナン諸語の影響を受けていたとしても不思議はありません。 anubda limmuba がシュメール語であるかどうかはともかく、ウル第3王朝後は使用されなくなったことは確かです。 kibiratim arbaim は、カナン諸語に分類されることになる言葉を話す人々によって使われ続けました。 アッカド文字の語形変化 接頭辞や接尾辞と呼ばれる語形変化は言語の類似性を判断する目安になるようです。 日本語にはない概念なので、アラビア語のケースを見て置きます。 google翻訳に聞いてみると、「語る」の語根は qwl のようです。 母音の記述が省略される言語なので「音声を聞く」をして見ないと、どんな語なのか分かりません。 「彼女が語る」は、ta-qu-u-lu のようです。 動詞は、主語も表していて、省略すると彼や彼らと訳されるようです。 接頭辞の t は女性形を示すようです。 日本語にないのは、1つの語に付加情報を盛り込もうとする点だと思います。 英語では単数や複数、時制などが盛り込まれますが、アラビア語は徹底しているようです。 名詞でも、同じようなことが言えます。 漢文にも時制がありません。 文意によって時制を解釈するのは文章語の特長のようです。 異なる音声言語の人々が共通に使用している文章表記方法に、複雑な時制のルールを持ち込むのは適切では無いのだと思います。 漢籍の文章表記方法は「簡潔」だとも評されます。 日本語の時制は文末で示されます。 「得虎子」を「こじをえむ」の「えむ」のような文末は漢文によって生じたものだと思います。 本来日本語では、虎児を「う・る(得る)」のか「え・ない(得ない)」のかで「得」の音が変わるものだと思います。 「えむ」や「えず」と言うことにして、時制や、音声言語の影響を消しているものと思います。 語が持つ情報には以下のものがあるようです。 格 文章中の語の役割。 主語や目的語と言いますが、それらが語形変化として表記される場合、「格」と呼ばれるようです。 格には、 主格(nominative)、対格(accusative)、属格(genitive)、斜格(Oblique)があるようです。 主格以外は目的語を分類するものになります。 LUGALと言う文字は、アッカド語では shar-ru のように読まれたとされています。 語幹 shar があり、主格は -ru で表されたと見るようです。 -ri は、属格を表し、「王の」と訳されるようです。 英語に訳される場合は、前置詞 of となる場合のようです。 Wikipediaには、sharr と dann について、格に関する表が載っています。 名詞 sharr 形容詞 dann 男性 女性 男性 女性 主格 (nominative) 単数 -um -at-um -um -at-um 双数 -an -at-an 複数 -u -at-um -um -at-um 対格 (accusative) 単数 -am -at-am -am -at-am 双数 複数 属格 (genitive) 単数 -im -at-im -im -at-im 双数 複数 斜格 (Oblique) 単数 双数 -in -at-in 複数 -r -at-im -im -at-im これは、アッカド語の説明なので、文字に現れているとは限りませんが参考になります。 名詞は、sharru で、語幹は sharr のようです。 楔形文字の LUGAL が sharru と読まれたと見られています。 形容詞は、dannu で、「強い」です。 アッカド語で dannu と読まれたと見られる文字は沢山あるようです。 シュメール語の kalag や lirum で、KAL-GA や SHU-KAL のように綴られました。 LUGAL-ru、LUGAL-ri と表されたのが音声言語の語形変化の反映と考えると、末尾の m が文字では表されていないことになります。 「私は彼に手紙を送った」の場合、「私」は主格、「彼」は与格、「手紙」は対格です。 「私の手紙」、「天の導き」の、「私の」、「天の」は、属格と言うようです。 斜格(Oblique case)は、主格以外の総称のようです。 表の対格と属格の双数と複数は空欄ですが、斜格で説明されていると言うことのようです。 目的語の語形変化は、対格の単数、属格の単数形、それ以外の3つに分けられていると言うことです。 形容詞の語形変化は、「強い王に」や「彼らは強い」のような違いを示す物のようです。 それゆえに彼らは強い。 (EA126) アブディ・アシルタの名前のIRはARAD2(12035:ARAD x KUR)と翻字されるようで、なぜアブディなのかは分かりません。 「強い王に」の場合はダニ、「彼らは強い」はダヌのようです。 表との関係は良く分かりませんが、-u や -i のように語尾が変化するのは確かそうです。 音節文字 古事記では、1音1字で発音が表されました。 1音節を表すための文字は、多くの人が同じ音を想起する文字が選ばれたはずです。 漢字の学習には反切が使用されたものと思います。 中国では反切によって漢字の音が表され、辞書が作られていました。 日本にも伝来していたものと思います。 「広韻」は1008年ころのものですが、「夢、亡中切」、「語、魚巨切」のように記されています。 「亡」の声母と「中」の声母を除いたもので「夢」の音を示します。 1音1字は、反切の音を示す漢字や、その音(声母)の認識が元にあるものと思います。 万葉仮名は1文字が1音節と言った決まりはなく、複数文字で1音節だったり(五十:い)、1文字で複数音節を表したり(下:おろし)しました。 音も訓も使われました。 これは、現在の仮名混り文のようなことは想定になく、万葉仮名だけで文章を書くものだったことを示していると思います。 仮名文字は1文字が1音節を表します。 元になったのは漢字の音読みだけでなく、訓読みからも生じています。 アッカド文字の音節文字が、どのように選ばれたのかは良く分かりません。 しかし、概ね Unicode の文字の名前になっている音で、アッカド人もシュメール人も読んだと見られているようです。 ただし、このシュメール人はウル第3王朝の時代のシュメール人と言う意味だと思います。 音節文字は、母音(V)と、CV、VC、CVC が主に使用されたようです。 ヒッタイトは印欧語族とされていますが、ヒッタイトも下表のサブセットを使用しました。 ヒッタイトの楔形文字の解読の切っ掛けは、wa-a-tar が「水」と読めたことだと説明されていますが、wa は下表にありません。 PI(1227F)が wa と転写されています。 ヒッタイト語が解読される前は、PI-A-TAR (KBo 27. 42)は、PI-A-TAR と転写されていて、解読の結果として wa-a-tar と転写されるようになったのだろうと思います。 ノルウェー語の水はバン(vann)、ドイツ語はバサー(wasser)のようです。 ラテン文字の V と W は一意に子音を示しません。 また、下表からは、pe、pi、be、bi がアッカド文字では区別が付かないことが分かります。 アッカド文字には V と転写される文字はなく、これも文書からは区別が付けられないもののようです。 U、V、W の区別がはっきりするのは、11世紀に英語がラテン文字で記されるようになってからのようです。 PI を wa と翻字するようにした理由は定かではありません。 wa も翻字なので、必ずしも音を示す物ではありませんが、「ワ」と解釈した人がいるのは確かそうです。 紛らわしい文字 アッシリアの王エサルハドン(BC681-BC669)の業績を記したプリズム(Esarhaddon Prism)には、UN. MESH) と翻字されている箇所がいくつもあります。 文字の形を、Unicode から探すと、左図のように GIS-ZA-ME-UUU となります。 新アッシリアの字形では、2文字と解釈されるらしく、NU-MESH となりようです。 MESH の字形は、2通りありますが、Esarhaddon Prism にはいずれでもない形状で出てきます。 最初の MESH の字形は、ME と3つの U から出来ていて、ベヒストゥン碑文(RIP 1a)にあります。 2つ目は、ME と THREE ASH からできています。 Esarhaddon Prism では、横の楔が1つ少なくなっています。 MESHとMESは異なる文字です。 U を3つ書いた左向きの矢印と、右向きの THREE ASH 同じように使われることがあるようです。 GA、qa2 GA と QA は、あまり違わない音なのだと思います。 Unicodeでは、QAの名前の文字は含まれないので区別不要と考えられたようです。 qa2 は、CDLI の翻字で、左図の3字形は、概ね qa2 と翻字されているようです。 また、左図のEA10では、新アッシリア字形のGAの縦棒が1つ少ない字形を ga と翻字しています。 CDLI の qa と翻字されている文字は、以下のような文字のようです。 Unicode の GA と、EA7の字形が同源なのかどうかは分かりませんが、パソコン用の新アッシリアの字形のフォントは、EA7と同じ系統の字形が採られれています。 BU cross BU、IN IN の Unicodeの字形(シュメールアッカド)と、BU CROSSING BU の新アッシリア字形は良く似ています。 TUM、TU4 カッシート神名表とEA1 カッシート神名表 Kassite deities と呼ばれるタブレット(BM 93005)があるのを知りました。 () このタブレットの造られた年代がどのように評価されるのか分かりませんが、バビロン第3王朝、カッシート朝と考えるとアマルナ文書の時代です。 EA1は、バビロニアの王からの書簡とされています。 差出人はカルドニアシュのカダシマンエンリルです。 楔形文字の字形は、大きく3タイプで、アッカドシュメール、ヒッタイト、新アッシリアです。 新アッシリア王国は紀元前9世紀以降の話しで、アマルナ文書の時代から五百年も後のことです。 しかし、アマルナ文書で使用された字形は「新アッシリア」の字形が最も近いものです。 アッカドシュメールの字形は、元字としてずっと使われます。 記録密度の高い書簡では、ずっと早い時点から簡略化された字形が使用され、新アッシリアの時代にも、大きな変化なしに使われ続けていたようです。 しかし、Kassite deities で使用された文字のうち、図の文字は、新アッシリア字形と異なっています。 それらの文字は、EA1と同じで、このタブレットがアマルナ文書の時代の字形で書かれていることを示しています。 EA1には、AT と翻字される文字と、AD があり、区別したのかも知れません。 新アッシリアの時代には、横棒が3本でも4本でも、AD と翻字されているようです。 Akkadian の lu Akkadian の RU NIN NIN は、Unicode の NIN に対して、矩形の中の横棒が1本の NIN9 があります。 書簡には図の最上段のように書かれたようです。 これは神名に使われるので新アッシリアの時代にも登場します。 しかし、NIN も NIN9 も、新アッシリアのフォントには字形が入っていません。 この文字は、新アッシリア字形のリストでは、SAL+MA や SAL+TUG2 と記されています。 これは、新アッシリア字形のリスト作成の基準では、1文字ではなく、2文字の組合せと見ることになったようです。 しかし、NIN と記されているので、音は、SAL-MA ではなく NIN と言うことのようです。 SAL+MA と SAL+TUG2 は、横棒の数が異なりますが、少なくとも新アッシリアの時代は区別されなかったと言うことだと思います。 tukul が使われている古い時代のタブレットは KU 、あるいは DUR2 と刻んでいるようです。 ePSD で tukulu を調べると、左図に上げた文字は該当しないようです。 ティグラト・ピレセルの名は旧約聖書にあり、ギリシャ語で伝わっていました。 その名前が楔形文字の KU-TI-A-E2-SHAR2-RA に引き当てられた理由は分かりません。 新アッシリアの時代の字形では、左図の文字は区別されていないようです。 DUR2 と TUG2 は、横棒の数が異なります。 新アッシリアの字形には横棒の数が3本のものが無いようです。 DISH-MA が近い形のようです。 ティグラト・ピレセルの名の tukul は、3本のようです。 ティグラト・ピレセルの名は、新アッシリア字形の KU の横棒を1つ減らした形に書かれているのかも知れません。 左図のように、tukul を DISH-MA と書いたものもあります。 海の国(tam-tim) 海の国や海の水と訳されている tam-tim は、UD-DIM のようです。 継承者 後継者、継承者、息子のアッカド語に aplu があり、王名に使われていると考えられています。 ティグラト・ピレセル(トゥクルティ・アピル・エシャラ)、メロダク・バルアダン(マルドゥク・アプラ・イディナ)です。 ティグラト・ピレセルのアピルに当たる部分は A です。 メロダク・バルアダンは、AN-MESH-A-shum2-NA や DISH AN-AMAR-UD-ibila-shum2-NA と綴られました。 ePSD の aplu には、eduru、eseg、hibiz、ibila が上げられています。 eduru は、Unicodeの A TIMES A(12001)です。 ibila は、複数の字形が上げられていますが、王名に使用されている例は左図のような字形でした。 A は、ありません。 したがって、王名として読む際に A x A から類推を働かせたもののようです。 ただし、A x A も、単に a と翻字されるのかも知れません。 アルリムの名の1文字目は、図の左端のように移されました。 この文字は、Unicodeが収録しているA2の字形の右側だけに似ています。 新アッシリアの字形が右の2文字ようになることを考えれば、A2なのかも知れません。 もともと、Unicodeのフォントの形状は多くはないようです。 CDLI の P431794 の A2 は、中の細かな部分が1行しかないようです。 MUG、NI、TUK NIG2 DIN ベヒストゥン碑文のニテンドーベルに使われているDINはヒッタイトのフォントのDINの形をしている。 CDLIのtu4は新アッシリア書体のTUMのようだ。 ベヒストゥン碑文では、縦棒が無くなっているが、これもtu4となっている。 MUSH ダレイオスの名に使われ、MUSHと翻字されている文字は、新アッシリアの書体のMUSHより縦棒が一つ少なく、SHEとHUを組み合わせた形状にスケッチされている。

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メソポタミア文明:文字の誕生 後編(楔形文字)

楔形 文字 変換

楔形文字 楔形文字は、絵文字 のような「記号」が話し言葉の事物の名前と結び付いて誕生したことが知られます。 このシュメール人の文字は、アッカド帝国(BC2300-BC2150)の時代にアッカド人が使用することで音節文字や文法が明瞭になりました。 シュメール人の最後の王朝であるウル第3王朝(BC2100-BC2004)が滅ぶとシュメール語もアッカド語も認識されなくなりますが、アッカド帝国の時代の文書の形式は紀元前1世紀ごろまで大変長い間使用されることになります。 このアッカド文字のシステムは、シュメール語でもアッカド語でもない音声言語の人々によって使用されました。 楔形文字は粘土板(タブレット)におうとつによって記録され、大変長い間保存されました。 粘土板は意図的に焼成され、あるいは火災によって焼かれ今日まで残ることになりました。 「」 「」 楔形文字の始まり 楔形文字が楔形文字の形状になるのは BC2600 ころのようです。 AD75頃の天文に関する記録が最後のようです。 粘土に印を付けたものはBC8000頃からの小片が多数見つかると言うことです。 家畜の計数に使用されたと考えられています。 また、陶片を使った計算は楔形文字の時代になっても長く使用されたとも言われるようです。 クレイ・トークンと呼ばれる陶片はスサで見つかったものの写真が公開されています。 この写真ではウルク古拙文字と同じデザインと見ることができるものがあります。 スサはエラムの主要都市で、原エラム文字はウルク古拙文字と同源の文字だと考えられています。 類似の陶片は広範囲に分布し、長い期間使用されました。 スサの出土品の年代はBC3000頃とされています。 こうした陶片は、アナトリア半島の地中海沿岸(BELDIBI)からパキスタン、エジプトでも見つかるものだと言うことです。 陶片の形状と、それに刻んだ記号を合わせて、文字の形になったと見られています。 しかし、粘土板や陶片の年代や生産地が直接知られることはほとんどありません。 荷物の封印(シール)が焼かれて陶片として出土することも知られています。 クレイ・トークンが計数に使われたものなら、数字を表す陶片は、物を表す陶片より数が多いだろうと推測されます。 また、古拙文字で数字に使われている指の先の形状の窪みはスタイラス(筆記具)の後端を使って付けられたようですが、その形が先立つ陶片の形だと言うのは説明を要します。 ウルク古拙文字 BC3200頃のイラク中部のウルク遺跡から、完全な粘土板800枚と多数の破片が見つかり、ウルク文字と呼ばれています。 楔形文字ではなく、絵文字(ピクトグラム)と表現されています。 商取引に関するものが多く、数字、人名、地名など記録しているとされています。 現在まで古拙文字の文書は6,000点ほど見つかり、1割以上が語彙リストだと言うことです。 こうしたリストは、これは、都市名、職業、金属、容器、献納品を列挙したものが地域、時代を隔ててたくさん同一内容で見つかるようです。 マスに1語彙ずつ、「ひとつ、ウル」、・・・のように記されるためほとんどが数字を伴っています。 書記の訓練用だたったと言うことです。 後に、アッカド語の読みを付したものが作られ解読に役立ったようです。 約1000種類の記号があるようです。 筆記方法の制約から、ウルク古拙文字は、記号を増やすことを諦めて、表音文字化する方向に発達することになるのだと推測します。 古拙文字の数の表現は、その後の楔形文字とは少し違っているようです。 同じ時代にエラムでも古拙文字が見つかると言うことです。 類似性がある別のもの、あるいは同源と説明されています。 アッカド文字 BC2600ころに筆記方法が定まって楔形の形状の文字になりました。 アッカド帝国の時代にはアッカド人が主要な文字の担い手になりました。 その後、シュメール人の最後の王朝とされるウル第3王朝が百年ほどバビロニアを統治しました。 アッカド帝国とウル第3王朝の時代(BC2300-BC2000)に使用された文字が Unicode の楔形文字のようです。 Unicode は主に数字として使用された記号を除くと 879 の字形を収録しています。 字形には名前を付与していますが、表す音節が名前となっているものが多くあります。 アッカド文字では 879 中の 246 が音節文字として使用されました。 ウル第3王朝の時代には、既に字形の変化が見られます。 BC1800頃のマリ文書では大きく字形が変化しています。 おそらく、アッカド帝国の統制が効かなくなった後は、アムル人など後のカナン諸語を話す人々の使用していた字形が普及したものと思います。 この字形は「新アッシリア」と呼ばれています。 「新アッシリア」と言う時代は千年も後の時代です。 多くの文書は「新アッシリア」の書体に近い字形で書かれています。 しかし、権威を感じさせる古い書体はずっと使用されました。 ハンムラビ法典のような碑文や、建物のレンガの刻印などは Unicode に収録されている書体で書かれました。 BC2000以降は、シュメール語やアッカド語を話す人々は認識されなくなり、文字の使用者はアムル人など後のカナン諸語を話す人々に移ります。 寿命の長い文字が成立するには、3つの使用者が必要なようです。 楔形文字を作り出した人々は、話し言葉と文章の関係が明瞭ではありません。 同じ音声言語でも物には複数の名前があり、文字列がどのように読まれるかが一義に定まっていたかどうかも分かりません。 アッカド人のように異なる音声言語の人々が文字を流用すると、文字の音や文法が明らかになります。 その時代に作成された文書を読み書きする必要性があれば、続く世代は音声言語に係らず、その文字システムを使い続けることになります。 アッカド文字と漢文 アッカド文字のシステムがどのようなものか想像できないので、漢文の例を考えて見ます。 漢字の起源は定かではありませんが、周代以降重要な漢籍が残されました。 漢籍を残した人々は漢字を作った人々ではなく、アッカド人のように異なった音声言語を話す人々だったのだと思います。 秦王朝が中国を統一すると、長く強力な王朝によって漢字は統制が効いた状態になりました。 中国の王朝は、その音声言語とは関係なく、古い漢籍と同様の文章を書き続けました。 四書五経と言うように、近代まで漢籍を学ぶことは知識を得る重要な方法でした。 こうした漢籍の表現は簡潔とも言われますが、文字として時制や人称、掛かり受けの明示されない文章で、背景が分からないと理解できないような文章です。 秦代の王朝の人々にとっても、四書五経は文章語であって、話し言葉とは大きく離れたものだったのだと思います。 日本への漢字の伝来は、漢籍の伝来で、中国語の伝来ではありませんでした。 日本は中国の文章語を導入しました。 太安万侶は古事記の序に「於姓日下謂玖沙訶於名帶字謂多羅斯」と書きました。 これは、「姓に於きて日下は玖沙訶と言い、名に於きて帯を多羅斯と言う」と書いたもので、読みもそう「訓読」されました。 太安万侶は漢文を書いたのであり、中国語を理解したかどうかは分かりません。 漢文は日本語で、漢文を読み書きした日本人は、まず、中国語を理解しなかったと思います。 しかし、漢文は、漢籍と同様の文字列を作り出します。 事情は同じ時代の中国も周辺国も同様で、漢文と同様に、漢字列をそれぞれの訓で読み、漢籍と同じ文字列を書きました。 ここに上げた「於姓日下謂玖沙訶於名帶字謂多羅斯」の例は、人名の「くさかたらし」から日本語だと判断できる可能性があります。 楔形文書も、漢文と同様、どのように読まれるかは、読む人の音声言語で決まります。 しかし、内容に立ち入ると音声言語の影響を見出すことが出来るのだと思います。 アッカド文字以外の楔形文字 アッカド文字は広い地域で長い間使用されました。 これは漢文のように文書としては共通だったことによります。 その規範はアッカド帝国やウル第3王朝の時代にあります。 しかし、日本人が仮名文字を使うように特定の音声言語でだけのための文字システムが使用されても不思議はありません。 漢字を学ぶことは語彙を増やし知識を得ることです。 仮名文字は語彙を持ちません。 音節を表すもので語彙は話し言葉によります。 仮名文字は話し言葉を書き留めるもので機能が異なっています。 仮名文字のように楔形文字を使用した例はエラム楔形文字が知られます。 アッカド文字を元に BC1500 ころから使用された音節です。 ダレイオス1世(Dareios I、BC522-BC486)のベヒストゥン碑文には、アッカド文字、ペルシア楔形文字と共にエラム楔形文字も刻まれました。 アケメネス朝ペルシアの作った音素文字のペルシア楔形文字と、エラム楔形文字によってアッカド文字の音を確認できます。 エラム人はウルク古拙文字の時代から文字を使用していました。 エラム人はたびたびバビロニアに王朝を築きました。 アケメネス朝ペルシアの時代になってもエラム人は認識されます。 これは、シュメール人やアッカド人、アムル人が認識される長さと比べて大変長く同じ基準で取らえれられていないように思います。 2千年の間にはエラム人も、エラム語も大きく変わったはずです。 楔形文字の転写 楔形文字のうちアッカド帝国とウル第3王朝の時代(BC2300-BC2000)の字形は Unicode に収録されています。 したがって楔形文字の文書も電子テキストとして扱える可能性は十分ありますが、実際にはラテン転写したものか翻訳が公開されています。 図の転写は Bassetki statue(RIME 2. 10, ex. 01 )の一部を Unicode の字形で表したものです。 クサハ(Cuthah、Kutha、Tell Ibrahim)のネルガル(Nergal)と読まれています。 アッカド帝国の王ナラム・シンに神殿の建設を請願した1人です。 七十人訳聖書(列王記下17. ラテン転写には2つの意図があります。 翻字と音写です。 翻字は元の字形が再現できることで、音写はどのように発声されたかを示そうとするものです。 楔形文字のラテン転写は翻字が主目的で、字形の名前が音節に由来しています。 同じ音節を表しながら、字形が異なる場合は ne3、iri11 のように数字を付加して字形を区別しています。 「わたしは」の翻字は「wa-ta-shi-ha」で、音写は「wa-ta-shi-wa」となり、ラテン転写は必ずしも音を表しません。 古代の発音の実際は誰も知りません。 また、手書きされた文字が厳密に同じものであることもなく、何種類の字形を使っていたのかさえ確かなことは分かりません。 それでも、ベヒストゥン碑文などによって裏付けられる字形と音の関係が千数百年前にも当て嵌まることは確かそうです。 Unicode の 1202D は AN と名前が付いています。 上図のANは {d} と転写されています。 これは、AN が神を示す限定符で、読まれない文字と見られるためのようです。 楔形文字のラテン転写は、翻字だけでなく意味的な解釈も含んでいます。 語の認識も行われています。 「neirigal in gudua」 と言う読み方が得られますが、これは翻字の結果、自動的に生じたもので、翻字した人が読み方を示そうとしたわけではありません。 下図は、アマルナ文書 EA 35 の最初の行を Unicode で表して、字形は「新アッシリア」で表したものです。 これはアッカド語の音を前提とした転写です。 アッカド語の王は sharru 、国は matu のようです。 「ミザリの王へ。 兄弟は語る。 」のように解釈され、王は主格ではないので活用され shar-ri と表されたと解釈されたものと思います。 しかし、これには疑問があります。 アッカド文字のシステムは漢文のようなもので音声言語を直接表していません。 アッカド帝国の時代から千年が経ちアッカド語を母語とする人々が記したと見られる訳でもありません。 ローマの時代にはギリシア語文献がラテン語に翻訳されることになりますが人名などはローマナイズによって表記されました。 現在ではローマナイズはISO規格にもあります。 翻字は電信や計算機処理するには都合の良い方でした。 ローマ時代のローマナイズは単純な翻字ではないようです。 これはラテン語の文法の影響で、ラテン語として読めば、アレクサンドルやプラトンだと思います。 google翻訳で「ライオン」をラテン語に翻訳すると Leo になりますが、「ライオンを」は Leonem となり、ライオンを表す語幹は Leon のようです。 英語文献は英文の中にラテン語を埋め込んでいるのだと思います。 ラテン語では Michael でした。 Michael と言う人名は、マイケルと読まれます。 アッカド文字と音声言語 LUGALと言う文字を sharru と転写することの妥当性を、日本の漢字の導入に引き当てて考えて見ます。 古事記には、「益我王而甚貴」、「德跨周王」と記された箇所があり、「わがきみにましていととうとし」、「しゅうおうのとくをこえたまいき」と訓読されます。 「王」は常に「きみ」と読まれた訳ではないようです。 外来の表語文字を導入すると、話し言葉と文字の意味が完全には対応しないので、相互に一対多の関係になります。 1つの文字には多くの読みを生じます。 古事記では「刀」が、「御刀(みはかし)」、「麻刀(まど)」、「刀(かたな)」、「布刀玉(ふとだま)」、「大刀(たち)」などと読み下されます。 文字の名前として LUGAL に代えて sharru を使用することは有り得ても、LUGAL の読みを一律に sharru とすることは無理がありそうです。 「德跨周王」と言う漢字列を、日本の訓で読むか、中国、韓国、ベトナムの訓で読むかには明確な判断基準はありません。 必要に応じてと言う以外にはありません。 また、この文章の「跨(こ)えたまいき」は、偶然に日本語の訓と音が一致した例だと思います。 辞書の上では「跨」の訓に「こ」の読みは含まれていません。 アマルナ文書の時代(BC1350)の音声言語による差異を見られればと思います。 EA 1 はエジプト発バビロニア第3王朝(カッシート朝)宛て、EA 31はエジプト発のアルザワの王宛の書簡です。 EA 1 は、カルドニア(KUR ka-ra-an-ud-ni-ia-ash)の王カダシマン(ka-da-ash-ma-an en-lil)に送られました。 カッシート朝はカッシート語ではなく、カルドニア(バビロニア)の言葉を使用したと考えられています。 EA 31 はアルザワ(KUR ar-za-wa)の王タルフンダラドゥ(tar-hu-un-da-ra-ud)に宛てた書簡ですが、EA 32 の返信と見られています。 EA 32 ではヒッタイト語(ネサの言葉)で書簡が送られることを記しており、EA 31もヒッタイト語と見られています。 EA 1 と EA 31 の宛名 EA1 a-na 1 ka-da-ash-ma-an en-lil LUGAL KUR ka-ra-an-ud-ni-ia-ash ahi-ia ki-bi-ma un-ma 1 ni-ib-mu-a-ri-a LUGAL GAL LUGAL KUR mi-iz-ri-i-ki EA31 ahu-ka-ma un-ma 1 nu-mu-wa-ri-ia LUGAL GAL LUGAL KUR mi-iz-za-ri a-na 1 tar-hu-un-da-ra-ud LUGAL KUR ar-za-wa ki-bi-ma この書簡の書き出しの送信者、発信者の部分は逆順になっていますが、ほぼ同様です。 この2つの書簡には、同じ内容と見られる常套句があります。 「此方万事好し、其方万事好し」のようなことのようです。 E2-hi-aの-hiaはヒッタイト語の複数形。 KUR KUR は、国国(国々)で、これも複数形を作っています。 日本への漢字の伝来は、文字の伝来と言うよりも、漢籍としての知識の導入でした。 明治時代に入っても漢籍を読むことは重要なことであり続けました。 漢籍を訓読することで生じた漢文は、話し言葉とは異なった文章語ですが、話し言葉に大きな影響を与えました。 漢文は文章を書くと漢籍と同じになることが意図されています。 出来上がった漢文は日本語かどうかわからないものです。 訓読すれば、それは文章語(漢文)の日本語です。 漢文を読み書きした人々のほとんどは全く中国語を理解しなかったと思います。 アッカド文字の文書も、アッカド帝国時代の文書に範を求めることで、共通語ととして機能したものと思います。 LUGAL、DAN(妻)、tur(DUMU、子)、E2(家)のように1文字の表語文字は、それぞれの音声言語の訓で読まれたと考えられます。 ana、kibima、unma は、音節文字と見て読まれた可能性と、それぞれの訓で読まれた可能性が考えられます。 音節文字と見れば、音声言語によらず類似の音で読まれたことになります。 熟語と見ると、音で読んだとも、訓で読んだとも考えられます。 「朝刊(チョウカン)」は音で、「朝日(あさひ)」は訓で読みます。 音で読む場合は、音声言語によらず類似の音で読まれただろうと思います。 限定符は読まれないものとして翻字では小さい文字で書かれたりしますが単純ではないようです。 カルドニア王の名は、DISH KA TA IGI MA AN EN KID と表されています。 EN-KID は、神の限定符AN(DINGIR)がなくても音節文字としてエンリルと読めます。 アッカド帝国の時代のアッカド語ではありません。 一般的には古い時代の楔形文書をシュメール語、シュメール語が死語になる BC2000以降をアッカド語と言っているようです。 シュメール語に分類されない楔形文字の文書はアッカド語とされ、文章語として知られる楔形文書の言語をアッカド語と言うようです。 また、アッカド語は共通語だったとされています。 馬の導入はBC2300以降とされています。 sisi(ANSHE-KUR-RA)と言う馬を指す記述はBC2500以降に現れるもののようです。 メソポタミアで馬が知られなかったとされるのは、馬がほとんど絶滅状態だったとされていることによるようです。 馬の家畜化はウクライナ地方で確認されます。 積雪下で放牧可能な家畜として飼われるようになったと見られています。 BC4000頃のデレイフカ遺跡からはハミと見られるものが出土し乗馬の可能性もあるようです。 馬の家畜化が始まった時点で、馬は既に絶滅に近い状態だったと考えられています。 野生の馬は乗馬に向かないほど小型で、飼われた馬は主に食用でした。 騎馬民族が登場するには馬が大型化する必要がありました。 ANSHE はロバを表し、KURは山や地域を示します。 ANSHE-KUR-RA は、山のロバや、山の向こうのロバ、外国のロバのようです。 この時にはチャリオットは2輪となり方向転換も可能なものになっていたようです。 スポーク式の車輪の発明によって強度の高い大きな車輪が使われるようになりました。 スポーク式の車輪はウラル地方でBC2000ころに発明されたと見られています。 車輪の使用はコーカサス地方の洞窟の車輪痕が最も古い記録で BC3700 ころと見られています。 GISH-gigir(GISH LAGABxBAD)と言う、2文字の語はシュメール人によってBC2500より前から使用されていました。 「ウルスタンダード」と呼ばれるモザイク画には4輪の戦車が描かれています。 年代はBC2300頃とされています。 しかし、バラバラのモザイクを復元したものらしく、復元の妥当性や年代についても確実性は分かりません。 メソポタミアへの馬の導入時期から、戦車を引いているのは馬ではなくアジアノロバとされるようです。 馬車が走行できる場所は平坦な場所に限られ、4輪戦車は方向転換が困難だったと考えられます。 ANは神の限定符(Determinative)ですが、AN-IM は最高神や雷神を示し地域によって読み方が異なっていたと見られているようです。 シュメール人の使用した文字で AN(DINGIR)が神の限定符であることは確かそうです。 KI は限定符かどうかは分かりませんが長い間、地名に付加されました。 しかし、それ以外の限定符は必ずしもシュメール語のルールではないようです。 シュメール語では UD が神の名を表し、AN が神の限定符だと解釈されています。 ほとんどの文書がアッカド語と見なされ AN-UD はシャマシュのように読まれるのだと思います。 この場合、AN-UD は、2文字で神シャマシュを表していて、ANは限定符ではありません。 AN-IM はシュメール人はイシュクル、アムル人はアダドと読んだとされています。 この場合は、シュメール語でもアッカド語でも IM は神名の音を表していません。 しかし、前述の EA 1 のカダシマン・エンリルの名前のように、AN-EN-KID の AN は ka-da-shi-ma-an の最後の音節を表す文字になっています。 時代が下ってベヒストゥン碑文(Behistun Inscription)のアッカド文字のアフラマツダは、アッカド文字で AN-U-RI-MI-IZ-DA と表されました。 ペルシア楔形文字の部分は a-u-ra-ma-z-da と記されました。 ペルシア楔形文字は音素文字です。 アッカド文字の AN は A と読まれたようです。 AN について確かそうなのは神名の始まりに書かれることです。 神名は、1)AN-IM のようにANを含めた文字列で示す場合と、2)ANに続く文字列が音節文字として神名を示す場合があります。 神名が音節文字で表される場合、AN は読まれることがあるようです。 この場合も、AN は音節文字だと言うだけでなく神名の印も兼ねているのだと思います。 読みも AN とは限らないようです。 カルドニア王の名 KA TA IGI MA AN EN KID の AN は、kadashma-AN enlil と読まれていますが、この AN が神エンリルを想起させる役目も果たしているのは確かそうです。 シュメール人には何の不都合もなかったものと思いますが、アッカド人やアムル人が楔形文字を使用すると、AN は音節文字として使用されます。 同じ音節を表す複数の文字があるのが普通ですが、an は AN の記号だけです。 AN は限定符ではなく、音節文字と見た方が良いのかも知れません。 神名はANを含めて熟語と考えることになります。 フルリ人はミタンニを MI-IT-TA-AN-NI と表しました。 IT-TA は「タ」ですが、AN-NI は「ンニ」と読まれています。 AN は音節文字としても特別な文字のようです。 AN は常に「アン」なのか、ミタンニはミタニだったのか、ケースごとに異なるのかは分かりません。 シュメール語では地名が記されると KI が必ず付加されているようです。 KI は地名の後に付くことが多いようです。 都市名の限定符 URU が付くのはシュメール語の習慣ではないようです。 アマルナ文書には URU gub-la のような表記の他に、URU gub-la KI や URU KI gub-li のような例があります。 URUは、シティー・ビブロス のように読まれたとも、限定符で読まれなかったとも考えられそうです。 前述の EA 1の 「ni-ib-mu-a-ri-a(ニブムアリア) LUGAL GAL(大王) LUGAL KUR mi-iz-ri-i KI(エジプトの王)」のように、KUR はミザリ「の」王のように機能のある文字で読みにも反映されたものだと思います。 KUR も KI を伴うことがあります。 同じ文字を、限定符で使い分けて、字形の数を抑えるのが、限定符の目的のように思えます。 しかし、実際には容器を表す GISH-DUG や NA4-KU-KU-BU の限定符を交換した表記は使用されていないようです。 漢字の場合も、木辺の文字の辺を石にしても、素材の異なる同様の物を指すことにはなりません。 これは漢字の大半が形声で造りの部分が音のみを表しているからです。 椀、碗のような例はほとんどないようです。 材質や用途を示す楔形文字の限定符も同様で、音が同じになるので、話し言葉としては許容できないのだと思います。 アッカド文字の字形 アッカド帝国(BC2300-BC2150)とウル第3王朝(BC2100-BC2004)の時代の字形が Unicode に収録されています。 BC2000を過ぎると、シュメール人やアッカド人は認識されなくなって行きますが、アッカド帝国の時代の文字システムは、2千年以上に渡って使用されることになります。 文字を作った人々ではない、アッカド人が使用したことで文字の性質が明瞭になりました。 アッカド人の文字を規範に、シュメール人でもアッカド人でもない人々によって楔形文字は長期間使用されました。 アッカド文字の字形は2つに大別されています。 1つは Unicode が収録している「Sumero-Akkadian Cuneiform」です。 ウル第3王朝以前の字形を収録しています。 もう1つは「Neo-Assyrian Cuneiform」で、ウル第3王朝の滅亡した後の字形です。 「新アッシリア」と言う時代は千年も後の時代を指しますが楔形文字の字形はウル第3王朝の時代には既に「Neo-Assyrian Cuneiform」の字形に近いものが見られます。 楔形文字の字形は徐々に変化したものではないようです。 同じ文字の字形の差は、時代の近いものが似ているわけではなく、古い時代に生じた異字が、ほとんど変化なく受け継がれているようです。 おそらく、早い時点から筆記効率を高めるために文字は簡略化されていたものと思います。 アッカド人の王朝は字形を守ったと思いますが、それ以外では簡略化されていくのは当然なことです。 ただし、「Sumero-Akkadian Cuneiform」の字形がが使用されなくなって行った訳ではありません。 ハンムラビ法典のような碑文や、神殿などのブロックの刻印などは後々まで古い字形で記されました。 マリ文書のアムル人の間の書簡は「新アッシリア」の字形に近いものでした。 マリ王国を滅亡させたバビロン第1王朝のハンムラビのハンムラビ法典は Unicode の字形で刻まれました。 バビロニアの王は「シュメールとアッカドの王」を名乗り、シュメールの王権の継承者でした。 図は、アッカド語で、以下のように読まれたようです。 Unicode で TAG と名前の付いている文字は、シュメール語では tag で、アッカド語では、shum、tag、tak だったとされています。 shum-ma は、アッカド語では「もし」。 i-in は、「目」のようです。 (アッカド語の「目」は、inu で、IGIの文字を書く例があります。 ) 「ARAD TIMES KUR」 は、arad2 で奴隷を意味する表語文字です。 arad2 は、シュメール人とアッカド人は、それぞれの奴隷に当る音で読んだのだと思います。 実際には、シュメール語は arad で、アッカド語は ardu と翻字され、同源のようです。 おそらく、シュメール語の読みは、TAG MA I IN ARAD A PI IGI のようなもので、シュメール語としては意味を成さないものだと思います。 王を表す LUGAL の字形は以下のように、いろいろに書かれています。 「Sumero-Akkadian Cuneiform」の字形は、かなり複雑で、書簡のように記録密度の高い文書は字形の簡略化が必要なのは理解できます。 書簡で良く使用された be-li-ia (my lord)は以下のように書かれています。 be-li-ia をUnicode の文字で表すと以下のようになります。 be-li-ia は、アムル人が楔形文字の主要な使用者になってから多く使用されるようになったようですが ARM 01,037 は似ています。 他の3例の2文字目は明らかに違う文字です。 この文字は、左右に2分できる形をしていて、EA149 と EA151では左右が入れ替わっています。 この文字は、121F7 の LI と言う文字と見られているようです。 しかし、形が最も良く似ているのは、12363 の ZI のように見えます。 EA149は、そのまま、KAJ086 と EA151 は左右を入れ替えると、ほほ同じに見えます。 LI と ZI、NI は同じ口の形で発声される比較的近い音なのだと思います。 LI は接近音、ZIは歯擦音、NI は鼻音です。 EA149 には、下図の文字も登場します。 ZI と LI は書き分けられているようです。 しかし、TE と読まれている文字は2種類あり、同じ文字が2つの書体で書かれることがあるようです。 be-li-ia の2文字目に当る文字について、KAJ086 の左半分は SHE、EA149 の右半分、EA151の左半分は 2つ目のTEの形をしています。 be-li-ia の2文字目に当る文字が Unicode の LI(121F7)だとします。 Unicode の LI(121F7) は、SHE(122BA)+SHA(122AD)の形状をしています。 しかし、実際のSHE(122BA)は、EA149、EA151 では、TE(122FC)の形状に書かれていることになります。 Unicode のSHA の形状は左図のように簡略化されたと考えることになります。 と転写されています。 IA は、明らかに I と A を並べたものです。 アマルナ文書の時代には、I は、以下のように書かれました。 実際には、新アッシリアの字形ではなく、この形状がマリ文書の時代から長く使われたようです。 I を90度回転した形状、あるいは数字を表す FIVE DISH は IA と読まれたようです。 (EA1) しかし、ほとんど見かけないようです。 音節文字の DA も、「新アッシリア」の字形に近いものの、いろいろに書かれています。 BAD(be)は、三本の線が交わっているようにも、3角形を2つ合せたようにも描かれます。 楔形文字は粘土板の窪みなので、平面にインクで同じように書くことはできません。 ハンドコピーは文字を読んだ上で書かれるもののようでラテン転写を見るのと同じことですが、ラテン転写は完全な翻字になっていないことが多いようです。 BAD と同じように見える文字は Unicode に5つあります。 それらの文字は、新アッシリアの字形では区別されなくなったようです。 アマルナ文書の EA369、EA370 はエジプト発の書簡です。 ファラオからカナンの王に宛てた書簡が、なぜアマルナで見つかるのかは分かりません。 控えを取るルールならもっと多くの書簡の控えがあっても良さそうです。 アマルナ文書の文字は、Unicode が収録しているものより、ずっと新アッシリアの字形に近いのですが、それでも読み取りができない文字が多くあります。 緑が良く分からない字形です。 赤がUnicodeの文字、黒は「新アッシリア」の字形です。 EA369 と EA370 の書簡の慣用句 EA369 mil-ki-li gaz-ri a-na 共通 a-na 1 LU URU um-ma LUGAL-ma a-nu-um-ma tub-pa a-na-am ul-te-bi-la-ak-ku qa-be-e a-na ka-a-sa EA370 i-di-ia as-qa-lu-na-ki qi-bi-ma 楔形文字では綴りを同じにすると言う配慮は働いていないようです。 音節文字として同じように読まれれば良いようです。 文書の形式 楔形文字の文書の特徴は罫線が引かれていることです。 古いタブレットは小型で、枠の中に数文字が記されていて、記録密度の低いものです。 ほとんどは横書きで、左から右に書かれました。 最初に縦の罫線を引いてカラムを定めます。 横の罫線は、1マス分を書いて下に引きます。 1マスには複数行書かれることがあるので、水平の罫線はカラムで独立しています。 1マスに書かれるのは意味のある単位なのだと思います。 アマルナ文書の書簡の多くは縦の罫線はなく、横の罫線だけが引かれていて、1行は十数文字以上あるようです。 中には罫線の全くないものもあるようです。 アッシリアでは王の業績を記したシリンダーと呼ばれる粘土製の八角柱の文書が残されました。 八面のそれぞれを1つのカラムとして長文の文書が作られました。 また、新バビロニアやアケメネス朝ペルシアの時代にはキュロス・シリンダーのような紡錘型の文書が残されました。 紡錘の軸方向に文字が書かれています。 ハンムラビ法典の碑文の写真は、枠取りが縦長になっていて、縦書きされているようです。 しかし、「アッカド文字の字形」に挙げた図を90度回転した状態のようです。 普通に横書きしたものを90度回転して立てられているようです。 日本語の縦書きは文字自体は回転しないので、文字も回転している碑文は縦書きと言うのかどうか分かりません。 これは碑文に限らずシールの刻印も同じようです。 図の向きから見ると文字は縦に並んでいますが、文字も回転していて 90度回せば普通の横書きになります。 楔形文字は、罫線や空白で、分かち書きされているようです。 この点を除けば、ほぼ文字だけで情報を伝えました。 ヒエログリフは、読み取り方向を示すマーク、カルトゥーシュ、表音を示す記法、文字の大小などがあり、完全にはラテン文字に転写できません。 強調したい場所を大きな文字で書いたり、マークを付けるのは自然なことに思えますが、楔形文字の文書ではほとんど見られないようです。 粘土板と葦のスタイラスと言った筆記環境には制約があります。 読み上げて知らせるもので視覚効果は有効でなかったのかも知れません。 楔形文字の使用者 粘土板(タブレット)に楔形文字の記録は良く残りました。 特に焼成されたものは他の媒体と比べて突出しています。 しかし、粘土板自体は年代を測定できず、産地の特定も困難です。 しかし、大枠としては BC2600 ころに音節文字を含む楔形文書が使用されるようになったのは確かそうです。 その文書によって知られる音声言語をシュメール語と呼ぶのだと思います。 シュメール語を話す人々がシュメール人です。 BC3200頃から使用されたウルク古拙文字を残した人々の音声言語は知られません。 しかし、楔形文字は、同じ地域で、絵文字からウルク古拙文字を経て発達してきたと見られています。 この原シュメール語を話した原シュメール人はシュメール人と継続性のある人々だと考えられています。 原シュメール語六百年の発達過程が知られていることになります。 アッカド帝国の時代(BC2300-BC2100)の文字システムのアッカド文字は長い間使用され、最後の記録は75年の天文学の記録だと言うことです。 シュメール語を話す人がシュメール人と言うのは、楔形文字が解読されるようになる19世紀以降の認識です。 シュメール語や楔形文字は長い歴史を通じて知られていました。 オリエントの研究はアッシュールバニパル(BC668-BC627)のニネヴェ図書館の発見を機にアッシリア学として始まったらしく、楔形文字をアッシリア文字やアッシリア語と記していることもあります。 シャムシ・アダド1世(BC1813-BC1781)の率いるアムル人が王朝を築いて以来、アッシリは一貫して楔形文字の使用者でしたが、アッシリは常に強力な勢力だったわけではありません。 アッカド帝国、ウル第3王朝 BC2300 から BC2100 の二百年は、アッカド帝国の時代でした。 その後、百年間のウル第3王朝時代を経て、シュメール人やアッカド人は認識されなくなって行きました。 BC2000ごろシュメール語は死語になったとも言われます。 ウル第3王朝のシュメール人と、BC2600 ころのシュメール人の関係は明瞭ではありません。 しかし、シュメール語の認識がウル第3王朝の時代の文書に依存しているのは確かそうです。 アッカド人が何時から楔形文字を使用していたのかは分かりませんが、アッカド帝国の時代に確立されたスタイルの文書が二千年に渡って使用されることになりました。 続くウル第3王朝の文書も、このアッカド文字のシステムの影響を強く受けているはずです。 漢字の例では、秦朝以降強力な王朝によって文書は統制が効いた状態になりますが、その規範は周代や春秋・戦国時代の「漢籍」に求められました。 学問は漢籍を読み、漢籍と同じスタイルの文章を書くことでした。 日本に伝来したのは「漢籍」であって中国語ではありません。 中国でも日本でも大変長い間漢籍を読むことが学問の中心でした。 日本人は「漢籍」を「訓読」し、「漢文」によって「漢籍」と区別のない文章を作り出します。 音声としては全く通じませんが、文書は共通でした。 「漢籍」は秦代の人々の話し言葉ともかけ離れていましたが、この文章語は話し言葉の差異を越えて通じる共通語として大変長い間機能しました。 イシン・ラルサ時代、バビロン第1王朝 アッカド帝国の文字システムも「漢籍」のように機能し、アッカド文字は二千年に渡って使われることになります。 年代の確かなのはマリ文書でBC1800からBC1750ころの五十年間の資料です。 マリは古い都市ですが廃墟となっていて BC1800 ころアムル人によってマリ王国が築かれたことが知られています。 このマリ王国はバビロン第1王朝のハンムラビによって BC1750 ころ滅亡し、マリは再び廃墟になったと見られます。 BC2004にウル第3王朝が滅亡してから BC1750 ころハンムラビが帝国を築くまでの 250年間は、イシン・ラルサ時代と呼ばれています。 エラムによってウル第3王朝が滅ぶと、イシン第1王朝がバビロニアの最大勢力となりますが、やがてイシン第1王朝から分かれたラルサとの間で戦乱が続くことになります。 この戦乱はラルサの勝利に終わりますが、バビロニアを統一したのはバビロン第1王朝のハンムラビでした。 マリ文書によって知られるのは、イシン・ラルサ時代のメソポタミアの最大勢力はアレッポ周辺のヤムハド王国で、マリ王国、バビロン第1王朝とは良好な関係にあったことです。 ウル第3王朝の時代には既にメソポタミアの全域でアムル人が実権を持つようになっていたようです。 ウル第3王朝の時代のタブレットとされるものにも「新アッシリア」の字形が見られますが、「新アッシリア」の字形と言うのはアムル人の字形なのかもしれません。 イシン第1王朝、バビロン第1王朝、ヤムハド王国、マリ王国、ラルサ、エシュヌンナもアムル人の王朝でした。 アッシリアに王朝を築いたシャムシ・アダド1世(BC1813-BC1781)もアムル人でした。 イシン・ラルサ時代はアムル人の部族間の抗争のようで、ヤムハド王国、マリ王国の支援を受けたバビロン第1王朝によって帝国が築かれることになりました。 BC2000 頃から BC1595 までの四百年間の楔形文字の主要な使用者はアムル人でした。 BC1595 は、ヒッタイトのムルシリ1世がバビロンを急襲しバビロン第1王朝が滅亡した年です。 カッシート朝、ヒッタイト、ミタンニ バビロン第1王朝を滅ぼしたヒッタイトはバビロニアを統治することなく引き上げました。 バビロニアはバビロン第3王朝(カッシート朝)によって統一されます。 カッシート人の王朝は四百年に渡って続きます。 バビロニアでカッシート人が楔形文字の使用者だったころ、アナトリアではヒッタイトが楔形文字の使用者になりました。 ヒッタイトの言葉は印欧語族に分類されています。 ヤムハド王国の構成員だったフルリ人は、アレッポ周辺を拠点にミタンニ王国築き、楔形文字を使用しました。 フルリ人の言葉は、ほぼ孤立語と見られています。 アマルナ文書は、アマルナに都が置かれた50年間の間の文書です。 アメンホテプ3世からツタンカーメンの治世の BC1386 から BC1323 頃に相当します。 エジプトと周辺国はアッカド文字で書簡を交換していました。 エジプト発の書簡もアッカド文字で書かれました。 書簡は勢力下のカナン諸国やキプロスだけでなく、ヒッタイト、ミタンニ、カッシート朝の書簡も含まれています。 ミタンニは、BC1330 ころ、ヒッタイトによって分割され、その後は都市国家として存続しました。 ミタンニの支配下にあったアッシリは独立を回復します。 ヒッタイトは、BC1190 に、カッシート朝は BC1154 に滅びます。 エジプトは「海の民」の事変を記録し、文書の少ない期間に入ります。 これ以降の記録はアッシリアが残したものが中心になります。 暗黒時代 BC1200 から BC1100 の間の出来事は、ほとんど記録がないようです。 これに先立つアマルナ文書の時代にはエジプトの臣下のアムル王国はカナンにあり、カナンの軍事の指揮権を持っていたようです。 このアムル王国はイシン・ラルサ時代のアムル人とは直接結びつかないものと思います。 アムル王国は最終的にヒッタイトに付き、後には「海の民」の拠点ともなったようです。 ヒッタイトを滅ぼしたのは「海の民」としてエジプトが挙げた人々ではなく、カスカ人やブリゲス人でした。 アッシリはこれらの人々をムシュキと記録しました。 アッシリアのティグラト・ピレセル1世(Tiglath Pileser、BC1115-BC1077)は強力な王でムシュキを追ったことを記録しています。 アッシリアは、後の記録でフリギア王国(リディア王国)をムシュキと呼んでいます。 ティグラト・ピレセル1世の後、アッシリはアラム人の侵入を受け記録が残らないほど衰退します。 BC1050 ころには新しい勢力分布が出来たようで、フェニキア文字の使用が始まります。 カナンにはエジプトが海の民として記録したチェケル人やペリシテ人が都市国家を築いていました。 キリキアやアレッポ周辺にあった新ヒッタイト都市国家群は、アッシリアによってアラム人の都市国家と認識されました。 BC1021 には、エジプトから移入した人々によってイスラエル王国が作られます。 チェケル人の都市国家ドルは、これに先立って破壊されたことが知られています。 この年代以降の話しは聖書の物語として伝わっています。 ホメロスの「イーリアス」、「オデュッセイア」の物語のトロイア戦争は BC1200 のことだと考えられているようです。 この時代には、まだギリシア人もギリシア語も定かではありません。 ホメロスはアカイア人やダナオイと呼びました。 アナトリアなどでミケーネ文明に関連した遺物が見つかることからミケーネ人とも呼ばれるようです。 ミケーネ文明も BC1150 ころ突然終わりを迎えたとされています。 トロイア戦争に出撃したペロポネソス半島やクレタ島のアカイア人は勝利したものの容易に帰還することが出来ませんでした。 キプロスに漂着した人々は、そこに王国を築きました。 トロイアの王子アイネイアースは脱出してカルタゴの女王ディードーの支援を受けてローマ人の祖となりました。 シチリア島のエリュミア人はトロイアの末裔を自認し、シチリア島に達したローマはエリュミア人の租税を免除しました。 ホメロスはアナトリアのリディアを「メイオン人の地」と呼びました。 ドーリア人がペロポネソス半島に達したのは BC1100 ころと見られ、この時代にアナトリアにいた後のギリシア人はアカイア人やイオニア人だったのだろうと思います。 新アッシリア アッシリアはアダド・ニラリ2世(BC911-BC891)の時代になると「新アッシリア」と呼ばれ帝国を形成し、エジプトも支配するようになって行きます。 新アッシリの王宮では壁面に2人1組で戦利品を記録する書記の姿が描かれ、アッカド文字の書記とアラム語の書記とされています。 新アッシリアの時代にはアラム語が広く普及していたとされています。 アラム語はフェニキア文字(古ヘブライ文字)で記録されました。 カナンへの進出を開始した新アッシリはカルカルの戦い(BC853)でアラム・ダマスカスやイスラエル王国と戦います。 この時のカナンの最大勢力はアラム人でした。 しかし、アラム人を記録しているのは新アッシリアだけのようです。 ギリシア語では単にシリア人と記され、聖書の日本語でもスリアびとと訳されたようです。 新アッシリアによってアラム人の都市国家が解体されるとアラム人は認識されなくなったものと思います。 後に編纂されるヘブライ語聖書はアラム人となりました。 イスラエル王国の人々もアレッポ周辺などに連行され同化したものと見られます。 (失われた10支族) ヒッタイトを滅ぼしたブリゲス人はアナトリアの西にフリギア王国を築きました。 リディア王国は新ヒッタイト都市王国群の1つでした。 フリギア王国は前7世紀にリディアに吸収されたとされ、両者の区別は明確ではないようです。 アッシリアは前12世紀にヒッタイトを滅ぼしアッシリアに侵入したブリゲス人やカスカ人をムシュキと呼び、フリギア王国をムシュキと呼びました。 フリギア王国はキンメリア人の侵入によって衰退します。 アッシュールバニパルはリディアを支援し、キンメリアを撃退しました。 しかし、リディアはエジプトのプサメティコス(pi-sha-mi-il-ki)と結んで反抗します。 アッシュールバニパルは、キンメリアと結んでリディアへ侵攻し、ググ王を殺し、ググ王の子を王に付けて帰順させました。 おそらく、pi-sha-mi-il-ki は、ピシャ・ミルキで、カナン諸語の語根 mlk は王を表します。 エジプトはエサルハドン(Esarhaddon、BC681-BC669)によって征服されサイス朝に委ねられました。 しかし、サイス朝は弱体で第25王朝の残存勢力に脅かされていました。 プサメティコスはアッシリアに亡命し、アッシュールバニパルの遠征によってエジプト第26王朝の最初の王となりました。 エサルハドンの業績を記した The Esarhaddon Prism には、キプロスが Ia-at-na-na の10王によって治められていたことが記されています。 Ia はキプロスを指し、dana-na と読まれ、ホメロスのダナオイ、アカイア人だとされています。 アナトリア半島の西岸部には、アカイア人やイオニア人に加えて、ドーリア人も到達していたとされる時代です。 アッシリアは何も記録していないようですが、アケメネス朝ペルシアが出会うイオニア同盟の諸都市は BC800 ころに起源があるようです。 新アッシリアはエジプトの南限の守りにユダ王国の人々を徴用したと考えられています。 ナイル川の島エレファンティン(アスワン)のイスラエル人コミュニティは長く続きエレファンティン・パピルスが残されました。 ウル第3王朝の時代からメソポタミアの広い範囲は、アムル語のような、後にカナン諸語と呼ばれる音声言語に近い言葉を話すようになっていたようです。 アッシリアがアラム人の都市と見なしたところは、ヒッタイトやフルリ人の都市と考えられていた場所です。 しかし、アラム語もカナン諸語と大きく異なった言語ではなかったようです。 新アッシリアの三百年間のアッカド文字の使用者は主にアッシリアでした。 この時代にはフェニキア文字、ギリシア文字も使用されていました。 この時代には、まだアラム文字が使用されておらず、フェニキア文字の文書の多くはアラム語を表していることになるのだと思います。 新バビロニア 新アッシリアは、新バビロニアによって滅ぼされます。 新アッシリアの時代のバビロニアの王は、アッシリアの王が兼ねるようになっていました。 新アッシリアの敵対勢力はメディア王国(BC715-BC550)で、新アッシリアはスキタイと結んで、これを押さえていました。 BC614にメディア王国はスキタイ勢力を撃退します。 新バビロニアはメディア王国と結んで BC612 にニネヴェを陥落させます。 脱出したアッシュール・ウバリト2世はハランで即位し、エジプトの第26王朝のネコ2世と同盟して戦いますが BC609 に滅亡しました。 新バビロニアはカナンを支配しますが、エジプトには達しませんでした。 エジプトは独立を回復しました。 アナトリアではリディア王国が独立を回復しました。 新バビロニア、メディア王国、リディア王国、エジプト第26王朝の時代が百年続くことになります。 新バビロニアはバビロン捕囚を行いユダ王国は滅亡します。 ユダ王国の人々はバビロン捕囚の間にユダヤ教を確立し、アラム語を使用するようになったとされています。 しかし、新バビロニアの時代の文書はほとんど知られないようです。 バビロニアの王朝もアッカド文字やアラム語(フェニキア文字)の文書を残したと考えられますが、ほとんど伝わっていないようです。 ユダ王国の人々も聖書に繋がる文書を残したと考えられますが伝わっていないようです。 アケメネス朝ペルシア ペルシアのキュロス王は無血でバビロンに入り 新バビロニア(BC625-BC539)は滅亡します。 ベヒストゥン碑文は、ダレイオス1世(Dareios I、BC522-BC486)の王統の正統性と業績を示す内容で、在位中に作られたと見られています。 この碑文は、アッカド文字、エラム楔形文字、ペルシア楔形文字でほぼ同じ文章が記されています。 エラム文字は音節文字、ペルシア楔形文字は音素文字で、アッカド文字の音節文字の解釈を裏付けています。 エレファンティン・パピルスには、ベヒストゥン碑文の文章のアラム文字によるアラム語バージョンが含まれています。 アラム人やアラム語の指すものは明瞭ではありませんが、この文書がアラム語なら後のヘブライ語に繋がる言葉のようです。 この文書の文字は、後のヘブライ文字に繋がるのは確かそうです。 年代の確実なアラム文字の文書は、アケメネス朝ペルシアの時代の物のようです。 エレファンティン・パピルスに含まれるアラム文字の書簡には日付を記したものが含まれます。 アケメネス朝ペルシアの時代までは、メソポタミアの共通の文章語としてアッカド文字が機能していたのだと思います。 しかし、王朝の記録としては使用されなくなって行ったようです。 音と訓 アッカド人がシュメール文字を使用するようになると、「音」読みと「訓」読みが生じたと思います。 文字の読みは、文字の示す物の名前を称えることから生じ、文字を作った人々にとっては、必ずしも文字が音を定めているわけではありません。 「大きい」と「人」を書いて、「大人(おとな)」でも「大人(たいじん)」、「きょじん(巨人)」、「こうかん(高官)」、「くんし(君子)」でも有り得ます。 アッカド文字の王を表す LUGAL は、GAL と LU2 と言う2文字のことのようです。 文字を作った人々が LUGAL を1つの文字と思っていたのかどうかも定かではありませんが、「王」であることが定まる前から使用されていて、複数の意味を持っていたことは推測できます。 読みも意味に応じた話し言葉の語彙が発声されるので多様で、GAL、LU2 の順に読んだり、会意文字として新たな音が与えられていたかも知れません。 アッカド語を話す人々が楔形文字を使用すると、文字を特定するための文字の名前が必要になります。 GAL、LU2 に当るシュメール語の代表的な読み方は、アッカド語の「大きい」、「人」を示しませんが、アッカド人は、それを文字の名前や「音」読みとして知っていたものと思います。 Unicode は、字形に名前を付けています。 LUGALや、GAL、LU2 は Unicode で与えられた名前です。 この名前はシュメール語の音に由来することは確かそうです。 しかし、それを読みと見なすことは Unicode の趣旨に合いません。 306F の「は」は HIRAGANA LETTER HA と言う名前が与えられています。 「は」は「わ」とも読まれます。 こうしたことを承知の上で、Unicode の文字の名前を、シュメール語の読みと見なして考えようと思います。 正確な読みを知る方法はなく、長い年月一定であったはずもありません。 LUGALは、「王」を意味し、シュメール語では、そlのように発音されたものと思います。 アッカド語の王は sharru のような発音だったと考えられているようです。 LUGAL をアッカド人が sharru と読めば、それは「訓」読みです。 日本で漢字を導入した時には、王を「きみ」と読み、これを「訓読み」と呼んでいます。 古事記の「益我王而甚貴」は、おそらく「あがきみ」と読まれました。 「徳跨周王」は、「しゅうのきみ」とも、「しゅうおう」とも読めます。 外来で、熟語と思えば、元の音にそって「しゅうおう」のように読まれたと想像します。 王を「おう」と読むのを「音読み」と読んでいます。 音訓は漢字ごとに定まっているように思えますが、「周王」のように語の単位で適用されるものです。 熟語を訓読みすると、その個々の文字の読みが1つにならないので、多くの熟語は音読みされます。 おそらく、アッカド人も、シュメール人の文字を、音と訓の両方で使いました。 LUGALは、アッカド人によって lugal とも sharru とも読まれたものと思います。 BC2000頃にはアッカド人もシュメール人も認識されなくなって行ったようですが、その後に楔形文字を使ったカナン諸語の人々も、LUGAL を sharru と読んだことになっているようです。 しかし、カナン諸語の「王」は、マルクのような言葉だったようです。 後のフェニキア文字の文書から王に関する語根 mlk が知られ、ヘブライ語やアラビア語に残っています。 日本への漢字伝来を考えると、部分的な綴りを、音読みするか、訓読みするかには、あまり重要性はありません。 すらすらと訓で漢籍を読めば知性が高さを示せたでしょう。 音でお経を読めば有り難かったかも知れません。 むしろ、日本で見つかった文書なら「王」を「きみ」、大陸で見つかったら「オウ」と読むと言ったルールは混乱の元で、根拠がないのは確かです。 LUGAL は、文字の名前で、翻字に使用されるのは妥当性があります。 sharru と翻字するなら、そう読み書きされたと見る理由が必要そうです。 Unicode は主に数字として使用された記号を除くと 879 の字形を収録しています。 しかし、LUGAL のように表語文字として使われた文字は多くないようです。 筆記環境の制約から漢字のように字形を増やすことができないので熟語として語を定めるようになったのだろうと思います。 ANSHE-KUR-ra は馬を表します。 ANSHEはロバを表し、バビロニアの馬車を引いていたのはアジアノロバのようです。 馬は早くてもBC2300頃以降に導入されたとされています。 ANSHE-KUR-ra は、sisi と翻字され、話し言葉では sisi だったと見られているようです。 ANSHE-KUR-ra は、山を越えてきたロバのような会意のようです。 日本語の語彙の大半は漢字の導入に伴って得られたものです。 「大半」などは、中国の文書を音読みして日本語の語彙になりました。 「見る」ことを表す、見、観、監、看、診、視、閲、覧、省、相、瞻、瞰、題、眄、胥は、すべて話し言葉の「みる」が当てられましたが、日本人は漢字を使い分けています。 アッカド語とシュメール語で同じように読まれる語はあまりないようです。 両者には語彙数の点で大きな差はなかったようです。 金属を表す AN-TA-SUR-RA は、シュメール語とアッカド語で同じ音の言葉のようですが、両者にとって外来の同源の言葉なのだと思います。 接尾辞 「流星」は「りゅうせい」とも「ながれぼし」とも読まれます。 「流れ星」と書けば「ながれぼし」に決まります。 「幸」は「さち」、「しあわせ」、「さいわい」、「ねがう」などの読みが可能ですが、「幸せ」、「幸い」などと書き分けられます。 また、「屋根」や「晦日」は、本来、最初の1文字で意味を尽くしています。 2文字になったのは、おそらく、「屋」を「やね」、「晦」を「みそか」と読ませるためです。 日本人の「屋」には、「覆い」や「頂」の意味が含まれておらず、「晦」には30(みそ)の意味がありません。 ヒエログリフでは、表音表記の場合、最後の子音が、1子音文字で補われました。 ヒエログリフには1子音文字があり、都市タニスは d-a-n-t と表されたようです。 女神ワセトは、その笏(しゃく、リボンが付いたワス笏)で表されました。 アマルナ文書には、LUGAL-ri や LUGAL-ru のような記述が見られます。 ウル第3王朝の時代から LUGAL-ri と記す例があります。 これは、アッカド語の接尾辞のようです。 主格の王は shar-ru で、属格は shar-ri のように活用されているようです。 アッカド文字の文書にも、ana や in など、英語の前置詞に翻訳される語がありますが、接尾辞が助詞の役割をしました。 shar-ru 、shar-ri は接尾辞ではなく母音交替なのかもしれません。 こうした記述は、音声言語を推測する手掛かりを与えていますが、LUGAL-ri と記した人が、shar-ri と記したのかどうかは定かではありません。 「学而時習之」の「而」は、漢文では読まれない文字です。 日本人が漢文を書いて「而」を使っても中国語とは無関係です。 アマルナ文書では、-ru は、-ri の半分以下の出現頻度です。 単に LUGAL と記すことと LUGAL-ru は同じことなのだと思います。 -ma、-ra、-i、-ti もごくまれにあります。 LUGAL、LUGAL-ru は、sharru で、主語になる場合のようです。 しかし、書簡の始めの「どこどこの王は語る」の定型部分は LUGAL で、LUGAL-ru とは記されないようです。 LUGAL-ri は、「王の」、「王にとって」、「王に対して」と言った場合のようです。 -ti は、アッカド語の王を sharratu と言う場合に生じたのだろうと推測できます。 EA126 は、LUGAL が10回使われています。 うち1つが LUGALU-ri になっています。 主格でない LUGAL は3つあり、「王の領土」、「王の黄金」と言う場合は、LUGAL のままで、「黄金を王に与える」場合には、LUGAL-ri となっています。 これは、アマルナ文書、前14世紀の文書を見ての話しです。 前11世紀以降、フェニキア文字が使用されると、王は mlk と表されました。 カナンの人々の音声言語が変わったことは十分に有り得ますが、LUGAL が mlk と読まれていた可能性もあるのだと思います。 そうなら、LUGAL、RUGAL-ri、LUGAL-ru は話し言葉を反映したものではなく、そのように学習されたと言うことになります。 EA369の受取人は、mil-ki-lu で、人名のようですが、mlk がアマルナ文書の時代にも「王」を表したことの傍証にはなると思います。 LUGAL-ma は、EA369、EA370 にあります。 エジプトのファラオからカナンの王に宛てた書簡です。 エジプトの書記が記した書簡には特徴があるようです。 EA369 と EA370 の書簡の慣用句 EA369 mil-ki-li gaz-ri a-na 共通 a-na 1 LU URU um-ma LUGAL-ma a-nu-um-ma tub-pa a-na-am ul-te-bi-la-ak-ku qa-be-e a-na ka-a-sa EA370 i-di-ia as-qa-lu-na-ki qi-bi-ma 《人名》へ。 《都市名》の人。 あなたの王はかく語る。 あなたに送られたタブレットのごとく。 一般に王の書簡は使者によって運ばれた。 文中で「タブレットのように」と言うのはメッセンジャーを伴わないのかもしれない。 アッカド文字の書簡 アマルナ文書の EA 1 と EA 31 は、共にエジプトのファラオ発の書簡です。 アマルナ文書にエジプト発の書簡がある理由は分かりませんが同じような条件で作成されたと見なして考えて見ます。 EA1 は、バビロン第3王朝(カッシート朝)の王カダシマンに宛てたものです。 EA31は、アルザワ(アナトリア)の王に宛てた書簡です。 アマルナに都があったのは BC1350 頃の50年ほどで書簡の年代を示します。 この時代のバビロニアは後のカナン諸語に近い言葉を話していたものと思います。 カッシート語は対応表の出土があり、バビロニアの言葉とは異なっていたと見られているようですが、ほとんど知られない言語のようです。 EA31 は、EA32 の返信と見られています。 ファラオがアルザワへ使者を送ったことから、EA32がアマルナに送られることになりました。 このアルザワからの最初の書簡には、書記から書記へのメッセージが付けられています。 書記の神ナブーへの賛辞で始まる文章でヒッタイト語で書簡が作られることを伝えています。 アッカド文字では MESH は、前の語を複数形にします。 ヒッタイトは、-ahia と言う接尾辞によって複数形を表したようです。 ただし。 DAN-MESHは、ヒッタイトも使用し、ヒッタイトにとっては「妻たち」と言う成句なのだと思います。 同じ文字で同じ内容が示された例で、それぞれが、どのように読んだのかは分かりませんが、バビロニアとヒッタイトでは異なった読みで読まれたと思います。 メソポタミアの楔形文字の ana は、英語の to と訳されます。 EA1 は、ana ・・・ ka が繰り返されています。 ka は、2人称を示し、「あなたの・・・へ」と解釈されます。 EA31 には、前置詞はなく ・・・ti の繰り返しになっています。 1人称の「わたしの・・・」は、それぞれ ia と mi です。 これは、カルドニアとヒッタイトの音声言語の影響によるものだと考えられます。 一方、宛名書きの部分では、ana、kibima、unma が共通に使用されています。 これは、アッカド文字の文書も漢文のように文章語であることを示す物と思います。 音声言語によって書簡は「訓読」されますが、文書の上では区別がないことになるのだと思います。 王名は音節表示されたと考えられる。 書簡の書き出し 書簡の書き出しは、マリ文書(BC1800ころ)もアマルナ文書(BC1350頃)も大きな変化はないようです。 ウル第3王朝の滅亡以降、アムル人の王朝で使用されるようになったアッカド文字のシステムは、前12世紀ごろまでの八百年間、いろいろな勢力によって広く使用されました。 それ以降は、新アッシリアが主要なアッカド文字の使用者になって行きます。 それ以前の書簡の書き出しを見てみます。 シュメール語、アッカド語と書きますが、2種類あると言う以上の意味はありません。 この時代の書簡は、宛先と送り手の名前が明記されることは多くはないようです。 書簡は使者によって口上と共に伝えられるもののようです。 アッカド帝国の時代のシュメール語の書簡には、「語る」に相当する語が3つ記されています。 シュメール文字の E 、KA や NA-BE は「語る」ことを表していました。 先頭は受信者の名前や My lord で始まりました。 同じ時代にアッカド人は、送信者、受信者の順に書きました。 宛先にを示す「A-NA」が記され、「語る」は qi-bi-ma でした。 シュメール人最後の王朝とされるウル第3王朝では、送信者、受信者の順に書かれるようになったようです。 受信者の後にある ka-ra は、「・・・へ語る」なのだと思います。 マリ文書の時代(BC1750ころ)になると、シュメール人もアッカド人も認識されなくなっていて、ことごとくアムル人が王朝を築くようになりました。 この時期の書簡の形式は、大変長い間使用されることになります。 アッカド帝国の時代とは、送信者、受信者の順が逆に書かれるのが普通のようです。 ana(To)受信者と呼びかけることから始まります。 qi-bi-ma は、書簡の書き出し以外には見られないもののようです。 be-li-ia は、エジプト臣下のカナンの諸王から書簡の本文で何度も使用されます。 アニッタ文書 ヒッタイトはインド・ヨーロッパ語族なので、話し言葉の影響を知る手掛かりになるかも知れません。 アニッタ文書は、ヒッタイトの王の言葉が書かれた文書で、ハットゥシャで見つかり前18世紀の出来事を記録しています。 見つかった粘土板自体は古王国が成立するBC1595より後に作られた文書の写しだと考えられています。 アニッタ王は古王国が成立するより百年前の王で、継続した記録があるわけではないようです。 書き出しの部分を Unicode の文字で表すと下のようになります。 楔形文字の直下の文字列は、Unicodeの説明にある表記です。 図の最下行はラテン転写で、大文字は表語文字と受け取られている部分です。 DUMU:息子、LUGAL:王、QABU:語る、と言う意味です。 シュメール語の ka は口に関した語を作ります。 アニッタ 「息子」 ピトハナ 「王」 クシャラ 「語る」 DUMU、 LUGAL、QABU がどのように発声されたのかは分かりません。 「クシャラの王」のクシャラが国なら、LUGAL KUR ku-us-sha-ra のように KUR が書かれるのが普通ですが記されていません。 結局、この文章は、アッカド人が書いても、ヒッタイト人が書いても区別は付かないもののようです。 読み上げる場合は、アッカド人はアッカド語の発音をし、ヒッタイト人はヒッタイト語の発音をしたものと考えられます。 それぞれの「訓読」をしたのだろうと思います。 この文書には AN-IM-NU-NI と記された箇所があります。 また、AN-IM-NU-NI と言う新たな文字を作ったとも考えられます。 漢字は細かく書き分けられたので字形を増やすことが出来ましたが、楔形文字は字形を増やすことが困難です。 文字の組み合わせで新たな語を表すことは必然です。 漢字の形声文字のようなものとも見られます。 鮎は「なまず」を意味し、現在の日本では「あゆ」を表します。 これは、日本人が鯰(なまず)と鮎(あゆ)を同一視していることにはなりません。 しかし、鯰と鮎は同じ川魚で、いずれも食用になるなど大きくかけ離れたものではありません。 イシュクル、アダド、ハダト、タルフンニは同一視されたと説明されます。 同一視は、本来異なることを前提とした言葉です。 「お日様」と「太陽」は同じものを指していて、同一視とは言わず、別名と呼びます。 したがってイシュクルとタルフンニは本来異なる神だと言うことです。 しかし、知りたいのは AN-IM-NU-NI と記した人々はイシュクルを知っていたのか、知っていたなら別名と思っていたのかどうかです。 もちろん、タルフンニを AN-IM-NU-NI と書くことに決めた人々はイシュクルを知っていたことは確かです。 しかし日本人が弥勒菩薩を知りながらボーディ・サットヴァを知らないように AN-IM-NU-NI はタルフンニを表しただけのことなのかも知れません。 これが、ヒッタイト語なのかどうかは分かりません。 ラテン文字転写したものがヨーロッパの何かの単語に聞こえるなら解読で取り残されたはずはありません。 四方の王 楔形の字形になるのは BC2600 以降のようです。 この文字をシュメール人だけが使用した時期があるのかどうかは分かりません。 速い時点から、シュメール人もアッカド人も楔形文字を使用していたものと思います。 BC2300 ころアッカド帝国の時代になると主要な文字の担い手はアッカド人になったものと思います。 ウル第3王朝が誕生する BC2100 ころからBC2000ころまでは、再びシュメール人が主要な担い手となります。 その後は、シュメール人もアッカド人も認識されなくなって行き、アムル人の王朝が主要な文字の担い手になりました。 楔形文字を使い始めた人々と、ウル第3王朝のシュメール人との間には五百年の隔たりがあります。 アッカド帝国からウル第3王朝の時代の文書には2種類の文体があり、それがシュメール人とアッカド人に比定されるのだと思います。 この判定は地理的な分布の偏りによる判断だと思います。 「新シュメール語」は BC2300-BC2000 を指し、アッカド帝国からウル第3王朝の時代のシュメール人の連続性があると見られているようです。 この時代の文書が2種類に大別されるとしても、シュメール語とアッカド語を母語とした人々だけが文書を残したわけではないと思います。 アッカド帝国の王ナラム・シンは、kibiratim arbaim と号し、4つの世界の王でした。 千数百年後のアケメネス朝の時代にも、キビラティ エラベティ のように伝わっていました。 google翻訳では「4」のアラビア語は「エラバワ」と聞こえます。 シュメール語からは、4世界を1つにする王のようです。 最初の統一王朝はアッカド帝国で、実際に称号を使用したのはアッカド帝国でした。 シュメール人の王が、この称号を使うのはウル第3王朝の時代になります。 anubda limmuba は、ナラム・シンにも付けられていて kibiratim arbaim より後で作られたとも言えません。 ただし、単に数詞で表すことは少ないと言うだけなのかも知れません。 この字形は「隅」や「窪み」であり、「隅々まで明らかにする」と解釈されるようです。 「まったき四方」の王や、「四方を統べる」王のようです。 新アッシリアのエサルハドン(Esarhaddon、BC681-BC669)の時代には、nu-ur kib-ra-a-ti 四方の光り のようにも使われます。 アッカド帝国の人々は既にカナン諸語の影響を受けていたとしても不思議はありません。 anubda limmuba がシュメール語であるかどうかはともかく、ウル第3王朝後は使用されなくなったことは確かです。 kibiratim arbaim は、カナン諸語に分類されることになる言葉を話す人々によって使われ続けました。 アッカド文字の語形変化 接頭辞や接尾辞と呼ばれる語形変化は言語の類似性を判断する目安になるようです。 日本語にはない概念なので、アラビア語のケースを見て置きます。 google翻訳に聞いてみると、「語る」の語根は qwl のようです。 母音の記述が省略される言語なので「音声を聞く」をして見ないと、どんな語なのか分かりません。 「彼女が語る」は、ta-qu-u-lu のようです。 動詞は、主語も表していて、省略すると彼や彼らと訳されるようです。 接頭辞の t は女性形を示すようです。 日本語にないのは、1つの語に付加情報を盛り込もうとする点だと思います。 英語では単数や複数、時制などが盛り込まれますが、アラビア語は徹底しているようです。 名詞でも、同じようなことが言えます。 漢文にも時制がありません。 文意によって時制を解釈するのは文章語の特長のようです。 異なる音声言語の人々が共通に使用している文章表記方法に、複雑な時制のルールを持ち込むのは適切では無いのだと思います。 漢籍の文章表記方法は「簡潔」だとも評されます。 日本語の時制は文末で示されます。 「得虎子」を「こじをえむ」の「えむ」のような文末は漢文によって生じたものだと思います。 本来日本語では、虎児を「う・る(得る)」のか「え・ない(得ない)」のかで「得」の音が変わるものだと思います。 「えむ」や「えず」と言うことにして、時制や、音声言語の影響を消しているものと思います。 語が持つ情報には以下のものがあるようです。 格 文章中の語の役割。 主語や目的語と言いますが、それらが語形変化として表記される場合、「格」と呼ばれるようです。 格には、 主格(nominative)、対格(accusative)、属格(genitive)、斜格(Oblique)があるようです。 主格以外は目的語を分類するものになります。 LUGALと言う文字は、アッカド語では shar-ru のように読まれたとされています。 語幹 shar があり、主格は -ru で表されたと見るようです。 -ri は、属格を表し、「王の」と訳されるようです。 英語に訳される場合は、前置詞 of となる場合のようです。 Wikipediaには、sharr と dann について、格に関する表が載っています。 名詞 sharr 形容詞 dann 男性 女性 男性 女性 主格 (nominative) 単数 -um -at-um -um -at-um 双数 -an -at-an 複数 -u -at-um -um -at-um 対格 (accusative) 単数 -am -at-am -am -at-am 双数 複数 属格 (genitive) 単数 -im -at-im -im -at-im 双数 複数 斜格 (Oblique) 単数 双数 -in -at-in 複数 -r -at-im -im -at-im これは、アッカド語の説明なので、文字に現れているとは限りませんが参考になります。 名詞は、sharru で、語幹は sharr のようです。 楔形文字の LUGAL が sharru と読まれたと見られています。 形容詞は、dannu で、「強い」です。 アッカド語で dannu と読まれたと見られる文字は沢山あるようです。 シュメール語の kalag や lirum で、KAL-GA や SHU-KAL のように綴られました。 LUGAL-ru、LUGAL-ri と表されたのが音声言語の語形変化の反映と考えると、末尾の m が文字では表されていないことになります。 「私は彼に手紙を送った」の場合、「私」は主格、「彼」は与格、「手紙」は対格です。 「私の手紙」、「天の導き」の、「私の」、「天の」は、属格と言うようです。 斜格(Oblique case)は、主格以外の総称のようです。 表の対格と属格の双数と複数は空欄ですが、斜格で説明されていると言うことのようです。 目的語の語形変化は、対格の単数、属格の単数形、それ以外の3つに分けられていると言うことです。 形容詞の語形変化は、「強い王に」や「彼らは強い」のような違いを示す物のようです。 それゆえに彼らは強い。 (EA126) アブディ・アシルタの名前のIRはARAD2(12035:ARAD x KUR)と翻字されるようで、なぜアブディなのかは分かりません。 「強い王に」の場合はダニ、「彼らは強い」はダヌのようです。 表との関係は良く分かりませんが、-u や -i のように語尾が変化するのは確かそうです。 音節文字 古事記では、1音1字で発音が表されました。 1音節を表すための文字は、多くの人が同じ音を想起する文字が選ばれたはずです。 漢字の学習には反切が使用されたものと思います。 中国では反切によって漢字の音が表され、辞書が作られていました。 日本にも伝来していたものと思います。 「広韻」は1008年ころのものですが、「夢、亡中切」、「語、魚巨切」のように記されています。 「亡」の声母と「中」の声母を除いたもので「夢」の音を示します。 1音1字は、反切の音を示す漢字や、その音(声母)の認識が元にあるものと思います。 万葉仮名は1文字が1音節と言った決まりはなく、複数文字で1音節だったり(五十:い)、1文字で複数音節を表したり(下:おろし)しました。 音も訓も使われました。 これは、現在の仮名混り文のようなことは想定になく、万葉仮名だけで文章を書くものだったことを示していると思います。 仮名文字は1文字が1音節を表します。 元になったのは漢字の音読みだけでなく、訓読みからも生じています。 アッカド文字の音節文字が、どのように選ばれたのかは良く分かりません。 しかし、概ね Unicode の文字の名前になっている音で、アッカド人もシュメール人も読んだと見られているようです。 ただし、このシュメール人はウル第3王朝の時代のシュメール人と言う意味だと思います。 音節文字は、母音(V)と、CV、VC、CVC が主に使用されたようです。 ヒッタイトは印欧語族とされていますが、ヒッタイトも下表のサブセットを使用しました。 ヒッタイトの楔形文字の解読の切っ掛けは、wa-a-tar が「水」と読めたことだと説明されていますが、wa は下表にありません。 PI(1227F)が wa と転写されています。 ヒッタイト語が解読される前は、PI-A-TAR (KBo 27. 42)は、PI-A-TAR と転写されていて、解読の結果として wa-a-tar と転写されるようになったのだろうと思います。 ノルウェー語の水はバン(vann)、ドイツ語はバサー(wasser)のようです。 ラテン文字の V と W は一意に子音を示しません。 また、下表からは、pe、pi、be、bi がアッカド文字では区別が付かないことが分かります。 アッカド文字には V と転写される文字はなく、これも文書からは区別が付けられないもののようです。 U、V、W の区別がはっきりするのは、11世紀に英語がラテン文字で記されるようになってからのようです。 PI を wa と翻字するようにした理由は定かではありません。 wa も翻字なので、必ずしも音を示す物ではありませんが、「ワ」と解釈した人がいるのは確かそうです。 紛らわしい文字 アッシリアの王エサルハドン(BC681-BC669)の業績を記したプリズム(Esarhaddon Prism)には、UN. MESH) と翻字されている箇所がいくつもあります。 文字の形を、Unicode から探すと、左図のように GIS-ZA-ME-UUU となります。 新アッシリアの字形では、2文字と解釈されるらしく、NU-MESH となりようです。 MESH の字形は、2通りありますが、Esarhaddon Prism にはいずれでもない形状で出てきます。 最初の MESH の字形は、ME と3つの U から出来ていて、ベヒストゥン碑文(RIP 1a)にあります。 2つ目は、ME と THREE ASH からできています。 Esarhaddon Prism では、横の楔が1つ少なくなっています。 MESHとMESは異なる文字です。 U を3つ書いた左向きの矢印と、右向きの THREE ASH 同じように使われることがあるようです。 GA、qa2 GA と QA は、あまり違わない音なのだと思います。 Unicodeでは、QAの名前の文字は含まれないので区別不要と考えられたようです。 qa2 は、CDLI の翻字で、左図の3字形は、概ね qa2 と翻字されているようです。 また、左図のEA10では、新アッシリア字形のGAの縦棒が1つ少ない字形を ga と翻字しています。 CDLI の qa と翻字されている文字は、以下のような文字のようです。 Unicode の GA と、EA7の字形が同源なのかどうかは分かりませんが、パソコン用の新アッシリアの字形のフォントは、EA7と同じ系統の字形が採られれています。 BU cross BU、IN IN の Unicodeの字形(シュメールアッカド)と、BU CROSSING BU の新アッシリア字形は良く似ています。 TUM、TU4 カッシート神名表とEA1 カッシート神名表 Kassite deities と呼ばれるタブレット(BM 93005)があるのを知りました。 () このタブレットの造られた年代がどのように評価されるのか分かりませんが、バビロン第3王朝、カッシート朝と考えるとアマルナ文書の時代です。 EA1は、バビロニアの王からの書簡とされています。 差出人はカルドニアシュのカダシマンエンリルです。 楔形文字の字形は、大きく3タイプで、アッカドシュメール、ヒッタイト、新アッシリアです。 新アッシリア王国は紀元前9世紀以降の話しで、アマルナ文書の時代から五百年も後のことです。 しかし、アマルナ文書で使用された字形は「新アッシリア」の字形が最も近いものです。 アッカドシュメールの字形は、元字としてずっと使われます。 記録密度の高い書簡では、ずっと早い時点から簡略化された字形が使用され、新アッシリアの時代にも、大きな変化なしに使われ続けていたようです。 しかし、Kassite deities で使用された文字のうち、図の文字は、新アッシリア字形と異なっています。 それらの文字は、EA1と同じで、このタブレットがアマルナ文書の時代の字形で書かれていることを示しています。 EA1には、AT と翻字される文字と、AD があり、区別したのかも知れません。 新アッシリアの時代には、横棒が3本でも4本でも、AD と翻字されているようです。 Akkadian の lu Akkadian の RU NIN NIN は、Unicode の NIN に対して、矩形の中の横棒が1本の NIN9 があります。 書簡には図の最上段のように書かれたようです。 これは神名に使われるので新アッシリアの時代にも登場します。 しかし、NIN も NIN9 も、新アッシリアのフォントには字形が入っていません。 この文字は、新アッシリア字形のリストでは、SAL+MA や SAL+TUG2 と記されています。 これは、新アッシリア字形のリスト作成の基準では、1文字ではなく、2文字の組合せと見ることになったようです。 しかし、NIN と記されているので、音は、SAL-MA ではなく NIN と言うことのようです。 SAL+MA と SAL+TUG2 は、横棒の数が異なりますが、少なくとも新アッシリアの時代は区別されなかったと言うことだと思います。 tukul が使われている古い時代のタブレットは KU 、あるいは DUR2 と刻んでいるようです。 ePSD で tukulu を調べると、左図に上げた文字は該当しないようです。 ティグラト・ピレセルの名は旧約聖書にあり、ギリシャ語で伝わっていました。 その名前が楔形文字の KU-TI-A-E2-SHAR2-RA に引き当てられた理由は分かりません。 新アッシリアの時代の字形では、左図の文字は区別されていないようです。 DUR2 と TUG2 は、横棒の数が異なります。 新アッシリアの字形には横棒の数が3本のものが無いようです。 DISH-MA が近い形のようです。 ティグラト・ピレセルの名の tukul は、3本のようです。 ティグラト・ピレセルの名は、新アッシリア字形の KU の横棒を1つ減らした形に書かれているのかも知れません。 左図のように、tukul を DISH-MA と書いたものもあります。 海の国(tam-tim) 海の国や海の水と訳されている tam-tim は、UD-DIM のようです。 継承者 後継者、継承者、息子のアッカド語に aplu があり、王名に使われていると考えられています。 ティグラト・ピレセル(トゥクルティ・アピル・エシャラ)、メロダク・バルアダン(マルドゥク・アプラ・イディナ)です。 ティグラト・ピレセルのアピルに当たる部分は A です。 メロダク・バルアダンは、AN-MESH-A-shum2-NA や DISH AN-AMAR-UD-ibila-shum2-NA と綴られました。 ePSD の aplu には、eduru、eseg、hibiz、ibila が上げられています。 eduru は、Unicodeの A TIMES A(12001)です。 ibila は、複数の字形が上げられていますが、王名に使用されている例は左図のような字形でした。 A は、ありません。 したがって、王名として読む際に A x A から類推を働かせたもののようです。 ただし、A x A も、単に a と翻字されるのかも知れません。 アルリムの名の1文字目は、図の左端のように移されました。 この文字は、Unicodeが収録しているA2の字形の右側だけに似ています。 新アッシリアの字形が右の2文字ようになることを考えれば、A2なのかも知れません。 もともと、Unicodeのフォントの形状は多くはないようです。 CDLI の P431794 の A2 は、中の細かな部分が1行しかないようです。 MUG、NI、TUK NIG2 DIN ベヒストゥン碑文のニテンドーベルに使われているDINはヒッタイトのフォントのDINの形をしている。 CDLIのtu4は新アッシリア書体のTUMのようだ。 ベヒストゥン碑文では、縦棒が無くなっているが、これもtu4となっている。 MUSH ダレイオスの名に使われ、MUSHと翻字されている文字は、新アッシリアの書体のMUSHより縦棒が一つ少なく、SHEとHUを組み合わせた形状にスケッチされている。

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楔形 文字 変換

資料等をスマホで画像として残したとき• Word(ワード)では直接テキスト化にならない PDFファイルを、どうしてもテキスト化したいとき• ホワイトボードに書かれた文字をスマホで画像として残したとき 大体こんなときに「画像」や「PDF」をテキスト化して「Word(ワード)」に変換したいと思ってしまいます。 結論から言うと、方法は異なりますが、すべてテキスト(文字)化することができます。 今回は、• 資料等をスマホで画像として残したとき• Word(ワード)では直接テキスト化にならない PDFファイルを、どうしてもテキスト化したいとき この場合のテキスト(文字)化する方法をお伝えします。 スマホ等で撮影した画像を Word に変換する方法• テキスト化にならない PDF ファイルを Word に変換する方法 ここではWord(ワード)に貼り付ける方法をお伝えしてきましたが、 Excel(エクセル)やPowerPoint(パワーポイント)などに変換したい時でも、やり方は同じです。 Googleのアカウントを持っている方は多いと思いますので、ぜひ活用してみてくださいね。

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