満州 事変 わかり やすく。 5分で分かる満州事変!原因、関東軍の目的をわかりやすく解説!

混迷のはじまり。「満州事変」の歴史

満州 事変 わかり やすく

張作霖爆殺事件とは? (爆破事件の現場 出典:) 張作霖爆殺事件とは、1928年(昭和3年) 列車に乗っていた張作霖が日本の関東軍によって爆破、暗殺された事件のことを言います。 この事件は満州に勢力を伸ばしたい関東軍が起こし、この事件以降日本はどんどん満州に侵攻していきます。 ここからは張作霖爆殺事件は起こるまでの背景・事件の経過・影響などを詳しく解説していきます。 張作霖爆殺事件が起こった背景や目的 満州軍人「張作霖」と当時の中国についてみていきましょう。 満州がある中国はこのころ各地にいた 軍閥というグループが各地でバンバン争っており、いわゆる内乱状態でした。 今回の主人公の 張作霖も軍閥のひとつであり満州を支配していました。 しかし、中国で一番勢力があった 蒋介石率いる国民党軍が中国を統一するため、国民党軍の南京という場所から北に進軍しました。 このことを 北伐と呼びます。 関東軍は張作霖がどんどん日本から離れていき、さらに日本の敵でもある国民党軍にあっさり負けてしまったため、張作霖の存在が邪魔でしかありませんでした。 もちろん関東軍はいちいち日本政府にいっても張作霖を殺すことにYESとするはずがないということはもちろん知っています。 つまり、この事件は 日本政府に伝えず関東軍の独断でやったのです。 しかもこの当時の憲法である大日本帝国憲法には軍は天皇が動かす権利を持っている 統帥権 ため、天皇の命令をガン無視して勝手に事件を起こすのは 憲法違反。 そのため、関東軍はこの事件を日本で公表せずに 満州某重大事件という形でバレないように報道したのです。 張学良は犯人は国民党軍ではなく、日本の関東軍であることを独自の情報網でキャッチしていました。 そして張学良は父を殺した日本に対して大激怒します。 そりゃ、お父さんが殺されたら誰でもそうなりますよね。 張学良はこの事件以降、日本に対して反抗心丸出しの行動をします。 張学良は自分の拠点に一斉に 青天白日満地紅旗を掲げます 青天白日満地紅旗は国民党の旗です (国民党の国旗 出典:) この意味は満州の支配権をなんと父の敵であった国民党軍に渡すというものでした。 敵の敵は味方ってやつです。 そして国民党軍はこのまさかの事態によって思わぬ形で中国を統一することができました。 その後、張学良は満州の支配がなくなった後も日本に対抗します。 張学良は日本を倒すため、当時国民党軍の敵であった中国共産党と仲良くしてもらおうと蒋介石を軟禁、承諾を得ます。 ( 西安事件) こうして日本へと対抗していくのでした。 しかも張作霖を爆破したことによって逆に関東軍が不利になってしまいます。 そして張作霖が爆破されたということはすぐさま 昭和天皇の耳に入ります。 昭和天皇は当時の首相であった 田中義一に『これ許可なしに行われたテロだからすぐさま犯人を取っ捕まえて厳重に処罰しなさい!』と言い・・・田中は天皇に『すぐさま犯人を捕まえて軍法会議で処罰します!』と返事しました。 しかし、関東軍が猛烈に反対したためどうすることもできませんでした。 そして田中は天皇に『この事件は犯人ではなく、現地の関東軍司令官には警備責任がある』と言います。 要するに田中はテロを起こした犯人よりも関東軍のお偉いさんの方が悪いと言ったのです。 これに対して天皇は大激怒、「話が全然違うじゃないか!!!もうお前の話は聞かん!出て行け!」と言い田中を追い出します。 この当時、天皇から見放されれば首相はやっていけないので田中は首相を辞めることになりました。 張作霖爆殺事件の影響 関東軍は張作霖を爆破したことによって張学良は国民党軍についてしまい、国民党軍の影響力が満州まで広がり、関東軍は満州を手に入れるのはおろか逆に不利になってしまいました。 関東軍はこのままでは満州が完全に国民党軍のものになってしまい、日本における満州の支配力が完全になくなってしまうかもしれないと思い始めていきます。 当時満州は日本の経済を立て直すことができる 日本の生命線とも言われるほど重要な土地で、日本にとっては貴重な資源である石炭や鉄鉱石などがバンバン取れるこの満州を手放すわけにはいかなかったのです。 そして日本は満州の支配を強引でも進めるために 満州事変を起こして日本の傀儡である満州国を作ることになっていくのです。

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【昭和時代】満州事変から太平洋戦争までをわかりやすく(後編)

満州 事変 わかり やすく

満洲国(満州国)の概要(成立経緯と成立年月日) 満州国は昭和7(1932)年3月1日に、中国大陸の東北部に建国された国です。 昭和6(1931)年9月18日、柳条湖事件をきっかけに が勃発すると、日本の関東軍によって満洲全土が占領されます。 のちに関東軍の主導のもと、独立した国家として「満洲国」が成立しました。 国名 満洲國(満州国) 建国年月日 1932年3月1日 滅亡年月日 1945年8月24日 首都 長春(1932年3月1日-3月14日) 新京(1932年3月14日-1945年8月9日) 通化(1945年8月9日-1945年8月9日) 皇帝 愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ) スローガン 五族協和・王道楽土 「満洲」という名前は、地名ではなく民族名です。 この地域に居住していた女真(じょしん)民族は、中国古来の自然哲学の思想である 「五行説(水・木・火・土・金)」のうち「水」に縁があるとして、「満」「洲」と、いずれもさんずいの字を民族名に込めています。 そのため本来、 「満洲」が正式な名称ですが、新字体が頻用される現代の事情を考慮して、東京歴史倶楽部では「満洲」と「満州」の名前を併記しています。 満洲国(満州国)の言語・宗教・風俗 民族 漢民族 風俗 アヘンやモルヒネの需要が高かった 言語 山東語、北京語、満州語、蒙古語(モンゴル語)など 宗教 仏教、道教、喇嘛教など。 参考文献:東京朝日新聞 特別付録「新満洲国要覧 写真と解説」 満洲国(満州国)の経緯と理由 満州国は、以下のような経緯を経て建国されました。 歴史映画のラストエンペラーでは溥儀の生涯が描かれているわ。 建国当初は日本と満州は 「共存共栄」といった、同列的な友好関係が築かれていました。 しかし徐々に 満州国は「天照大神の神麻・天皇陛下の保佑」によって成り立つという完全な上下関係であることが示されるようになります。 国際的な満洲国(満州国)の否認とその理由 こうして日本は満州国を建国しましたが、 国際連盟によって建国は否認されてしまいました。 建国が認められなかったのは、以下のような事情がありました。 満洲国否認の理由 満州事変勃発に際して日本は中国側から に訴えられ、満州の地に調査団(リットン調査団)が派遣されました。 この調査は、昭和7(1932)年3月-6月までの3ヶ月間のあいだに渡って行われ、日本はこの 調査中に満州国を建国していたのです。 同年9月に報告書が提出され、翌年2月の国際連盟の審議のなかで、日本の満州国建国は不承認という結果になります。 結果に不服を唱えた日本はし、国際的な孤立路線を歩むこととなりました。 国際的な日本非難に対して、日本の満州行動を擁護していたコロンビア大学教授のF. Rエルドリッヂ氏は、 「罪は満州侵略ではなく、国際連盟を蔑視したという事実である」との指摘をしています。 満州国(満洲国)出身の有名人・芸能人 「満洲国は日本の傀儡政権だった」と述べたことからわかるように、満洲国には多くの日本人が居住していました。 1945年8月までに、 約200万を超える日本人が満洲に居住しており、特定の外国に住む日本人との数としては最大規模を誇っていました()。 そのため、満洲で生まれた、あるいは幼少期を過ごした著名人も多数存在しています。 有名どころだと、 『天才バカボン』の赤塚不二夫氏も満洲生まれの日本人でした。 満洲国の出身者一覧 赤塚不二夫:1935年9月14日 — 2008年8月2日 板東英二:1940年4月5日(公称) 草野仁:1944年2月24日 小澤征爾:1935年9月1日 終戦直後に満州国(満洲国)は滅亡 日本は、漢人・満州人・朝鮮人・モンゴル人・日本人の 「五族協和」と 「 王道楽土」のスローガンのもと、満洲国は「独立国家」であることをうたっていましたが、実質的には日本の 傀儡国家でした。 しかし、大東亜戦争の末期に宣戦布告をしてきた 赤軍(ソ連軍)によって、満洲国は侵攻されてしまいます。 8月15日に日本が敗戦を迎えると、8月18日に溥儀は「退位の詔勅(しょうちょく)」を読みあげ、満州帝国は建国から13年で滅亡しました。 満州国(満洲国)の現在の地図 2019年現在の満州の場所は、現在の 遼寧省(りょうねい)、吉林省、黒竜江省の東三省と熱河省を含む地域にあたります。 現在中国では、かつての満州国は 「偽満州国」という蔑称で呼ばれ、現在は「中国東北部」という呼称で呼ばれています。 満州国(満洲国)に関するおすすめの本・書籍 「もっと満州国に詳しくなりたい!」 「卒業論文の作成や自習のために書籍が欲しい」 「難しかったので、もっとわかりやすい本で勉強したい」 一九三二年三月、中国東北地方に忽然と出現し、わずか一三年五カ月後に姿を消した国家、満洲国。 今日なおその影を色濃く残す満洲国とは何だったのか。 本書は建国の背景、国家理念、統治機構の特色を明らかにし、そこに凝縮して現れた近代日本の国家観、民族観、そしてアジア観を問い直す試みである。 新たに満洲・満洲国の前史と戦後に及ぼした影響など、その歴史的意義を想定問答形式によって概観する章を増補した。

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5分でわかる義和団事件!概要や背景、日本への影響などをわかりやすく解説!

満州 事変 わかり やすく

満州事変 1931年(昭和6年)9月18日、満州の奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で日本政府経営の南満州鉄道(満鉄)が爆破される事件が起きます。 満州は日露戦争でのロシアの賠償として日本が手に入れた領土でした。 譲り受けた権益は、遼東半島の租借権、旅順~長春間の南満州鉄道とそれに付属する炭鉱採掘権などで、清国との間にも条約を交わし了承していました。 それら満州における日本の権益を守る日本軍守備隊を 関東軍と呼びます。 この爆破事件は 柳条湖事件といい、実は満州に滞在していた日本関東軍による犯行でした。 関東軍は自ら国が経営する鉄道を爆破した後、これを中国側による破壊工作と発表、直ちに自衛の為と称して軍事行動を開始しました。 世界恐慌以来、経済的に不安定となった日本は、満州の開発に乗り出します。 ところが中国側の排日運動が強まり、条約無視の妨害や迫害、テロ事件が相次ぎます。 そのうえ、条約に反し満鉄包囲の鉄道建設を企て、満鉄は業績不振に陥り深刻なダメージを受け、失業者も急増してしまいました。 中国側は来る日も来る日も排日活動を続け、遂に痺れを切らした関東軍が謀略とはいえ、対抗措置に出たのです。 満州事変勃発後、関東軍は日本政府の 事変不拡大方針を無視し、大軍を率いて奉天をはじめ主要都市を次々に占領し、遂に翌1932年(昭和7年)3月、映画「ラスト・エンペラー」でおなじみの「愛薪覚羅傅儀(あいしんかくらふぎ)」を代表者とし、 満州国を建国します。 柳条湖付近で満鉄爆破地点を調査するリットン調査団 調査団は国際法に照らし合わせ、満州国建国については違法と言う見解でしたが、満州における日本の主張や権益の重要性に対しては、日本に対する中国のやり過ぎた排日活動などを見て配慮を示しました。 しかし国際連盟は満州国建国を承認せず、それに納得できない日本は 国際連盟脱退を決めざるを得ませんでした。 日本は国際連盟脱退後も独自に中国に対する和平への模索を続け、1933年(昭和8年)5月、中国と 塘沽(タンクー)停戦協定を締結し 満州事変は完全に終結しました。 中国側は満州建国こそ承認しませんでしたが、満州国と中国への鉄道乗り入れ、郵便・電信・電話の連絡と税関業務の調整などの実務協定には応じました。 その結果、日中関係は安定化へ向かっていきました。

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