なぜ ユダヤ 人 は 迫害 され た のか。 なぜユダヤ人は迫害を受けた?ユダヤ人の歴史と迫害の歴史について解説

ヒトラーのユダヤ人嫌いがヤバい!ユダヤ人を迫害した本当の理由

なぜ ユダヤ 人 は 迫害 され た のか

ユダヤはユダ王国という国の民でしたが戦争で国が失われたことで「国無き民族」となりました。 この辺は旧約聖書の「バビロン虜囚」に描かれています。 (ちなみに、ユダ王国時代からユダヤの民は周辺の国や人々を蛮族として見下していた。 見下していた相手に攻め滅ぼされ捕虜にされた恥辱は凄まじかった様子) そこでユダヤの支配層(王族や神官)はユダヤ人のアイデンティティを失わせないため、また自分たちの支配と影響力を保つためにユダヤ民族のための民族宗教を作り出します。 それがユダヤ教。 エルサレムを聖地とし、いつかはイスラエルの地に国を復活させる。 神と契約した唯一の存在たるユダヤは最後の審判で神に救われる唯一の民族。 そのためにはユダヤ人としての戒律を守るべし… とまあそんな感じなんですが。 この教えのせいでユダヤは他民族や他宗教と「自分たちは違う」という意識を(もともとあったけどさらに強く)持つようになってしまいます。 地中海一帯をローマ帝国が支配するとユダヤ人もまたローマ帝国の中で生活するようになるのですが、上記のような事情もあってユダヤ人はユダヤ人同士でコミュニティを作ってユダヤ人が固まって生活することが多くなります。 そしてユダヤ人は「ローマから独立しエルサレムを奪還する」という壮大な夢を見て反乱を起こしたのです。 2度の大きな反乱はローマ軍によって制圧されますが、このことが「ユダヤ人=ユダヤ教は危険」と見られるようになってしまう。 そしてエルサレムへの強い執着が特に問題とされユダヤ人の立ち入りを禁止する。 このことがユダヤ人にとってはますます「聖地を奪われた!」という強い恨みとなり、ローマとの大きな溝になってしまいました。 ローマ帝国崩壊後にローマの風習や文化はヨーロッパ各国に微妙に継承されていき「ユダヤ人危険」というのもまた受け継がれました。 平時は「変な連中だし異教徒だけど、まあ金もあるし働いてるし…」と大目に見られていても戦争などが起こると途端に「異分子だし危険かも」という目で見られます。 敬虔なキリスト教徒の一般市民からすると「異教徒、教会にも来ないし普段から何してんだか何考えてるんだか判らん怪しい連中」と見られますので魔女狩りパニックなんか起こるとユダヤ人を魔女として捕らえて…となる。 一方のユダヤ人も「あいつらと俺らは違うんだ」という選民意識がある。 国や地域に対する愛着も無いし農地を持たないので戦争などが起きたら財産まとめてとっとと逃げ出す。 お互い相容れないのです。 ローマ教皇のお膝元であるローマに在住しているユダヤ人なんか扱いに困るので(そりゃカトリックの総本山で異教徒が大手を振ってたら困るよね)、教皇がユダヤ人の居住区を制限したりしています。 こういうのを差別と呼ぶか区別と呼ぶか微妙なところ。 ユダヤ人は当然これを「差別だ!」と考えるわけで。 イングランドでは国王が「ユダヤ人の在住禁止、たまに来る程度ならともかくイングランドに住むのは禁止」として350年間ユダヤ人のいない時代がありましたが、この法律が撤廃されるとユダヤ人はさっさとイングランドに戻ってきて気づいたら国会議員にまでなってしまう。 ここまでくるとちょっと怖い。 「隙を見せると連中に国が乗っ取られるのでは」という微妙な恐怖感がお分かりいただけるでしょうか。 移民の多い国はこういう恐怖が常にあるのです。 数年前、フランスで学校が銃で襲撃される事件がありました。 この学校が「ユダヤ人学校」でして… 事件から判ることは「ユダヤ人に対する差別意識が今でもある」ということと「ユダヤ人はユダヤ人だけが通う学校を作っている」ということ。 おそらくユダヤ人は「差別から子供たちを守るため、ユダヤの正しい習慣を守るため」に学校を作っているのでしょうけれどそれって「他者と自分たちが違うという意識」からくる「逆差別」的なものではないだろうかという気がしなくもない。 ちなみに犯人はイスラム教過激派の一味だったらしく、イスラエルによるパレスチナ(ユダヤ人によるアラブ人)迫害への怒りからくるものだったようで。 こうなると「ユダヤが他者を差別したからか、他者がユダヤを差別したからか」が判らなくなる。 亡国の民であり少人数の寄留民だからスケープゴートにしやすいのです。 ユダヤ人はユダヤ教という先祖代々伝わる民族宗教があるので キリスト教というユダヤ教から生まれた新興宗教に改宗しなかったのです。 それが世界制覇を狙うキリスト教にとってはむかつくのです。 イエスを神と認めず人とみなす宗教や団体を徹底的に撲滅してきた。 ユダヤ人やギリシャの学者たちを殺した。 ギリシャの賢人たちもパウロのいうことなど信じなかった。 キリスト教は孔子孟子、ブッダ、ソクラテス、プラトン、モーゼ、ジョン・フォン・ノイマン、アインシュタインみたいな賢人を恐れます。 イエスさんのライバルたちを殺してきた。 影響力があるからです。 影響力があって金融する民族は殺されてきました。 財産没収するチャンスです。 大体ヨーロッパ人は常に異民族から略奪して生きてきた。 キリスト教を作ったときイエスをローマ人にしてユダヤ人を絶滅させたかったのです。 だけどユダヤ人は全世界に散ってたので殺しきれなかったのです。 今はイスラムがもうれつに狂暴ですが中世~近代はキリスト教が狂暴だった。 イスラムはオスマントルコ崩壊くらいまでは異教徒に寛大だった。 ユダヤ人を優遇していた期間イスラムは栄えた。 キリスト教がなかったら人類は自由奔放に研究かさねて科学がもっと発達してただろう。 391年キリスト教会は70万巻の蔵書をほこるアレキサンドリア図書館を焼き払いパピルスの巻物、プトレマイオスが集めた古代の文書を焼き払った。 昔からあった学問所は閉鎖された。 ユダヤ人のシナゴーグを焼き払いユダヤ人を殺す。 ギリシャ語の文献持ってるだけで火刑になった。 学問の中心はペルシャに移動する。 ギリシャアルバニアの歴史に中世部分がない。 暗黒時代には教育と呼ばれるものはほとんどなく聖職者だけ教育を受けていた。 聖職者に支配させ 無知文盲の盲従分子だけ欲しかった。 カトリック教会が西洋社会の実権握ると科学技術は廃れトイレ、水道、道路網もなくなります。 古代ローマのセントラルヒーテイングもなくなった。 古代ローマよりよっぽど遅れた。 セメントの作り方まで忘れた。 古代ローマの大理石の彫刻は叩き壊され石灰に化した。 教会は書物を焼き学術研究を禁止した。 西欧の経済は破綻し教会は商業活動を停止においこんだ。 教会は暗黒時代に巨万の富をきづいた。 ヨーロッパの多くの地域で教会は各地で異端審問をおこない 裕福なユダヤ人を血祭りにあげて財産奪い金づるにした。 科学が未発達な暗黒時代は天変地異や不吉なことが起こると原因を解明できず ことごとく 悪魔魔女のしわざだ で片づけた。 悪魔魔女を焼き殺さないと自分たちが滅びる と本気で考えてた。 ガリレオの地動説への有罪判決も1963年になってようやく取り消された。 印刷術が伝わるまでは教会は言いたい放題です。 科学が未発達の時代は天変地異が起きると理由がわからないため全部悪魔魔女のしわざで片づけた。 魔女を滅ぼさないとこの世は滅びると本気で信じてたのです。 魔女はこんな顔してますとポスター貼ってた。 教会ではユダヤ人イコール悪魔魔女と叩きこんでたから ペスト禍や不吉なことがおきるたびにユダヤの陰謀と考えユダヤ人を火刑にして財産を略奪してました。 民衆は無学文盲だったから教会がいうことを鵜呑みにした。 狼男はユダヤ人だ。 ヘンゼルとグレーテルの魔女はユダヤ人だといいふらした。 ユダヤ人が恐れられた理由は影響力が大きかったからです。 当時民衆は病気になるとユダヤ人が作る医薬品に頼ったのです。 ユダヤ人が作る医薬品はよく効きファンが集まる。 教会はユダヤ人の影響力を恐れた。 江戸時代オランダ船で来日した医師、ケンペルの叔父さんが魔女狩りで捕まり火刑にされてます。 中世ユダヤ人はゲットーの外に出ると橋渡にも税金。 よその町に入るたびに人頭税払わされた。 結婚許可が出るのは莫大な税金払えるユダヤ人のみで子供を生むたびに莫大な税金払わされた。 当時のヨーロッパの民衆は病気になると聖職者、神父、教会公認の医師よりも 賢者に治療してもらってたのです。 ユダヤ人が作る医薬品、医療技術にすがりユダヤ人の婆さんに堕胎手術をしてもらってた。 異教徒の治験者が作り出す薬は教会公認の医者の薬より安価で効果があった。 薬つくりの賢女が権力を持つことを教会は恐れた。 医者は自分の無能さを悪魔魔女のせいにした。 キリスト教徒でない異教徒に人気が集まるのを許せない。 異端審問の犠牲者たちは自分を縛るロープや自分を焼き殺す火刑の薪代金まで支払わされた。 拷問されるたびに手数料支払わされた。 犬猫、蛇鶏、これらは魔女の手先とされ処刑されたためにネズミの天敵が消えネズミ大量発生を招いた。 このネズミがペスト菌をばらまいてペスト大流行となる。 ペストはユダヤ人の仕業と沢山のユダヤ人が火刑にされました。 蒙古襲来の時もユダヤ人が手招きしたからと言われ大虐殺された。 ユダヤ人がポーランドに逃げ「ネズミを駆除するように」忠告したのでポーランドはペストを免れた。 1928年ハンガリーの農民が一人の老婆に魔女の疑いかけて撲殺した。 しかし無罪判決だった。 1976年ドイツの独身女が隣人から魔女だといわれ犬と一緒に家に火をつけて焼殺した。 翌年フランスで、魔法使いみたいな顔してるといわれて老人が殺された。 1981年暴徒と化したメキシコ市民が一人の女を魔女だと言って殺した。 この女が魔術を使ってヨハネパウロ2世の襲撃事件を起こさせたと言い出した。 21世紀目前になってもまだ魔女狩りしてます。 思い込みで人を殺すなんて!! ユダヤ教は天国地獄を言わない。 中国の古代賢人たちは非科学的なことを語らない。 一方キリスト教は非科学的なことを信者に盲信させスケープゴートを憎ませます。 キリスト教成立後のヨーロッパでユダヤ人差別迫害が本格的になりヒトラー時代がピークです。 ヒトラーは毎日ラジオで世界中に反ユダヤ宣伝しナチスの行為を正当化してきた。 ユダヤ教は日本神道や仏教、儒教道教、ヒンズー教などとはトラブルを起こさず仲良く生きてこれたのです。 レコンキスタ前のスペインポルトガルで。 ユダヤ人はムスリムと仲良く暮らしてたのです。 イベリア半島が学問、商業文化世界一だったのです。 学問好きのユダヤ人がスペインに集まってました。 異端審問、魔女狩り、ヒトラー時代、スターリン時代の密告。 全部同じパターンです。 常に権力者に密告通報して賞金稼ぎする人間が出てきました。 マタイ伝22におかしなことが書いてあるためにユダヤ人は徹底的に虐められてきた。 ナチス時代ワルシャワ近郊のミンジェビツエで。 ユダヤ人がSSによって広場に集められた時、ラビが申し出た。 ラビは髭を剃って旅装束だった。 「一言話させて下さい」 「2千年前のことです。 ユダヤ人は全然罪のないイエスに死刑を言い渡した。 ユダヤ人はこう言ったのだ。 その血の責任は我々と我々の子孫に振りかかってもよい。 マタイ伝22書。 おそらく今その瞬間が来たのだ。 それなら今出かけよう。 出発しましょう」 ユダヤ人が本当にこんなこと言ったのだろうか?私は信じられない。 1941年ウクライナ、レンブルグで起きたポグロム.

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ユダヤ人の迫害理由とキリスト教の誕生

なぜ ユダヤ 人 は 迫害 され た のか

しかし、 ヨーロッパでは、ユダヤ人に対する憎悪・蔑視が大きかった。 それはどうしてか? ヨーロッパはキリスト教の社会である。 キリスト教の神である イエスを十字架にかけて殺したユダヤ人で ある ・・・・ この言葉を、キリスト教徒は伝えてきた。 キリスト教徒のユダヤ人に対する憎悪の根拠は、 ゴル ゴダの丘に発する。 キリスト教が根をおろした中世社会で、ユダヤ人は次々と市民権を奪われた。 ヨーロッパでは、6世紀頃か らユダヤ人の権利を否定し、迫害する動きがみられた。 居住区も、キリスト教徒から隔離して、16世紀頃から ゲットー 強制隔離地区 に押し込められた。 ユダヤ人たちは、商取引の分野に進出し、財力をつけ自分たちの身を守ろうとした。 そのため、ユダヤ人の 中には金貸しなど金融業界に進出したり、医者や学者になる人が多かった。 そういった分野で成功し、財をか せいだことも、また憎悪の対象となった。 第1回十字軍でエルサレムを占領した戦士たちは、イスラム教徒ばかりでなくユダヤ人をも虐殺した。 12世紀のキリスト教徒の宗教会議では、ユダヤ人との同居が禁じられ、1290年、イギリスではいち早くユ ダヤ人追放令を出した。 フランスでも、1306年に出され、ユダヤ人は 東ドイツや東欧に逃れた。 イベリ ア半島の国土回復運動も、イスラム教徒だけでなくユダヤ人も迫害され、スペインでは、1492年にユダヤ 人追放令が出された。 14Cに、ヨーロッパでペストが流行した時には、ユダヤ人の大虐殺が行われた。 【市民革命の中で】 迫害され続けたユダヤ人は、18世紀に入ると、フランス革命をはじめヨーロッパの近代化の歩みの中で、一時 市民権を与えられ、ゲットーも解放された。 1776年・・・・アメリカでユダヤ人が解放される。 1791年・・・・フランス議会が、ユダヤ人に市民権を与える。 この後、オランダ、イタリアでもユダヤ人に市民権が与えられた。 ユダヤ人も、市民社会の中で同化して生き る道が開けたかに思えたが、しかし、現実はユダヤ人への差別はいぜんとして残った。 【反ユダヤ主義再燃】 19世紀に登場した新しいユダヤ人迫害の理由は、 民族主義である。 迫害の対象が宗教ではなく、人種の問 題となった。 すなわち、 「 白人は世界で最も優秀な人種であり、ユダヤ人との混血で汚してはならない 」 という結論に達したのである。 ヒトラーによるユダヤ人迫害もこの理由からである。 自由主義の中で、ユダヤ人は多くの分野に素晴らしい才能を発揮した。 歴史に残る人々に、マルクス 経 済 ・ アインシュタイン 物理 ・ ハイネ 詩人 ・ メンデルスゾーン 音楽 たちがいる。 ノーベル賞を受賞した ユダヤ人は70名近くで、他の民族と比較すると圧倒的多数を占める。 帝政ロシアでもユダヤ人の迫害があり、各地でユダヤ人が多数殺害されている。 帝政ロシア時代のユダヤ人 迫害のことを ポグロムといい、1881年から始り、アメリカへ移住する人が増えた。 ミュージカル 『 屋根の上 のバイオリン弾き 』 は、その頃のロシアを題材にした作品である。 三 つの約束 【シオニズム運動への転化】 ユダヤ人たちは、「 自分たちの国がないからこんな目にあうんだ 」 と思うようになった。 迫害から逃れるた めには、「 旧約聖書の中で神様がユダヤ人に与えると約束した地・ パレスチナに国を築く必要がある 」 と考える ようになった = シオニズム。 ユダヤ人がエルサレムにこだわるのは、ダビデ王の時代に統一されたユダヤ王国の首都だったためだ。 祖 国を失い、世界各地に離散したユダヤ人にとってエルサレムは、あこがれの地であった。 パレスチナの範囲は? 地中海の東側に位置し、現在のレバノン・シリア・ヨルダン・イスラエルに囲まれた地域をいう。 明確な線引きはないが、南北約240Km、東西約130Kmで、紀元前12世紀にこの地に定住した 「 ペリシテ人の国 」 という意味でパレスチナの名前がついた。 パレスチナ人とは、 パレスチナに 住むアラブ人をさしていう。 1894年・・・・フランスで、 ドレフェス事件が起こる。 ユダヤ人の ドレフェス大尉は、ドイツのスパイとして軍法会議で終身刑を宣告された。 しかし、真犯人が判明 し、文豪 ゾラは新聞に 『 私は弾劾する 』 という記事を発表するなど世論が高まり、人権と共和制を守る左派 と、軍部・保守党が対立して国論が二分するまでになった。 再審の結果、ドレフェスは無罪となった。 ユダヤ人 に対する偏見の目が、彼に無罪の罪を負わせたのである。 このドレフェス事件を取材していた新聞記者の一人に、 テオドール=ヘルツルというユダヤ人がいた。 彼は、 世界各地から 200名あまりのユダヤ人を集め、会議を開いた。 1897年・・・・ 第1回シオニスト会議が、スイスのバーゼルで開かれる。 * シオニズムという言葉は、ユダヤ人にとって聖地エルサレムにある丘の名前 ( シオンの丘 ) から きている。 つまり、シオンに帰ろうという意味である。 この会議以後、 世界各地に離散しているユダヤ人国家をパレスチナの地に建設しようという シオニズム運 動が盛んになっていった。 しかし、ポグロムが行われたロシアをはじめ、東欧からの移民の大半は アメリカに流れ、パレスチナへの流入 は少数派であった。 パレスチナへの流れが主流になるのは、第二次世界大戦後のことである。 【 フサイン=マクマホン協定 】 1914年・・・・第一次世界大戦が始まる。 当時、アラブ人を支配していたトルコはイギリスと戦った。 イギリスは、敵国トルコの支配下にあるアラブ人に反乱を起こさせ、トルコの足元を揺さぶらせる作戦をとった。 1915年・・・・イギリスは、アラブ太守と フサイン=マクマホン協定を結ぶ。 ( 内容 ) イギリスのカイロ駐在高等弁官ヘンリー=マクマホンと、アラブ・ハシム家の太守フサインと の間で結ばれたもの。 「アラブ人がトルコに対する反乱を起こしてくれれば、戦後、アラブ 人の新国家を建設しよう」と約束した。 アラブの反乱で、フサインの息子・ファイサルを手伝ったのが、映画で有名なイギリス 軍将校・ 『アラビアのロレンス』である。 考古学者だったロレンスは、もともとアラブの 魅力にひかれる所があった。 ロレンスは純白のアラブ服をまとい、アラブ人とともに 寝食をともにし、アラブ軍の先頭に立って戦った。 ( 左写真 ) 帰国後、イギリスで、彼は第一次世界大戦の英雄に祭り上げられたが、アラブの独 立を勝ち取れなかったため、アラブに対する裏切りの責任を自分の中で背負ってしま った。 いつしか、マスコミを避けるようになる。 1935年、オートバイ事故で死去する 46才。 これに刺激され、1916年からトルコからのアラブ人独立運動が起こる。 右地図は、 サイクス=ピコ協定で決まった イギリス・フランス・ロシアの各国 の勢力範囲を示したものである。 【バルフォア宣言】 フサイン=マクマホン協定を結ぶ一方で、イギリスは、ユダヤ人に対しても同じような約束を結んでいる。 1917年・・・・ バルフォア宣言が出される。 ( 内容 ) イギリスの外相 バルフォアが、ユダヤ人銀行家・ロス=チャイルド卿にあてた書簡で約束し たもの。 シオニズム運動を支持した。 「イギリスに財政的支援をしてくれれば、それと引 きかえにパレスチナにおけるユダヤ人国家建設に協力する」と約束する。 1919年・・・・第一次世界大戦の後始末である ベルサイユ会議が始まる。 この会議でフサイン=マクマホン協定は無視された。 ロレンスもベルサイユ会議に出席し、アラブの独立を訴 えたが実現しなかった。 【戦後のパレスチナ】 第一次世界大戦に勝ったイギリスは、フランスとともに中東を委任統治の名の下に植民地として分け合った 1920年・サンレモ会議。 イギリスは、バルフォア宣言、フサイン=マクマホン協定を結ぶ裏で、この地域を 戦後支配するという秘密協定をフランスと結んでいた。 この イギリスの三枚舌外交が、パレスチナの問題を より複雑化していく。 アラブ人 アラブ民族主義 『 オスマン=トルコの支配下で、アラブ人 はバラバラになっているが、本来アラブは 一つである 』 アラブ人の反シオニズム闘争に手を焼いたイギリスは、ユダヤ人のパレスチナ入植を制限したが、第二次世界 大戦が近づくと、厳しい迫害から逃れたユダヤ人は、続々とパレスチナの土地へ移住していった。 ヒトラー政権のユダヤ人迫害 【ヒトラー政権誕生】 1919年にミュンヘンで結成されたナチス 国家社会主義ドイツ労働者党 は、政策目標の一つにゲルマン民 族の人権的優越論を説き、「大ドイツの建設・ユダヤ人排斥」を掲げて、中産階級を中心に広く支持者を集めた。 1933年・・・・ ヒトラーが首相となり、政権を握る。 彼は、民主的な ワイマール憲法を停止し、民主主義を否定、言論・出版を厳しく取締り、 ユダヤ人迫害を行っ た。 水晶の夜、ドイツ語でクリスタル=ナハト。 響きは詩 的であるが、実はおそろしい一夜であった。 その発端は、二日前のパリでの事件。 ドイツ大使館 員がユダヤ人少年に殺された。 ナチス政権はこれを利 用する形で、ユダヤ人への報復をドイツ国民に呼びかけ た。 一夜のうちにドイツ全土のシナゴグ ユダヤ教の教 会堂 が焼かれ、破壊され、7500のユダヤ人商店がたた き壊された。 教会や商店のガラスが街路いっぱいに散 らばり、街灯のもとで冷たくキラキラと輝いた。 ヒトラー政権は、ユダヤ人に贖罪金 しょくざいきん =罪ほろぼし金 として10マルクを科し、国外強制移住を行い、ユダヤ人の生存をおびやかし始める。 行き先 は、総数 600万人にのぼるユダヤ人大虐殺である。 【『アンネの日記』】 アンネ=フランクは、1929年、純粋ユダヤ人としてドイツのフランクフルトに生まれた。 ナチス政権が誕生すると、一家は迫害を避けてオランダのアムステルダムに移った。 ドイツ軍がオランダを占 領して以来、オランダのユダヤ人に対する迫害が深刻となり、一家はアムステルダム市内の隠れ家に移った。 1944年8月4日・・・・アンネ=フランク一家は、強制収容所に収容される。 収容所でのアンネは、勇敢な態度をとり、仲間をなぐさめたりした。 しかし、体は衰弱していた。 1945年3月・・・・ベルゲン=ベルゼン収容所で、15歳の若さで亡くなる。 『アンネの日記』は、13歳の時から始まり、逮捕されるまでの2年間続いている。 シオニズム運動の高まりと、厳しい迫害という現実から逃れたいユ ダヤ人は、パレスチナの土地へ移住し始めた。 第二次世界大戦 前、ヒトラーによるユダヤ人迫害が激しくなると、その数は増え、 超満員の難民船がパレスチナの土地をめざした ( 左写真)。 戦後、イスラエル建国の前後まで、多くのユダヤ人を乗せた船 がパレスチナの土地をめざした。

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黒死病(ペスト)流行下(1348~53年)におけるユダヤ人迫害のまとめ

なぜ ユダヤ 人 は 迫害 され た のか

しかし、 ヨーロッパでは、ユダヤ人に対する憎悪・蔑視が大きかった。 それはどうしてか? ヨーロッパはキリスト教の社会である。 キリスト教の神である イエスを十字架にかけて殺したユダヤ人で ある ・・・・ この言葉を、キリスト教徒は伝えてきた。 キリスト教徒のユダヤ人に対する憎悪の根拠は、 ゴル ゴダの丘に発する。 キリスト教が根をおろした中世社会で、ユダヤ人は次々と市民権を奪われた。 ヨーロッパでは、6世紀頃か らユダヤ人の権利を否定し、迫害する動きがみられた。 居住区も、キリスト教徒から隔離して、16世紀頃から ゲットー 強制隔離地区 に押し込められた。 ユダヤ人たちは、商取引の分野に進出し、財力をつけ自分たちの身を守ろうとした。 そのため、ユダヤ人の 中には金貸しなど金融業界に進出したり、医者や学者になる人が多かった。 そういった分野で成功し、財をか せいだことも、また憎悪の対象となった。 第1回十字軍でエルサレムを占領した戦士たちは、イスラム教徒ばかりでなくユダヤ人をも虐殺した。 12世紀のキリスト教徒の宗教会議では、ユダヤ人との同居が禁じられ、1290年、イギリスではいち早くユ ダヤ人追放令を出した。 フランスでも、1306年に出され、ユダヤ人は 東ドイツや東欧に逃れた。 イベリ ア半島の国土回復運動も、イスラム教徒だけでなくユダヤ人も迫害され、スペインでは、1492年にユダヤ 人追放令が出された。 14Cに、ヨーロッパでペストが流行した時には、ユダヤ人の大虐殺が行われた。 【市民革命の中で】 迫害され続けたユダヤ人は、18世紀に入ると、フランス革命をはじめヨーロッパの近代化の歩みの中で、一時 市民権を与えられ、ゲットーも解放された。 1776年・・・・アメリカでユダヤ人が解放される。 1791年・・・・フランス議会が、ユダヤ人に市民権を与える。 この後、オランダ、イタリアでもユダヤ人に市民権が与えられた。 ユダヤ人も、市民社会の中で同化して生き る道が開けたかに思えたが、しかし、現実はユダヤ人への差別はいぜんとして残った。 【反ユダヤ主義再燃】 19世紀に登場した新しいユダヤ人迫害の理由は、 民族主義である。 迫害の対象が宗教ではなく、人種の問 題となった。 すなわち、 「 白人は世界で最も優秀な人種であり、ユダヤ人との混血で汚してはならない 」 という結論に達したのである。 ヒトラーによるユダヤ人迫害もこの理由からである。 自由主義の中で、ユダヤ人は多くの分野に素晴らしい才能を発揮した。 歴史に残る人々に、マルクス 経 済 ・ アインシュタイン 物理 ・ ハイネ 詩人 ・ メンデルスゾーン 音楽 たちがいる。 ノーベル賞を受賞した ユダヤ人は70名近くで、他の民族と比較すると圧倒的多数を占める。 帝政ロシアでもユダヤ人の迫害があり、各地でユダヤ人が多数殺害されている。 帝政ロシア時代のユダヤ人 迫害のことを ポグロムといい、1881年から始り、アメリカへ移住する人が増えた。 ミュージカル 『 屋根の上 のバイオリン弾き 』 は、その頃のロシアを題材にした作品である。 三 つの約束 【シオニズム運動への転化】 ユダヤ人たちは、「 自分たちの国がないからこんな目にあうんだ 」 と思うようになった。 迫害から逃れるた めには、「 旧約聖書の中で神様がユダヤ人に与えると約束した地・ パレスチナに国を築く必要がある 」 と考える ようになった = シオニズム。 ユダヤ人がエルサレムにこだわるのは、ダビデ王の時代に統一されたユダヤ王国の首都だったためだ。 祖 国を失い、世界各地に離散したユダヤ人にとってエルサレムは、あこがれの地であった。 パレスチナの範囲は? 地中海の東側に位置し、現在のレバノン・シリア・ヨルダン・イスラエルに囲まれた地域をいう。 明確な線引きはないが、南北約240Km、東西約130Kmで、紀元前12世紀にこの地に定住した 「 ペリシテ人の国 」 という意味でパレスチナの名前がついた。 パレスチナ人とは、 パレスチナに 住むアラブ人をさしていう。 1894年・・・・フランスで、 ドレフェス事件が起こる。 ユダヤ人の ドレフェス大尉は、ドイツのスパイとして軍法会議で終身刑を宣告された。 しかし、真犯人が判明 し、文豪 ゾラは新聞に 『 私は弾劾する 』 という記事を発表するなど世論が高まり、人権と共和制を守る左派 と、軍部・保守党が対立して国論が二分するまでになった。 再審の結果、ドレフェスは無罪となった。 ユダヤ人 に対する偏見の目が、彼に無罪の罪を負わせたのである。 このドレフェス事件を取材していた新聞記者の一人に、 テオドール=ヘルツルというユダヤ人がいた。 彼は、 世界各地から 200名あまりのユダヤ人を集め、会議を開いた。 1897年・・・・ 第1回シオニスト会議が、スイスのバーゼルで開かれる。 * シオニズムという言葉は、ユダヤ人にとって聖地エルサレムにある丘の名前 ( シオンの丘 ) から きている。 つまり、シオンに帰ろうという意味である。 この会議以後、 世界各地に離散しているユダヤ人国家をパレスチナの地に建設しようという シオニズム運 動が盛んになっていった。 しかし、ポグロムが行われたロシアをはじめ、東欧からの移民の大半は アメリカに流れ、パレスチナへの流入 は少数派であった。 パレスチナへの流れが主流になるのは、第二次世界大戦後のことである。 【 フサイン=マクマホン協定 】 1914年・・・・第一次世界大戦が始まる。 当時、アラブ人を支配していたトルコはイギリスと戦った。 イギリスは、敵国トルコの支配下にあるアラブ人に反乱を起こさせ、トルコの足元を揺さぶらせる作戦をとった。 1915年・・・・イギリスは、アラブ太守と フサイン=マクマホン協定を結ぶ。 ( 内容 ) イギリスのカイロ駐在高等弁官ヘンリー=マクマホンと、アラブ・ハシム家の太守フサインと の間で結ばれたもの。 「アラブ人がトルコに対する反乱を起こしてくれれば、戦後、アラブ 人の新国家を建設しよう」と約束した。 アラブの反乱で、フサインの息子・ファイサルを手伝ったのが、映画で有名なイギリス 軍将校・ 『アラビアのロレンス』である。 考古学者だったロレンスは、もともとアラブの 魅力にひかれる所があった。 ロレンスは純白のアラブ服をまとい、アラブ人とともに 寝食をともにし、アラブ軍の先頭に立って戦った。 ( 左写真 ) 帰国後、イギリスで、彼は第一次世界大戦の英雄に祭り上げられたが、アラブの独 立を勝ち取れなかったため、アラブに対する裏切りの責任を自分の中で背負ってしま った。 いつしか、マスコミを避けるようになる。 1935年、オートバイ事故で死去する 46才。 これに刺激され、1916年からトルコからのアラブ人独立運動が起こる。 右地図は、 サイクス=ピコ協定で決まった イギリス・フランス・ロシアの各国 の勢力範囲を示したものである。 【バルフォア宣言】 フサイン=マクマホン協定を結ぶ一方で、イギリスは、ユダヤ人に対しても同じような約束を結んでいる。 1917年・・・・ バルフォア宣言が出される。 ( 内容 ) イギリスの外相 バルフォアが、ユダヤ人銀行家・ロス=チャイルド卿にあてた書簡で約束し たもの。 シオニズム運動を支持した。 「イギリスに財政的支援をしてくれれば、それと引 きかえにパレスチナにおけるユダヤ人国家建設に協力する」と約束する。 1919年・・・・第一次世界大戦の後始末である ベルサイユ会議が始まる。 この会議でフサイン=マクマホン協定は無視された。 ロレンスもベルサイユ会議に出席し、アラブの独立を訴 えたが実現しなかった。 【戦後のパレスチナ】 第一次世界大戦に勝ったイギリスは、フランスとともに中東を委任統治の名の下に植民地として分け合った 1920年・サンレモ会議。 イギリスは、バルフォア宣言、フサイン=マクマホン協定を結ぶ裏で、この地域を 戦後支配するという秘密協定をフランスと結んでいた。 この イギリスの三枚舌外交が、パレスチナの問題を より複雑化していく。 アラブ人 アラブ民族主義 『 オスマン=トルコの支配下で、アラブ人 はバラバラになっているが、本来アラブは 一つである 』 アラブ人の反シオニズム闘争に手を焼いたイギリスは、ユダヤ人のパレスチナ入植を制限したが、第二次世界 大戦が近づくと、厳しい迫害から逃れたユダヤ人は、続々とパレスチナの土地へ移住していった。 ヒトラー政権のユダヤ人迫害 【ヒトラー政権誕生】 1919年にミュンヘンで結成されたナチス 国家社会主義ドイツ労働者党 は、政策目標の一つにゲルマン民 族の人権的優越論を説き、「大ドイツの建設・ユダヤ人排斥」を掲げて、中産階級を中心に広く支持者を集めた。 1933年・・・・ ヒトラーが首相となり、政権を握る。 彼は、民主的な ワイマール憲法を停止し、民主主義を否定、言論・出版を厳しく取締り、 ユダヤ人迫害を行っ た。 水晶の夜、ドイツ語でクリスタル=ナハト。 響きは詩 的であるが、実はおそろしい一夜であった。 その発端は、二日前のパリでの事件。 ドイツ大使館 員がユダヤ人少年に殺された。 ナチス政権はこれを利 用する形で、ユダヤ人への報復をドイツ国民に呼びかけ た。 一夜のうちにドイツ全土のシナゴグ ユダヤ教の教 会堂 が焼かれ、破壊され、7500のユダヤ人商店がたた き壊された。 教会や商店のガラスが街路いっぱいに散 らばり、街灯のもとで冷たくキラキラと輝いた。 ヒトラー政権は、ユダヤ人に贖罪金 しょくざいきん =罪ほろぼし金 として10マルクを科し、国外強制移住を行い、ユダヤ人の生存をおびやかし始める。 行き先 は、総数 600万人にのぼるユダヤ人大虐殺である。 【『アンネの日記』】 アンネ=フランクは、1929年、純粋ユダヤ人としてドイツのフランクフルトに生まれた。 ナチス政権が誕生すると、一家は迫害を避けてオランダのアムステルダムに移った。 ドイツ軍がオランダを占 領して以来、オランダのユダヤ人に対する迫害が深刻となり、一家はアムステルダム市内の隠れ家に移った。 1944年8月4日・・・・アンネ=フランク一家は、強制収容所に収容される。 収容所でのアンネは、勇敢な態度をとり、仲間をなぐさめたりした。 しかし、体は衰弱していた。 1945年3月・・・・ベルゲン=ベルゼン収容所で、15歳の若さで亡くなる。 『アンネの日記』は、13歳の時から始まり、逮捕されるまでの2年間続いている。 シオニズム運動の高まりと、厳しい迫害という現実から逃れたいユ ダヤ人は、パレスチナの土地へ移住し始めた。 第二次世界大戦 前、ヒトラーによるユダヤ人迫害が激しくなると、その数は増え、 超満員の難民船がパレスチナの土地をめざした ( 左写真)。 戦後、イスラエル建国の前後まで、多くのユダヤ人を乗せた船 がパレスチナの土地をめざした。

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