明智 み つつ な。 明智光秀について~駆け足で手短にわかる明智光秀の生涯~

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スポンサーリンク 明智光秀は優秀だった? 光秀の武勲はいかほど? 法令や朝廷儀式に詳しかったため信長に重用された明智光秀。 信長留守の間は京都で政庶務を任されるなど、 智将として有名でしたが武勲もかなり立派です。 信長の戦の中でも有名な「金ヶ崎の退き口」というものがあります。 裏切りに会い撤退を余儀なくされた信長が、追撃を討ちはらう役目を羽柴秀吉とともに光秀に命じました。 その命令を成功させたことで名を挙げたようです。 比叡山の焼き討ちの実行部隊として、一向一揆の殲滅戦、石山合戦と続々と功績をあげて丹波国攻略を成功させたことで 信長に絶賛されています。 できる男・明智光秀。 後に謀反を起こしたのも優れた知力・武力があったからなのでしょうが、それが良かったのか悪かったのか……。 織田信長の懐刀が翻った!? そもそも 明智光秀は信長の家臣の中でも重鎮、出世株でした。 一介の浪人だったところから大出世して35万石の大領を受けます。 さらに丹波一国を任されたため、その部下にあたる織田家与力衆の知行もあわせると 240万石の大勢力であったとも。 これは織田家臣の中で最大の勢力でした。 動かせる兵力の大きさも、本能寺の変へと光秀を導いた要因の一つなのでしょうか。 そうした遠因は見えるものの、じつは本能寺の変の原因は、はっきりとはわかっていません。 明智光秀はなにを思って主君を討ったのか。 死人に口なし。 もしかしたら何かの謀略に巻き込まれたのかも……。 なんてことも思いつつ、もう少し光秀の動きを見てみます。 織田信長を倒し天下人に! 織田信長を討ちとった明智光秀はそのまま二条御所に攻め込み、信長の嫡男・織田信忠も自刃に追い込みました。 これで天下人と呼ばれるのは光秀!……になるのかと思ったら、雲行きが怪しくなっていきます。 謀反を起こした明智光秀には、まだまだ仕事が山積みでした。 織田信長・信忠父子の残党を追いつつ、織田信長の本拠・安土城に入城せねばならず、近江を自分のものとしてしっかり押さえなければならない。 目が回りそうなおおわらわです。 安土城へと通じる橋は破壊されて作り直しに三日もかかる• 近江の平定にも時間がかかる• 残党狩りにだって人手が必要• 仲間になってくれるはずだった、明智家と姻戚関係にもある細川幽斎親子は信長への弔意を示して光秀には会ってもくれない。 新政権をととのえる暇もなく、味方も少なく、さらに羽柴秀吉の軍勢が派遣されていた戦地から取って返して、迫ってきています。 明智光秀、累卵の危機に直面します。 兵はどれくらい残っていたの? 明智光秀は中国地方から取って返してきた羽柴秀吉の軍と京都西部の山崎という地で睨みあうことになります。 山崎の戦、天王山の戦いなどと言われる合戦です。 明智光秀の軍勢・10000から16000。 羽柴秀吉の軍勢・20000から40000だったと言われています。 中国地方から戻ってきたはずなのに進軍の勢いが凄まじい秀吉軍に押されるようにして、明智光秀は体制を十分に整えることが出来ませんでした。 そのままの不安定な状態で合戦が始まったのです。 光秀はさらに攻め入ったか!? 地の利を活かしてなんとか防戦していた明智光秀の軍でしたが、秀吉方からの奇襲によって、もろくも崩れてしまいます。 雑兵が逃げ出して戦場は混乱に陥り、動揺が全軍に広がって明智軍は総崩れになったのです。 明智軍は勝竜寺城へ退却します。 秀吉軍も前線の消耗が激しかったため追撃はそれほど苛烈ではなかったのですが、 明智軍からは脱走兵が相次いで残ったのは700名余りだったと言います。 スポンサーリンク あわれなり、光秀の最期! その死因は? じつは悲しい本当の死に様 山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れた光秀は、勝竜寺城へと逃げ落ちましたが、そこからも逃げ出すことになりました。 再起をかけて本拠の坂本城へと出発・・・!深夜を選び少数での軍行でした。 それが仇となったのか、 落ち武者狩りの農民に襲われ竹槍で重傷を負わされます。 よりによって竹製の槍。 せめて金属であってほしかったと思うのは私だけでしょうか。 傷をかばいながら小栗栖村というあたりの竹藪に逃げ込み、自刃。 介錯した家臣も追って腹を切ったそうです。 光秀の首は隠されていたのですが、落ち武者狩りの者たちに取られたといいます。 光秀最期の地とは? 明智光秀が自刃した小栗栖村(現・京都市伏見区小栗栖)には今も竹藪が残っています。 その名も「 明智藪」。 藪へと分け入る小道の脇に、小さな石碑が建つだけで観光地化されているわけでもなく、昼でも薄暗い場所です。 そんな明智藪のある本経寺には光秀の供養塔も建てられています。 そこから少し離れた場所に「光秀の胴塚」もあるのですが、個人の私有地の中にポツンと石碑が建っているだけという意外に見逃しやすいものだそうです。 最期の地・供養塔・胴塚と、どれをとっても派手さがないのが明智光秀らしいと言えるのかもしれません。 光秀の首は見つからなかった!? 光秀の最期なのですが、確かに明智光秀の首は本能寺でさらされていて首塚も建てられています。 ところが 光秀の首は三つも出たうえに、光秀の所領近くまで持ち帰られていたとする説もあるのです。 その説とは丹波亀山の谷性寺まで持ち帰られた首が三つ、ただしどれも顔面の皮が剥がれていたというもの。 それではいくら眺めたところで、首の持ち主が光秀だったのかどうかわかりようもありませんね。 首塚に眠っているのは光秀の首なのか、はたまた……? 光秀は死んでいなかった!? さらに光秀は生き延びていたとする説まであります。 じつは小栗栖の明智藪で死んではいなかった、 南光坊天海という僧として徳川家康の幕僚として活躍したというのです。 この天海というお坊さんには、よくわからないところが多いのだそう。 出家する前のことは弟子にも話さなかった。 天海の甲冑・鉄砲が現存するため前身が武将であった可能性は高い。 徳川家康が天海と初めて会った時に旧知の間柄のように親しく語り合った。 死んだと思われて大転身。 ロマンがありますね! 焼け落ちた本能寺の一部は信長の墓所とされ、土地の多くは寺として再建されていましたが、豊臣秀吉の命で移築されています。 その後も、天明の大火や蛤御門の変などで焼失して、そのたびに再建されています。 現在も本能寺内には信長公廟があり、訪れる人も多くあります。 謀反人の墓といえども…… 明智光秀の墓は首塚・胴塚しかないのかと言えば、そうではありませんでした。 滋賀県大津市の西教寺に明智家の墓があり、手厚く祀られています。 信長の比叡山焼き討ちの際に西教寺も焼失してしまいました。 焼き討ち後、明智光秀が坂本城を築いたころに、近隣であった西教寺も再建し光秀は檀徒になりました。 寺の再興にもずいぶんと力を貸していたそうです。 現在の西教寺の総門は坂本城の城門を移築したものだそうです。 明智家の墓とともに光秀をしのぶ手掛かりになりそうですね。 手回し不足と情報操作不足で味方を減らしてしまった! 追い詰められた後の自刃で死亡したはずだが、諸説紛々! 後世から歴史を覗けば、光秀のあれがダメだった、ここが手抜かりだったといくらでも突っ込みを入れることは出来ます。 ですが当時は情報を得るだけでも数日、数週間と時間がかかる時代。 人心掌握だって義理や好き嫌いでうまくいかないこともあるでしょう。 どこか一か所だけでも条件が変わっていれば明智光秀が生き残っていた可能性はあるのです。 いえ、もしかしたら本当に天海僧正や、もしかしたらもっと別の人物として生き延びたのかも? なぜか残り続ける明智光秀の首の謎、ある意味ロマンでした。

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中村倫也主演『美食探偵明智五郎』放送&撮影が再開

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京都らしい風情の溢れる東山の白川。 そのほとりに明智光秀の首塚が人知れず立っています。 歴史的に有名な光秀ですが、簡素な祠で観光客にもほとんど知られていません。 その光秀の塚のそばにある京都らしい和菓子屋「餅寅」では、桔梗紋の入った「光秀饅頭」が名物。 ゆるりと甘味を楽しみながら歴史探訪をしてみませんか? 新型コロナウイルスの発生と感染拡大に伴う、県境をまたいだ移動の自粛が2020年6月19日より解除されます。 また県境をまたぐ観光については「徐々に行い、人との間隔を確保すること」というガイドラインが政府より示されています。 各種報道機関の発表、施設や各自治体のホームページなどで最新の情報をご確認ください。 (LINEトラベルjp)• 写真:bow その中でも脇役っぽく隅に置かれているこの五輪塔墓こそが光秀の塚の本体といってもいいでしょう。 永らく風雨に晒されただろうその風貌には歴史を感じます。 天正年間の公家の日記には、明智光秀の遺骸がこの辺りの地にて曝され、その後首塚を築き埋葬したと記されています。 実は明智光秀の首塚とされるものはここ以外にも亀岡の谷性寺にもあり、光秀には二つの首塚が存在しているのです!しかし『本能寺の変 431年目の真実』の著者で明智光秀の末裔として知られる明智憲三郎さんは、過去の文献等を調べた結果この首塚の方が本物であるといえるとしています。 ただし、「曝されていた首が本当に光秀のものだった」という前提ですが。

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まっぷる 明智光秀

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【 】 清和源氏の土岐氏支流である明智氏に生まれたとされています。 土岐氏は建武の新政から美濃国で200年余り守護を務め、 数十家の支族を輩出しています。 石谷氏、妻木氏、金森氏、原氏、饗庭氏、肥田氏、仙石氏等挙げられます。 父は江戸時代の諸系図などでは 、明智光国、明智光隆、明智頼明など諸説あります。 また父親の名前も伝わらない程 低い身分の土岐支流とも言われています。 【いつ生まれたの?】 生年は信頼性の高い同時代の史料からは判明せず、 現在のところは不詳です。 「明智系図」では生年月日が 享禄元年3月10日(1528年3月30日)、 「明智一族宮城家相伝系図書」では 享禄元年8月17日(1528年8月31日)。 これ以外の説には「細川家記」の大永6年(1526年)、 また「当代記」の付記に記された 67歳から逆算した永正13年(1516年)などもあります。 どうやらネズミ年生まれである可能性があり、 1528年か1516年生まれのどちらかであると見方が 現在では主流であるようです。 そして1528年生まれである説が少なくとも2種あり、 大河ドラマでは1528年生まれの説をとっています。 そうなると、 の享年は55歳となります。 【生まれた場所】 生まれた場所はこれまた複数の説があります。 最も有力とされているのは、 岐阜県可児市広見・ (旧・明智荘)の です。 少なくとも、美濃国(岐阜県南部)あたりで 生まれたことは事実であるとみられていました。 ところが、2020年1月のニュースで 近江国出生説に裏付ける史料が見つかったと 飛び込んできました。 【生まれは近江?】 滋賀県多賀町中央部の「佐目」と明記した 寛文12年(1672年)編さんの古文書 「江侍聞伝録(ごうじもんでんろく)(禄)」です。 この古文書は県立図書館(大津市)で確認されました。 著者は木村重要(生没年不詳)で、 佐目から十数キロ南西部に位置する 近江国神崎郡 (現在の滋賀県彦根、東近江市辺り)の人物らしいとのことです。 江侍聞伝録は全2冊で、 中世の近江国の土豪・地頭の家系を地域ごとに記しています。 自筆とみられ、1冊目に、 明智十左衛門という侍が濃州(美濃国)から 佐目の里に逃れて来て2~3代が住み、 出生年は不明ながら「光秀」が生まれたと書かれているそうです。 【青年期】 青年期の履歴は不明な点が多いです。 一説には諸国を旅して見聞を広げていったとも言われています。 また若き日の明智光秀は大望を抱いていたという逸話もあるようです。 【青年光秀・大望を抱く】 若き光秀はある時大黒天の木像を拾いました。 そして朝夕に大黒天を拝み、 その姿を見た人がこう言いました。 「この神を拝めば千人の部下を得ると言います。 よくよく大切になさい」と。 すると青年・明智光秀は 「たったの千人か。 凡人でも千人の部下を持つ人は多い。 これは出世を願って拝む神ではないな」と 大黒天を捨ててしまったとか・・。 其の頃、下記の二人の人物が活躍していました。 明智光秀は美濃国の守護・土岐氏の一族で、 土岐氏に代わって美濃の国主となった に仕えます。 弘治2年(1556年)、 斎藤道三と (高政)の親子の争いで 斎藤道三方であったために斎藤義龍に明智城を攻められ、 一族が離散したとされています。 【鉄砲名人】 「明智軍記」には、明智光秀が の前で鉄砲の腕前を披露した記述が見られます。 腕前はその記述によりますと、 100発の弾丸のうち、 中心にに68発、残りの32発も的に当てたとか。 明智光秀は、鉄砲の技術に着目していたとも伝わります。 諸国修行の旅に出たのも、 鉄砲の技術や情報を得るためであるとも 言われています。 大河ドラマでも、主君の斎藤道三に 鉄砲のために諸国修行の旅に出たい旨を 申し出るみたいですね。 そしてその行く先々で様々な人々と出会い、 縁を結んでいくようです。 妻である とは、 明智城が攻められる前に結婚したと見られています。 その後、明智光秀は土岐氏との婚姻関係でもあった 越前国の朝倉義景を頼ったとされています。 最近の研究では、 に直接士官していたわけではないようです。 また越前時代に明智光秀が住んでいたとされる場所は、 から遠く、峠を越えたところに位置しています。 朝倉氏に10年間仕えたとされていますが、 その根拠となった史料は、 越前地付きの武士の服部七兵衛尉宛の、 天正元年8月22日(1573年9月18日) 付け光秀書状です。 その内容は 「朝倉氏滅亡時の混乱の中で光秀と縁の深い、 越前にいた竹という者の面倒を見て命を救った 様子の感謝と服部七兵衛を百石加増した」 とのことでした。 【明智光秀はお医者さん?】 明智光秀の名前が登場する史料上の初見は 「米田文書」(個人蔵)に含まれる「針薬方」です。 これは熊本藩細川家の家臣で医者だった米田貞能の、 熊本市にある子孫の自宅で発見された医学書で、 明智光秀自身が「高嶋田中籠城之時」に語った内容を含んでいます。 作成は永禄9年10月20日(1566年12月1日)に 米田貞能(米田求政)によって作成された写本とのことです。 その後の調査の結果、明智光秀が若き日に語った医学的知識を、 人づてに聞いた米田によりまとめられたものだと推測されています。 出産や刀傷の対処法など、 当時としては高度な医学的知識に関する 記述などが見られるとのことです。 そのため、明智光秀が に仕える前は 医者として生計を立てていた可能性があることを推測させる 貴重な資料とされています。 【 との出会い】 永禄の政変で 室町幕府第13代将軍・ が暗殺された後、 足利義昭は姉婿である 若狭国守護・武田義統の下に逃れました。 その直後から足利義昭は を含む各地の武将に 上洛と自身の将軍擁立を促し、 が使者に立ち織田信長は了承していました。 しかし、当時は美濃国平定前でした。 足利義昭側は永禄9年(1566年)4月、 織田・斎藤両家の間に和睦を結ばせたものの、 織田信長がこれを破る形となりました。 足利義昭は織田信長に不信を募らせて、 いったん見切りをつけました。 そしてさらに各地に援助を求め 朝倉義景を頼ります。 そうした経緯で明智光秀は 足利義昭と接触を持つこととなります。 【義昭に信長を勧めた光秀】 けれども足利義昭が上洛を期待しても 朝倉義景は抱えている事情の為、動こうとしません。 そこで明智光秀が 「義景は頼りにならないが、信長は頼りがいのある男だ」 と織田信長を勧めたとあります。 そこで足利義昭は永禄11年(1568年)6月23日、 織田信長に対し、上洛して自分を征夷大将軍につけるよう、 明智光秀を通じて再度要請したとのことです。 2回目の使者も細川藤孝でしたが、 織田信長への仲介者として 明智光秀が史料にまとまった形で初めて登場します。 更にこの記述として 明智光秀の叔母は斎藤道三の正室であり、 織田信長の正室である (道三娘)が 明智光秀の従兄妹であった可能性があり、 その縁を頼ったともされる内容があるとのことです。 【足利義昭と織田信長の家臣へ】 その後、明智光秀は足利義昭と織田信長の両属の家臣となります。 永禄11年(1568年)9月26日とされている 足利義昭の上洛に加わっています。 【「本圀寺の変」で 」初登場】 永禄12年1月5日(1569年1月21日)、 三好三人衆が義昭宿所の本圀寺を急襲し、 後に本圀寺の変と呼ばれる乱がおこります。 防戦する足利義昭側に明智光秀の記述が見られ、 これが「信長公記」への初登場となっているとのことです。 同年4月頃から木下秀吉(後の )、 、 と共に 織田信長支配下の と周辺の政務に当たり、 事実上の京都奉行の職務を行うこととなります。 元亀元年4月28日、 明智光秀は で織田信長が の裏切りで 危機に陥り撤退する際に 隊3000人を主力に、 羽柴秀吉と共に殿(しんがり)を務めて防戦に成功します。 またこの頃、足利義昭から所領として 山城国久世荘(現・京都市南区久世)を与えられたそうです。 宇佐山城を任され、 近江国滋賀郡と周囲の土豪の懐柔策を担当したとあります。 【織田信長と足利義昭に従軍】 元亀2年(1571年)、 三好三人衆の四国からの攻め上りと同時に が挙兵すると、 明智光秀は織田信長と足利義昭に 従軍して摂津国に出陣しました。 【 】 同年9月12日、 焼き討ちで中心実行部隊として 武功を上げ、近江国の滋賀郡(志賀郡:約5万石)を与えられ、 の築城にとりかかっています。 【幕臣から織田家の家臣へ】 宇佐山城に入った時点の明智光秀の身分は幕臣でした。 しかし、滋賀郡を与えられたのを機に 織田家の家臣に編入されたと見られています。 【足利義昭と袂を分かつ】 元亀4年(1573年)2月、足利義昭が挙兵します。 そのとき明智光秀は石山城、今堅田城の戦いに 足利義昭と袂を別って信長の直臣として参戦しています。 【足利義昭の追放と事実上の室町幕府の滅亡】 同年7月にも足利義昭が で挙兵し、明智光秀も従軍します。 そして足利義昭は降伏後に追放され、室町幕府は事実上滅亡しました。 その際に旧幕臣であった ら伊勢一族や などが明智光秀に仕えました。 【奉行の引継ぎ】 天正元年(1573年)7月に が京都所司代になります。 けれども実際には天正3年(1575年)前半まで 明智光秀も権益安堵関係の奉行役をしていました。 連名での文書を出し単独でも少数出しています。 また京都と近郊の山門領の寺子銭(税)も徴収していました。 朝倉氏滅亡後の8月から9月まで、 羽柴秀吉や と共に越前の占領行政を担当し、 9月末から (三沢秀次)、 木下祐久、津田元嘉が代官として引き継いでいます。 【惟任日向守】 天正3年(1575年)7月、 惟任(これとう)の賜姓と、 従五位下日向守に任官を受け、 惟任日向守となりました。 【 】 天正3年(1575年)の高屋城の戦い、 長篠の戦い、越前一向一揆殲滅戦に参加しました。 そして丹波国攻略を任されたのでした。 【丹波攻略】 丹波国は山続きで、その間に国人が割拠しており 極めて治めにくい地域でした。 更に丹波国人は足利義昭派で、 以前は織田信長に従っていましたが 足利義昭追放後は敵に転じていました。 まず を包囲しましたが、 八上城主・ が裏切り、 不意を突かれて敗走しました。 【難航する丹波攻略と妻の死】 天正4年(1576年)4月、 石山本願寺との天王寺の戦いに出陣しましたが、 同年5月5日に逆襲を受けて 司令官の が討死します。 明智光秀も、天王寺砦を攻めかかられ、 危ういところを織田信長が来援し助かりました。 けれども23日には過労で倒れたため、 しばらく療養を続けました。 同年11月7日(1576年11月27日)には、 正室の煕子が坂本城で病死しました。 【雑賀攻めと信貴山城の戦い】 天正5年(1577年)、雑賀攻めに従軍します。 同年10月、信貴山城の戦いに参加して城を落としました。 同月に丹波攻めを再開しましたが長期戦となりました。 まず を落とし、拠点とし、 そして難敵となった八上城を包囲し続け、 その後も丹波攻めと各地への転戦を往復して繰り返しました。 【毛利攻めや の戦い】 天正6年(1578年)4月29日(6月4日)、 毛利攻めを行う羽柴秀吉への援軍として播磨国へ派遣。 同年6月に神吉城攻めに加わります。 同年10月下旬、 織田信長に背いた を攻めて有 の戦いに参加します。 【苦労の末、丹波平定】 天正7年(1579年)、 丹波攻めはついに最終段階に入ります。 、 同年2月には包囲を続けていた八上城が落城。 同年8月9日(1579年8月30日)、 黒井城を落とし、ついに丹波国を平定したのでした。 さらに、すぐ細川藤孝と協力して丹後国も平定しました。 【丹波一国を拝領】 織田信長は感状を出し褒め称え、 この功績で、天正8年(1580年)に 丹波一国(約29万石)を加増されて合計34万石を領します。 さらに、本願寺戦で戦死した塙直政の支配地の南山城を与えられました。 【亀山城・ ・黒井城】 亀山城・周山城を築城し、 横山城を修築して「福智山城」に改名しました。 さらに黒井城を増築して家老の を入れ、 福智山城には を配しました。 同年の 折檻状でも 「丹波の国での光秀の働きは天下の面目を施した」 と織田信長は明智光秀を絶賛したとのことです。 【細川藤孝・ が寄騎となる】 また丹波一国拝領と同時に丹後国の長岡(細川)藤孝、 大和国の筒井順慶等の近畿地方の織田大名が 明智光秀の寄騎として配属されました。 これにより明智光秀支配の丹波、滋賀郡、南山城を含めた、 近江から山陰へ向けた畿内方面軍が成立したのでした。 また、これら寄騎の所領を合わせると240万石となりました。 天正9年(1581年)、 安土左義長の爆竹と道具の準備担当をして、 それに続く京都御馬揃えの運営責任者を任されています。 同年6月2日(1581年7月2日)、 織田家には無かった軍法を、 明智光秀が家法として定めました。 その「明智家法」後書きに 「瓦礫のように落ちぶれ果てていた自分を 召しだしそのうえ莫大な人数を預けられた。 一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を 忘れてはならない」 という織田信長への感謝の文を書いています。 なお、 が起こる丁度1年前です。 さらに翌年1月の茶会でも 「床の間に信長自筆の書を掛ける」とあり 織田信長を崇敬している様子があったとのことでいした。 【妹(義妹?)の死去】 天正9年8月7~8日(1581年9月4~5日)、 明智光秀の実妹か義妹の「御ツマキ」が死去しました。 明智光秀は比類無く力を落としたとあります。 このオツマキの死は明智光秀のその後の人生に大きな影を落として、 一説には の変の遠因であるともいわれているほどです。 【「明智家中法度」5箇条の制定】 天正9年1244日(1581年12月29日)、 「明智家中法度」5箇条を制定します。 大きくなった家臣団へ織田家の宿老・馬廻衆への儀礼や、 他家との口論禁止及び喧嘩の厳禁と 違反者即時成敗・自害を命じているとのことです。 【甲州征伐へ】 天正10年3月5日(1582年3月28日)、 武田氏との最終戦である甲州征伐に織田信長に従軍しました。 但し、先行していた 軍が戦闘の主力で、 今回は見届けるものであり、4月21日には帰還しました。 【四国討伐の決定】 更にその後、織田信長は 討伐のために四国攻めを決定。 そして織田信長自身も ら毛利氏討伐のため、 中国地方攻略に赴く準備を進めていました。 明智光秀にとっては面目丸つぶれとなってしまうのです。 元々織田信長は明智光秀に 四国の長宗我部氏の懐柔を命じていました。 明智光秀は重臣である斎藤利三の妹を 長宗我部元親に嫁がせて婚姻関係を結びました。 ところが、天正8年(1580年)に入ると 織田信長は羽柴秀吉と結んだ三好康長との関係を重視し、 武力による四国平定に方針を変更してしまいます。 そのため、今まで明智光秀が行ってきたことが 無駄になってしまうのでした。 【家康への接待を解かれる】 天正10年(1582年)5月、 饗応役であった明智光秀は 任務を解かれてしまいます。 そして羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられ、 同年6月2日(1582年6月21日)早朝に出陣したのでした。 【本能寺の変】 本能寺の変(ほんのうじのへん)は、 天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、 京都本能寺に滞在していた織田信長を 家臣・明智光秀が謀反を起こして襲撃した事件です。 【本能寺の変の直前】 その途上の亀山城内か柴野付近の陣で、 明智光秀は重臣達に 織田信長討伐の意を告げたといわれています。 軍勢に対しては 「 から使いがあり、 信長が明智軍の陣容・軍装を検分したいとのことだ」 として京都へ向かったと言われています。 「本城惣右衛門覚書」によりますと、 雑兵は織田信長討伐という目的を 最後まで知らされてはいなかったとのことでした。 本城も織田信長の命令で 徳川家康を討つのだと思っていたとのことです。 【本能寺の変・当日】 明智光秀軍は織田信長が宿泊していた 京都の本能寺を急襲して包囲しました。 明智光秀軍13000人に対し、 近習の100人足らずに 守られていた織田信長は奮戦しましたが、 やがて寺に火を放ち自害したと伝えられています。 織田信長の死体はついに 発見されることはありませんでした。 【嫡男・織田信忠も討ち取られる】 また、二条御所にいた織田信長の嫡男である 織田信忠と従兄弟の 、 応援に駆け付けた村井貞勝と息子の村井貞成、 村井清次や信長の馬廻りたちが共に討ち取られています。 また (信長の弟・ の子)は 明智光秀の娘と結婚していたため、 加担の疑いをかけられ大坂で 神戸信孝らに討たれてしまいました。 【近江の抑えに手間取る】 明智光秀は京都を押さえると、 すぐに織田信長・信忠父子の残党追捕を行いました。 さらに織田信長本拠の への入城と 近江を抑えようとしましたが、 勢多城主の が瀬田橋と居城を焼いて 近江国甲賀郡に退転したため、 仮橋の設置に3日間もかかってしまいました。 【金銀を贈る】 明智光秀は、まず坂本城に入り、 同年6月4日までに近江をほぼ平定し、 同年6月5日には安土城に入って 織田信長貯蔵の金銀財宝から 名物を強奪して 自分の家臣や味方に与えるなどしたとあります。 同年6月7日には は、 吉田兼和を勅使として安土城に派遣し、 京都の治安維持を任せています。 明智光秀はこの後、同年6月8日に安土を発ち、 同年6月9日には宮中に参内して 朝廷に銀500枚を献上しました。 また、京都五山や大徳寺にも銀各100枚を献納、 勅使の にも銀50枚を贈ったとされています。 【寄騎の は味方せず】 けれども明智光秀寄騎で姻戚関係もある 丹後の細川幽斎と嫡子の 親子は 織田信長への弔意を示すために髻を払い、 を通じて神戸信孝に二心の無いことを示しました。 さらに明智光秀の娘で忠興の正室・珠(後の ) を幽閉して明智光秀の誘いを拒絶しました。 【寄騎の筒井順慶も味方せず】 また、同じく大和一国を支配する寄騎の筒井順慶も また、明智光秀に味方することなく、 羽柴秀吉に味方しました。 けれども筒井順慶に関しては 羽柴秀吉が帰還するまでは消極的ながらも 近江に兵を出して光秀に協力していました。 【予期しなかった秀吉の引き返し】 羽柴秀吉軍は、本能寺の変を知り急遽、毛利氏と和睦。 大急ぎで中国地方から引き返してきます。 この秀吉の迅速さは明智光秀も予期しなかったそうです。 そして、本能寺の変から 11日後の同年6月13日(1582年7月2日)、 の麓の (現在の京都府大山崎町と大阪府島本町にまたがる地域) で新政権を整える間もなく迎え撃つことになったのでした。 【山崎の戦】 決戦時の兵力は、 羽柴軍2万7千人で内 4000人、 2500人、 、丹羽長秀、 ら8000人。 けれども4万人との説もあります。 明智軍1万7千人(1万6千人から1万8千人の説もあります) 兵数は圧倒的に羽柴秀吉軍が勝っていました。 【予想は長引けば明智軍が有利、が??】 けれども天王山と淀川の間の狭い地域であるため、 両軍とも3千人程度しか展開できず、 合戦が長引けば、明智軍にとって 好ましい影響が予想できたとの事です。 まして羽柴軍の主力は、 の戦いからの中国大返しで疲弊しており、 や中川清秀等、 現地で合流した諸勢の活躍に期待する他はありませんでした。 【兵力の差で羽柴軍の勝利】 羽柴秀吉側3万5千人に対し、 明智軍は各城にも兵を残したため、 実数1万人程度だったともされていました。 当然、兵力の差で劣勢でした。 【通説での光秀の最期】 同日深夜、明智光秀は坂本城を目指して 落ち延びる途中、 落ち武者狩りの百姓に竹槍で刺されて 深手を負ったため自害し、 股肱の家臣・溝尾茂朝に介錯させ、 その首を近くの竹薮の溝に隠したと伝えられています。 其の後、明智 光秀の首は発見した百姓により翌日、 村井清三を通じて織田信孝の元に届き、 まず本能寺でさらされました。 その後、同月17日に捕まり斬首された 斎藤利三の屍とともに 京都の粟田口(現・京都府京都市東山区・左京区)に 首と胴をつないでさらされた後、 同年6月24日に両名の首塚が 粟田口の東の路地の北に築かれたと 「兼見卿記」には記されています。 更に「 旧記」によれば、 で落ち武者などがよく通る田の上の細道を、 明智光秀ら十数騎で移動中、 小藪から百姓の錆びた鑓で腰骨を突き刺されたとします。 その際、最期と悟った明智光秀は自らの首を 「守護」の格式を表す 毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)に包んで 知恩院に届けてくれと言い残したということです。 ですが一方で、 「小栗栖で落ち武者などがよく通る田の上の細道」は くねくねしており大変狭く、 季節によっては見通しがきかない場所であったようです。 また、 「小藪から百姓の錆びた鑓で腰骨を突き刺された」 が果たして本当に普通の「百姓」であったかが疑問に残る、 という見解もあるようです。 【通説での明智秀満の最期】 安土城で留守を守っていた明智秀満は、 同年14日に山崎での敗報を受けて残兵とともに 坂本城へ戻るも、多くが逃亡していきました。 やがて坂本城が包囲され、 明智光秀が集めた財宝が失われるのを惜しみ、 目録を添えて包囲軍に渡したとあります。 そして明智光秀と自分の妻子を殺し、 城に火を放って自害したとのことでした。 (明智光秀には煕子亡き後、継室がいたのでしょうか??) 【生存説】 ですが、 明智光秀と明智秀満には生存説があります。 実際に、明智光秀が生き延びて 直前まで生存していたという 伝承もあります。 名前も「荒深小五郎」と改名したとあります。 また明智秀満、もしくは明智秀満の子供が生き延びて、 四国に逃れたという説や あの「 」になったともされています。 少し前までは、 明智光秀が「南光坊 」ともささやかれていましたが、 年代が合わず、けれども「明智」の事をよく知る人物だ、 とされていました。 そこで明智秀満とされ、 或いは2代で「南光坊天海」になったのだとも ささやかれるようになりました。 元々は明智秀満が「南光坊天海」と ささやかれていたみたいですね。 そして明治期に入り、明智光秀こそが天海であると 言われ始めたそうです。 「 」伝説や 薩摩に逃れた「 」伝説を彷彿とさせます。 そして織田信長にも生存説があり、 実は羽柴秀吉が幽閉したなどの噂があったようです。 また、明智光秀が「本能寺の変」を起こした本当の理由は 一族を滅亡の危機から救うためであるという説もあります。 その説通りならば、娘婿である明智秀満は、 明智の子女らを殺めるはずがありません。 むしろ生き延びさせることでしょう。 また、羽柴秀吉は の後、 明智の残党狩りを必死に行いましたが、 「明智光秀の子供を捕えて処刑した」 という記録は一切ないそうです。 このように「明智光秀」にはまだまだミステリーがたくさんあるのです。 2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」では 長谷川博己(はせがわ ひろき)さんが演じられます。

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