太陽はひとりぼっち 映画。 太陽はひとりぼっち : 作品情報

映画「太陽はひとりぼっち 」ネタバレあらすじと結末・感想|起承転結でわかりやすく解説!

太陽はひとりぼっち 映画

15 ご存知のように、映画「太陽はひとりぼっち」は、ミケランジェロ・アントニオーニの「愛の不毛」三部作(「赤い砂漠」も加えると4部作)のひとつ。 どうして日本は「実存三部作」と訳さなかったのかが不思議です。 1960年の 、1961年の に続きます。 三作とも、イタリア・フランスの合作映画。 映画の舞台はローマとムッソリーニ時代に建設された新都心エウローパ(エウル EUR)。 アラン・ドロンのタイトル「太陽」ニ作品はこちら 「愛の不毛」三部作に共通しているのは人物の心理や行動、その問題も謎のまま、説明もなく終わることです。 そしてモニカ・ヴィッティ。 この映画は鑑賞したことがなかったんです。 若い頃に観ていたら、どんな風に感じていたかしらと。 この女性は、ヴィットリア(モニカ・ヴィッティ)。 若いのに人生に倦怠を感じている。 アンニュイという言葉がぴったりですね。 すべてが退屈。 結局恋愛していても、音楽を聴いても、映画を観ても、本を読んでも、生きていることも「つまらない」と感じている。 「感動」する心を失っているのですね。 好奇心、探究心を失い、独りよがりの思考? 槍を持って踊るなど民族を揶揄するヴィットリア 彼女はアフリカの音楽を聴いて、アフリカの写真をみて、ブラック・フェースでダンスを踊りだすのです。 ヴィットリアの心に映ったアフリカ。 その原住民に対して決して良心的、好意的な気持ちが表現されている踊りではないと私は思います。 ブラック・フェースのヴィットリアの踊りは笑えるシーンではないのです。 ヴィットリアは異界アフリカに独りよがりな想像を抱き、それを退屈さからの逃避に利用しただけ。 無垢で単純な自然なものの姿を知らない無知さ。 ヴィットリアの婚約者リカルディ。 映画の前半でヴィットリアから婚約解消を言い渡されます。 婚約を解消することが退屈さから逃れられると思ったのでしょうか。 いえいえ、当時のイタリアでは離婚と中絶は禁止されていたのです。 そういう自己決定権がない時代に結婚に踏み切れないモヤモヤがヴィットリアを襲っていたのだと思います。 いろいろ試行錯誤して、退屈ではない新しい世界、新しい日々を探しているようなヴィットリアですが、なにものにも満たされることがない。 そんなヴィットリアは婚約解消後に、顔なじみである証券取引所に勤めるピエロ( )と急接近。 ヴィットリアの母、そして半分だけのヴィットリア、柱とピエロ この画面の左右は焦点をはずしています。 だからこそ、ヴィットリアの印象は強いですね。 しかも左半分しか柱から見えていません。 両端はヴィットリアの母とアラン・ドロン演じるピエロ。 まるで形而上絵画を見ているようです。 画面左には、資本主義の証券市場において、「労働なき富」を得るヴィットリアの母。 この映画で株の暴落で全てを失った投資側の一人です。 画面右のピエロは資本主義の証券市場を舞台とする証券取引所の株の仲買人(ブローカー)側。 ただ、ヴィットリアとの断絶を強調しているわけではないと思いました。 この半分だけのヴィットリアは、どちらにも属していません。 短絡的にピエロとヴィットリアの深い溝、断絶だけを強調するのではなく、いろいろな発見ができる場面です。 視線もそれぞれ違いますね。 証券取引所の株の仲買人(ブローカー) ピエロ 決して現代(金融資本主義社会)に適応させた場面ではないと思いました。 12世紀のフランス、13世紀中頃のイタリアで生まれ、17世紀のイタリアにはヴェネツィア商人が中心となる、証券取引所の歴史は、1913年に、ピエロ演じるブローカーと証券取引所の「基本法」もできました。 この映画「ひとりぼっちの太陽」の頃は、すでに投資家を保護するための法律もありました。 (たしか) この「愛の不毛の三部作」以前のファシズムは、1914年から1918年の第1次世界大戦からイタリアは経済混乱に陥りミラノ株式取引所も不振でした。 そんな時代だからこそ、ファシスト党が台頭した政権時代で、映画「ひとりぼっちの太陽」の株の暴落は、「歴史は繰り返される」という暗示なのか、それとも「忘れるな」というマネー・ゲームの陥穽の警告なのでしょうか。 どうしてかといいますと、この1960年代はイタリア共和国。 1959年のイタリアは「奇跡の経済」といわれたほど。 1962年の「太陽はひとりぼっち」は、もしかすると別の時代を設定していたの?と読み取れない私です。 ちなみに監督のアントニオーニは、株価の暴落と恋愛は同じとコメントしていたそうです。 「太陽はひとりぼっち」 の証券取引所のハドリアヌス帝神殿 19世紀はローマ証券取引所として使用されていました。 1950年になる以前のイタリアは、ムッソリーニのファシズムで、1945年にムッソリーニは銃殺され、ファシズムに抵抗していたイタリア・ネオリアリズム(ネオレズモ)がすでに映画や文学では確立されていました。 ですから、この 「太陽はひとりぼっち」は「ネオ・リアリズモ」以降の作品です。 だから「内的ネオ・レアリスト」という言い回しがアントニオーニ自身から誕生したんですね。 内面性という形而上的リアリティーをプラスしたような。 そもそもフェリーニの影響。 でもどうして形而上的リアリティーなんて言葉を使用するのでしょう。 実存主義では問題があるのでしょうか。 ロミオとジュリエットのバルコニーシーンのようなピエロとヴィットリア ヴィットリアとピエロ。 「ロミオとジュリエット」のようなバルコニーシーン。 ヴィットリアのアパルトマンの前からなかなか離れないピエロ。 そんなピエロの姿に、「新しい気持ち」を楽しんでいるヴィットリア。 無邪気さ、悪戯、子供のような恋愛ごっこ。 気のある素振り、気のない素振り、ピエロが求めてくる抱擁、キス、ベットへの誘いをすり抜けるヴィットリアは、まるで熟女が初心な青年をからかっているようにもみえます。 もうすでに女性原理があらわれて、ファシズム時代の男性原理が幻想となっているように。 このあたりも「内的ネオ・レアリスト」の象徴でしょうか。 ヴィッティのガラス越しのキス ヴィットリアとピエロのガラス越しのキスシーンは何度か登場します。 アラン・ドロンが演じるピエロは、ヴィットリアに翻弄されているのでしょうか。 それとも・・・。 憂いの表情のヴィットリア。 「情事」、「夜」の女性たちに比べ、タチが悪い(笑)女性像ですね。 肩越しの抱擁に、一瞬の冷ややかな表情を見せるのは、アラン・ドロンのピエロのほうではないでしょうか。 肩越しに憂いの表情のヴィットリア、一瞬の冷ややかな表情はピエロ。 アントニオーニはもしかすると、この二人のそれぞれの立場から作品をつくりたかったのではないかと思いました。 「クロスも本も男と同じ、すぐに飽きが来るのよ。 」と言い放つヴィットリアですが、実は「クロスや本のように、男はなんでもすぐに飽きるものよ。 」と、男がすぐに冷めてしまうものだということを知っている。 それもつまらない人生。 そのヴィットリアの鏡でもあるピエロ。 彼もそう思っている。 ピエロのガラス越しのキス 最初のキスは肝心。 そして一夜を共にすると、恋の終わりにむかっていくだけ。 ヴィットリアは楽しさのあとにくる終焉を、きっと子供の頃から知っていたのでしょう。 ほら、クリスマスやお誕生会が終わったあとのそんな虚しさ。 でも、年代をわたって同じ本を読み返す楽しさを知らずに大人になってしまった女性。 それとも読み尽くしてしまったのでしょうか。 表現主義といわれるフランツ・カフカ。 彼の「城」を思い出します。 行こうと思ってもたどり着けない城。 絡み合い離しまた絡み合うピエロとヴィットリアの手と手 「明日会おう 明日もあさっても」 「えぇ、次の日もその次も」 「その次も」 「今夜もね」 「8時にいつもの場所で」 8時のその場所に、ヴィットリアは行かなかった。 そしてピエロも行かなかった。 最後の10分間は意味のない意味ある人々で、FIN。 La Gara Atomica La Pace e Debole 映画のラストの10分間に、新都心エウローパ(エウル EUR)に住む、様々な人物が登場します。 この映画は、退廃的な男女の心理を描いただではないことは、このラストの10分間をご覧になればおわかりになるでしょう。 最後の10分間は二人は登場していません。 各国競う核 虚飾の平和 (意訳) La Gara Atomica 原子力祭 と書かれた新聞の裏 La Pace e Debole 虚飾の平和(弱まる平和) 彼が読んでいる新聞に書かれています。 日常に潜む不安要素。 1939年から1945年にかけての第二次世界大戦。 この映画に登場する人々は、その世界大戦を知っています。 それから15年後のこの作品。 ヒトラーとムッソリーニの政権とその死からも15年後。 深夜のファロ・イタリコ Foro Italico ポールが風に啼く音にたたずむヴィットリア この日常に潜む不安要素は、最後の10分間だけではありません。 深夜に、マルタの逃げた愛犬を追い、ファロ・イタリコへ向かいます。 階段を上がって、「犬の会合」に出くわします。 ヴィットリアは、見つけたテリア犬を二本足で歩かせて陽気になっていますが、ふと何かの音が聞こえてくる。 ヴィットリアは音のするほうへ歩いてきます。 鉄?のポールが風で揺れている音。 不安になり後退りしますが、音は音楽のリズムのようにも聞こえてきます。 そしてふと見上げると彫像があり、ここがファロ・イタリコで間違いなければ、男性の裸身の肉体を表現した大理石像(あのスタジオ・デ・マルミの選手の彫像)です。 フォロ・ムッソリーニとも呼ばれていたこのエウローペのスタジアムは、ムッソリーニ時代はエンリコ=デル=デッビオ(Enrico Del Debbio)、戦後も建設は続けられていました。 (注) この場面は、おなじくローマ・オリンピックの競技場だった テスタッチオにあるベロドロモ・オリンピコ(Velodromo Olimpico)としている解説がありました。 リカルドとヴィットリアとキノコの給水塔 アントニオーニ監督の風景描写は、ワン・ショット=ワン・シークエンスの特徴と芸術性ではなく、ファシズム以前の象徴された風景と共和制となってから造られている風景を、ワン・ショット=ワン・シークエンスで強調していると感じています。 1957年に建設されたエウローパのきのこ型の原爆にも似た給水塔。 現在は として残されているようですが、この映画を理解するには、この映画に撮影された事物をとらえていないと、本質から離れてしまう気がします。 初めて「キノコ」型の給水塔が建てられたのは1950年代初期のスウェーデン。 そのコピーがここに映し出されているのです。 この当時は給水塔が必要、あるいは現代でも水を貯めておかなければならない地帯がありますね。 さまざまな産業施設が建設。 1960年のローマ・オリンピックで建設されたものでしょう。 この給水塔の近くにはパラロットマティカ(PalaLottomatica)はピエル・ルイジ・ネルヴィとマルチェッロ・ピアチェンティーニの設計。 これらをオブジェとして表現しているのではありません。 車泥棒の死体と車両が引き上げられたエウル池公園でのヴィットリア なぜなら、ここにはムッソリーニの遺物がそっくり残っているのです。 ここ新都心エウローパ(エウル EUR)に住むヴィットリアの設定はそんなところでしょうか。 1942年に計画されたローマ万博。 ムッソリーニの失脚後は1960年のローマ・オリンピックと、この中止されたローマ万博がエウローパに、ファシズムの名残となって映し出されている、アノトニオーニ曰く内的ネオ・リアリスト」で「ネオ・リアリズモの継承」の象徴のように。 この時代から10年後のニューヨーク。 1970年代のアニー・ホールは、カウンセリングに通い、ランチを楽しみ、セックスして、会話して、別れてもよき友人で、でも誰でも心に傷があって、それでも陽気な人々です。 アニー・ホールの制作上のタイトルは無快感症や快感喪失を意味するAnhedonia(アンヘドニア)。 「ミスター・グッドバーを探して」(Looking for Mr. Goodbar)では、ドラッグやポルノフィルム、フリーセックスと死。 ラディカル・フェミニズムを扱っていたのでしょうか。 そして1970年代は女権運動がさかんだったフェミニズムの第二期。 L'AVVENTURA 1960 アントニオーニ 「情事」の場面 この映画を一口で、私流に申し上げるなら、ネオ・リアリズモやもっともらしいアントニオーニの名著やインタビューは遺物で、このヴィットリアは、快感消失。 (笑) 上流階級の人間喪失、疎外感は、あのルイ14世時代からすでにフランスでは根付いていたもので、大衆の時代になって、大衆層の生活ににじみ出てきたのですよ。 17世紀のモリエール、18世紀のモーツァルトのオペラ、ヴォルテールやルソー、サド、そして19世紀のマラルメ、ボードレール、ランボー、ジョルジュ・サンド、そして20世紀にかけてのジャン・コクトー。 作家や思想家たちは、人間喪失、疎外と疎外感を潜ませています。 そして実存主義のサルトルを忘れてはなりませんね。 ヴィットリアを引き止めることもなくソファーに埋もれるピエロ 現在を見つめて未来へと視線を向けるアントニオーニではなく、過去に視線を向けている気がするのです。 サン・テグジュペリの「星の王子さま」は、まさに「謎のまま、説明もなく終わる」のです。 星の王子さまの行方はどこに。 著者サン・テグジュペリの死をもって、それを暗示する予言的な終わり方とも思えてくるのは、偶然にも未来のサン・テグジュペリの行方不明。 解釈は、このように読み手や鑑賞者の未来にもあると思うのです。 ですからこの記事はすべて自己流ですので、引用などはご遠慮くださいね。 ピエロの部屋の絵画をみたあとの窓の風景も肖像画のような映 イタリアの画家、デ・キリコ(Giorgio de Chirico)は、形而上絵画をはじめたのは1910年のことです。 これまでの絵画の遠近法の焦点をずらすなどの形而上絵画は、このように鑑賞者に影響を与えるのと同じく、アントニオーニの「太陽はひとりぼっち」は、内と外、表と裏、上と下、縦と横、右と左、対角線、平行線、前と後ろ、そして円を描いているような人間の関係と映像は、鑑賞者を幻惑させます。 形而上絵画の影響を思い起こさせる顔のないヴィットリア この顔だけが見えないヴィットリアは、ピエロの内面から見るヴィットリアではないかと思うのです。 ヴィットリアは「男はみんな一緒」と思っているように、ピエロも「女はみんな一緒」だと認識している象徴としてヴィットリアの顔を不自然に切り取った映像にしたのでは。 ピエロの車が盗難にあい、車泥棒の死体と車は川から引き上げられ、車体を気にするピエロと同じで、目の前のピエロの欲求しか目に入らない。 槍を持って踊るなど民族を揶揄するヴィットリアの踊りとおなじく、人間喪質を強調しているのでしょう。 ローマ市内のピエロの部屋 牧神パンとピエロ ピエロにはヴィットリアの顔はみていないのかもしれません。 顔をすげかえても女はみんな一緒。 お互いに理解しあい、愛を確認したいというピエロは、実はピエロ自身が満足したいだけだと思うのですよ。 美術品に囲まれたピエロの部屋には、「牧神パン」の彫像があります。 パーンはサテュロスのように描かれるのですが、笛を吹いているところから、推測。 バーンが追えば逃げ、とうとう水辺の葦に身を変えたニンフの神話を、ピエロとヴィットリアに重ねてみました。 その牧神パーンは、「誘惑」の名人。 男性の強さと性的能力の源泉として崇拝されています。 つまりピエロは「愛」ではなく「誘惑」を成し遂げたかったのではないでしょうか。 典型的な主婦が雇う子守女 「各国競う核 虚飾の平和」という新聞を読む男の人と同じ最後の10分間に登場する典型的な主婦像を象徴する子守女。 「女らしさの神話」では、郊外住宅の主婦たちは、密かに悩みと戦っていた。 ベッドを片付け、買い物に出かけ、子供の世話をして、 1日が終わって夫の傍らに身を横たえたとき、「これだけの生活?」と自分に問うのを怖がっていた。 (wiki 引用) このように、専業主婦を幸福と思う女性もいれば、結婚し子供を育てるだけの人生に当惑する女性もいます。 ヴィットリアは、1960年代のウーマン・リブ運動がひろがる過渡期の女性。 よく「日常の何不自由のない生活から生まれる怠惰や倦怠、そして、原因の分からない不安感」といいますが、いつも違うのよね〜と思っています。 「これだけの生活?」という不自由があるわけですね。 もともと人間は不自由である存在だと思うのです。 でも作家芥川龍之介さんの「不安」はなんだったのでしょうか。 芥川龍之介さんが自殺したのは第一次世界大戦後の1927年。 「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」という言葉を残しています。 こんばんわ。 inoueです。 マサちゃんが、「ヴィッティは太陽ではないと感じてます。 」とコメントを残していますが、僕はヴィットリア(ヴィッティ)は、太陽を失っていく人間だと感じています。 人間性を感じない。 温かみ、安らぎというものが欠如している。 この映画が社会派映画だという前提で、そうした人間喪失を「日蝕」というタイトルにしたのではないかと。 アラン・ドロンのピエロは車泥棒の死をまったく感じていないけれど、たとえば自分の領域を侵した者を加害者として、ピエロは被害者。 被害者は加害者の自己責任の死に憐憫を感じるかなと思い、そのシーンで彼を人間喪失と描いているなら、なんか違和感ある。 そして最後のラストの10分間は、なんか映像の迫力にかける。 新聞を読む男まではよかったのに。 アントニオーニの若い頃のこの作品。 みんな高評価だけど、楓も感じているような「奇跡の経済」時代に「株の暴落」で、なんか何かが違う気がして、本質より目的でつくった映画のようです。 うまく説明できない。 楓さま、こんにちは〜! なでしこ、凄かったですね。 今日はとても佳き日かと思います。 一方でブルボン=パルマの流れをくむオットーさんの葬儀が盛大に行われているようですね。 最近イザベラのことでとてもワクワクすることがあったので、今回の映画の感想と合わせて、悩みつつイザベラのほうにコメントを入れてしまいました。 なでしこのスピリッツを見せてもらったから、というのでもないのですが、私はまた心境の変化があり、新しい情熱を探そうと思っています。 その前に詩集でウォーミングアップし、読了していないマドレーヌの本と百年の孤独、という人生最高の読書 と言われてますね・笑 をしようかなと思っています。 今回の記事では、なぜかエリュアールの「直接の生命」が浮かんでなりませんでした。 Inoue さん、こんばんは。 >本質より目的でつくった映画のようです。 うまく説明できない。 < 本質より目的でつくった映画というのがズバリだと思います。 プロバガンダのようでもあり、社会派映画のようでもあり。 映画という本質よりも、このどちらかの目的が強く感じられます。 >自分の領域を侵した者を加害者として、ピエロは被害者。 被害者は加害者の自己責任の死に憐憫を感じるかな< そういう考え方もありますね。 このピエロの人間喪失の象徴にはならないということですよね。 罪には罰を下した。 これが車泥棒ではなくピエロの家族、あるいは友人を殺害した犯人と置き換えると、車泥棒も殺人者も同じ罪人。 >ヴィットリア(ヴィッティ)は、太陽を失っていく人間< 日蝕は、人間喪失を意味しているのでしょうか。 月が虚無で。 ミヒャエル・エンデの「果てしない物語」では、虚無が襲ってくるのでしたね。 ma-saちゃん、こちらこそご無沙汰でした! >太陽を覆い隠す月はいったい誰かと。 そしてヴィッティは太陽ではないと感じてます。 < きっとヴィットリア(ヴィッティ)が月だと感じているのでしょうか。 または誰かの虚無が次々と広がっていく。 そういう考え方もありますね。 人間の心を侵食していくのは人間だけ。 政治も人間が行っているものです。 侵食されても復活できるのが日蝕ですから、人間喪失も元通りになる可能性があるということでしょうか。 >そうした実存的な主題< 私も知りませんでしたが、形而上的リアリティーを実存主義でもいいのでは?と思ったので。 また、背後にはファシズムの時代につくられた建築物がわざわざワンショットで映っているので、意味を考えてみたんです。 もちろん個人的な感覚で記事を書きましたし、観賞する側の特権で、自分が受けた印象です。 一人一人違うのが映画や本の感想ですよね。 もっとも共感や共有もありますが、いかがでしたか。 静流さま >フェミニズムに結びつけた< ファシズムが終わったということは、男性原理よりも女性原理が登場するという単純な考えです。 そうすると、この主人公の女性が女性原理に目覚めながら、何をどうしたらよいのかという初めての感覚が、わからない不安が倦怠に結びついたと考えてみたり。 この時代、実際に女性はどうだったのかということを思えば、女性運動がさかんになっていた頃でしたね。 >ピエロはヴィッティと合わせ鏡でつくられたキャラクターかもしれません。 < そう感じられたのですか。 凄い!私もそんな気がしてきました。 性別は違えど、政治がかわって経済も生活も変わっていく中で、二人とも何かしら考え方が変わる過渡期で、「今、ここに存在している自分」を探すことに精一杯。 人間喪失というよりも、「自分の存在意味」を手さぐり状態で確認していて、他人に目をむける余裕ではないような二人でしょうか。 こんばんわ。 こちらでは二度目のコメントです。 コメントするのために、「太陽はひとりぼっち」の記事を書いているブログをほとんど読み漁りしました。 (コメントで楓さんの記事にダメージを与えてしまうのではと思い、勉強) 解説書にない楓さんオリジナルの記事には圧倒。 あるサイトでの「太陽はひとりぼっち」は、邦訳されているもの、日本人著者の解説書などの著作からの引用が多く、そのご本人も言葉をピックアップしてつなげての主張で、楓さんのように映画を見て、その当時の社会や背景に疑問を持たず、ただひたすら解説書のとおりに書いていているので、違和感がありました。 解説書や手引きなどなく書かれたこちらの記事は、一個人の映画鑑賞での作品分析、記事内容の濃さに感服しました。 この二人には性関係の直接な描写はなく、あえてプルーストの「スワンの恋」が思い当たりました。 スワンに対して会うたびにオデットが彼に無関心になり、うわのそらになっていく過程はずいぶんと描かれていて、実際の性描写はありません。 オデットの家に行くスワンは性欲よりも、愛を確かめたいという一途な気持ち。 結局、彼は最後に「なぜあんな女を好きになったのか」と思うのですが、ヴィットリア自身も男も女もそんなものという、はじめから情熱へのあきらめを感じています。 人間喪質という点では、個人主義というヨーロッパの歴史があり、人間喪質はアダムとイヴの時代から人間に与えられていたもので、ことさらこの時代、そして現代の風潮にあわせたものでもないと感じました。 楓さんの記事とコメントの返信で、この人間喪失について、>上流階級の人間喪失、疎外感は、あのルイ14世時代からすでにフランスでは根付いていたもので、大衆の時代になって、大衆層の生活ににじみ出てきたのですよ。 <、>人間喪失というよりも、「自分の存在意味」を手さぐり状態で確認していて、他人に目をむける余裕ではないような二人<とあるように、政治や経済の仕組みが激変して、生きることへの不安定さと自分はいったい何?という疑問が、退廃的な行動に結びついていったのだと思ったのです。 絵画や文学を引用しての記事は比類なき傑作。 またTBされている「夜」、「情事」、「太陽が知っている」、「太陽がいっぱい」の方々も映画を鑑賞してのオリジナルな記事と独自の視点があって共感できました。 シネマ狂さま、こんばんわ。 凄いコメントありがとうございます。 まず目を引いたのがプルーストの「スワンの恋」ですが、根拠を述べて頂いたので理解できました!なるほど、二人の、二組のカップルは虚無的な時間を共有しているという解釈で良いでしょうか。 虚無的な関係には頷けます。 ニヒリズムのように「絶対的真理は存在せず」という部分的な引用になりますが、デカダンには、このように今の瞬間に何を考えて何を感じるかということができない二人(二組)だと思いました。 (笑) そもそもイタリアでは、デカダン(退廃的)というと、作家ガブリエーレ・ダンヌンツィオの文学や政治に象徴されていて、実はイタリア・ファシズムの先駆者です。 この映画の不思議さは、ファシズムに抵抗するネオリアリズモの延長上の作品にあって、退廃的な人物描写は、後遺症でしょうか? 人間性喪失(人間喪失)とは、あくまでも「人間として存在するための条件、あるいは性質」だと考えているのですが、長所も短所も善も悪も人間性であって、本文に書いているのですが、「ピエロの車が盗難にあい、車泥棒の死体と車は川から引き上げられ、車体を気にするピエロと同じで、目の前のピエロの欲求しか目に入らない。 槍を持って踊るなど民族を揶揄するヴィットリアの踊りとおなじく、人間喪質を強調しているのでしょう。 」としたのは、彼らは「無関心」だということです。 シネマ狂さまのコメントから引用させていただきますね。 >人間喪質はアダムとイヴの時代から人間に与えられていたもので< シネマ狂さまは、きっと善悪をわけたのではないですか?そういう鑑賞方法もあると思います!引用していただいた「自分の存在意味」を手さぐり状態とは、まさに真理を探していると思ったのです。 >生きることへの不安定さと自分はいったい何?という疑問が、退廃的な行動に結びついていったのだと< おっしゃるとおりです。 「生きることへの不安定さと自分はいったい何?」というシネマ狂さまの一文も「真理とは何?」だと解釈している私ですが、よろしいでしょうか? >またTBされている「夜」、「情事」、「太陽が知っている」、「太陽がいっぱい」の方々も< ありがとうございます!皆とのコラボ記事なんですぅ!.

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太陽はひとりぼっちのレビュー・感想・評価

太陽はひとりぼっち 映画

注目のレビュー:太陽はひとりぼっち• 2012-05-29 by. 何もかもに,ものすごく冷めた女性がいて, 笑ったかと思うとまた冷める。 景色をみてたまに笑みを浮かべる。 当時の流行りか髪の毛が異様に多くてボサボサ。 証券取引所で働くアラン・ドロンはいちいちかっこいい。 容姿,所作,動いても止まっても,変わらずかっこいい。 この映画は とにかく冷めています。 ずっと冷めています。 でも暗いわけではありません。 4人がこのレビューに共感したと評価しています。 2009-04-17 by この作品を初めてヴィデオで見たのは、まだ自分が頭でっかちな映画少年だった高校生の時分。 同じアントニオーニ作品でもラストがドラマチックな「情事」や、不条理な観念劇だがテーマが比較的見つけやすい「欲望」には深い感銘を受けたが、この「太陽はひとりぼっち」に関しては正直まったくピンと来ぬまま。 それを十数年ぶりに再見。 いやあ、なるほどねぇ〜これはガキんちょじゃあちょっと簡単には分からないはずだわ...... 4人がこのレビューに共感したと評価しています。

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太陽はひとりぼっち

太陽はひとりぼっち 映画

太陽がいっぱい Plein Soleil 監督 脚本 ポール・ジェゴフ ルネ・クレマン 原作 製作 ロベール・アキム レイモン・アキム 出演者 音楽 撮影 編集 フランソワーズ・ジャヴェ 製作会社 ロベール・エ・レイモン・アキム パリタリア 他 配給 公開 1960年 1960年 上映時間 118分 製作国 言語 配給収入 1億2441万円 『 太陽がいっぱい』(たいようがいっぱい、原題: Plein Soleil )は、の・の。 の小説『 (才人リプリー君)』(日本語版の題名は『太陽がいっぱい』または『リプリー』)を原作とした、・。 監督の代表作と言われている。 音楽はで主題曲も当時ヒットした。 出演は、、。 当作はアラン・ドロンが広く知られ、俳優のキャリアを駆け上ってゆくきっかけとなった作品である。 ストーリー [ ] の街角のオープンカフェで話をする青年が二人。 から来た大富豪の息子フィリップと貧しく孤独な青年トム・リプリー。 フィリップには交際相手で婚約者のパリ娘マルジュがおり、イタリアではに近い漁村モンジベッロにマルジュと過ごすための愛の巣を所有し、その近くのマリーナには立派な(船内泊もできる・)も所有し、それに「マルジュ(号)」 と名づけてもいる。 マルジュは画家についての記事を執筆中である。 フィリップはマルジュの傍にいるためにイタリアで遊んで過ごしている、というわけであった。 そして自由奔放なフィリップは、今回はマルジュをほったらかしにして、トムと二人きりでに乗りローマに遊びに来たのだった。 たとえばフィリップとトムは、街頭でと出くわすと「その(視覚障害者用の杖)を俺に売れ。 帰りのタクシー代があれば杖はいらないだろう」などと傲慢なことを言って、2万リラも払ってそれを買い取ってしまったり、たまたま出会った歩行者の中年女性を盲人のふりをして誘惑し一緒に馬車でローマの街を乗りまわしてその途中でその女性にキスしまくったり、と自由奔放な行動をして楽しむ。 フィリップはトムを見下している。 フィリップの父親からフィリップをアメリカに連れ戻すよう依頼を受け、うまく連れ戻せば報酬として5000ドルもらえる約束でアメリカから来たトムではあったが、当のフィリップのほうは(自身の銀行口座にたんまりある金を定期的に引き出しては)イタリアで自由奔放な暮らしを続けようとするばかりで、全然帰国する気はなく、父親から謝礼金を受けることが出来ないままのトムは、やがて手持ちの金がなくなってしまい、その結果 フィリップが日々 湯水のように使う金のおこぼれをあてにして彼と行動を共にせざるを得なくなり、フィリップに言われれば買い物や調理やハガキの代筆をするなど、まるで都合の良い「使い走り」のように扱われるようになってしまっており、「資産を持つ者と持たざる者」の境遇のあまりの相違を見せつけられるばかりで、実は内心 心やにさいなまれている。 ローマで遊んだフィリップとトムは、マルジュに会いにモンジベッロの家に戻った。 マルジュは以前から、フィリップが自分を大切にしていない、馬鹿にしている、と感じ、苛立ちを感じるようになっていた。 放置され電話すらしてもらえなかったマルジュは、突然戻った二人をふくれ顔で迎えるが、フィリップときたら「ローマに行って 一杯飲んできただけだ! 何が不満だ!」などと傲慢なことを言い、強引にソファに抑え込むようにしてマルジュを抱きしめ、口づけすることでマルジュの言葉を封じこめ、さらに(トムの目の前で)マルジュの身体への愛撫まで始めて、自分の行動や態度については一切謝りもせず うやむやにするばかり。 トム自身だけでなく婚約者マルジュに対してまで表す傍若無人な態度に、トムの怒りと嫉妬はいや増すばかりだった。 フィリップとマルジュが男女の情を交わしている間、自分の居場所が無いように感じたトムは、隣室のに入り込み、戯れにフィリップの(金持ちらしい、いかにも高価そうな)衣類を身につけ、もうすっかり耳が覚えてしまったフィリップの口調の真似をしてみる。 トムは、フィリップのモノマネをうまくすればするほど、才能に溢れマルジュのことも評価し理解できるこの自分でなく、ただ親譲りの資産を持っているだけのフィリップのほうがマルジュの婚約者でいる、というこの社会のをあらためて感じる。 もしこのフィリップでなく、自分のほうがフィリップの資産を持っていさえすれば... あの資産を自分が持つためには... と空想せずにはいられない。 どれほどの時間がたったのか、フィリップはマルジュとの情事の後、トムがいるクローゼットに入ってきて、トムが自分の衣類を身につけ見事なまでに自分のモノマネをして空想に浸っているのを目撃し、表情をこわばらせた。 翌日、フィリップはマルジュの気晴らしのためにに行こうと誘い、3人はフィリップのヨットに乗り込み、沖合に出る。 ヨットでもフィリップの傍若無人ぶりは変わらない。 フィリップは自分の所有するヨットで、当然のように()として偉そうに振る舞い、トムをただの()のように見下す。 おまけに貧乏育ちのトムは、そもそもヨットというものに不慣れで、乗船時には通常の靴は脱ぐことが望ましいことも知らず、またやロープ類の操作も下手で、ヨット上で何かと肩身が狭い思いをする。 さらに、マルジュが作ってくれた料理を3人で食べている時も、フィリップは魚のムニエルにレモンを絞り、指を使って小骨を丁寧に取りながら食べるのに対して、トムのほうはを使ってトムなりに精一杯 行儀よく魚を食べようとしているのに気づくと、フィリップはわざわざ「上品ぶるのは下品な奴のすることだ。 魚にはナイフは使わないものだ。 おまけに、お前はそもそもナイフの持ち方すら間違っている。 」と言って、トムが食卓マナーも知らない育ちが悪い者だとあえて思い知らせるように言い放ち、見下すようにナイフの持ち方の指導までするありさま。 フィリップがトムをあまりに平然とする態度を見てマルジュも気分が悪くなる。 フィリップはマルジュと二人きりになるために、トムに操舵(=、進行方向を保つなどの目的でを操作すること)をうながし上に行かせ、船室内でマルジュと二人きりになると、「トムをヨットから追い出して下船させれば、僕らは以前のように二人きりになれる。 」とマルジュにささやく(だがそれをトムは船室から甲板へと開く天窓(の隙間から聞いてしまう)。 フィリップは、トムをヨット備え付けの上陸用の小ボートに強引に乗せ、それをロープでヨットのはるか後方にひかせることでトムを隔離しようとするが、あいにくとフィリップが船室内に戻った直後にそのロープは切れてしまい、トムは海上に漂うボートに取り残され、フリップとマルジュがそれに気付かず情事に没頭する長い時間、炎天下の海上で(飲み水も全く無く)日干し状態にされるという屈辱を味わう。 情事の後、船室から甲板上に出たフィリップは、ロープが切れてしまっておりトムを乗せたボートはどこにも見えなくなっていることに気付き、あわててを切り、来た航程を引き返すが、かなりの時間をかけて戻りやっとボートとその中に横たわるトムを見つけた時には、トムは太陽に焼かれ息も絶え絶えになっていた。 マルジュは一応トムのことを親切に介抱するが、トムに「悪くとってほしくないけれど、タオルミナについたら ひとりで帰国して欲しいの。 分かるでしょ?」とも言う。 (トムは、もしそんな展開になったら、当初期待していた報酬の5000ドルを得ることも、空想するようになったフィリップの財産を奪う計画も不可能になり、無一文のまま放りだされる状況になる、と予見する)。 その後もタオルミナに向かうヨットで、フィリップがマルジュを愛撫しつつ甘美な時間をすごしつづける一方で、トムのほうは「のけもの」扱いにされ、陽にさらされる甲板上に独りで置かれる。 フィリップは、ボートを見つけトムを介抱していた時、トムの持ち物の中に、あろうことか フィリップの銀行口座の入出金が分かる明細書がこっそり隠してあることに気付く。 実はトムが自分の財産を狙っているのだと気付き、このままでは財産目的で自分は殺されると推理した。 フィリップは自分の推理・直観を確かめるために、あえて普通の会話のように「ボートで死にそうになった時、僕に殺意を抱いただろ?」と訊く。 するとトムは「僕はもっと以前から殺意を抱いているよ」とサラリと答える。 そして二人はまるで他人事でも語るかのように会話を続ける。 「だから僕の口座明細を持っているのか? 僕を殺し、金持ちになるつもりか?」とフィリップ。 「その通りさ。 へぇ、お見通しなんだね。 」とトム。 「実現は難しいぞ。 露見して逮捕されるぞ。 」とフィリップ。 「大丈夫。 僕は想像力が豊かだからね」とトム。 トムはタオルミナで無一文で放り出されるという窮地に陥ることを避けるべく、フィリップとマルジュの間を裂く、という手を思いつき、以前ローマでひろったをフィリップの服のポケットに入れるという小細工を前の晩にしてあった。 トムの策略にまんまとはまり、イヤリングに気付いたマルジュはフィリップが特定の女性と交際しはじめていると思いこみ、苛立ち、ささいなきっかけでフィリップと言い争い状態になり、フィリップも感情的になり、マルジュが執筆中の大切な原稿をついつい勢いで海へと放り捨ててしまい、二人は決裂した。 マルジュは下船を決意して最寄りの漁港でマルジュは降りてしまう。 残されたフィリップとトムの二人はヨットでモンジベッロへの帰路につく。 だが、マルジュが下船したということは、周りに基本的に目撃者が全くいない海という場所で二人きり、ということである。 こうしてトムによるフィリップ殺害の計画がいよいよ実行段階に入る。 マルジュとフィリップの喧嘩およびマルジュの下船で一旦中断した二人のきわどい会話が再び再開する。 フィリップ「二人きりになれたから、落ち着いたな。 さっきの話の続きができるな。 さて、君は僕を殺すのだとして... その次に 一体どうするんだ?」。 トム「君を埋めて、偽サインで金を受け取る。 」フィリップ「はマネできても手紙の偽造はできないぞ」。 トム「(筆跡については)君のが(このヨットの中に)あるし 、のほうはマネるのは簡単さ」。 それを聞いて焦るフィリップ。 フィリップは殺害計画を思いとどまらせるために、トムにいくらか金を渡すことで彼を追いつめている無銭状態から抜け出させる手を思いつく。 そのためにトランプの賭けをすることをトムに持ちかけ、甲板上のテーブルでそれを始める。 やがて、トムが持っているが正午(真昼間)をベルの音で告げた。 フィリップは2500ドル賭け、八百長して(わざと負けて)トムが2500ドル勝ったことにしようとする。 だが、トムはその八百長を見抜き、2500ドルなんて「はしたがね」だ、5000ドルでも少ない、あくまで全財産いただく、(だからフィリップの八百長を受け入れるような安易な取引はしない)このトランプゲームは君の勝ちだ、と言ってフィリップが渡そうとする2500ドルを自分から返上する宣言をする。 次の瞬間、フィリップの不意をつき、トムは隠し持っていたナイフでフィリップの胸の中心、心臓あたりをグサリと刺す。 「マルジュ!」とうめいて絶命し、倒れるフィリップ。 トムはすかさずフィリップの死体をで覆い隠す。 そして周囲を見回すと、幸いなことに一番近くにいる船も、かなりの距離 離れたところを航行しており人影は全然見えない。 つまり、逆に言えば、トムの犯行も誰からも目撃されていない。 トムは死体を海に沈めるべく、重石がわりのも一緒にして帆布でくるみ、ロープで結わえて海に捨てた。 港に戻った後、トムはあらかじめ練ってあった計画どおり、フィリップになりすまして彼の財産を手に入れるための手を着々と打ち始める。 フィリップのの偽造には、公印の凹凸を粘土で型どりすることでニセの公印を作り、それを自らの写真に押すことで、見事に差し替える。 フィリップのサインをそっくり真似るため、スライド映写機を手に入れ彼のパスポートの筆跡を拡大して壁に貼った紙に映写し、筆跡の映像を何度も繰り返しなぞって練習し、見事にフィリップと完全に同一のサインをできるようになる。 さらに彼の声色も真似てフィリップになりすまし、電話越しで婚約者のマルジュすら騙すことに成功する。 マルジュがフィリップに会いたがれば、フィリップのタイプライターでつれない文面の手紙を作成しマルジュに手渡し、フィリップに女ができたから会いたがらなくなったのだ、と思わせることにも成功する。 トムはこの種の才気と才能に溢れているのだ。 トムは船の仲介業者のところに行き、フィリップになりすましてヨットの売却手続きも進めようとする。 ところがフィリップの友人で金持ちで遊び人のフレディが、やはり船を所有していて、同一の仲介業者と取引があり、そこでニセのフィリップ(=トム)の最新の滞在先住所を聞き出し、フィリップに会うつもりでトムが潜伏している住居のところへと突然現れる。 トムはとっさに機転をきかし、フィリップは旅行中だ、僕は挨拶に寄ったところだ、と言って誤魔化すが、お手伝いの女性がトムの顔を見て「フィリップ」と呼んだことで、トムがフィリップになりすましていることがフレディに露見、追求するために部屋に戻ってきたフレディを、追いつめられたトムはとっさにドア近くのテーブルに置いてあった大きな置物で撲殺してしまう。 フィリップ殺害の場合と異なり、このフレディの殺害は事前の計画も何もない。 トムは殺人を一件犯した結果、さらにもう一件の別の殺人まで犯すことになってしまったのだ。 夜になってからフレディをあたかも泥酔した酔っ払いであるかのように装い、苦労して抱きかかえるようにしてフレディの車へ運び、その死体を捨てにゆく。 発覚しやすい場所を選び死体を捨てる際に「君を殺したのはフィリップさ、僕じゃない」と、まるで自分に言い聞かせるようにつぶやく。 このフレディ殺しで警察が動き、トムが滞在中の部屋にも警察が迫るが、きわどいところで機転をきかせ屋根伝いに逃走に成功する。 フィリップが行方不明であるので、警察はフィリップと行動を共にしていたトムの身辺の調査も始めた。 トムは、あたかもフィリップがフレディを殺しどこかに潜伏しているかのように見せるための手をさまざま打つ。 さまざまな嘘や小細工を用いて、刑事にもそう信じさせる。 警察の手先の女が自分に近づいたこともトムは見事に見抜き、あえて偽情報を聞かせて、フィリップがまだ生きていてモンジベッロに戻ったと信じさせる。 またかねてからの計画通り、偽造パスポートと偽造サインを用いて、銀行でまんまと1000万リラの預金(実際にはその半額くらいしか預金はなかった)を引き出すことにも成功する。 一方で、トムは着実にマルジュの心を自分に向けさせる手も打っている。 こうしてマルジュを自分に取り込んでおいてから、トムはフィリップの母宛で「母さん、僕は死を選びます。 すべての財産を愛するマルジュに贈ります。 あなたの息子フィリップより。 」という文面の手紙(遺言状)を偽造し偽サインもし、ポストに投函した。 引き出しておいた現金は(結局マルジュに渡り、さらには自分のものとなるように)モンジベロの部屋に残した。 フィリップの遺書とフィリップの口座から引き出された遺産が見つかったことで、それまでトムになにか裏があると疑い周囲をかぎまわっていた刑事も、ついにフィリップこそがフレディ殺害の真犯人で、姿を隠したかあるいは自殺した、と認識を改め、トムを重要な容疑者だとは見なさなくなり、トムがローマから離れることも許可した。 マルジュはフィリップが死んだと思い、心を閉ざし、モンジベッロの部屋の玄関の鍵をかけ、引きこもり、もうかれこれ2週間 誰とも会わずにいた。 トムはそれでも巧みに隙を見つけて部屋にもぐりこみ、マルジュの顔を見ると、さっそくマルジュの心を操りはじめ、フィリップは君を愛していなかったと言ってマルジュの心をゆさぶり、さらに、自分もアメリカへ去るかも知れない、とほのめかしつつ、寂しさにつけこみ巧みに口説く。 そうしてマルジュと寝た。 マルジュはトムに心を許した。 マルジュはトムと日々を重ねるうちに次第に前向きになった。 遺言状で贈られたフィリップのヨットも売却することにした。 ヨットの仲介業者によってマルジュからヨットの次のオーナーへの引き渡しがおこなわれる日、トムとマルジュはのビーチで泳ぐ。 フィリップの父親と仲介業者も到着して、マルジュはヨットの引き渡しにともなう簡単な検査に立ち会うためにマリーナに向かう。 トムは引き渡しの立会はマルジュにまかせ、ビーチに残り、に手足を伸ばして寝そべり、太陽の光を浴び、まるで自分のまばゆい未来に酔っているかのような表情でまどろむ。 客のトムの様子に、売店のウエイトレスが気を使い、近寄り、気分はどう? と語りかけると「気分はいいよ。 太陽が照りつけてるからこんな感じなのさ。 人生で最高の気分さ。 最高の飲み物を持ってきてくれ。 最高のを。 」と語り、自分が成し遂げた完全犯罪に酔いしれる。 トムが人生最高の気分を味わっている最中、マリーナではヨットを簡易検査するために一旦 陸に引き揚げる作業が進み、船体がとともに陸上に上がると、それに続いて船尾のに絡みついた一本のロープに引っ張られるようにして海中から、黒っぽくなった帆布の塊が現れ、帆布のすきまから 腐敗した人の手が飛び出していることにそこにいる人々は気づく。 死体に気付いたマルジュの悲痛な叫び声がマリーナに響きわたった。 トムはそんなことは露知らず、ビーチで美酒に酔いしれている。 やがて厳しい表情をした刑事たちが売店にやってきて、ウェイトレスにトムを呼ぶように言う。 「シニョール・リプレー。 テレーフォノ!(リプレーさん、お電話ですよ!)」。 それを聞いたトムは笑顔で売店へと歩いていった。 後には、陽光溢れる浜と青い海が広がるのみだった。 キャスト [ ] 役名 俳優 日本語吹替 版 版 版 版 版 版 トム・リプレー 野沢那智 フィリップ・グリンリーフ マルジュ・デュヴァル リコルディ刑事 フレディ・マイルズ オブライエン 村越伊知郎 ボルディーニ ボリス ポポヴァ夫人 イングリッド フレディの連れの女性 ( ) その他 仲木隆司 阪脩 上田敏也 巴菁子• 発売の「名作洋画劇場」と記されたに収録。 演出:春日正伸、翻訳:榎あきら、選曲:赤塚不二夫、効果:PAG、調整:桑原邦男、録音:ニュージャパンフィルム、制作:• スペシャル・エディション、4Kリストア版DVD・に収録。 翻訳:森田瑠美• 演出:、翻訳:森田瑠美、選曲:東上別府精、効果:遠藤尭男、桜井俊哉、調整:前田仁信、録音:TFCスタジオ• 4Kリストア版DVD・BDに収録。 演出:小山悟、翻訳:石原千麻、効果:リレーション、調整:重光秀樹、プロデューサー:バブルネック涼・新井正和、制作:• 演出:、翻訳:堀江真理、効果:桜井俊哉、録音・調整:、プロデュース:スター・チャンネル、制作: エピソード [ ]• ルネ・クレマン監督は『鉄路の闘い』(1945年)で第1回・国際審査員賞および監督賞を受賞し、その後『海の牙』(1946年)、『』(1952年)、『』(1956年)など、社会性の強い作品を撮り続けてきたが、この作品は初めての娯楽映画であり、当初あまり演技の実績の無いアラン・ドロンの起用には気乗りがしなかったと言われる。 しかし、この一作だけで一躍世界的スターまで彼が登りつめて以後は、『』(1961年)や『』(1964年)でもドロンを主役に起用している。 1999年に主演で、映画『』が公開された。 これは『太陽がいっぱい』の再映画化だが、原作により忠実に映画化されている。 しかし後半の展開が微妙に違っている。 本作で作曲を担当したは、この作品に携わった事に強い不満を残している。 の常連作曲家であった彼は、フェリーニのようにお互いに話し合いながら音楽を練っていく方法を是としていた。 しかし、本作の監督であるは居丈高にロータにフィルムを一方的に送りつけ、これに似合う音楽を作れと命令したため、クレマンの態度にロータは立腹したという。 全編を流れる主題曲は当時話題になったが、サウンドトラック盤は発売されず、日本ではフィルム・シンフォニック・オーケストラが演奏した盤が発売されてヒットした。 後にテレビ放映で日本語版を作る時に、オープニングクレジット部分をフィルム・シンフォニック・オーケストラ盤に差替えた為、サウンドトラック盤と間違われやすいが、実際の映画で使われる演奏は違う。 映画評論家荻昌弘は、父親からの多額の謝礼を当てにしてやってきたトムとその彼を見下し軽蔑するフィリップ、普通の青年二人が金を挟んで出会うことになった、ただそれだけのことでのっぴきならない形で犯罪を生み出す構図でこの二人をピタッと設定したことがこの映画の成功であった、と評している。 そしてルネ・クレマン監督が全編イタリアを舞台にして画面を明るくきらびやかにして熱く輝かせ、逆に人間の心の奥の深淵に潜む暗さを対比させ、「白昼の明るさの中での黒い恐怖」というモチーフが「太陽がいっぱい」を支配していると述べている。 原作にあるアメリカでトムが父親の大富豪から依頼を受ける話が省略されているのはこのためである。 ロケ地はオールイタリアロケである。 盲目の男性とのシーンはローマ市街。 海岸のシーンはイスキア島である。 魚市場のさまよいのシーンはナポリ市街で撮影されている。 劇中イタリア語で会話するシーンがある。 盲目の男性と、タクシーの運転手とトムが、銀行員とトムが、そして最後のイスキアの海岸シーンでウエイトレスとトムがそれぞれイタリア語で会話している。 は との『恐怖対談』( )で「あの映画はホモセクシャル映画の第1号なんですよね」と発言していた。 ラストは映画オリジナルである。 原作ではトム・リプリーは破滅することはなく、同じ作者のシリーズ・キャラクターとしていくつもの小説に登場し、うちひとつはやによって映画化された『アメリカの友人』である。 それぞれ、、がリプリーに扮している。 映像ソフト [ ] VHS• 名作洋画劇場 太陽がいっぱい()• 太陽がいっぱい(1995年8月25日、 BES-1220) レーザーディスク• 太陽がいっぱい(1995年8月25日、バンダイビジュアル BELL-793) DVD• 太陽がいっぱい(1997年7月25日、バンダイビジュアル BCBF-5)• 太陽がいっぱい(2002年10月25日 PIBF-1480)• 太陽がいっぱい スペシャル・エディション(2008年9月26日、発売元:「太陽がいっぱいSE」発売委員会、販売元: GNBF-7480)• 太陽がいっぱい 最新デジタル・リマスター版(2011年5月28日、発売元:マーメイドフィルム、販売元: KKDS-623)• 太陽がいっぱい 最新デジタル・リマスター版(2011年5月28日、発売元:マーメイドフィルム、販売元:紀伊國屋書店 KKBS-4)• フランス語のタイトル「plein soleil プラン 」はフランス語の文章中では「en plein soleil」という成句でしばしば用いられ、これは「太陽が照らす下で」「青空のもと(屋外で)」「真昼間に」などといった意味が基本的にあり、さらに フランス語のネイティブ話者にとっては「太陽(お様、神様)は全部見てるよ(悪事を隠すことなんてできないよ)」といった意味がほのめかされているように感じられる表現でもある。 そして観客は、このタイトルが物語の結末や教訓を暗示していたことに、映画観賞後になって気づくことになるわけである。 (なお、昭和期の日本人翻訳者はつい「太陽がいっぱい」と訳してしまったが、これを「太陽がいっぱい」と訳してしまっては、誤訳ぎみである。 トム・リプリーはふとしたきっかけで富豪グリンリーフ氏に自分が氏の息子フィリップの友人であると信じ込ませ、イタリアから帰らず放蕩三昧のフィリップをアメリカに連れ戻すよう依頼を受ける、と原作にあり、後に同じ原作で再映画化された映画「リプリー」ではリプリーが父親に会う場面が冒頭に描かれているが、この「太陽がいっぱい」ではすべて省略され、最初からイタリアを舞台に青年二人が出会ってからの話として展開させている。 ヨット乗りは、ヨットに自分が愛する子供や愛する女性の名をつけることも多い。 欧米では、手動式のタイプライターが普及していた時代(PCのワープロが登場する以前の時代)、タイプライターの印字(活字)の微妙な個体差(アルファベットや記号の一文字一文字のすり減り方の違い、傷の程度、文字の斜め具合 等々等々)によって、誰が打った文章なのか見分ける、ということが広く行われていた。 頻繁にタイプ打ちの手紙を交換しあう家族や親友などでは、タイプの活字の個体差も意識しており、かなり容易に本人かニセ者か見分けることも可能だった。 ちょうど、手書きの文字をそのによって、誰によって書かれたか見分ける、ということが現在でも行われているのと似たようなことである。 したがってタイプライターがさかんに使われていた当時、ある人物の手紙を偽造するには、その人が不在時に家に忍び込んでそのタイプライターで打ったり、あるいはその人物のタイプライターを盗んでしまう、ということ基本的に行われた。 殺害が行われたのが「昼の12時」だと強調することで、「真昼間」ということ、そして「plein soleil」というタイトルを観客に再度意識させている。 出典 [ ]• 『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』(キネマ旬報社、2012年)171頁• たとえば監督もこの『太陽がいっぱい』に出演したアラン・ドロンを観てひどく気に入り、自作の俳優にアラン・ドロンを指名することになった。 2012年4月16日閲覧。 『金曜ロードショー』第1回作品• 第2回新・午前10時の映画祭プログラム 20P・21P 「太陽がいっぱい」参照。 第2回新・午前10時の映画祭プログラム 21P 「太陽がいっぱい」参照。 「次世代に残したい名作映画96」110~113P 参照 雑誌《スクリーン》1960年7月号から 近代映画社 2013年8月発行。 外部リンク [ ]• - (英語)• - (英語)• - (英語).

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